2021年1月23日土曜日

薬学ボート部の合宿と学部レース

先日、田辺三菱製薬戸田事業所の解体を見に来て、ついでに戸田漕艇場にまわった。

各大学の艇庫をみながら、ボート部での合宿を思い出した。

(別ブログ)

2021-01-12 10:39
池の南側、一番手前は東大艇庫

東北大と筑波大

ボート部といっても対校(対抗ではない)クルーを出す全学のボート部ではなく、薬学部のボート部である。

東大は全学のボート部の他に医学部、薬学部にもボート部があった。
全学ボート部は当時、花形のエイトが実業団も含めた全日本選手権で4連覇したという強豪。
一方薬学部は1学年66-70人、進振り後の専門課程すなわち3年生、4年生の2学年しかなく、かつ実験が忙しい。エイトを漕ぐにはコックス入れて最低9人必要だが、戸田で長期合宿となるから野球、サッカー、テニスと比べ敷居が高く人は集まらない。
ボート部はあったが、もっぱら毎年秋の薬学部水上運動会で、練習、大会の手伝い、指導がメインになっていた。
それが私の進学した1977年に大きく変わった。
中興の祖、金子次男氏がいたからだ。

1980薬学部運動会

3年生になり、薬学に進学して初めての学生実習。
夏前だろうか、我々の実験台のところに赤羽浩一氏がボートを漕いでみないか?と誘いに来た。彼も初めてだといったが、4年生の金子さんに言われて人を集めに来たらしい。二人は諏訪清陵高校の先輩後輩だった。

諏訪清陵の端艇部というのは高校には珍しく艇庫・合宿施設を諏訪湖に持ち、1901年創部、120年の歴史を持つ。1981年はインターハイ優勝、古豪として知られる。

誰でも良かったのだろう、片っ端から声をかけ、なんとなくついて行ったのが赤羽と長野県つながりか飯田高校出身の牧島房夫と私、薬学野球部つながりか新井洋由と小林松男。あとから三村亨も引っ張られた。(以下、敬称略)

40年ぶりに来た艇庫。
この2階、3階の大広間で合宿した。
道路との間の前庭が舗装されていたが昔は土だった。
毎朝5時に起きてここで準備体操をする。
二人一組で柔軟をするときは、雨の時などコンクリートの部分は少ないから土のところにも座る。いくら雨中どうせ船に乗れば濡れるからといっても、11月は暗くて寒い。そのなか、濡れて泥の地面は気持ち悪く、冷たく、辛かった。

体操が終わると走る。
公園事務所
公園事務所までいって公園の外に出て、堤防と民家の間を帰ってくる。

このあたりにボートの修理をする家があった。

走って戻ってくると、全学ボート部、医学部ボート部と完全に分かれ、艇を担いで池に出し、別メニューで練習、以後、翌朝まで顔を合わすことはなかった。

競技用の船は公園のお椀のようなボートと違い、座席がレールで動く。
前に出てオールで後ろの水をつかみ、足でけってシートを後退させることで水の塊を前方に動かす。全員の動きが合わないとオールが水中で抵抗となりスピードが出ない。それ以前にシートが一斉に動かないと前後の人にぶつかる。

ナックル艇はがっしりしていて少々バランスを崩しても漕ぎ続けられるが、スピードを追求したシェル艇は船の幅がシート分しかなく、誰かが早く前に突っ込んだりしてバランスを崩すと傾き、片側のオールが全部水につかって漕げなくなる。だから最初はナックルで練習し、慣れたらシェル、その花形、最速のシェルエイトに乗れるようになる。

ある程度の技術はいるが、結局は腕力、脚力である。
40年ぶりに来たら艇庫の端には登攀縄が据え付けられていた。
今はいろいろ科学的なトレーニングをしているだろう。

1977年、3年生の私が初めて戸田に行ったとき、すでに4年生はエイトで練習していた。金子さんの学年だけあり、1学年68人(男子55人)のうち男13人と女子マネージャー1人を集めていた。

赤羽はさらに3年生を集めたくて「遊びに来るだけでいいから」と駒野宏人や猪俣則夫なども日帰りで連れてこられた。夏合宿は1週間だったか2週間だったか。3学年上の小田島和徳先輩もコーチに来てくださった。

