3月25日の朝、ダンス講師として乗り組んだクルーズ船・飛鳥IIが姫路、飾磨4号岸壁に入港した。
朝食後、飛鳥が用意した無料バスでJR姫路駅に来た。
バスで来た人々はおそらく全員、姫路城の見物に行ったが、私は一人電車に乗って赤穂に行った。(前のブログ)
9:40発の播州赤穂行きの電車に乗る前、駅北口から姫路城を眺めた。
2025₋03₋25 9:34
大手前通り。
姫路駅前から正面に姫路城がみえる。
かつての大手筋はこれより少し西の通りだったらしいが、1945年7月3日、姫路は深夜の大空襲で大きな被害を受けた。戦後の復興計画の目玉事業として、駅と姫路城を結ぶ幅50メートル道路が作られた。だから駅からお城が正面に見えるのは偶然ではなく、当然なのである。
姫路は2015年3月27日、薬学会で神戸に来たときついでにお城を見に来たことがある。
ちょうど10年経っているが昔の写真がPCに残っているので比べてみた。
2015₋03₋27 14:52
ほとんど景色は変わっていないが、昔のほうが写真の解像度が粗かった。
昔撮ってPCにある写真など、もう死ぬまで二度と見ることもないので、この機会に外に出してみた。
2015年、15:07
駅前から歩いて15分後、大手門から三の丸に入ったところ。
大天守が真っ白である。
それもそのはず、なんとこの日、奇しくも2015年3月27日は大天守の修理事業が完了し再公開が始まった初日だった。朝から混んでいたらしいが知らずに来たこの時間になると空いていた。
平成の修理事業というのは大天守の白漆喰の塗り替え・瓦の葺き替え・耐震補強を重点とした。白漆喰は昭和の大修理から45年経過しカビで黒ずみ、白鷺城の別名にふさわしくなかった。
2009年5月:鹿島建設らが16億2千万円で修理工事を落札。
8月:起工式、10月:工事着工。
工事は大天守をすっぽり覆う素屋根(足場)を設置したため、長い期間、大天守の美しい姿は見ることができなかったらしい。
姫路城は国宝5城の中でも抜群に大きく、また保存状態もよく、1993年に法隆寺とともに我が国初の世界文化遺産に登録された。
2015年、初めて見た時の立派さは期待を裏切るものではなく、いま10年前の写真を見てもそう思う。
15:09
三の丸広場。
いま改めて見ても、広い。だだっ広い。
売店とか資料館とか公共施設を所狭しと建てる日本の城郭にあって、運動場のように広い。
三の丸は明治になって建物を破却し大阪鎮台所属の歩兵第10連隊が置かれ、戦後は野球場が作られ(1947)プロ野球の試合も行われたほどである。
姫路城は規模的には(江戸城を除くと)名古屋、大阪とともに日本で3本の指に入るらしい。
内堀で囲まれた三の丸までの内曲輪(現在の姫路城公園)は23ヘクタール、かつて中堀で囲まれ家臣の屋敷が並んでいた中曲輪(白鷺中学校や淳心学院などが含まれる)までが107ヘクタール、外堀で囲まれていた外曲輪(南端は現在のJR姫路駅近くまであった)まで含めると233ヘクタールである。外曲輪には町人地や寺町が置かれたから城郭都市というべきで、外堀まで含めた江戸城、北条時代の小田原城、三の丸まで含めた山形城に似ている。
(山形城は二の丸までの城址公園は25ヘクタールだが、山形駅まですっぽり入る三の丸まで入れると235ヘクタールで姫路城に匹敵する。しかしあまり有名でないのはなぜか?)
三の丸までは自由には入れるが、二の丸から先は入場料(1000円)が必要。
15:17
菱の門
チケットを買って入って最初の門。
平地から天守などのある城山(姫山・鷺山)に登っていく門である。
それにしても大きい。姫路城はなぜ大きいか?
