2026年5月12日火曜日

備中高松城、水攻めと中国大返しの現場にて

 4月22日、早朝岡山についた後、備中高梁の松山城を見て、午後からはレンタサイクルで総社宮、備中国分寺や巨大古墳をめぐり、備中高松まで来たが、時間的に余裕があった(と思った)ので岡山平野の端ともいえる足守までいった。

そして足守藩陣屋から備中高松城までひたすらママチャリ自転車をこいで戻ってきた。
いま地図と写真の撮影時刻をみると6.5kmを25分で戻ってきたようだ。しかし、往復プラス見物で1時間15分かかっていた。
その結果、高松城跡についたときは自転車を返却する17時まであと1時間くらいしかなかった。しかも返却場所はずっと先の備前一宮である。ところが、この時、そういう計算はまったくしなかった。疲れていたのか頭が働かなかったのかもしれない。
15:47
到着した駐車場には何本もの幟が立っている。
しかし、その文言がなんと、「高松城水攻め」である。これはないだろう。
確かに秀吉側から見ればそうかもしれないが、ここの城主は清水宗治である。「難攻不落・高松城」とか「籠城50日、天下の名城」あるいは「悲劇の名将・清水宗治」などといった文言にするべきだろう。

天正10年3月(1582)、秀吉は毛利と対決するため姫路から2万の軍勢を率いて出陣、岡山の宇喜多軍1万と合流した。
ちなみに、宇喜多直家は備中兵乱で毛利と同盟し備中松山の三村氏を滅ぼし備前岡山を手に入れた。しかし、その後信長についた。天正9年に直家が病没したとき、嫡男・秀家は11歳で、宇喜多の家は秀家の叔父、宇喜多忠家らの集団指導体制だった。(のちに秀家は秀吉の養女・豪姫の娘婿となり、秀吉一門として扱われた)

4月15日、秀吉は毛利の東の防衛ラインである境目七城の主力・備中高松城を包囲し、城を見下ろすことができる竜王山(北方の最上稲荷の山)に布陣した。
高松城にこもる兵は3,000ほどであったが、周りが沼であったため秀吉の大軍も攻められず膠着状態となった。秀吉は城を渡せば備中、備後を与えるという信長の誓紙を送ったが、「中国者の律儀」と言われるほど義理に篤い毛利に対し、残虐かつ平気で裏切る信長は信用ならず、宗治は拒否した。

5月1日、秀吉は水攻めを決定し、8日、足守川の水をひくべく堤防を作り始め、また陣もその近く、南東の石井山に移動した。土の俵を一つ運んでくれば銭百文と米一升与えるという破格の条件を出すと、うわさを聞いて近隣から百姓・町民、老婆・子供まで競うように集まってきて、堤防はわずか12日で完成してしまった。

いっぽう、救援要請を受けた毛利方は5万の大軍を送った。この数字は1万とも8万ともいわれ幅があるが、輝元を総大将に毛利の両川といわれる叔父の吉川元春、小早川隆景も出陣したから毛利の総軍といってよい。

犬を連れて散歩中のご婦人二人の横に、中に入れる円形ジオラマのような水攻め図案内盤があった。
15:49
高松城をめぐる両軍の布陣
北に津田与左衛門、加藤清正、西に吉川元春、小早川隆景、南東に大鳥居、羽柴秀吉の陣がレリーフになっている。
毛利軍が来たときはすでに堤防が完成し、高松城の周りは湖になっていた。
とても城跡には見えない。
水田跡を利用した花菖蒲公園といわれても納得する。
15:50
備中高松城址資料館
入場無料だが15:00まで
15:51
毛利軍が手を出せなかったのは、毛利水軍として活躍した瀬戸内の来島村上氏などが秀吉の調略によって離反し、兵糧の輸送が困難だったからと言われる。また水に浮かぶ高松城に物資を救援しようにもその船が手に入らなかったらしい。