秋になると学内で学部対抗レースがあった。
医学部、薬学部はそのまま出るが、他は全学のボート部が所属学部に分かれて参加する。
全部で6レーンだったから、法、工、農、文、経、理、教育全部は出られない。どうやってチームを作ったか。

金子さんはこの学部レースに本気で勝つつもりでいたようだ。
このころ全学のボート部は、日本代表になるほどの実力者だが、バラバラに分かれれば少しは戦力ダウンする。まあ全学のボート部に勝つことは難しくても医学部なら何とかなると思っていたらしい。しかし医学部は東京医科歯科、日本医大など医学部ボート部の対抗戦がある。なにより理3で進学振り分けがなく駒場時代から入部させるから、薬学の倍のキャリアがあって実力はずっと上だった。

秋になって薬学部は4年生だけで9人のクルーを作れたはずだが、本気で勝つつもりだった金子さんは、同級生の4年生を落とし、体力腕力に優れた3年の赤羽、牧島、新井を入れ特訓した。合宿は1か月半くらいだった。
エイトのメンバーはバウがムードメーカーだった小川裕司さん、2番が金子さん。整調が俳優のようにかっこよかった大塚文徳さん、7番は全学から借りているオールなのにKENとマジックで書いていた斎藤健一さん、6番、5番のエンジンペアが長身怪力の牧島、赤羽。4番に新井、3番が芝野俊郎さんだったか奥田晴宏さんだったか。コックスは操舵術が抜群で、本当に美声だった澤田光平さん。澤田さんは93年ころから森泰生氏とCaチャネルの共同研究をされていて、その縁で再会、いろいろ教わった。

3年生で残った松男、力の両小林は来期を目指しナックルペアで特訓することになった。
4年でエイトに乗らなかった学年一の秀才、山本善雄さんらがコックス兼コーチとして世話してくれた。我々のナックルペアは真剣なエイトのクルーと比べるとのどかで、田仲広明さんは1000メートル先の表示板の数字を我々に見させて、限界距離では形と色はどちらが判別できないか、などと船の上で我々に考えさせた。

1年上の先輩たちは布団の上で試験問題の傾向を教えてくれたり、本郷ではマージャンもやった。あるとき彼らは牌を混ぜながら国内企業の品定めをしていた。橋田亮一さんは田辺の研究力を評価していて、あそこは良いものを持っているけど今出すとスモンの賠償金で全部取られちゃうから出さないんだよ、なんて言っていた。彼はエーザイに行ったのだが、のちに私が就職先を決めるにあたり、この雀荘での会話を思い出した。
教育大付属出身の小川さんは車で戸田に来ていて練習が終わるとたまに(席に余裕があると)我々を大学まで乗せていってくれたが、車中は○○ちゃんという彼女の話ばかりだった。

40年ぶりに来てみると、艇庫の増築だけでなく、東側に別棟ができていた。
ローイングマシーンやいろんな器具があるのだろうか。

ベルリン五輪(1936)にエイト出場、18回の全日本選手権エイト優勝、4回の全日本学生選手権エイト優勝を数える伝統校。OB会からの寄付も大きいのだろうか。
栄光の東大ボート部も近年はスポーツ推薦で有力高校選手を集める私大になかなか勝てず、「国立の中では強い方」という存在らしい。テコ入れの新築かもしれない。
かつて、この別棟のあったところは芝生で、ナックルフォアの屋外艇庫があった。
シェル艇はちゃんと屋内にしまってあったが、ナックルはちょっと軽く扱われ(重いけど)、屋根だけ着いた架台にかけていた。
親睦レガッタの練習で各研究室の人々(みな上級生)が日替わりで来て、ここから担いで池まで運ぶのだが、ふざけた人が多く、途中で落としそうになったりお世話が大変な教室もあった。
彼らはみんな偉くなった。

艇庫の芝生の向こうの道路を渡ればすぐ荒川。
休日などポンドがレガッタなどで混んでいるときは艇をかついで荒川で漕いだ。
流れは大してないが、帰りに下りになるよう、先に岩淵水門まで行き、それから上流の秋ヶ瀬取水堰まで行って、下ってきた。

