8月末からの長雨が終わり、10月4日、御殿場線に乗って沼津にきた。
10:10 駅に到着
10:22 駅前でレンタサイクル(沼津、三島を中心とするハレノヒサイクル)を借りる。10:47 千本松原に到着
11:25
下の川は狩野川
谷中千駄木のよみせ通りにこの名前の料理屋があったが、入る前に閉店した。
港大橋を渡ってすぐ右折、南に自転車を向ける。
だいぶ走って真っすぐな道が左にカーブすると橋があった。
11:35
牛臥山公園
左の森が、公園名になった牛臥山。
この公園に沼津市立芹沢光治良記念館があるらしいが、知らないので行かず。
水門の上の櫓は水門扉を上げ下げする巻き上げウィンチなどが入る機械室らしい。
11:35牛臥海岸のむこうに伊豆の山が見える。左の堤防の松林あたりが旧沼津御用邸である。松林の中の細い道を行ったが、結局行きどまりで広い道に戻った。混んでいる国道414号を南下して右折すると沼津御用邸記念公園に到着。
11:45
沼津御用邸 本邸正門
守衛所が二つあるが一つでよくないか?
中を見ると椅子はなかった。
ここは公園入り口ではなく、奥の西付属邸のほうにいく。
11:47
西付属邸正門
ここが公園入り口になっている。
11:48
西付属邸の建物内も入れる観覧券は600円
散策のみの入園券は300円
園内を歩くだけにした。
沼津御用邸は明治26年(1893)、病弱だった皇太子嘉仁親王(のちの大正天皇)の静養先として造営された。東海道線開通の4年後である。その後、明治36年赤坂離宮の東宮大夫官舎を移築、学問所とした(現・東附属邸)。
さらに明治38年(1905)、西隣の川村純義伯爵の別荘を買上げ、御用邸とした(現・西附属邸)。
11:50
西付属邸御殿
11:50
川村は薩摩出身、明治初期の海軍草創期に指導的立場で活躍した。西南戦争で薩摩出身者が多く下野する中、大久保利通とともに政府側に残り、戦後、海軍卿に就任した。
明治天皇の信任が篤く、1901年に誕生した孫の裕仁親王(のちの昭和天皇)の教育主任となり、ここ沼津の川村家別邸で3年4か月皇孫を養育した(秩父宮も育てた)。そのままそれが西御用邸になったわけだ。明治時代、周辺には大山巌、大木喬任、西郷従道など元勲の別荘も存在していた。
ちなみに川村の長女・常子は樺山資紀の長男樺山愛輔に嫁ぎ、その二女が白洲正子である。
20190713 染井霊園4藤堂、樺山、山内恭彦
1945年7月 の沼津大空襲で本邸が焼失したため、戦後はこの西付属邸が皇族の滞在に利用された。
しかし1969年、御用邸は廃止され沼津市に移管される。そして翌1970年(昭和45年)、残された東付属邸と西付属邸の建物を中心に、周囲の緑地とともに、沼津御用邸記念公園としてオープンした。
11:51
湯沸かし所
独立した建物というのは、大釜があって薪を焚いていたのだろうか。
小学校の時、冬の雑巾がけに用務員さんが大きな釜から大きなひしゃくで熱湯を一杯ずつ各クラスが持ってくるバケツに湯を入れてくれた。
11:52
橋を渡って西御用邸から本邸区域に入る。
下が涸川になっている。
11:53
喫茶「主馬」
主馬(しゅめ)というのは、奈良時代に馬の管理、飼育のために置かれた機関「主馬寮」の略で、明治後の宮内省にも置かれた。現在は宮内庁車馬課主馬班となっている。
御用邸本邸の東のほうに馬場があり、ここは馬小屋だったようだ。
11:54
閉まっている門があった。
最初に見た本邸の正門。
11:55
沼津御用邸本邸は病弱だった大正天皇(当時皇太子)の静養のために作られたものだが、温暖、風光明媚であったこともあり、その後代々の皇族のための非常に利用頻度の高い保養所となった。
11:55
沼津市歴史民俗資料館
空襲で本邸が焼失した跡地にできた。
11:59
沼津市の資料館だが、御用邸でもなく沼津城でもなく、漁業関連の資料が中心だった。
名前通り「民俗」資料館である。
12:00