資料館の後ろのほうに二の丸跡という看板があった。
15:52
これを見てちょっと驚いた。
こんな城址があるだろうか。
今みてきた菖蒲園のような城址公園や資料館の場所は沼すなわち水の中であり、当時の二の丸はいま畑や道路になっている。駐車場は三の丸だったようだ。そして城地でも高さは沼とあまり変わらない。
15:54
本丸跡
かろうじて陸地である。

城らしい石垣や堀など遺構が全くないのに続日本100名城に選ばれているのは、その物語性によるとしか考えられない。たしかに歴史の上で重要な舞台になった。

5月15日、膠着状態にあった秀吉は安土の信長に援軍を乞う手紙を書いた。
17日、信長は家康の接待をしていた光秀に秀吉の応援に向かうよう命じる。光秀は出陣のため居城丹波亀山に向かった。
29日、信長も自ら大軍を率いて出陣するため本能寺に入り、軍勢の終結を待った。

織田勢の大軍が来ることを知った毛利方は危機感を募らせた。
さらには雨が続き、戦端を開いて戦っても、その間に城は水没してしまう。
毛利は、清水宗治と兵、その家族を救うため五国(備中・備後・美作・伯耆・出雲)割譲を申し出た。毛利領国の半分近い。ところが、秀吉は城主清水宗治の切腹も要求した。やがて来る信長への気配りである。
毛利方としては最後まで忠義を尽くしてくれる宗治を救うための五国割譲であるため、交渉は物別れに終わった。
しかし6月1日、それを聞いた宗治は毛利、城兵を救うため自刃することを決意する。翌2日、4日に自刃するという書状を秀吉に送った。

一方、京都では6月2日早朝、本能寺で信長が襲われる。
6月3日夜、その急報が秀吉の陣に届いた。そのあと光秀の毛利方への密使が秀吉方にとらえられた。秀吉はその事実を毛利方に漏れないようにする最大限の努力をする一方で、一刻も早い和睦を急ぐことになる。

4日正午、変化を悟られまいとする秀吉の見る前で、白装束の宗治は小舟に乗って水面に乗り出した。同乗者は僧になっていた実兄、介錯人ら4人である。秀吉方からも堀尾茂助の検使船が出て、贈り物である酒・肴を宗治の船に移し、堀尾が酌をして最後の宴が開かれた。宗治は舞を踊った後、船上で自害した。他3人も次々と自害を遂げた。
このあとすぐ秀吉は安国寺恵瓊を呼び、割譲を先の5か国から、備中・美作・伯耆の3か国に譲歩し、毛利方はこの条件を受け入れ、和睦が成立した。

駐車場から道を挟んで近くに高松山妙玄寺がある。周りは田んぼである。宗治自刃の地という絵が描かれた案内板が立っていた。旧二の丸の端であるが、すでに水没していたのだろう。
16:04
説明板を見れば慶長5年(1600)、高松知行所の領主・花房職之により花房家の菩提寺として建立されたという。(花房は宇喜多の家臣であったがのち離れ、関ヶ原のあと家康の旗本になった)
右の森はごうやぶ遺跡。

向こうの山は秀吉本陣の石井山である。
秀吉はじめ周りの山々の兵が見守る中、宗治は見事に自刃した。
ただ、毛利方の陣からは見えなかったようで、一人自刃するごとに上がる秀吉軍の鬨の声でそれを察したという。
16:04
清水宗治公自刃之址
妙玄寺境内にある。お墓のように見える。ただの石柱1本のほうが良い。
16:06
ごうやぶ遺跡
宗治を追って家臣が次々と自刃した場所という。
ちょっと不気味な場所だが、近くに行ってみた。
フジが何かの木にからまっていた。

宗治の首は秀吉の陣に送られ、船上の胴だけ本丸に戻ってきた。
それを埋めた塚が近くにあるらしいので行ってみた。
16:11
城内の者は皆嗚咽し、胴体は本丸の北にあった池の下丸、ここに手厚く葬られた。
船上で4人の介錯を行った国府市佑もここで自刃したという。
しかし、いまこの地は民家の庭先のようであった。
 花は新しかった。
宗治を慕うものにとっては、胴が埋められたといっても薄気味悪いものではない。


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