3月25日、クルーズ船飛鳥IIが姫路に入港した。
姫路城は見たことがあるので皆と別れ、電車に乗ってひとり赤穂に来た。
10:11播州赤穂駅着
改札を出るとすべてが赤穂義士だった。
駅ビルの階段には義士たちの雄姿がパネルになっている。たぶん47枚あるのだろう。
10:16
辞世句 大石内蔵助良雄
あら楽しや思ひは晴るる身は捨つる浮世の月にかかる雲なし
階段を下りて駅前ロータリーをわたる。
10:20
一角に赤穂の標語?スローガン?が建っている。
「日本の魂のふるさと忠臣蔵と、山鹿素行の武士道の教えが生きたまち」
とある。
「日本の魂のふるさと」とは大げさだな。次の「武士道の教えが生きた」も本当かな、と思うが「生きた」と過去形だからまあいいか。
10:20
新築だが和風の駅舎を見ようと振り返れば、「義魂」とかかれた大石内蔵助の立像。
何から何まで忠臣蔵である。
しかし私は忠臣蔵を見に来たのではなかった。
駅に着くまですっかり忘れていたほどである。
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お城に向かって歩くと交差点に広場があった。
10:25
いきつぎ広場と書いてある。
元禄14年(1701年)3月14日九ツ前(午前11時頃)、主君の浅野長矩が江戸城松之大廊下で吉良義央に切りつけた。江戸上屋敷で事件を知った早水藤左衛門、萱野三平が午後江戸を出発、普通なら17日、飛脚で8日かかるところを僅か4日で走破した。
4昼夜半早かごに揺られ続けた両人は、城下に入りここにあった井戸の水を飲んで「息継ぎ」をしたという。
このいきつぎ広場には「義士行燈」もあった。
毎正時には人形が出てくるからくり時計だそうだ。
大石内蔵助が「昼行燈」と言われたこととは関係なさそうだ。
要するに町全体が赤穂浪士一色になっている。
地図を見れば赤穂忠臣蔵郵便局まである。
(ごく普通の郵便局だが2013年に赤穂加里屋郵便局から改称した)
しかし目的地はお城なので先を急いだ。
赤穂城は元和偃武のあとに13年かけて作られた珍しい城である。
その縄張りが他の名城と比べても当時最先端であったことはあまり知られていない。
さらに、いったん破却され、本丸、二の丸、三の丸ほぼすべての城地が学校、農地、住宅、商業地などとなったのに、すべてを移転させ、元の姿に復活させようとしていることも、他の城址では見られない。
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実に、来てよかった。
急ぎ足で見物して駅に戻ったが、1時間に一本の電車に乗り遅れた。
すなわち城郭と同じように屋根は瓦、壁は白または黒という風に統一されている。
改めて赤穂浪士のことを考える。
赤穂では「浪士」とは言わず、「義士」という。
「義魂」である。
義は、儒教の主要な思想であり、五常(仁・義・礼・智・信)のひとつである。正しい行いを守ることであり、人間の欲望を追求する「利」と対立する概念として考えられた。
彼らの義、正義は何であったか?
吉良上野介を殺すことか?
彼は浅野内匠頭に意地悪したかもしれないが、討ち入りされるほどではないだろう。赤穂浪士たちが恨むべくは即刻切腹、お家とり潰しを決めた将軍、幕府だろう。
(吉良は刀を抜いていないから、喧嘩両成敗とはならず、吉良に御咎めがなかったことに不満をもってはならない)
息継ぎ広場で考えて彼らの墓のある花岳寺にいくことにした。
すぐ近くということも大きな理由だった。
11:30
花岳寺へいく裏通り。
白壁に瓦屋根で統一して歴史的景観を作ろうとしたお城通りよりも、こちらのほうが城下町らしい風情がある。
11:32
曹洞宗台雲山
花岳寺
ふつう寺号は抽象的、道徳的なものが多いが、花岳とは珍しい。
1645年赤穂浅野家初代、浅野長直が入封してすぐ、浅野家菩提寺として創建した。
この山門は赤穂城の西惣門であったものを明治になって寺が購入し移築したらしい。
11:33
浅野公霊廟義士木像 という石柱
浅野家だけでなく、続いて入封した森家も菩提寺とした。しかし二代・森長孝の代に臨済宗に改宗しており、長孝から11代・忠典まで花岳寺には葬られていない。最後の赤穂藩主、12代・森忠儀(ただのり)は、ここに墓がある。
また、大石内蔵助の祖先が眠る大石家先祖の墓、義士墓、家族墓などがあるらしい。
入ると境内は思ったほど広くはなかった。
11:34
鳴らずの鐘
梵鐘は浅野家二代・長友が父である初代・長直のために鋳造した。
元禄15年12月14日吉良邸に討ち入った47士が翌年2月4日、見事切腹したとの知らせが赤穂に届いたとき、町民が続々この寺に集まり(改易され赤穂藩士は表にはいなかった)、弔うためにこの鐘を延々と撞き続けたという。
以来少なくとも50年は誰も撞かず、「鳴らずの鐘」と呼ばれた。
鳴らなくなったのは人々が思い出したくなくて撞かなくなったのか、それとも撞きすぎて鐘が変形してしまったのか、1797年、再鋳造され、以降は鳴っている。
