2023年10月31日火曜日

水戸黄門像と42年前のみまつホテル


茨城県立勝田高校で講演した。
話すのは午後だったので、一駅手前の水戸を歩こうと早めに家を出た。取手までの近郊区間を過ぎると中距離列車の駅となる。

取手の次は、藤代、竜ケ崎市、牛久、ひたち野うしく、荒川沖、土浦の順にとまる。
妻の両親が竜ケ崎出身だったから、牛久まではなんとなく土地勘があるが、竜ケ崎市という駅は聞いたことがなかった。佐貫駅が消えている。
帰宅して調べたら、佐貫が2020年3月に改称したらしい。改称の理由は、龍ケ崎市が常磐線の駅に市の名をつけたかったからという。佐貫駅開業の1900年は駅所在地が竜ケ崎市(当時は町)ではなかったが、今は市域であり、JRの駅名となれば市の知名度は上がる。
これは埼玉の行田市が合併して高崎線が市域の端の端、田んぼしかなかったところをかすめることになり、新駅設置を要望、1966年開業したとき、その駅名をすでに秩父鉄道にあった行田駅(1921)をわざわざ転用したのに理由は似ている。

さて、「竜ケ崎駅」が関東鉄道の駅名になっているから「竜ヶ崎市駅」(正式には龍ケ崎市駅)となったわけだが、それにしても、我々が駅を言うとき「駅」を省略する。取手、牛久、土浦のように「竜ヶ崎市」というと、駅でなく市全体を差すように感じてしまう。

次の牛久も駅周辺は知らないが、結婚したころ1980年代、牛久沼ほとりの伊勢屋には妻の実家によく連れて来てもらった。当時もウナギはごちそうだったが、今のような異常な値段ではなかった。
このあたりは茨城らしく、高崎線とは違って田畑が広がるが、圏央道の高架が線路を横断していたりして、県南の開発ぶりが目立つ。

つぎの「ひたち野うしく」は東急田園都市線にあるような、ひらがな駅名。駅舎も名前同様新しい。科学万博(1985)の臨時駅・万博中央駅の跡地に、1998年に開業した。

次の荒川沖駅の名は一転して古い。水戸街道の荒川沖宿からきている。埼玉、東京の人が知る荒川、元荒川とは関係ない。産総研(2015年まで工業技術院)、阿見町の三菱油化、ツムラなどの研究所の最寄り駅(といっても歩けない)だったから知人がいてなじみがある。海軍航空隊の施設もあったので、いつかじっくり歩きたい。

土浦駅を過ぎると線路の両側に葉の枯れたレンコン畑がみえ、とたんに地方の景色になる。一度だけ1982年に通っているはずだが、当時は景色に興味がなかったのか全く記憶がない。
常磐線はここから土浦、神立、高浜、石岡、羽鳥、岩間、友部、内原、赤塚、水戸と続く。

岩間あたりで柿の木、雑木林の向こうに農家をみれば、屋敷森を背に瓦ぶきの屋根は大きく、生垣もよく手入れされていて、信州の農家より豊かに見える。
茨城の農産物産出額は北海道、鹿児島について全国3位。
全国1位は
鶏卵、サツマイモ、メロン、ピーマン、れんこん、水菜、小松菜、チンゲンサイ、栗など。
全国2位が
レタス、白菜、らっきょう、みつば、落花生など。

車窓からずっと眺めていると、平地なのに雑木林などがあり、東北地方のようだ。
宇都宮や前橋と比べ、水戸がずいぶん奥まった感じなのは、ここに至るまで、またその先に都市がないからだろう。前者が東北地方や信越への中間点であり、周辺が開発しつくされたのとくらべ、水戸は南の土浦、北のいわきまで周辺に何もない。

水戸が近づき列車の速度が緩むと、左手に偕楽園と臨時ホーム、右手に千波湖がみえた。
1982年、重いかばんをもったまま、このあたりを歩いたことを思い出す。
2023₋10₋26 10:11
水戸駅。
41年前の駅舎を覚えているわけではないが、こんな新しい駅ではなかったことは確か。
調べると橋上駅舎は1984年7月にでき、翌年今もある駅ビルのエクセルがオープンした。

今までずっと、関東の県庁所在地、中核都市たとえば宇都宮、前橋、高崎、大宮、千葉などと比べ、一番魅力的なのは水戸だとずっと思っていた。その根拠は1982年5月にたった一度だけ訪れた経験による。
今回の水戸は、その記憶を呼び戻すのと、20代のころより増えた知識をもって水戸城を歩くのと、2つの楽しみがある。
10:12 北口
表玄関というか、水戸城や役所、繁華街のある北口に出た。
駅前広場の上には広いデッキができていた。これでは全く昔の記憶が呼び戻せない。
10:13
デッキの上は広場のようになっている。
徳川の三つ葉葵の提灯、右には水戸黄門と助さん、格さんの像があった。
41年前はこういうものはなかった気がする。テレビ番組にあわせ「観光」ということを役所が意識し、飾り付ける余裕が出てきたということか。

