2021年9月19日日曜日

玉の井、鳩の街、かつての赤線地帯をたずねる

東武鉄道の東向島は、駅名表示板に「旧 玉ノ井」と書いてある。
2021‐09‐08

東武伊勢崎線はスカイツリーラインとハイカラな名前に変えたが、浅草、業平橋(2012年スカイツリー駅に改名)、曳舟、玉ノ井、鐘ヶ淵、堀切、牛田、北千住、小菅、と戦前、昭和の匂いがする駅名ばかり。あざみ野だの青葉台だの自由が丘だの、山野を切り開いた西方の私鉄と違い、歴史、文化が澱のように溜まっている。

とくに東向島、玉ノ井といえば、永井荷風の墨東奇譚(1937)。
昔読み始めたのだが、古い文庫本は活字が小さいこともあり、途中でやめた記憶がある。

1958年の売春防止法施行により、私娼街は衰退、消滅したが、今どうなっているか一度来てみたかった。

9月11日、千駄木からママチャリでひたすら東に向かう。
荒川区から水神大橋をわたり墨田区に入る。
白鬚東アパートの巨大団地を見た後、すぐ前の墨堤通りの八百七の角から小道をはいる。大正通りというようだ。

1928年京成白鬚線が八百七のそばまできていたが、1936年廃業。墨東奇譚にも出てくる。終点の京成白鬚駅跡地は白鬚橋病院となった。しかし2017年曳舟駅に直結するビルに移転し、東京曳舟病院に改名、八百七近くの敷地は特別養護老人ホームとなった。
2021‐09‐11 16:08
東武線のガードをくぐると、大正通りはいろは通りと名を変える。

16:10
いろは通りの向島警察署 墨田三丁目交番

荷風が通ったころ、私娼街は玉ノ井駅の東、いろは通りと南の改正道路(水戸街道、国道6号)の間にあった。
しかし戦災で焼かれた後、私娼街は焼け残ったいろは通りの北と、曳舟駅の西の「鳩の街」の2か所に分かれて移った。

何か面影が残っていないかと、交番のところから北東の区画に入ってみる。

自転車で静かに走る。

16:12
この建物の角のアールなんか面白い。

道が狭く、古い木造家屋が密集。
「不燃化促進用地」のとなりは廃屋のような中に自転車が並んでいた。

16:15
道がくねくね曲がっていてどこを走っているか分からなくなる。

新しい家が多く、数年前に来ればよかった。
もっと昭和の私娼街の名残を見つけられたかもしれない。

16:19
荷風は東京市外、旧郡部の陋巷として玉ノ井を小説の舞台に選んだ。
彼の分身と思われる主人公が初めて娼婦の家に入った時は雨で、
外でどぶがあふれ「あらあら大変だ、きいちゃん、ドジョウが泳いでいるよ」と声がした。
荷風の頃はいろは通りの南側だが、こんな路地の奥だったのではないか。

玉の井の銘酒屋(後述)は、間口の狭い木造2階の長屋で、店には女性が1 - 2人ほどいた。1階には狭い通りに面して小窓があり、ここから女が客を呼んだ。接客する部屋は2階。

区画整理のできていない水田を埋め立てたため、あぜ道の名残の細い路地が何本も入り組み、雨が降ると相当ぬかるんだ。路地の入り口には、あちこちに「ぬけられます」あるいは「近道」などと書いた看板が立っていた。

外に蛇口、石垣があることから昔はどぶ川が流れていたのではあるまいか?
16:20
暗渠?をたどれば、ごみ屋敷と向こうには赤錆の家

いろは通りを南にわたると、戦前、荷風のころ私娼街だった場所だが、戦災で焼かれ、今は何も残っていないはず。ぶらぶらしてみる。
16:23
とにかく道が細くて複雑。
自然と曲がっているから同じところに戻ってきたりする。

16:26
魚八栄五郎商店は二階で宴会と看板にあるが、総菜、弁当屋さんだった。

いつのまにか東武玉ノ井、いや東向島駅の前に出た。
これ以上うろうろしても私娼街の名残は見つけられそうもないので、戦後うつったもう一つの場所、鳩の街に行ってみる。

*****

歴史的、世界的にみて売春は社会に必要なものとして時の政府に公認されてきた。
例えば日本では江戸時代のはじめ元和3年(1617年)、幕府が日本橋葺屋(ふきや)町に遊郭の設置を許可した。海岸近くで葭が茂っていたことから、吉原と命名した。吉原は1657年(明暦3年)に、浅草日本堤下、今の場所に移転した。(明暦大火は関係ない)