徳川家康が関ヶ原のあと、豊臣恩顧の多い西国大名を抑える意味で、池田輝政を播磨一国52万石の大大名にして姫路城を8年かけて巨城にした。加藤、福島が改易され、池田が転封された後は毛利島津の来襲をここで防ごうと徳川譜代の大名を置いた。
西南の役で西郷軍が新政府軍のこもる熊本城で食い止められたように、もし西国大名が決起して幕府軍、佐幕藩と各地で争いながら東進したら姫路は期待された働きをしたかもしれない。
しかし実際は、いつのまにか戦は姫路の東の鳥羽伏見、越後、会津で起こった。
15:19
いの門、ろの門をくぐると天守閣への上り坂となる。15:19
暴れん坊将軍のロケにたびたび使われたことから将軍坂といわれる。
姫路城は姫山を中心に築かれた平山城である。
姫山は桜が多かったから桜木山とも呼ばれ、転じて鷺山になったとか。
(しかし三国堀を挟んで天主のある右の岡を姫山、左・西の丸の岡を鷺山とする説もある)
ちなみに別名・白鷺城の読みははくろじょうが正しいとされる。大手門の南西にある姫路市立白鷺小中学校も(はくろ)である。
はの門、にの門、ほの門をくぐり、天守閣の内部に入っていく。
15:26
大天守内部
15:28
下を見ると櫓や門が複雑に並んでいる。
地形を反映しているのか向きがばらばらである。
姫路は池田輝政が大改築する前から城があった。
もともとここは山陽道の要地であったから、今の姫路城がたつ姫山、鷺山のうえには南北朝時代から赤松氏の砦があった。しかし戦国時代の城としては小寺氏の家臣、黒田重隆が城代として入ったころの城が最初とされる。重隆は江戸時代の大名、筑前黒田家の家祖とされ、秀吉の部下となった黒田孝高(通称・官兵衛、剃髪後は如水)の祖父である。
のちの秀吉時代に名を挙げる黒田官兵衛は姫路城代として小寺氏に仕えていたが、信長の才能を高く評価し、天正3年(1575)主君小寺氏に信長への臣従を進言した。天正5年(1577)信長は秀吉を播磨に進駐させた。官兵衛は一族を国府山城に移らせ、居城であった姫路城本丸を秀吉に提供し、自らは二の丸に住み、参謀として活躍するようになる。
天正8年(1580年)秀吉はようやく陥とした別所長治の三木城を拠点とすることで姫路城を官兵衛に還そうとするが、官兵衛は「姫路城は播州統治の適地である」と進言して受け取らず、秀吉から姫路城普請を命じられた。
15:31
他の城と比べ内部も広い。
それにしても、よく残ったものだ。太平洋戦争中には姫路も2度の空襲被害があったが、大天守最上階に落ちた焼夷弾が不発弾となる幸運もあり奇跡的に焼失を免れた。
姫路城は文化財保護の観点から京都のように空襲対象から外されたわけではなかった。しかし米軍が上空からみて灯りがなかったため田んぼと思われ濠も沼に見えたらしい。
15:33
空いているとはいえ、狭い階段の前では行列になる。
10年前はインバウンド客もおらず良かった。
15:50
開いた窓から屋根を見ると、平瓦と丸瓦が並べられ、上に盛り上がる丸瓦が1枚1枚、漆喰で塗り固められている。これが遠くから見ると壁の白さもさることながら、雪が積もったように白く見える理由である。白漆喰は防カビ剤を入れたそうだが5年ほどしか持たないというから、私が見たのは最も白い白鷺城だったということになる。当時はシロスギ城とも揶揄されたが、今は落ち着いた色になっただろうか?
15:54
大天守から西の丸をのぞむ
大天守から降りると備前丸広場に出る。
姫路城本丸は天守群がある天守丸と一段下の備前丸に分かれる。
ここからの大天守はとりわけ大きく見える。
15:56
池田輝政は城主としてここに居館を立てた。池田氏のあと入封した本多忠政は山上の館が不便だったのか、山下の三の丸に新たな居館を作り、以後城主は三の丸に住んだ。
備前丸という名前は本多時代から使われ始めたようで、これは二代藩主池田利隆が備前岡山城代を兼ね、姫路城池田氏最後の三代池田光政がそこで生まれ、備前殿とでも呼ばれていたか?(三国堀も西国将軍・池田輝政の領地、播磨、備前、淡路にちなむ?)
本丸、二の丸、三の丸などという曲輪は、我々は濠などで区切られたものとして見るが、備前丸、天守丸などという言葉を見ると、本来は城内のまとまった土地に対して使うのかもしれない。
備前丸から上山里曲輪に降りると井戸があった。
16:02
お菊の井戸
夜になると井戸から一枚、二枚、三枚、と皿を数える女の声が聞こえたという「播州皿屋敷」の怪談。舞台は小寺氏の室町時代だが、江戸時代、上方で歌舞伎、浄瑠璃として広まった。似た話は各地にある。江戸では少し遅れて18世紀なかごろ、怪談芝居として「番町皿屋敷」がつくられた。やはりお菊を主人公として10枚の皿と井戸が舞台である。大正時代には番町皿屋敷が恋愛悲劇として作り直された。
ちなみに、「お菊の井戸」はこのあたりが公園として大正元年に一般公開された時に創作されたものらしい。
16:04
二の丸とロの門
午前中あるいは日中は混んでいたのだろうか? 行列の誘導ライン。
ロの門から大天守まで並んだということか?