ボートというのは一斉に椅子とオールが動くから、いくら疲れても一人止めるわけにいかない。推進力にならなくても最低同じペースでオールを入れ流して抜く運動を続けなければならない。もちろんこうなると抵抗になり他の人の負担がぐっと重くなる。そうやって力を抜いても(抜くつもりはないのだが)休憩の時に棒のようになった腕を見ると、充血しているのか膨れ上がっているように見えた。
やっと練習が終わっても、そこからが大変。水を吸って重くなった船を担いで堤防を上がらねばならない。もうダメだ~と思っても船を落とすわけにはいかない。なんでこんなことをやらねばならないのか、と何度思ったことか。

このように休日漕ぐこともあったが、基本は土曜の夜だけはアパートに帰った。洗濯をして着替えをもって日曜の夜にはまた艇庫に入る。以前ブログに書いたが本駒込勤労福祉会館でのダンスパーティに出たのはこの貴重な日曜のことだ。

そうそう、赤羽、松男、新井は薬学野球部でもあったから四大戦の前はボート練習の合間に皆で荒川に出て、キャッチボールやノックで野球もした。みんな偉くなったから大学の講義は出なくてもいいということが分かる。
艇庫の母屋もL字型に増築され、木のデッキができていた。
朝の柔軟もここで出来れば気持ちいいだろう。
外から中が見えた。誰もいない。
コロナで合宿所は閉鎖か?
いや、対校クルーは住んでいるだろうから、他に行くところがない。

昭和50年、長野高校剣道班は優秀で、増田、吉平、高倉、由井と5人で東大を受けた。
5人とも理系だったから2日間駒場の試験で、昼休みの昼食は5人で芝生に車座になった。その年高倉と私が入り由井は信大医学部に行き、増田、吉平は翌年来た。さっそく吉平の池袋のむこう、千早町だったか要町だったかに4人集まり徹夜で麻雀した。そのとき私と高倉の冴えない大学生活を見た熱血・吉平敏行は、俺はもっと充実した4年間を送る、と言ってボート部に入った。そして東大ボート部全盛期の主将、対校クルーのメンバーになった。彼はアパートを引き払って引っ越し、卒業までここで過ごした。あまり大学に行かなかったと思われるが、輝かしいボート歴と明るい性格で積水化学に就職、その後牧師になった。
覗くと食堂が見えた。
40年前の間取りはどうなっていたか忘れたが、艇庫(写真では右の壁の外)から入ったような気がする。学部レースのころだったか、食堂に古い優勝旗が立ててあり、学部名が書かれた何十本もの汚れたリボンがついていた。

日本ボート協会の公式サイトに日本のボート史がある。
1877年(明治10)、F.W.ストレンジが大学予備門(東大の前身の一つ)の教員となり、 隅田川で学生に漕艇を教え始める。大学南校(東大の前身の一つ)と東京外国語学校がボートを購入した。
1886年(明治19)東大に日本初の運動部、大学走舸組競漕会(だいがくそうかぐみきょうそうかい)が発足。これがボート部の前身で、今年で創部134年、最古の部活。
夏目漱石もボートを漕いでいたというが、どの程度だったか不明。

全日本より学部レースのほうがレベルが高かったというのは、帝国大学医科大学、法科大学というように分科大学の集まりだった時代だろうか。
それなら学部レースも意味があっただろうが、今は(存続して入ればの話だが)薬学部にレースの機会を与えるだけかもしれない。

さて、食堂にもどる。
練習終了はクルーによって違うから、食事はクルーごとにとる。
食堂に入ってくると艇の名前、布佐とか行徳とか書いてあり、納豆がどんぶり1つ、漬物が一皿、生卵が各自一つずつある。納豆を順番にとって回すのだが、多くとらないようにと他の目が光っている。9人で分ければ一人分は市販のパックの半分か3分の1くらいしかなかったのではないか? この献立は2年間の合宿で見事なほど寸分変わらなかった。
ご飯は食べ放題で、どんぶりよりも盛れるカレー皿である。1杯でも十分あるが、1年下の堀米一彦(野沢北)や加藤浩紀などは逞しく、わずかな納豆で1杯、わずかな漬物で1杯、最後に生卵で1杯食べた。