沼津はアジの干物生産量日本一というが、これが市町村単位なのか、漁協単位なのか分からない。沼津は思ったより南の伊豆半島西岸まで広がっていて、我入道地区、内浦・静浦(江浦湾)地区、戸田地区と漁港が多い。
西の清水がマグロなど遠洋漁業の基地であるのに対し、沼津は駿河湾を最大限に利用した沿岸・近海漁業、養殖、深海魚が中心である。その分、地元の歴史的な資料が多い。
12:01
昭和天皇の写真もあった。
資料館を出ると藤棚があった。
12:05
散策路の上がずっと藤棚になっている。
12:07
古墳のような防空壕防空壕は1941年、開戦前に作られた。
東付属邸地区は行かずに西地区に戻り、外に出た。
12:12
本邸正門前のレンタサイクル
スマホで開錠しようとしたら、現在地がわからないというメッセージが出た。
初めてのアプリで借りたレンタサイクルは順調であったが、最も離れた場所でまさかのトラブル。
焦りながら何度かやったら開いた。
御用邸記念公園を出ると、まっすぐな国道414号をひたすら市の中心部に向かってこぎ続けた。
道は平たんであったが、電動自転車でだいぶ体力の消耗を防げたと思う。
・・・・
大正天皇は病弱だった。
難産で生まれ誕生直後に髄膜炎を患ったせいか、あるいは遺伝子のせいか分からないが、心身ともに不調であった。当然学習院も休みがちで勉学は遅れた。
しかし九条節子と結婚して病状も回復してから、全国各地に行啓旅行に出かけた。また東大のレントゲン装置も見学に来た。
これらのことを日本薬学会の会報誌「ファルマシア」の連載コラム「薬学昔々」に書いたことがある。
| 32 | 大正天皇・皇太子時代の東北行啓1 | 1908 (41) | 皇太子行啓に先立ち、自治体関係者は大騒ぎ。薬学者を呼んで、飲み水、食料の徹底検査。乳牛は1000頭から選抜。 | 2008年11 |
| 33 | 大正天皇・皇太子時代の東北行啓2 | 1908 (41) | 行啓の沿道、宿泊所などの消毒、清掃。住民、関係者の健康診断。地域の商品もとばっちりで衛生検査を受ける。 | 2008年12 |
| 108 | エックス線と大正天皇 | 1898 (31) | X線発見の2年後、19歳の殿下は理科大学へ行啓。頭蓋骨に弾丸を入れた箱、鯛、小童2人の胸部の透視像を見学。 |
その第108話で次のように書いた。
大正天皇は頭がおかしかったという話がある。
議会で詔勅を読んだ後、くるくると巻いて望遠鏡のように議員席を見渡したという。しかしこれが真であったとしても愚昧であることの理由になるか? 帝国議会など恐るるに足らず、皇太子時代の全国行啓中、きさくに庶民に話しかけるような人柄であるなら、当然ありうる行動だ。
生まれつき病弱で、学業、運動とも発達は健全でなかった。しかし漢詩1367首、和歌456首をつくり、朝鮮語も学んだとなれば、知能は十分あっただろう。
原稿ではこのあと、東大で自分の手をX線にかざしてみたり、非常に興味深く見学されたことを書いた。
すなわち「大正天皇は頭がおかしかったという噂話」を否定する文章だったのに、編集部は冒頭の一文だけで「不敬にあたる」として書き直しを命じてきた。しかしどう読んでも大正天皇を世間の評判より良く書いたつもりだったから、書き直しを拒否して、記事そのものを撤回した。
その時の編集委員会(20人近くのメール会議)の各委員の発言の様子が親切にも送られてきた。私を擁護するのが3人くらい、しっかり反対するのが3人、残りは強硬に反対する人に従うような意味のない意見だった。それらを読んで、その後一切書くのをやめ、毎月9年間、107本書いていた連載をやめたことを思い出した。
このブログは自分としては楽しいが自由に書けるからファルマシアの時より問題ある記事はいっぱいあるだろう。
ちなみに大正15年(1926)12月、崩御した葉山御用邸も沼津の翌年(1894)、大正天皇の静養のために造営されたものである。



























0 件のコメント:
コメントを投稿