西の丸に行く。
16:10
西の丸から見た天守群
姫路城天守は、外観5重、内部7階という大天守と東・西・乾の3つの小天守からなり、それらが渡り櫓で結ばれた連立式天守である。秀吉時代は3層の天守閣1つであったが、池田輝政の時代に解体され乾小天守に転用されたという。16:18
姫路城の城主、姫路藩は誰だったか、パッとでない。
熊本は加藤清正から細川氏、福岡は黒田、広島は福島正則から浅野氏、高知は山内、高松は松平、彦根は井伊、仙台は伊達、という風に出てこない。
これは先に書いたように、西国大名の抑えという姫路城の特殊性による。
多くの藩は藩主が急死したら幼い子を次の藩主にたてたり、死後に急いで養子をとったりした。幕府も大目に見た。
ところが姫路の城主は幼い子供では困る。
1613年、池田輝政が死ぬと嫡男利隆があとを継ぐ。しかし1617年、彼が若くして没すると嫡男光政が第3代藩主となるも7歳と幼かったため、幼君には要衝姫路を任せられないという理由で鳥取藩32万石に転封された。
続いて姫路城には徳川四天王の一人本多忠勝の子忠政が桑名から15万石で入封した。
忠政の嫡男・忠刻は、1616年(大坂夏の陣の翌年)将軍徳川秀忠の娘千姫(豊臣秀頼未亡人)と結婚したため、千姫も姫路に来て西の丸に住んだ。すなわち西の丸の建物群は池田時代でなく江戸時代になってから作られ、西の丸長局(百間廊下)と千姫化粧櫓が有名である。
そうした千姫に関する説明板が西の丸の長い板廊下のあちこちにあった。
夕方ということもあり、誰もいなかった。
16:28
西の丸ところどころから見える天守群は何度見ても美しかった。
さて、本多忠刻は父より早く若くして死んだため、姫路藩本多家二代目は龍野藩主であった弟の政朝がつぎ、政朝も病に倒れたため政勝が継いだが、1年で転封し代わりに奥平松平家が入るが、やはり病没、跡継ぎが幼いということで転封。
つづいて、やはり徳川四天王を祖に持つ名門榊原家がはいるも、越後高田に転封。さらに本多家(再封)、結城松平家がはいるも二代目が幼いということで転封。
最終的に、1749年、老中首座酒井忠恭が前橋から入封した。家康の重臣酒井正親・重忠を祖とし、大老酒井忠世・酒井忠清を出した酒井雅楽頭家の宗家である。この家が明治まで姫路藩を維持した。江戸下屋敷は文京区白山にあり、明治後はそこに酒井伯爵家が住んだことは以前書いた。
16:36
桜門橋と大手門
駅からまっすぐの大手前通りが突き当るところに出て、最後に振り返ったところで2015年3月の写真は終わっていた。
・・・・
さて、2025年3月25日。赤穂から姫路に戻った。
2025年 12:42
駅前の展望デッキの下
2013年にできたというが、2015年に来たときは気が付かなかった。
上がってみた。
12:43
展望デッキからJR駅と山陽姫路駅を結ぶ「連絡デッキ」も設置された。
両デッキは姫路市が約15億円かけて整備したらしい。
デッキの上からお城を見る
桜門橋まで1.1キロ、15分だから姫路城まで行けないこともないが、だいたい想像できたので帰ることにした。
12:46
姫路駅南口
飛鳥の送迎バスが止まっていたので乗り込んだ。
赤穂のパンフレットなど見ていたら姫路城に行っていたIさん、Kさんが乗って来た。
13:00発だから13:30までの美味しいランチブッフェに間に合うかもしれないと思っていたが、飾磨4号岸壁についたら、姫路の観光業者の人々がテントで出店していて、土産物など見ていたら13:30を過ぎてしまった。
それでも船内11階に上がり、ビーフハンバーガー、ピザ、フルーツ、ケーキなどを食べた。
夕刻、飛鳥は高知に向けて出港、夜は姫路から乗りこんできた前川清のショーがあった。
(続く)
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