2026年4月27日月曜日

高速バスで岡山、倉敷へ

4月20日、月曜の夜、何気なく高速バス予約サイトで気になっていた岡山行きを見てみた。
なんと翌日の火曜、水曜が片道 3,700円だった。
翌週のゴールデンウィークになると13,000~17,500円。 
5月、6月のウィークデーは5,000~5,500円、休日前日は7,000~8,000円とあるから、これが通常の相場で、3,700円は直前のダンピングなのだろう。
ちなみに新幹線は片道 17,770円である。

行くことにした。
もちろん用事はない。
22時過ぎにバスを予約。明日は岡山に行くから帰らない、と妻に言うとあきれられた。

翌4月21日、湯島で仕事をしたあと、明日休ませてください、と社長に言う。
夕方、御徒町から電車に乗って、
19:00から大宮でダンスのレッスンを受け、少し練習。
20:45の湘南新宿ラインに飛び乗り、赤羽で急いで埼京線に乗り換え新宿駅着が21:16。
21:35 バスタ新宿発
翌朝22日
06:25 岡山駅西口着
6:27
初めての岡山。
思ったより近代的な景色。
6:28
東西連絡通路の西口

岡山市内の観光は後回し、夕方することして、まず備中松山城のある内陸の高梁に行くことにした。
6:30
岡山駅(在来線)改札口

当初の予定ではバスが6:35着なので、7:05発の特急「やくも」に乗るつもりだった。
しかし早く着いたので前の電車があるかもしれない。ところが突然岡山に来たので準備不足、どこ行きに乗ったらいいか分からない。料金表を見上げて新見行きに乗ればいいことが分かった。ちょうど伯備線、新見行き、6:38があった。
岡山の新見って、どこかで聞いたことがある。息子が子供のころ(そして私も)読んだ「バッテリー」の舞台かと思ったが、それは「岡山県新田市」で、作者あさのあつこの出身も新見でなく美作市だった。

伯備線というのは倉敷と山陰の伯耆大山をむすぶ路線だが、列車はすべて山陽本線に乗り入れ岡山発着になっている。
電車は座れたが通勤通学客で満員。

電車は倉敷に止まった。
そうか、ここが倉敷かと、ぼーっとしていたが、突然、降りてみようと思った。もう二度と来ないのは明らかだから。
発車直前に「すみません、すみません」と人をかき分けホームに降りた。
6:57
倉敷駅南口
降りたものの行く当てはない。
とりあえず美観地区でもいってみるか。
6:59
倉敷駅南口をふりかえる。

7:01

7:01
倉敷というのは意外と内陸である。
駅前通りは広いが、空襲には合わなかった。
三菱重工・水島航空機製作所のあった海側の水島地区は爆撃されたが市の中心部は免れ、それが美観地区などになっている。
7:06
阿知二丁目広場から横道を覗くと、古い町並みがあったので入っていった。
7:06
古い家の割合がどんどん高くなっていく。
7:07
この時間、観光客はいないが通勤途中などの生活者もいない。
散歩でもしているような人とゴミ収集車がいた。
7:07
驚くのはどこを歩いてもこういう景色だということだ。

倉敷というとこの街並みが有名だが、倉敷市というのは1967年に 倉敷市(初代)と瀬戸大橋のある児島市、かつての港町である玉島市が合併してできた。市内には水島コンビナートもある。人口は47万、中国地方では広島、岡山に次いで3位という、この蔵の並ぶ景色とは別の顔も持つ。
7:08
車の通らない路地をはいる。
7:08
老婦人が箒で道を掃いていた。
「美観地区」という普通名詞が地域名になっていて変だな、と思っていた。しかしこの街並みを見ると何も文句が言えない。
7:10
この重厚な屋敷や蔵が豊かに並ぶのはなぜだろう?
保存の努力は特筆すべきだが、それ以前のもともとの建物群が素晴らしい。
倉敷は江戸時代、年貢の比較的少ない天領だったが、天領など全国各地にあるから理由にならない。

