2022年9月5日月曜日

私と薬学9東大医学部薬理学教室の教育

(前回からの続き)

1987年4月、研究生として東大医学部薬理学教室、遠藤研に通うことになる。
私は30歳、長女が8か月、尾山台団地の最寄り駅、東大宮から東北線(現宇都宮線)で上野まで35分。毎日上野公園を歩いて通学した。

医学部の基礎系の研究室はどこも人がいないものだが、遠藤研も3月に松村さんが転出され、遠藤實先生と飯野正光先生、実験助手の飯田さんの3人だけだった。

その状態で、昭和大薬学部の修士を終えられた小山田英人さん、臨床医だった月岡道隆さんも私同様研究生として入室、また秋葉俊彦さんも理学部物理学教室(若林研)に籍を置いたまま遠藤研で実験することになった。
すなわち3人以外は全員、新人であった。遠藤、飯野両先生は、ゼロから始める私たち4人に対し、実に丁寧な教育をしてくださった。
まず、カエル骨格筋の単一筋線維、すなわち単一細胞を取り出す訓練。
実体顕微鏡で見ながら、ピンセットと眼科ばさみで脚の筋肉を縦に割るように切っていく。つまり筋肉、すなわち筋線維の束を2分の1、4分の1、8分の1、と一太刀ごとに細くしていく。筋線維が数十本くらいまで減ったら、今度は貝印カミソリを小さく割った破片をナイフにして、さらに線維(筋細胞)の束を細くしていく。細胞は少しでも触れたら傷つき死んでしまうから慎重に進めるが、朝から始めて夕方、筋細胞があと数本となったときに傷つけてしまう。

5月22日、20回目で初めて最後の一本まで到達、すなわち単一筋線維ができたと思ったら、どこかでナイフが触ってしまったのか翌朝顕微鏡で覗くと真っ白になって死んでいた。
翌5月23日も成功して電気刺激に反応したが、48時間後は死んでいた。
このころは腕も上がり3時間くらいで単一筋線維まで到達するようになっていたが、その後2回試みても最後の1本にするところで傷つけた。

しかし長い間じっと我慢していらしたのか、飯野先生は「待ってました」と、この訓練を卒業させてくれた。そして、次のステップ、すなわち取り出した筋線維の実験で使う溶液調製について教えてくださった。
溶液作りは、ただ粉を量って溶かすのではなく、そのまえに自分で計算しなくてはならなかった。細胞内液は、Caと結合し緩衝効果を示すEGTAのほか複数の高エネルギーリン酸化合物などキレート剤を多く含み、なおかつそれら化合物はpH によってイオン種の比率が変わってくる。それらとCa、Mgとの結合定数をいちいち調べ、さまざまな遊離Caイオン濃度、さまざまなpHについて必要な試薬量を計算するのだが、複雑な数式をいくつも書かねばならず、これも良い訓練だった。
1987年8月
左から小山田、上田、月岡、前が秋葉、小林

カエル単一筋線維取りに話を戻す。
それまでみんなで仲良く顕微鏡を覗きながら、おしゃべりしたり音楽聞いていたりしていた。(小山田さんは岡村孝子の「夢をあきらめないで」が好きだった)。しかし一人が成功すると雰囲気が変わる。気合を入れた月岡さんは私の卒業した翌日単一筋線維をとり、嬉々として溶液調製に加わってきた。
いっぽう一人残された小山田さんは無言で顕微鏡をのぞいていた。そして彼はこの日、徹夜して成功する。(しかし夜通し硬い椅子に座っていたのが祟ったか、その後、腰痛に悩まされることになる)

単一筋線維取りは手先の訓練とともに気合、メンタルの訓練でもあったようだ。
カエル骨格筋はその後使うことはなかったが、この経験は後年、実体顕微鏡下で心筋、平滑筋の標本をつくるうえで大いに役立った。


また、我々新人4人のためだけに輪読会が開かれた。
筋肉、神経など興奮性細胞の生理について厳選された論文を読む。Hodgkin, Rushton (1945)の神経軸索のケーブル理論から始まり、Hodgkin, Huxley, Katz の Constant field equation, フィードバック増幅器によるVoltage clamp(1951)、電位依存性の確率因子m,n,hの導入による透過性変化の数学的記述(1952)、骨格筋チャネル分子の動きを想像させるcharge movementの観測(Chandler, Rakowskiら1975)など。

我々は電気生理学すなわちパッチクランプの実験をするわけではないのだが、興奮性細胞を扱うからには膜電位の基本をきちんと身につけなくてはならないという教育的配慮だった。
土曜、生協で食事した後、13時くらいから始まり17時、18時まで、1つの論文を徹底的に読む。説明当番は秋葉・小山田・小林・月岡4人で順番に回ってきて、飯野先生が黙って聞いている。4人とも分からないと教えてくださった。どれも数式がびっしりの大論文で、物理、数学は好きだったが、当番の週は丸一日図書館にこもって準備した。これら論文には実験装置の説明でも細胞膜のモデルでも、電気回路がよく出てきた。だから、こちらも電気の本を2,3冊買って勉強した。

