急に思い立って夜行高速バスにのり、翌4月22日朝、岡山に来た。倉敷に途中下車して30分だけ見物して備中高梁に来た。
目的は現存12天守の一つ、備中松山城を見ること。
8:20
備中高梁駅ホーム
高梁をタカハシと読むことは知っていても常に頭で梁の字を思い浮かべるため、ついタカハリと読んでしまう。
高梁はここしかないのに駅名に備中がつくのは、1926年の開業時、佐賀のほうの佐世保線に1923年開業の高橋駅があったからだろうか。
8:23
駅舎は2017年にできた駅ビルで、改札を出るとすぐ同じフロアに市立図書館、蔦屋書店、観光案内所がある。
8:27
ほうこくん神社という鳥居の下にマスコットキャラクターが
「山田方谷大河ドラマ化実現を!!」。
そう、ここは幕末の経世家、山田方谷がいたところである。
彼の名は知っていたが、まさか地元で大河ドラマ化の運動をしているとは知らなかった。
駅ビル(図書館)の1階部分がバスターミナルになっている。
山城である松山城まで3.0km、途中までバスがあるが、終点の登山口から1.7㎞は歩かねばならない。迷ったが駅から歩くことにした。
城見通りというらしいが、城山が正面に見えた。
標高430メートルの臥牛山(松山)である。
売り物件を過ぎると右に小さな地蔵堂があり、そこで川を渡ると、道はようやく左折、城のある西方に向かう。城見橋というが城は全く見えない。
城見橋のヘアピンカーブのところに係員が立っていた。奥のほうに「城まちステーション(登城整理バスのりば)」というものがある。車は上のふいご峠まで登れるが、その駐車場は狭く、また道路も1車線のため、混雑する休日はマイカーはここまで。あとはふいご峠までバスで行くらしい。
ここでトイレを借りるため二の丸から降りた。
8:30
高梁市役所
「祝全国優勝・岡山県選抜・主将・高梁市立落合小学校6年・佐々木太誠選手」という垂れ幕があった。
さて、高梁という地名。
もともと備中松山藩といったが、明治維新で久松氏の伊予松山藩が親藩・御家門 でありながら早くに薩長土肥に恭順したため、そちらの松山藩を残し、備中松山藩は高梁藩と改名させられた。
タカハシ藩だから本来は「高橋」藩だろうが、学問が盛んだった城下町では知識人たちが世俗で頻繁に使われる「橋」を嫌い「梁」をあてたらしい。
(鎌倉時代末期に備後三好氏の一族である高橋九郎左衛門宗康がここを支配したから、高橋という地名はそこから来たのかと思ったが、実際はその前から高橋と呼ばれていたらしい。ところが高橋氏が自分の名字を呼ばれるのを嫌い、松山と呼ばせたという。だから明治維新後のタカハシは松山の前に戻したことになる)
さて、明治4年の廃藩置県で高梁藩は高梁県となったがやがて統合され明治8年に岡山県となった。
・・・
高校生らしき若者が数人同じ方向に歩いていく。
彼らは細い道との交差点で車が来る気配すらなくても歩行者信号を守った。
眠ったような街で古い建物が残っている。
伯備線の踏切を渡ったところで大学生のような若者がいたので松山城への道をきいた。
この道をまっすぐ行けば、吉備国際大学があるからそれを越えるといったん下ってトンネルがあり、それをくぐって道なりに行けば着くという。
案内標識と同じなのでその通りに上っていく。
石垣の上は吉備国際大学・順正記念館(旧順正寮跡)
何だか知らないが、通過。
かつて流行のようにつけた各地の「国際大学」は生徒集めのために英語教育を重視して国際人を養成することを(ウソでも)標榜したが、いまや日本での就労・移民を目指す若者が多くなり「真」の「国際大学」になった。
8:42
再び紺屋川を渡り左岸に出る。少し行ってまた右岸にわたる。
8:45
吉備国際大学
ようやく人に会った。職員だろうか、女性二人が道路を掃きながら挨拶してくださった。
8:46