そして「傾城町の外傾城屋商売致すべからず、」
すなわち表向きは吉原以外に娼妓をおくことを禁じた。

しかし需要は多く、江戸周辺部の寺社門前地の茶屋から発展した色町があちこちにできた。根津などは郭に囲まれていないが遊郭といってよい。

また、品川・内藤新宿・板橋・千住(江戸四宿)などの宿場には、準公認の飯盛女が置かれた。これらを岡場所と言い、娼婦は吉原の公娼に対して私娼といった。岡は「ほか、外」という意味か。

さらに幕末から明治、大正にかけて、銘酒を売るという看板をあげ、飲み屋を装いながら、ひそかに私娼を抱えて売春した銘酒屋(めいしゅや)という店も各地にあった。本郷丸山、樋口一葉の最後の家のあたりにもあった。

浅草周辺にも銘酒屋があつまっていた。
荷風の墨東奇譚に寄れば、1918年ころ、浅草観音堂裏に言問通りが開かれるとき、その近辺にあった銘酒屋などがこの新開地へ移ってきたのが始まりらしい。その後、関東大震災後の復興に際して、浅草では銘酒屋の再建が許可されず、亀戸とともに銘酒屋営業が認められた玉の井に多く移ってきた。

所轄の寺島警察署の統計によれば、1933年には、銘酒屋497軒、女性は1,000人いたというが、実際にはこれよりもずっと多かったという説もある。

そのころ浅草から一直線に水戸街道(現、国道6号)が開通、1931年には東武鉄道が開業、玉ノ井駅までのアクセスが格段に良くなった。荷風以外にも、徳田秋声、檀一雄、太宰治、高村光太郎、武田麟太郎、サトウハチロー、川崎長太郎など、多くの文士が訪れた。尾崎士郎、高見順は作品に登場させた。

1945年3月10日の東京大空襲で街のほとんどが焼失、戦後は焼け残ったいろは通りの北と、1キロほど南西の鳩の街に移って営業したが、GHQの指導で廃止されることになった。しかし売春防止法が施工される昭和33年までは黙認される。黙認された区域は地図上に赤線で囲まれたことから「赤線」と呼ばれた。

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さて、玉ノ井(東向島駅)から国道6号に出て、南西に走る。
16:37
「鳩の街」入り口のアーケード
曳舟駅の北東、ローソンの角にハトの絵が入ったアーケードがある。飾りが右半分しかなく、左右の支柱の太さも違う。そういうデザインなのか、壊れて直してないのか不明。
鳩の街通りは店一軒分あけた二本の通りが並行している。
川の両側に道ができ暗渠にしたあと、あいだに家が建ったみたい。
16:38
だから西側の道の片側は家の裏側になっている。

1952年(昭和27年)当時は、娼家が108軒、接客する女性が298人いたという。

16:41
今も水の出る井戸と観光人力車

鳩の街通り商店街は、昭和3年に設立された寺島商栄会としてスタートした。
戦後、玉ノ井から移ってきた銘酒屋が近くに歓楽街を形成、遊びに来た進駐軍がpigeon streetといい、そのまま鳩の街と訳した。

寺島商栄会は、都電の終着駅のすぐ近くで、歓楽街・鳩の街もあったことで賑わった。昭和30~40年代には、水戸街道から墨堤通りまで約300mの両側にびっしり商店が並んだという。そして私娼街が廃業した昭和30年代、より有名な名前をもらい「鳩の街商栄会」と改名した。

しかし今や最寄りの曳舟駅からも離れ立地が悪い。
シャッター通りという時期も過ぎ、いまや一般住宅が目立つ。
すなわち私娼街どころか商店街も消えつつある。

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ちなみに「玉の井」はもともと東京府南葛飾郡寺島町にあった字で、1930年(昭和5年)、寺島町はこれまでの字を廃して新たに寺島町一 ~ 八丁目の大字を設置した。東武の玉ノ井駅は1924年に開業、1987年に東向島に改称した。

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