半分くらいは遠藤先生も顔を出されて、HodgikinやHuxley(先生のご留学先)らの人柄とか、ご自身が秋葉原で部品を買ってアンプを組み立てられた時代とか話してくださる。
Na電流、K電流の数式で(m^3)*h,  n^4と確率因子の積が「4次」になるところでは、
「半分冗談ですけど」と前置きされて、Naチャネル分子(前年沼研でクローニングされたばかり)の4回繰り返し構造、Kチャネルの4量体と関連付けて貴重な話をくださった。
実にぜいたくなセミナーだった。

輪読会は17回、中断しながら1年続いた。

4月末の薬理の学生実習のあと、オブザーバーとして輪読会に参加した学部学生の上田(長瀬)美樹さんは、Hodgkinらが微分方程式を手回し計算機で近似的に(オイラー法)解いて再現した活動電位を、実験室のPC98で再現した。これは後述する野間先生がバーチャル細胞(京都モデル)で心筋膜電位を再現する15年ほど前である。
(彼女は北天佑が好きで、ある日、スポーツ新聞を持ってこられ、見ると第一面の大関のうしろに彼女が写りこんでいた。)

このような数学モデルから膜電位を理解していく勉強は、薬理学の実験をするにあたって必要ない。もっといえば、じつは電気生理学の実験をするにあたってさえも必要ない。
難しいとされるパッチクランプも練習すれば誰でもできる。電気生理の理論を知らなくても、パッチクランプさえできれば、薬物のイオンチャネルに対する作用などは薬物添加前後の電流値を比較するだけでよい。もちろん測定機器は(自らハンダごてを持たなくても)市販されているし、防震台、顕微鏡を含めた電流測定系も(金さえ出せば)業者がセットアップしてくれる。

ほとんどの研究室では学会発表に備えて、新人と言えど、一日でも早く実験してデータをとることが優先される。当然勉強することも研究室、本人のテーマに関連したことが中心となる。

しかし遠藤研では目先のテーマと関係ない教育がなされた。
そして私にとってこの輪読会は大きな財産となった。
以後30年近く細胞生理学と付き合うことになるが、徹底的に勉強したことは自信となった。昔の生理学研究者はみな通った道だろうが、1980年代以降は理論の勉強よりも早く電流をとること、考えることより早くデータを出すことが大事となり、Hodgkin-Huxleyをあれほど読み込んだのは我々が最後だったのではなかろうか。

もちろん、オリジナルの難解な文献を読み込む目的は自信をつけるためではない。
細胞がどのような機構で動いているのか? それらに初めて切り込んだ人々はどのような装置を作り、どのような実験をしたのか? どういう考え方でモデルの数式が作られ、実測値とどのくらい合致したのか? 教科書、総説に書いてあることを鵜呑みにするのでなく、一流の研究をきちんと辿ることが目的だった。
遠藤先生も飯野先生も、独創的研究を大切にしていらした。具体的には、例えば、今まで見えなかった現象を観測することに一番の価値を置いていらしたようだ。そして新しい現象を観測するには新しい装置を自作せねばならない。

当時飯野先生は骨格筋の収縮に伴うCa動態を研究されていた。溶液交換、筋肉の電気刺激、張力測定、fura-2測光のためのシャッター開閉、信号の記録は秒、ミリ秒の正確さを要した。それらを手作業で行うことは不可能であり、先生はコンピュータで制御するシステムを作られた。

今では当たり前のことだが、当時は極めて珍しかった。
すなわち世間ではNECのPC98が多くの研究室に導入されつつあったが、まだ共同のコンピュータ室に置かれ、タイプライターでなく「一太郎」で論文を書けることになって喜んでいた。まだウィンドウズもマックも、ワードもエクセルもない時代である。
飯野先生はA-D、D-A変換のボードを後ろに差し込み、各機器とつなげ、キーボードで操作し、一方で機器から得られた電圧信号をパソコンに取り込み、自由に加工できるよう、n88basicでプログラムを書かれた。

我々に対してもプログラミングを推奨され、演習問題を作ってくださった。
最初はグラフィックに慣れるため、
  y=1/n*sin(nx) 
などでnを自由に変えられるプログラムコードを書かせ、次にそれらを級数として加算した
  Y=Σ[k=1,n]1/k*sinkx (-4Π<x<4Π)
  Y= Σ[k=1,n]1/(2k-1)*sin(2k-1)x 
のコードを書くように指示された。
出来上がると「nに100を入れてください」と言われる。
やってみると正弦波でなくのこぎり波、パルス波が突然画面に現れた。
驚くと、先生は「フーリエ変換の逆です」と、にこりとされた。
その時の経験をもとに、会社に戻ってから配属新人のために私が出題した演習。
しかしYさんもOさんも手を付けず質問すらしてこなかった。

遠藤先生は1994年に定年退官後、埼玉医大にうつられ、飯野先生が翌年教授となられた。
飯野研はその後、新しい実験手法を導入して大発展していくが、集まる学生は優秀な者ばかりで、我々が一から教えてもらったことは、たぶん各自が自習するべきことであり、あのような丁寧な指導はなされなかったであろう。
つまり、あれは薬理学教室の教育ではなく、たまたま我々がお二人から受けた、1987年一回かぎりの教育であった。

(続く)

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