吉備国際大学は、のちに加計学園の総長となる加計勉(1923 - 2008)が、1967年、高梁市より要請と支援を受け、学校法人高梁学園(現・順正学園)を設立。順正短期大学の学長に就任したことに始まる。この短大を核に1990年、順正高等看護専門学校を併合して設立された。
しかし周りがすべて山、一番近い総社市でも電車で30分、その間に市街地がまったくないという孤立地。過疎地といってよく、人口も1950年から減り続け、周辺を大いに合併して広くなっても今、24,700人(2026年3月推計値)。
ここに大学を作ったのは、城下町という知識人の多さからだろうか。しかし生徒が集まるわけがなく留学生が多いらしい。高齢化率が県下15市中3番目に高いにもかかわらず(65歳以上が42%)、下宿する留学生の多さ(外国人割合が県内27市町村中 1位)から、19歳から23歳まで異常に突出したピークがある、見たこともない人口ピラミッドができている。
8:48
急な上り坂か続き、両側が大学キャンパス。
降りてくる大学教員らしき人々に挨拶されるのは上のほうに駐車場があるからだろう。やがて道は谷に下っていく。
トンネルをくぐるとまた別の谷、川沿いに出た。
8:54
市営高梁運動公園。野球場
大学駐車場のすぐ下だから大学の付属グラウンドだと思ったが違った。
大学の野球部員らしき若者がダイヤモンドをならしていた。授業前に練習したのだろうか。
グラウンドの向こうにトンネルが見えた。
せっかくここまで登ってきたのに下るのは悔しい。
坂を下り切ったところにバス停があった。
ここまでだいぶ体力を消耗し、バスに乗らなかったことを後悔した。
高梁高校などがある市街地から来る道に合流する。
ここで遠回りしたことに気が付いた。
おそらく道を教えてくれた大学生?は地元民ではなく、入学した時に大学から車で一度連れて行ってもらっただけなのかもしれない。
後悔先に立たず。
ここから再び上り坂。
ウグイスをはじめ鳥の声と、水の音だけ。
川は護岸だけでなく川底まで石をきれいに並べてある。水の音は、石の間を流れるせせらぎと、棚田に送る水路からあふれて落ちる水が作り出したもの。
老いてから、こんな縁のない初めての道をたった一人で歩いている。
人生とは何だろうと、ほんのちょっぴり考える。
9:06
それにしても条件の良くない山間部に、石垣とコンクリートで小さな棚田を作る工事の丁寧さと、その苦労を思う。
「備中松山城方面」という標識があるから間違ってはいないのだろうが、あとどのくらい歩くのだろう。
川に沿って東に歩き続け、今やお城から遠ざかっている。9:08
「売り物件」の看板
丁寧に使われているきれいな家である。周りの水田も美しい。軽井沢の林の中よりこういう里山と畑のあるところが好きだ。
9:10
田植えを待つ水田と売り物件
ちょうど車が一台上っていった。
係員が「今松本ナンバーの車が上がりました。あと何台空いていますか?」とふいご峠の駐車場だろう、そこへ電話で伝えていた。
ここから先は田畑なく、森林の山道となる。今度は南が谷になる。
9:12
「電気牧柵・きけん」
こういうものを見ると触ってみたくなる。動物に痛い目を合わせるだけで良いから電圧は低いかもしれない。
しかしネットの下のほうがめくれていて動物は簡単にくぐることができる。設置したまでは良かったが維持する人手がないのだろう。ちゃんと電気が来ているのかどうか。
過ぎてきた麓の庭先の畑も柵がしてあったから、二重に害獣を防ごうとしたようだ。
9:19
このあたりは電気柵がない。一部だけならやる意味がないではないか。
道はずっと一車線、かつ上の駐車場も狭いとなれば、マイカーを自由に上がらせたらUターンすらできず大混乱になるだろう。
・・・
道は再びヘアピンカーブがあってしばらく上ると鞴(ふいご)峠に到着。
係員が「いま浜松ナンバーと金沢ナンバーが来ました。あと空きは2台です」と下に電話している。
駐車場は無料で全部でスペースは14台分あった。東京の車はなかった。
これだけのために観光協会だか市の職員だか何人か1日張りつくのはご苦労なことである。車道など閉鎖して全員歩かせればいいのに。
