2025年7月8日火曜日

豊島園の跡と練馬城の丘

 6月22日、西武池袋線大泉学園駅から南の牧野富太郎記念館を見たあと、そのまま歩いて石神井公園に来て石神井城址を見た。(前のブログ)

この城は豊島氏の居城の一つだったが、1477年太田道灌に攻められ落城、廃城となった。
当時、豊島氏は練馬城、平塚城(北区上中里)も持っていた。
その練馬城に行ってみる。

石神井城址の西武線・石神井公園駅から池袋行きの各駅停車で練馬高野台、富士見台、中村橋、と3駅挟んで練馬駅についた。8分、4.6kmというのは、二つの城の距離のヒントになる。

練馬城のある豊島園駅は練馬駅で乗り換え一駅。
電車の本数が少なく、若いころだったら歩いてしまっただろうが、ベンチに座ってぼんやり待った。
ようやく、池袋から豊島園行き電車が到着。
2025₋06₋22 12:09
電車がハリーポッターである。
中は若者ばかり。
そうか、豊島園廃園のあと、ハリーポッターのテーマパークができたのだった。
12:14
豊島園駅到着
ロンドンの町を模したのか、赤い電話ボックスまで置いてある。
覗いたら「この電話は使えません」と書いてあった。
(ロンドンではなくてホグズミート駅らしい)

駅から出ると人々はみなまっすぐ歩いていく。
12:15
駅前広場か公園入口か

広場の案内地図をみれば一帯は練馬城址公園というらしい。
しかし奇妙である。
駅名には残っている「豊島園」の文字はいっさいない。
代わりに以前は誰も気づかなかった「練馬城址」の文字。
南東(現在地)と北西の隅のだけが小さく赤色、それが赤い糸で結ばれている。
北のほうに「スタジオツアー東京」。
それを含め「練馬城址公園」は真っ白である。
12:17
フェンスが張り巡らされ、地図の赤色部分以外は立入禁止になっている。
豊島園の跡地は入れない。

申し訳程度に小さく、豊島園の記念展示があった。
12:18
ジェットコースター「サイクロン」のレールの一部。
横に「この土地の歴史と思い出」というパネル。

「この土地の歴史」は室町時代から始まる。
「この場所には、中世に石神井川沿いに勢力を広げた豊島氏が石神井城の支城として築いた練馬城がありました。練馬城は1477年に扇ガ谷上杉氏の重臣太田道灌に攻められ落城しました。」

その後は雑木林か畑か、何の歴史もなかったのか、次は中世から一気に500年近く飛んで大正時代。 樺太工業(のちの王子製紙)専務であった藤田好三郎が1916年(大正6年) 自身の静養地として、石神井川南側の高台12,000坪を入手。さらに北側などを買い足したが、個人で独占するのはやめて景勝地として一般開放することにした。1926年「練馬城址 豊島園」として部分開園している。

ところで、藤田好三郎は名前だけよく知っている。
家の近所に東京都指定名勝・安田楠雄邸がある。千駄木駅への途中にあり、13年前から見続け、いま週に3日は立派な門前を過ぎるが一度も入ったことがない。この家こそ藤田が1919~1920年に本邸(自宅)として建てたもの。しかし関東大震災(1923)のあと藤田は中野に転居し、同年日本橋小網町の自宅を焼失した安田善四郎(安田財閥創業者・善次郎の女婿)が、藤田邸を“居抜き”で購入し、その後は安田家の邸宅として受け継がれた。

さて、豊島園は1931年 競売にかけられ、この後、経営者が転々とする。
1941年武蔵野鉄道(のちの西武)のものとなる。戦後は回転木馬やサイクロンなどが設置され、人気を博した。

豊島園は一度だけ来た。
就職して2年目の1982年10月3日、会社の運動会だったが、グラウンドだけ借りて遊園地で遊んだわけではないので、何の記憶もない。(その前年の運動会は井の頭公園の近くの日産グラウンドだったが、埼玉戸田事業所の自社グラウンドをなぜ使わなかったか不明)
12:20
石神井川を渡る

しかし豊島園は2020年閉園した。
向ケ丘遊園、横浜ドリームランドとおなじく経営不振だった。(2019,2020は黒字だったものの2018年は赤字で、薄利が続き、遊具の老朽化も顕著であった)
さらに大きな理由があった。
以前から東京都の防災避難公園化の都市計画があり、2011年の東日本大震災で具体化、西武に対して土地買収の交渉を始めた。2019年にワーナー・ブラザースが交渉に加わり、ハリー・ポッターのテーマパーク建設案も浮上し、西武は東京都からの土地買収および閉園要請の回答期限が2020年度であったことなどから、同年8月末で閉園した。
最初に見た真っ白で何もない「練馬城址公園」の地図の意味はこれだった。