黄門一行の像に近づいたが、テレビドラマで演じていた特定の俳優に似ているわけではなかった。まあ、そうだろう。長寿番組だったからいろんな人が演じている。

水戸黄門は1969(昭和44)に始まった。私の場合、初代の黄門・東野英治郎、助さん・杉良太郎(1971年から2代目の里見浩太朗)、格さん・横内正、風車の弥七・中谷一郎が一番印象に残っている。1969年は中学1年生だが、長野で祖父母らと一緒に見ていたのだろう。

風呂場のシーンが記憶に残る由美かおるは意外なことにずっとあと、1986年からだった。このとき黄門様は二代目の西村晃、格さんも大和田伸也を経て三代目の伊吹吾郎になっている。このあたりが私の記憶の最後。

その後、野村真樹(助)、あおい輝彦(格)、石坂浩二(4代目黄門)も演じ、2010~11年の第42部まで1200回以上放送されている。このころは五代目黄門が里見浩太朗、助さん格さんは東幹久、的場浩司(ともに六代目)だったらしい。

黄門様のデッキから降りて、駅前の大通り(国道50号)を西にいく。
みまつホテルを見たかった。
北は左

42年前の5月、1982年は田辺製薬に就職して1年経ったころ。私は25歳。
薬理研究所の薬物代謝部門で、医薬品を飲んだあとの代謝物の定量、構造決定に従事していた。
この過程で最も威力を発揮するのがGC-MS(gas chromatography/mass spectrometry)である。この分析装置は当時薬理研究所に2台あったが、さらに最新鋭の上位機種、日立のM-80Aを購入した。

一台数千万円もした。当時の研究所にこれほど高額な装置はなく(製薬業界の好景気と装置の自動化、高額化は90年代である)、しかも予算をとってなかった。しかし脳代謝賦活薬ホパテ(当時、月商30億、一日1億円売れるという大型商品に育っていた)の後継品を作るにも必要ということがあり、所長の一声で導入が決まった。

導入された後、水戸の隣、勝田にあった日立製作所那珂工場で装置の使用法の研修を受けた。
このとき日立が用意してくれたホテルが水戸の駅前のみまつホテルで、5月23日から5泊した。
ネットで調べるとまだ存在していたので訪ねてみた。
10:21
みまつホテル。あった。
もっと大きかったイメージがある。
大通りの北側にあった気がするのだが、ここは南側である。

10:23
横から裏を見ると古い。移転したとも思えない。
やはり42年前もここだったのだろうか。

日立の研修に参加したのは(つまり同時期にM-80Aを導入し、習いに来たのは)、私のほかに大阪薬科大学の松永春洋教授と助手、東邦大理学部化学の戎野棟一博士、日本医大教養部(武蔵小杉)の化学科の助手、全部で5人。名刺がなかった二人の助手の名前は思い出せない。

日立が用意してくれた宿泊プランは食事つきだったから、皆でホテルの食堂で食べたはずだが、時間がずれていたのか、あまり記憶がない。
覚えているのは松永教授と助手が、研修の早く終わった日に名所として知られた大洗海岸へ行って「何もなくて大洗じゃなくて大笑いです」と夕食時に話されたこととか、戎野博士が研修参加者の人物評を私に話されたこととか。
10:24
みまつホテルロビー

ホテルの中を覗くと女性従業員が掃除機をかけていらした。
それほど忙しそうでもなかったので、入って聞いてみた。
「42年前、5泊したんですが、昔は道路の向こう側にあった気がするんですが。。」
彼女は掃除機を止めてにこにこしながら
「いいえ、ずっと、70年前から郵便局の向かい、この場所です」。
食堂は昔と同じく2階のようだったが、カフェのように改装してしまったそうで、上がることはせず、ホテルを出た。

・・・・
42年前、研修が早く終わった日、日没までたっぷり時間があり(大阪薬科大の二人が大洗に行かれた日)、私はひとりで水戸城址にあがって、弘道館から県庁など役所のあたりを散歩した。

別の日、駅前から偕楽園まで歩いて千波湖の北岸遊歩道を水戸駅まで戻ってきたのは、日中で、かつ荷物を持っていたから最終日、あるいは研修終了の翌日だろうか。
その日の夕方は柏で途中下車し、そごうの回転レストランで池田さんと食事した。まだ結婚前だったからかっこつけてカクテルなども飲んだ。2年後に彼女と結婚する。

水戸から5年後に、希望して代謝部門から薬理部門に異動、GC-MSを使うことはなくなった。
薬理、スクリーニング部門で細胞生理学を専門にして26年、大学に転職して教育に携わり9年、退職。
そして42年ぶりに水戸を再訪。
この地で細かい具体的な記憶はほとんどないが、あの日、確かにここにいた。
その後人生はどうなったか、と顧みるきっかけにはなる貴重な再訪だった。
42年前ホテルでもらった水戸の地図が保存してあった。
確かにみまつホテルは通りの南側にある。

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