備中松山城
上ってきた道をみた。
右側の端がトンネルを出たところの小高下谷川の谷で、そこまで紺屋川に沿ってずいぶん坂を上って最後は降りたが、それらは地図の範囲外である。そこから小高下谷川に沿って東にのぼって、次に西に転じて、再び東に転じ、ここふいご峠まで来た。駅から1時間以上、道を聞いた麓の踏切からでも50分も一人歩き続けた。
しかし見れば、ふもとからまっすぐ登山道が二本もあるではないか。
歩いてきた紺屋川沿いの道も、一時は近道だと思った小高下谷川沿いの道も、自動車のための道であり、歩くのならもっと近かった。
調査不足は大きな損失を招く。
まあ、気を取り直し、右手の天守閣までの道を最後の登りにつく。
やがて雑木林の山道から石段になっていく。
今まで麓から誰もいなかったのに、駐車場からは途端に観光客が増えた。
9:36
中世以来の山城と違って近世城郭のように石垣が立派である。
ここで人に追い抜かれた。
今までこのような道で追い越された記憶がない。
まあ、彼らは車で来たわけだから、と言い訳する。
石垣の台は中太鼓の丸。
山頂の天守と麓の政庁の間の連絡には太鼓を鳴らしたらしい。
ここは2つあった中継点の一つ。
9:37
中太鼓の丸跡から高梁市内をみる。
ずいぶん上ってきたものだ。
山中に石垣がだんだん増えてくる。
9:41
「登場心得 よくぞまいられた 城主」
ここまでは「あわてずゆっくり歩むべし」「この辺りがちょうど中間地点である しばし休まれよ」などというものだったが、ついに大手門の下に到着。
9:42
ここに大手門があった。
石垣の一部に自然の巨岩が使われている。
9:43
この広い通路は山城とは思えない。
9:43
備中松山は江戸時代の天守が残っていることで有名だが、私にはこの石垣の見事さ、保存状態のよさのほうが嬉しい。
9:45
三の丸から二の丸に上がる。9:46
二の丸
日本で12しか残っていない天守閣の一つが見えた。
9:47
本丸への登り口に五の平櫓と六の平櫓が並ぶ。
そこに入場口があり、500円。
ここまではるばる来て中に入らないのは私くらいかもしれない。
天守こそ価値があるとされる現存12天守のうち国宝の松本、彦根、犬山、姫路は入ってみたが、どこも同じように見えてしまい、高知、丸岡、弘前、丸亀は入っていない。むしろ博物館になっているコンクリートの熊本などは入る。城郭は堀と石垣の縄張りは素人でも面白いが、内部は木造建築の知識でもないと入る意味がない。
9:49
犬走の下から見る備中松山城天守
そのまま山を下りようかとも思ったが、二度とこないのは明らかなので再び戻った。
・・・
二の丸にあった案内板
松山城は鎌倉時代からあったようだが、戦国時代、三村氏の本拠地となった。三村家親は毛利氏を後ろ盾に備中全域を手中にしていたが、さらに美作、備前に侵攻して浦上・宇喜田氏と対立する。三村家親は宇喜田直家に暗殺され、跡を継いだ三村元親が大松山・小松山を範囲とする一大城塞を完成させた。
しかし毛利の山陽道担当の小早川隆景が宇喜田直家と同盟を結んだため(山陰担当の吉川元春は古参の三村をすて新参の宇喜田をとるのは不義であると反対)、三村元親は京・大阪まで進出していた信長についた。その結果1574年、毛利の兵8万を率いる小早川隆景、宇喜田直家に滅ぼされ、備中の大半は毛利領となり、南方の一部が宇喜多氏に与えられた。
秀吉が東の備中高松城を水攻めするのは、ずっとのちの1582年のことである。
ふいご峠売店でもらった歴代城主
江戸時代になると元和3年(1617年)、因幡鳥取藩6万石の池田長幸(輝政の甥)が加増され6万5,000石で入封し、立藩した。
その後、城主は水谷氏、安藤氏、石川氏と入れ替わり、1744年板倉勝澄が5万石で入封し、明治まで板倉氏が8代続いた。
10:01
犬走から奥(後曲輪)のほうに行ってみる。
10:02
後ろ曲輪から見る二重櫓。
天守閣の後ろ(北東)にある。