石神井川の橋を渡るとハリポタテーマパーク。中国人観光客も多い。
12:21
Warner Bros Studio Tour Tokyo
The Making of Harry Potter
なるほど、テーマパークのことをスタジオ・ツアーというのか。
The Makingは製作過程という意味か。

子どもたちが小さいころ、英語の勉強をさせるために学会出張のたびにビデオや本を買ってきた。ハリーポッターもよく買ったが、私は見なかった。長女はよく見ていたが下の二人はどうだったか記憶にない。

ところで、ここに来た目的の練馬城に行きたい。
石神井川の南の丘にあるはずだが、渡る橋がない。というか、橋はいくつもあるが、すべてフェンスでふさがっていて、どこまで行っても川を渡れない。
12:23
延々と続く石神井川沿いの道
右は倉庫のように大きいハリポタスタジオの壁。
この道は例の地図の赤い線(現在入場できる公園部分)に当たる。

結局諦めて入口まで戻り、いったん公園から出て外から練馬城への入口を探すことにした。
12:40
南側の住宅地にまわっても豊島園側はフェンスが延々と続く。
閉園して5年、東京都はいつまでこの状態を続けるのだろう。何かを作るわけではないのだから、遊園地のアトラクションの危険なものだけ撤去すれば、立入禁止のフェンスはもっと小さくて済むのではないか?

12:46
とうとう南西の隅まで来てしまった。
フェンスに切れ目はなかった。

石神井城のとき少し触れた豊島氏のことを書いておこう。
室町時代の15世紀、1455年、第5代鎌倉公方・足利成氏が関東管領・上杉憲忠を暗殺した事に端を発し、室町幕府と結んだ山内上杉家・扇谷上杉家が、足利成氏と争い、戦乱は関東一円に拡大。足利成氏は下総古河に移り古河公方と称された。
ほぼ利根川を境に東は古河公方、西は上杉方が支配し、乱は28年も続いた。

上杉方は扇谷上杉家家宰の太田道真・道灌父子に岩槻城、河越城、江戸城を築かせた。江戸城は豊島氏の本拠の石神井城に近く、その後、豊島氏と太田氏が対立するようになっていく。
さらに1476年上杉家有力家臣の長尾景春が関東管領家の執事(家宰)になれなかった不満のため、上杉家に反旗を翻し鉢形城にて挙兵した。豊島氏は景春に加担して上杉家と対立した。
1477年4月13日、上杉方の太田道灌が江戸城を出発し、練馬城に矢を撃ち込むとともに周辺に放火した。これをみた練馬城主の豊島泰明は、石神井城にいる兄の豊島泰経に連絡を取り全軍で出撃。道灌もこれを引き返して迎え撃ったため、両者は江古田原・沼袋原でぶつかった。戦いの結果、豊島方は泰明ほか数十名が討ち死にし、生き残った泰経と兵は石神井城へと敗走した。
しかし4月21日には石神井城も落城、豊島泰経は王子の平塚城を経て足立方面に逃亡、武蔵東部の名族豊島氏は滅んだ。
12:53
坂を下り石神井川をわたり旧豊島園の北西まできた。
ここが「練馬城址公園」の唯一公開部分である。
皮肉にも城ではなかったところが公開されている。
むこうにハリポタスタジオがみえた。
疲れたけれど、現状はどうやっても練馬城址に行けないということだけは分かった。

石神井川に沿って練馬駅まで歩いたほうが近いけれど、地形を見るため来た道を戻った。
13:03
左(北)が豊島園址。
道の先に谷が見える。
このあたりは右(南)から川が石神井川に流れ込み、いくつかの浸食谷があったようだ。
練馬城はそれらを東西の濠とし、北の石神井川と合わせて3方の守りとした。

13:05
練馬城の南側は平たん、現在は大きな住宅が並ぶ。
当時はこちらに大手門が開いていたのだろう。

さらに東に戻ると、再び谷になった。
坂はどんぶり坂という。
13:06
左:区立向山庭園、右:どんぶり坂。
先ほどの谷と合わせ、練馬城の堀としたのだろう。
区立庭園には池もあり、豊島園址に入れない現在、これが唯一練馬城を思わせる景色かもしれない。


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