2018年11月4日日曜日

駒込曙町と星新一

曙町にいってみる。

星新一『祖父・小金井良精の記』をよんで、さらに先週末、小金井家の故地長岡に行った。
そういえば戦前彼らの住んでいた駒込曙町、近くなのに、まだ行ったことがなかったな~、と。

場所は、白山通りと本郷通りに挟まれ、文京グリーンコートの南、地下鉄本駒込駅の北西、という範囲。すなわち白山東洋大学の東向かいの高台。
今の本駒込1丁目、2丁目。

家から行けば、800メートルくらい。
吉祥寺で本郷通りを渡ったあたり。

本郷通りの西側沿い(つまり吉祥寺の向かい)は駒込片町といった。
しかし、嘉永年間の尾張屋切絵図では通りの東側にも吉祥寺門前という町家があり、片町になっていない。(麟祥院領駒込浅嘉町という地図もあり)

本郷追分から白山上にかけて中山道の東側にも駒込片町があり、ここは西側に阿部家など武家屋敷があったから。
離れたところに同じ駒込片町を使うということは、もはや地名ではなく、普通名詞である。

さて、秋晴れの10月31日、浅嘉土物店跡のあたりで本郷通りを西にわたったが、定泉寺の脇を入り損ね、南谷寺、養昌寺をすぎてようやく西に入る道を見つけた。
下り坂。

かつては川が流れていて、この西側の高台を中山道まで古河8万石、土井大炊頭の下屋敷が占めていた。
土井家は古河藩の初代が利勝、大老も務めた。雪の殿様土井利位(1822-1848)が有名か。


一番下ったところの狭い川跡に沿って南下。
左は本郷通沿いに並ぶ寺の墓地のうら。
昔、川は中山道を越えて白山下に出た。

かつて藩邸で鶏の鳴き声がするので探したところ、地中から金の鶏が出てきたということで鶏声ヶ窪(傾城が窪)と呼ばれた。この地名は、白山通りを越えた東洋大学の南の低地まで広がっている。明治になって、土井家の屋敷が分譲されるとき、鶏声からの連想で曙町になったという。
ただし曙町は大部分が高台で窪地ではない。


 暗渠道から右の坂を上がれは高級住宅地。

私の住む、ごちゃごちゃした千駄木5丁目と全然違う。
西片(阿部)、大和郷(岩崎)、弥生(浅野)や千駄木の太田家、須藤家付近のように、明治、大正にきちんと分譲された町は美しい。

10/31は、東洋大学に行くので時間がなかった。
11/3、改めて訪問。写真を撮る。




本駒込1丁目と2丁目に分かれたが、一緒でも良かったのではないか?




きりがないのでこのくらいでやめる。
しかし坂や寺社など目印になるものがないため、有名人の屋敷がどこだったか、よくわからない。

曙町は土井子爵のほか、学者が多かった。
東大解剖の初代教授、小金井良精は、鴎外の妹、喜美子とのあいだに二男二女がいたが、息子たちが軍医として地方に行ったため、次女が同居した。夫の星一は、当時珍しかった自動車で曙町から通った。良精の孫である星新一は、ここから近くの、今のお茶大付属小、筑波大付属中に通った。
小金井家は戦後、長男の良一氏が入り、小金井純子氏がいらしたはずだが、不明。

曙町は箕作元八、寺田寅彦、藤島武二、桜井錠二、安井てつ、らのほか、
谷崎潤一郎、井上円了、大町桂月、も住んだ。

そうだ、薬学の坪井正道先生は、古い名簿を見ると本駒込2丁目9番25号。今は中川ハイツという3階建てマンションになっていた。
坪井家は箕作家と同様、幕末の蘭方医だった祖先から一族学者の家系である(→)
今もいらっしゃるのだろうか。

平塚らいてうの父、平塚定二郎は曙町13番地(文京区役所公式サイトには21番地とある)、箕作は11番地というが、当時の番地は広くて、どこだかわからない。もちろん表札にそれらしき苗字は見つからず、そのまま帰ってきた。

星新一の短編SFは、若者向けなのか、軽すぎて読む気がしない。
しかし「祖父・小金井良精の記」は面白かった。
全く違う文章で、彼の別の面がよくわかる。
その中に祖父良精、父星一、本人の同じ日に対する3つの日記を並べて載せている部分がある。彼は小学生なのだが、幼稚な文章の中にも、きらりと光るものがあり、空想力の優れた子供だと思った。

東大の農芸化学でアミラーゼなどの研究をしていたが、父の急逝後、経営の悪化した星製薬の社長をして、社を手放してからショートショート1001編、時代小説も書いた。天才と言わざるを得ない。