戦時中の金属供出のときは「義士との由緒深きにより」と供出を免れたという。
11:36
初代「大石なごりの松」
切り株の上に乗った説明板は「天然記念物 双樹梗概」とあり、東松、西松と2本あったようだ。
読むと、元禄4年(1691年)に大石良雄が母の冥福を祈り移植した松であり、元禄14年(1701年)に赤穂を離れるとき、この木の下で名残を惜しんだという。昭和2年(1927)枯死。樹齢310年とも書いてある。松くい虫というから2本同時に枯れたのだろう。
しかし、1701年は310-(1927₋1701)=樹齢84年の松だったことになり、その10年前に移植できるか?11:42
本殿と「大石なごりの松(二代目)」
義士墓所・義士宝物館・義士木像堂の拝観は有料(500円)なのでここで退出した。
門前を南に歩けば三の丸の塩屋門跡とか市立民俗資料館(旧大蔵省赤穂塩務局庁舎)があるが、時間がないので行かない。
11:47
花岳寺の周辺民家は古く、観光用に作られたお城通りの街並みよりずっと落ち着いている。
11:49
再びお城通りに出た。11:52
ここは駅から赤穂城まで結ぶメイン観光道路として整備された。
道幅を広げただけでなく赤穂義士にまつわるモニュメントをやたらと置いている。
例えば植え込みごとに47士の名前が書いたプレートが置かれている。
11:59
「茶舗わかさ
中村勘助正辰」
と書いてある。
「茶舗わかさ」は、この植え込みの前の店。
名前を入れることで植え込みの維持費用を出してもらっているのだろうか?
何の説明もないが、中村勘助正辰は浅野家譜代、禄高百石の家臣。もちろん47士の一人である。
同じ植え込みの中に歌碑がある。
12:00
原惣右衛門元辰
かねてより君と母とにしらせんと人よりいそぐ死出の山みち
これも説明ないが彼の辞世の句だろう。
息継ぎの井戸で水を飲んでから大石邸に向かった早水満尭と萱野重実は第一の急使。彼らは事件のみを伝えた。続いて足軽飛脚による第二の急使があり、そしてこの原惣右衛門元辰が大石信清とともに第三の急使となり、主君切腹とお家とり潰しを伝えた。彼ももちろん47士である。(一人一人に番号が付いていれば説明したり知識を整理するのに便利なのだが、義士に対して失礼なのだろうか。例えば天皇は第96代などと番号が付いているから覚えやすいのである)
続いて町飛脚による第四・第五・第六の急使が次々に赤穂藩邸から国許赤穂へ情報が送られ、事件から14日後の3月28日までには刃傷事件・当日午後の浅野長矩切腹・赤穂藩改易といった情報が出揃った。3月27日には家臣に総登城の号令がかけられ、3日間にわたって評定が行われている。
その後、翌年12月の吉良邸討ち入りまでのことは多くの日本人が知る通り。
「義」というのは正義の義でもあるが、義理とか義務とかの「義」は、本心とは違う行動、仕方なしに行う行為の文字でもある。47人の赤穂「義」士たちの中には本心では行きたくなかったものもいたのではないか?
もちろん当時の事情など分からない後世のものが、好き勝手に想像することはできない。
しかし当時あれだけ話題になったということは、当時においてさえ尋常でない行動だったことを示す。尋常でないことをやり遂げた彼らを偉いともいえるが、尋常でないゆえに(声を大にできないながら)反対意見もあったのではないか?
義は儒教の中の5徳のうちの一つである。
儒学者としても有名だった兵学者・山鹿素行(1622‐1685)は、赤穂に二度滞在した。一度目は7か月、二度目は1666年から8年半。元禄赤穂事件よりだいぶ前のことであるが、大石らの討ち入りに影響したという説もある。
しかし山鹿語録には、
「君、君たらずんば自ら去るべし」(論語から)つまり士は二君に仕えるべしとし、
「君のために百年の命を絶つ、夏虫の火に入りて死するにも同じ」主君の為に死ぬのは愚行と主張する。
「士は怒りにまかせ行動すべからず。憤怒の心は身を亡ぼす」
「逃ぐるは恥にあらず。礼なき勇は狭小にして欺天亡国の業」
士は例え辱められても、売られた喧嘩は買うべからずと説いているから、生きていれば、およそ吉良邸討ち入りには反対だったのではないか?
駅に向かいながら、赤穂市の忠臣蔵に対する尋常でない熱意を感じた。
しかし、浅野家は3代・56年だが、そのあとの森家はずっと長く12代・165年である。しかも明治維新を迎え、森の家臣たちの子孫は現在も赤穂市に多く住んでいるだろう。赤穂のお城、殿様といえば森家なのである。なぜ浅野家、忠臣蔵なのだろう?
今の若い人は忠臣蔵など知らないのではないか? テレビが普及したころから昭和いっぱいは年末になるとよくドラマが放送されていたが、もう40年も前のこと。近ごろは見なくなった。今さら忠臣蔵を町おこしに使うのも時代遅れのような気もする。
しかし、赤穂城の大々的な復元事業が忠臣蔵とセットになっているとすれば、吉良邸討ち入りは、江戸時代の庶民の娯楽以外に、現在の赤穂の城址公園整備という大事業に役立ったといえる。
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