下城する。
二の丸から三の丸に降り、さらに大手門跡を出たあと郭の地図があった。
10:08
このあたりで大河ドラマ真田丸のオープニングに使う映像が撮られたという。CGを駆使するとはいえ、元となる映像がなくてはならない。ここは市街地の城と違って石垣だけは昔のままであり、映像技術者が全国の城から選んだのだろう。
ちょうどハイキングのように上がってくる年配の女性が二人いて、すれ違うように細い山道をおりた。
作業員が3人、道を整備していた。
私に気が付くとだいぶ前から手を止めて私が通り過ぎるのを待っていてくれた。急いであいさつしながら通過すると、大きな音を立てエアー噴出機による落ち葉の吹き飛ばしを再開した。そうしないと道が滑るのだろう。
このあと下から落ち葉を吹き飛ばしながら上がってくる一人の作業員の男性に会った。
10:21
実際、私はこの後すぐ、大きく滑って股裂きになり手をついた。
幸い股の筋(すじ)が切れることもなく、けがもしなかったが危なかった。
10:23
大石内蔵助の腰掛石
1693年備中松山藩の水谷家が無嗣断絶で改易されたとき、城は播州赤穂浅野氏の預かりとなり、次の藩主家が決まるまでの1年半、家老の大石良雄が松山城を在番管理した。江戸城松の廊下刃傷沙汰の7年前である。
10:26
それほど古くはないのに小屋が朽ちている。石垣しか残らないはずだ。
このあたり臥牛山国有林で、高梁市長が平成11年から5年間、3.88平米だけ休憩所敷として借りるという札が貼りついていた。
上下から作業する彼らが出会うのは何時だろう、と長い登山道を思う。
ふいご峠から作業員以外誰にも会わず、山道を駆け降りるように麓に到着した。
平地に降りたところに「備中松山城登城口」の看板があった。
「天守まで1500メートル ふいご峠(8合目)まで800メートル」
とある。延々と車道を歩かず、ここから登ればよかったのである。
と思ったが、大手門跡から下り坂を一気に降りて30分かかったから、やっぱりこちらを登っても1時間近くかかるのかもしれない。
本丸まで往復2時間ということになる。
連絡太鼓が必要なはずだ。
いっぱんに山城は、居城としては非常に不便である。
上り下りが大変だし生活水の確保、物資の運搬も難儀だろう。
とうぜん彼らも麓の平地に館をもった。山城は攻められたときに籠城するか、あるいは重要地点を見張るための砦のようなものであっただろう。
それが戦国時代末期になると多数の小領主たちの興亡の末に少数の戦国大名が生き残り、彼らは領国経営が便利なように平地に巨大な居城を作った。防御のための峻険な坂は広大な堀に代わり、山城のほとんどは無用のものとなった。もともと山城は大がかかりな石垣や水堀があったわけではないから、簡単に山林に同化して消えてしまった。
ところが備中松山城は山城としては拡張を重ねた大規模なもので近世城郭に十分匹敵し、備中の5~6万石を治めた松山藩は、この大きな山城を本拠地とした。もっとも藩主らの住まい、領国経営の政庁は麓に置いた。それでも城番が毎日つめ、きちんと管理したのだろう。その結果、山城でありながら往時の姿を今に残している。
明治6年、廃城令が公布され、松山城は新政府によって7円 (現在の約5万円)で商家に売却された。しかし幸か不幸かあまりにも不便な場所にあることから平城のように転用されることはなく、資材の搬出もなく、ただ放置された。
しかし荒廃が進み、崩壊、一部倒壊した。昭和初期、修復の機運が高まり、1930年から10年かけて工事が進められ、二重櫓・天守の順で修理が行われた。こうして残ったのが全国現存12天守の一つであり、また日本百名城のひとつである。
(続く)
次は板倉勝静、山田方谷、三島中州と高梁の町について書く。








































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