倉敷旧市街は、高梁川と児島湾を結ぶ運河として倉敷川が作られ内陸の港町になった。(高梁川は県下最大の流域面積をほこる大河で、また瀬戸内に面する児島湾は干拓する前、鷲羽山の裏まで深く内陸に入り込んでいた)。そして天領だけでなく備中の年貢米の集積地として栄え、倉敷代官所は商人たちの自治を認め優遇したことで人口も増加した。これらの蔵屋敷はそれらの名残だという。
7:10
レストランは外国人向けの看板を出している。
昼になったらうるさい観光地になるのだろうか。

7:11
大原美術館
エル・グレコ「受胎告知」で有名である。
200点ほどあるといわれるモネの「睡蓮」の一つもあり、ジヴェルニーの池から株分けされたスイレンも育っているらしい。

昭和5年(1930)に建てられた日本最初の西洋美術館という。
倉敷の実業家大原孫三郎(1880–1943)が、パトロンとして援助していた洋画家児島虎次郎(岡山高梁市出身1881–1929)に託して美術品を収集し、児島の死(47歳)を悲しみ、翌年開館したという。
ニューヨーク近代美術館の開館が1929年であったことを考えれば、大原の開館は特筆すべきだが、発足当初は一日の来館者ゼロという日もあったらしい。
7:11
堀のような倉敷川。
このあたり旅行雑誌でよく見る。
どうせこの写真のスポットだけだろうと思っていたが、来て見てびっくり。かなり広い範囲が蔵の並ぶ街になっている。
川越、栃木、佐原など、古い町並みが残り小京都などと言われるが、規模といい景観といいレベルが違う。

7:11
国指定重要文化財 大原家住宅
大原家は江戸時代の庄屋であり、明治時代には800町歩を有する大地主であった。
明治になって倉敷紡績(クラボウ)を設立し、大原孫三郎はその二代目である。

トンネルのある小さな丘がみえたので倉敷川を渡る。
どこを見ても重厚な建物。
まさに美観地区である。
7:13
左:倉敷市倉敷公民館、右:大原美術館 児島虎次郎記念館
虎次郎記念館は大正11年(1922)に第一合同銀行倉敷支店として作られ、2016年まで中国銀行倉敷本町出張所となり、その後大原美術館に寄贈されリノベーションした。
7:13
公民館は戦前の建物を転用したものかと思ったら、1969年築。図書館併設の倉敷文化センターとして建てたものらしい。

鶴形山という丘の石段にあがってみる。
頂上に倉敷総鎮守の阿知神社があるらしいが、神社でなくお寺だった。
7:15
別格本山 観龍寺
7:15
お寺の山門前から大原美術館方面をみる。
時間もないので頂上の阿知神社はあきらめ、石段をおりた。
7:18
白鳥がいた。
倉敷はこの日の目的地でないので急いで駅に戻る。
駅まで続くアーケードがあった。
7:21
当然美観地区だけでは市民の生活は成り立たない。
パチンコ屋や飲み屋街があるかと思ったが、どこまで行ってもお行儀のよい商店街である。
というか、やはり観光客相手の店だろうか。
7:22
途中、右手の鶴形山、阿知神社への参道石段があったが、行かず。

7:30、駅まで戻ってきたら倉敷の鳥瞰イラストがあった。真上からみた1963年と2005年の美観地区を描いている。倉敷を知っている人にはとても価値あるものだと思う。
7:31
1963年 
2005年 
JR倉敷駅(いまは橋上駅に)、倉敷西小学校・市役所(いまは市立美術館、博物館に)、倉敷紡績倉庫(いまは倉敷アイビースクエアに)などの変遷が分かる。

わずか33分の倉敷散歩だったが、美観地区の豊かな蔵屋敷の保存状態、集積状態に驚いた。
それよりもっと驚いたことは、有名な倉敷アイビースクエアの存在を忘れていて、私の歩いた範囲は、美観地区の入り口付近、わずか4分の1くらいに過ぎないことだった。

気まぐれで途中下車してよかった。
予定より遅れたが(もともと予定などないが)、倉敷 7:43発、新見行きに乗って備中高梁に向かった。

(続く)

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