ところで、全学のボート部にとっては、素人の薬学ボート部が高価なエイトまで使ったり合宿所をうろちょろしているのは目障りだったかもしれない。
なぜ可能だったかというと、金子さんが全学ボート部だったのである。諏訪湖での経験者だから最初は大きな顔をされていただろう。しかしボートはオールで水の塊をかくレンジが長いほど、そのスピードが速いほど有利、体格が決定的になる。薬学に進学されたとき退部されたようだ。しかしボート?で留年までされたから、艇庫にいる屈強な全学のボート部員は同級生と後輩たちである。一目置かれていたのか、呼び捨てで話しかける存在であり、我々も便宜を図ってもらった。
2021-01-12
しかし、金子さんたちは学部レースでやはり最下位だった。

翌1978年は我々の代。
バウ小林松男、2番私、新井、牧島、赤羽の5人に、3年生の加藤、堀米、横井を入れ、コックスは再び澤田さんにお願いした。当日は競艇場との仕切りを外し、高い観覧席を見上げる戸田ボートレース場に初めて入って船を静止させ、号砲とともに東に向かって2000メートル漕ぎだす。最初は速いピッチで加速し、そのあとは安定したストロークに入る。
しかし1000メートルを過ぎてどんどん差は広がってきた。
その時すぐ後ろにいたバウの小林松男が「ツトムガンバ~」だったか「2番、伸びろ~」だったか突然背中から叫んだ。そんなに俺の漕ぎがゆるくなったかな、と大声でオーと言いながら気合を入れてオールを握りなおしたら、彼は次のストロークで3番を励まし、以後順に大声でクルーを鼓舞し始めた。私も彼に唱和して大声を出したほうがいいのか、これは松男の声を尊重し邪魔しない方がいいのか迷いながら漕いだことを思い出す。

2年間の成果をたった1回のレースで示す。
必死に漕いだが、しかしやはり最下位だった。

終わった後、合宿所の広間(要するに寝るところ)で親睦飲み会があり、一人一言で新井が「レースでは負けましたが、ミカンを食べる速さは負けません」といったことだけ覚えている。

名簿と当時の定期券

名簿を見ると薬学ボート部の最初は昭和35年卒業(31年大学入学、33年薬学進学)の七田俊彦さん一人から始まる。
昭和33年に医学部から薬学科が独立し、ボート部も別れたからである。なお、当時は理3がなく理2から医学科に行ったから、ともにボートは3年生からで、実力は変わらないように思えるが、薬学は33人しかおらずエイトを漕ぐのは困難であっただろう。

名簿には、えっ、彼もボート部だったの?と思う人が何人もいた。
職業人生をほぼ終え、会う機会もなくなってから気づいた。もっと早く知っていれば話ができたのに、と思った。話が弾んだかは分からないが、親しみは増したことだろう。

ちなみに、3年生でリーダーシップのあるものは必ず、4年で教室配属になるとき金子さんに毒性薬理教室へ引っ張られ、逃げられずに主将となった。金子ー赤羽ー加藤ー長谷部である。そのあとは私が就職したので知らないが、若くして亡くなった中村健も毒性薬理教室として名前があった。

定期券は4年の秋だ。
学生証の住所を文京区本駒込5-37-4二葉荘(本当は谷中に移っていた)から、戸田市戸田公園5-5東大艇庫に移し、御徒町から川口まで2130円で買った。
3年生の時は夜実験が終わると生協食堂で夕食を食べ、春日から都営地下鉄で西台まで、あるいは正門前から都バスで終点志村車庫まで行って、夜の国道17号を延々と北へ歩き、夏は戸田橋を500か1リットルのパックの牛乳を飲みながら渡った。もちろん川口から前新田循環のバスに乗ることもあった。
4年になって加藤たちが住所変更して学割定期を買っているのを見て我々も真似したのである。

いろいろ思い出すがきりがない。

あの頃のエイトの艇名は布佐、行徳のほかに旭、三四郎、銀杏?などだった気がするが、今でもあるのかな。



20210115 田辺三菱製薬戸田の解体現場にいってみた


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