千駄木菜園 総目次

2018年11月3日土曜日

養源寺、本の縁日、山口晃

しのばずくんの本の縁日に行ってきた。
近くの養源寺で、前回(今年の4/29)で第20回というのに、行くのは初めて。
今まではダンスの競技会や練習を優先していた。

2018-11-03

かつては広かった境内も明治以降、売ったり貸したりしたのだろう。
両側に家がせまり普通の私道のような砂利道が「養源寺参道」となって残っている。
そういえば、2011年、このすぐ近くの家を見に来た。
千駄木でまともな家を普通に買うことは不可能で、借地権付き中古住宅を探していた。住友不動産に連れてこられたのが、バス通りに面した鉄筋3階建ての家。
建坪、部屋数は十分あったが、庭が小さく、地代が高く、契約しなかった。
その地主が養源寺だった。
このお寺は参道の両側だけでなく、相当、地面を貸しておられるのではなかろうか。

なお、このとき、埼玉から来たついでに以前広告で興味をひかれた、別の千駄木の家を見たいといったのだが、「あれはちょっと問題ある家なので・・・」と断られた。しかし後日、別の営業の人に「見るだけでも」とお願いしたのが、今住んでいる家である。

ちなみに、その時見た家は、結局誰にも売られず、元の表札のまま、つい最近まであった。しかし現在取り壊されて、8階建てのマンションになろうとしている。地主は養源寺のままだろうか。

さて、本の縁日。
なるほど、縁日だ。
古書店14、出版社20、キッチンカー3


縁日だからイベントもあり、投げ銭ライブをやっていた。
本堂の石段上がステージにちょうど良い。
作家を招いたトークショーもあるらしい。
昨年は泉麻人が来たらしいが、今年の人は存じ上げない。

奥のほうにキッチンカーなどが出店していて、フランクフルトやスープ、飲み物を買った人が「休憩所」の芝生に座っている。

古書店は、持ち込み量が限られているから、店主の思いが出る。

古書店は店舗と同様、本だけでなく、CD,パンフ、絵葉書なども持ち込んでいる。
雑貨の店、似顔絵コーナーも。
美しい女性が多い気がする。偏見による錯覚だろうか。
いや、明らかに電車でみる20人と、ここの20人は違う。
写真にとれないのが残念。

養源寺は二回目だが、
神社と違ってお寺はなかなか入りづらい。
この機会に墓めぐり。
西村茂樹 明治の思想家。
佐倉の人。1875年から天皇、皇后の進講を約10年間務め、東京学士会院会員、貴族院議員、宮中顧問官、華族女学校の校長をつとめた。

西村は宮本百合子の母方の祖父である。
彼女は子供のころ、近くの千駄木保健所通り(当時はこんな通りの名ではなかったが)の中條精一郎邸(→)から母親によく連れられて墓参りに来た。
お参りするより、隣の牧田牧場の牛を見るのが楽しみだったという。

なお、明治の千駄木は藪下通り沿いにも養豚場があった(吾輩は猫である)。
牧田牧場はどこにあったのだろう、端に沿って歩く。
南東の隅に行くと、境界の壁の切れ目から、少し低くなったところに千駄木西林町会の表札が見えた。

稲葉正勝
家光の乳母となった春日局の子であるため、将軍と乳兄弟である。

安井息軒
江戸末期の儒学者。
 養源寺の墓地は気持ちいい。

 隣接するアパートや、民家に住む人も、気持ちいいだろう。

墓めぐりしている人は誰もいない。

さて、人でいっぱいの本の縁日に戻る。
きょうは古書店14、出版社20が出店しているらしい。
出版社は小さい個性的なところばかり。
新刊書は消費税分だけ安いが、書店への卸値を考えれば、2割引でもいいのではないか?
作家がサイン会をしているところもあった。
千駄木団子坂上の10坪出版社、羽鳥書店が自社の「すずしろ日記」を売っていた。
山口晃サイン入り。
迷って1冊だけ買った。

「山愚痴屋」というサインは全く普通で、何かイラストでもあれば嬉しかったのだが。

昼時になったので帰宅。

すずしろ日記を買うのに迷ったのは、山口晃が東大出版会のPR誌「UP」で2005年から4年半にわたり連載していたとき、一度読んでいたからである。
部屋を探したら、破いてとっておいたものも出てきた。

さて、買ったばかりの本を読み始めて驚く。
アトリエ探訪と称して、彼の豪邸の鳥瞰図があった。
2009年ごろのすずしろ日記には、千駄木アトリエ坂からリヤカーで谷中に引っ越した図があった。短期間にこんなに金持ちになったのだろうか? 
いや、13年もたっている。それにしても、こんな家、谷中にあったか? 売れっ子だからしょうがないか・・・・
いろいろ思いながらも、ちょっと遠い存在になってがっかりしたら、続きの右のページで、すべて妄想だったことが判明。
ホッとしたけれど、いつかこうなっても不思議はない。

