2022年6月6日月曜日

私と薬学8 代謝から薬理部門へ

高脂血症治療薬TA-1801の次に担当したのは肝保護薬TA-1725の代謝であった。

この化合物にはジチオカルバメート構造があり、チオカルボニルに分子内水酸基が入って閉環するほか、チオエステルの加水分解、Sの酸化(Oとの置換)、芳香環部分の水酸化、など代謝されるところが複数あった。それら組み合わせの結果、代謝物が多数生じる。
抱合体を除いても20種類以上あった。
それらの構造はいずれも予想されるものばかり。

一つ一つ構造を決めて、それぞれの血中濃度、組織内濃度を求める。
悪い癖で、また余計なことを思ってしまった。
果たして前臨床段階でここまで詳しく必要だろうか?

会社は新薬を必要としている。
薬は薬効があって毒性がなければよい。
つまり、新薬の研究、開発で一番大事なところは、初期段階のテーマ選び、薬効、毒性評価であると思った。
私の担当する代謝物の構造決定など、そのあとでいいのではないか?

新薬の種となる化合物を探すには、有機化学研究所で合成された新規化合物を、薬理研1部(循環、消化器など内臓の動き)、2部(血液など生化学)で薬効を評価する。

1980年代は今と違ってランダムスクリーニングはほとんどなかった。生体内成分の構造とか、他社特許情報などから新しい化合物を合成した。だから新しいテーマは合成化学者から提案されるものが多かった。一方、薬効評価部門の薬理研1部、2部は病態モデルの作成、実験系の改良、日常スクリーニングに追われ、新しいテーマを考える余裕がなかった。

新薬開発の律速段階は薬効評価部門にあると思った。
薬効評価部門に異動すれば、自分だけでなく会社にとってもプラスではなかろうか?
しかし簡単に言い出せるものではない。
いったん封印した。

そのころ前に担当したTA-1801で図らずも論文を二つもかいた。

ちなみに、当時の代謝部門は論文を書いて学位をとることを目標にする先輩が多かった。製薬会社は、研究者の職場として他の製造業よりも恵まれていたと思う。今は成果主義の名のもと、目標設定を厳密にしてその達成度で人事評価をするようになったこと、また管理部門が大きくなりプロジェクト進捗を自分たちでは決められなくなったことから、なかなか論文は書けない。学位取得は社会人大学院に行かないと難しい。

当時は管理が緩く良い時代だった。かといって本来の業務をおろそかにすることは許されず、17時過ぎと休日の無給時間などを中心に、自分の興味を深める実験をしたり、論文を書いたりした。

優しい上司であられた杉原重孝主任研究員は薬物のリンパ管吸収という教科書にない分野を切り開き学位をとられた。また、朝の通勤時間に「小林君、青空の雲はなぜあんなにくっきりと輪郭があるのだろう?」などと色んな問題を出され教育してくださった大塚峯三主任研究員は、たまたま得られた含硫黄代謝物の由来が思いもしなかった腸内細菌によることを明らかにされ博士号をとられた。私をリクルートされた中野さんはグルクロン酸抱合体でなく珍しいグルコース抱合体を発見された。

しかし私は論文、学位よりも、製薬会社に入ったからには新薬を作ってみたかった。
薬物代謝部門というのは支援部門であり、直接関与しなかった。前回のブログで書いたTA-1801のアシル基転移やフラン環開裂‐アルデヒド生成は、論文にはなるけれども創薬に関係ない。さらに、代謝による活性化と生体高分子への結合を明らかにすれば、毒性の「可能性」に触れる。昨今のコロナウィルス問題同様、実際起こるどうかは別問題なのに、一部の人々は大げさに取り上げるため、むしろ創薬にはマイナスとなる。

与えられた候補化合物について100%以上に深入りすれば創薬から離れていくというのは、一生続ける仕事として面白くない。再び異動を考え始めた。
第一部、第二部の薬効薬理部門なら薬理研究所内の異動で済むが、何の知識、技能もない若造ではなかなか言い出せない。薬効部門のT主任に相談すると、「来るなら何か手土産(有望なアイデア、テーマ)が欲しいな」と言われた。

当時、『ストロングメディスン』(アーサー・ヘイリー)が新潮社(1985)から出た。
シーリアというMR(営業職)の若い女性が、出世してビッグファーマの社長に上り詰める話である。そこに新薬が3つ出てきた。
1.ペプチド7というアルツハイマーの治療薬を目指したが、体重減少作用が副作用として現れ、美容目的の薬に転換したもの。
2.モンテインという薬は妊婦のつわりの抑制だったが、胎児の脳に悪影響を与え、シーリアの上司だった社長の孫が障害児として生まれた。
3.ヘキシンWという薬は、フリーラジカルなど活性酸素の抑制、リウマチなどを対象としたが感染症を悪化させるという副作用が出た。

ここでヘキシンWのような薬を探そうと、抗酸化剤の勉強を始めた。
TA-1801の代謝でCYPという酸素添加酵素がでてきたように、代謝部門にいるものとしては一番とっつきやすかったからである。
大柳義彦さんという藤沢薬品の研究者が活性酸素と生物作用の単行本を出されていた。隅から隅まで読んで、珍しく自分でノートをつくり勉強した。

TA-1725の次はリグナン誘導体のTA-7552だったが、その代謝物の構造を決めながら、薬理部門への異動についてまだ迷っていた。
しかし1986年、もう30歳になっていた。大塚主任、杉原主任に思い切って相談すると、お二人とも研究所として薬効薬理部門の強化が必要と言われ、応援してくださった。案ずるより産むがやすしである。針谷部長はもともと薬効薬理の人であり、薬理研の次期所長となる方であったから話はスムーズだった。

当時、田辺の薬効薬理部門は熊谷洋東大名誉教授を顧問とし、東大医学部薬理学教室と関係が深かった。研究所内でも内地留学された人が何人かいらした。
ちょうど江橋節郎教授が定年で生理研に転出され、東北大から遠藤實教授が後任として飯野正光助手を連れて戻ってこられ、新しく研究室を整備されているときだった。人手が必要だったのだろうか、どういういきさつか存じ上げないが、両方の先生と親しい針谷部長が、「君は薬理のことは何も知らないだろうから、1年勉強してきなさい」と内地留学させてくれた。実際、私は筋肉がCaで収縮することすら知らなかった。

年が明けた1987年2月、針谷部長は私を連れ、本郷通りの近江屋でお菓子を買って薬理学教室へあいさつに伺った。部長は私を紹介するのにTA-1801のフラン環の開裂の論文について話した。
すると遠藤先生は「そうですか、いい仕事をした人は違う分野でもちゃんと出来ますよ」と私に微笑んでくださった。そして「どんな研究をしたらいいか、会社の希望はありますか?」と部長にきかれた。
針谷さんは「遠藤先生の考え方、サイエンスに向かう心というものを教えていただきたいと思います」という。「それは一番難しいですね。でも実際の実験は飯野君に指導してもらうのですが、彼は私とほとんど同じ考え方をするんですよ」とやはりにこにこしておっしゃった。

1987-05-22 薬理研3部(代謝部門) 
私の送別会はこの年の新人(河野君)歓迎会と一緒。
遠藤洋さん河野君の手はどこを触っているのか?
山口さんは私の膝の上に乗っかった。
まだセクハラという言葉がなかった時代。
(続く)

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