2013年、千駄木のケーキ屋、タバーンで山口晃の食レポコメント(新聞切り抜き)をみて、家で話したら、この年、建築学科に進んだ次女が、デッサンに関する彼の講義を受けたという。彼女は彼のことを全く知らず、かっこいいおじさんぐらいにしか思っていなかった。居眠りしていたらモデルにされ、黒板に書かれたそうである。
なんで写真を撮っておかなかったのだ、と彼のファンである父親は残念がったが、とっくに最終回も終わった後だった。

2018年、この日の夜、娘が帰ってきたので、山口晃すずしろ日記を買った話をしたら、普段めったに話をしないのに「見せてあげようか」と当時のデッサン8枚ばかり持ってきた。何回かさぼったそうである。
1枚1枚、丁寧に赤ペンでアドバイス、ときにイラストで説明していた。よくみる彼の字であったが、もちろんサインはなかった。
40人ほどの学生に毎週毎週、いい点と悪い点を指摘していて、優しくて真面目な先生だな、と思った。


千駄木菜園 総目次

2018年11月2日金曜日

落花生の収穫時期は

落花生は3年目。

長所:1.発芽率よし。自家採種の食用にしない小さいものでも芽が出る。
   2.病害虫に強い。消毒も何もしない。
短所:1.栽培期間が長い。4/30ポットにまく。5/12発芽。5/27地植え。
     狭い耕地の5か月独占というのは痛い。
   2.単位面積当たりの収量が黒豆、大豆より少ない気がする。

2018-06-27
収穫時期は
1.発芽から130日
2.開花から100日
3.下葉が黄色くなって来たら
4.試しに掘ってみて莢に網目がついていたら
といわれるが、
一斉に開花するわけじゃないから2はあてにならない。
1はとっくに過ぎているのに下葉は黄色くなって来ないから、1、4もダメ。

 
2018-10-29

10/29、見ると一株が枯れかけている。
2年前、こういう場合は、コガネムシの幼虫が根を食っていた。

前回、前々回もこの時期に掘ったので収穫することにした。

やっぱりいた。2匹。

ネットだと、莢をつけたまま、数日干すらしい。
しかし、干したら洗えない。
洗って泥を落としてから干すべきだと思うが。

2018-10-31
2日干した段階で、莢をとった。
面積当たりの収量は大豆類にまける。
昨年は茹でてみたりしたが、やはり普通に炒ったものが一番好きだ。

2018年11月1日木曜日

青パパイア収穫、味見

パパイヤを青いまま1つ収穫した。
だんだん寒くなり、このまま置いても黄色く甘くなるとは思えないからだ。
2018-10-31

まだ花が咲くというのは、熱帯なら1年じゅう咲くということか。

今年初めて作ったが、よくまあ大きくなったものである。

始まりはこんな小さな苗。
2018-04-20 かごの左
大きめの鉢に植えたものの、水やりが面倒だから鉢ごと土に埋めて置いたら、それがどんどん大きくなり、
2018-08-08
2018-08-08
ふと気が付いたときは、根が外に張ってしまい、植え替え出来なくなっていた。

2018-09-13

2018-09-13

2018-09-13

途中台風にもあった(9/30)
枝は中空で恐ろしく脆い。

2018-10-01
台風翌朝
2018-10-01
こうしてみると、1か月前からほとんど大きくなっていない。

10/31、とったパパイヤは100グラム。
ちょっと傷つけると乳状の液が出る。緑の果皮に盛り上がるようにして固まる。
蝋のようにすぐ固まるが、手に取って水につけると溶けるようだ。指先がぬるぬるするのは、タンパク分解酵素パパインのせいか、何か水溶性高分子のせいか、不明。

切ると中空。
単為生殖だから種がないのだろうか。

ネットを見ると、青いパパイヤは、料理に使うとある。
皮の硬さを見たいので、半分は皮をむき、半分は皮つきで油と味噌で炒める。

あく抜きが必要らしいが、元の味を見てみたいので、そのまま使った。
苦瓜ほどではないが、やはり苦かった。
2018-10-31

2018-11-01

それにしてもこの幹の太さ。観葉(幹)植物にいいかも。
植木鉢を割っている。
幹は柔らかいだろうか。
葉柄のように中空だろうか。
切ってみたいが、まだ実がいっぱいなっている。
特に美味しいわけでもなく、野菜不足でもないから切ってもいいのだが、まだ葉っぱは緑だし…