2026年9月28日月曜日

利己的な遺伝子(続)脳と宗教

前のブログで個体(我々の本体)は遺伝子の乗り物にすぎず、遺伝子こそが永続を目的としている生命(種)の本質であることを書いた。

今読み返すと言葉足らずだったので書き足しておく。

自然界では生存競争に勝つ個体が生き残り、子孫を残す(自然淘汰)。それが進化につながる。しかし自然界にはグループ全体に奉仕する個体が多くいる。たとえば仲間に危険を知らせる鳥とか、群全体に奉仕するミツバチなどの存在である。こうした奉仕、自己犠牲する個体は生存競争に劣るのになぜ存在するか?

そこでコンラート・ローレンツは群同士の競争を考え、自己犠牲の個体を含む群が競争に勝ち、群こそ自然淘汰の単位とした。
(ローレンツは1973年動物行動学、社会生物学でノーベル生理学賞を受賞し、日本でも多くの著書が出版された。1975年に大学に入ったわれわれもそれらを読み、教養、薬学時代を通して友人だった成田恵一氏は動物行動学から生態学をやりたいと言って、対象のスケールの点で薬学と全く正反対のエコロジーに興味を持ち、留学して文筆業に進んでしまった。)

群選択は自己犠牲のある動物行動をうまく説明したが、少し問題があった。それは仲間に危険を知らせる鳥と、黙っている鳥がいた場合、黙っている鳥のほうが子孫を残し、群全体では自己犠牲する鳥がどんどん減っていってしまい、群全体の競争力が減ってしまうことである。

そこで、ドーキンスは自己犠牲は肉親のためであるとし、兄弟、子供が残れば自己の遺伝子コピーを守れるとした。すなわち自然淘汰の単位が群ではなく遺伝子としたのである。

先日99歳で亡くなった妻の母が、娘や孫をかわいがり、また用が済んだとしてこの世から退場したのもすべて遺伝子のなせる業である。
2026-09-22
終了したスイカネットに落花生が登っている。

人間、肉体、個人は永続していく遺伝子の乗り物、外套であり、遺伝子の表現型にすぎない。

ところが、現実世界では目に見えない遺伝子より個体、個人のほうが重要である。
葬式ではそれがはっきりする。

今回、9月の100歳と99歳の葬儀の読経中に思ったのは、なぜ、ヒトでは遺伝子より個体が重要になったかということだ。

考えたことを書いて整理しておく。

1.個体が優位になったのは脳が巨大化したからである。
実際、自然を見れば多くの生物は(特に下等になるほど)個体より遺伝子のほうが重い。微生物の走化性、走光性などは遺伝子のみのなせる業で、そこに個体の意思はない。植物はいくら高等になっても遺伝子だけで生きている。魚のような脊椎動物となり個体として進化しても脳が不十分なら学習、思考がなく、本能(=遺伝子)で動く。そこに自我はない。

ところがヒトは脳を大きく発達させた。遺伝子では動かず、自我、社会規範で動く。
それだけでなく自己を潜在的に支配している主(あるじ)というべき遺伝子の本体を明らかにしてしまった。DNAという化学物質と分かればそこに神秘性はなく、神の領域であったはずの生物改変すら厭わない。
現代人は出産・誕生、成長、病気、死などの面では遺伝子の支配下にあるが、日常生活は完全に個体(脳)が遺伝子を支配している。

戦時中の特攻隊はもちろん、政治家秘書の自殺では完全に脳が遺伝子を無視している。避妊などは脳による遺伝子への反抗である。無駄に放出される精子よりも、傷ついて流れる血のほうを惜しむ。

2.ほぼ同じ遺伝子、細胞、肉体を持つサルと比べ、なぜヒトだけ脳が巨大化したか?

指先の発達や二足歩行への移行はダーウィンの突然変異、自然選択による進化の結果であろう。サルなどと同じである。しかし脳の発達は違う。まず、サルの社会に少々頭が良い個体が表れても、手先の器用さ、直立の仕組みなどと比べたら、生存競争には大して影響しない。また、脳の発達の速さはある時点から指数関数的に急激である。

すなわち、脳の発達は、自然淘汰による進化ではなく、それがもつ自己増殖性、自己発展性の結果であろう。
自己増殖性とは少し発達すると、さらに発達することだ。
例えば、産業革命は工作機械を生み出し、その機械はさまざまな機械を作り、産業は爆発的に発展した。近年ではコンピューター、半導体である。コンピューターの利用によってソフト、ハード両面の設計が加速され、さらなる高性能コンピューターを作り出した。
2026-09-22
落花生は子房柄を潜らせる土を探すうちにネットを地面の土と反対方向に登ってしまった。

3.サルの脳もヒトとまったく同じ部品でできているのだから自己増殖するはずである。
なぜヒトの祖先だけが発展させえたか?
それは猿になかった、ほんの小さなきっかけであろう。
多分考えられるのは、火の利用とか直立歩行などではなく、(身振り手振りを含む)言語だろう。
言語(ジェスチャー)によって、親が子に知識を与え、それを子の脳が刺激としてさらに知識を得ようとして脳内の爆発が始まり、その爆発が単語を生み、やがて文字を生んだ。文字ができると親以外の知らない人や過去の人の知識も得られるようになり、さらには印刷術でひろく広まり、指数関数的に脳が巨大化した。現代人でも生まれてすぐ文明と離れたオオカミの世界で育てられたら、脳は発達せず、男女でオオカミ社会で暮らすことで子孫を残しても、何代続いても、脳はそのままかもしれない。

(ドーキンスは、サルと違って脳が巨大化したきっかけは、言語のほかに想像力と道具と考えた。想像力というのは、例えばたまたま木が川に倒れて、サルがそれを渡った時、ほかの場所に橋を作ろうと思うかどうかである。初期のほんの幼弱な想像力でも自己増殖性の前では大きな力を発揮する。道具もそれを使えば新たな道具を産むという自己増殖性を持つ。これら3種はお互いに補って交じり合って自己増殖していく。)

4.自己増殖性というのは恐ろしい。
いまはAIである。AIの改良にはAIを使っている。AIは自らを驚異的な速さで発展させうる。その次はロボットであろう。AIを搭載したロボットは人間と同じように社会を作るかもしれない。そしてダーウィン的進化と生身の神経細胞で制限されたヒトとちがって、あっという間に進化するだろう。その前では何億年も生物を支配、発展させてきた遺伝子は無力である。ウィルスと同じように、しかしDNAによらない自己増殖性を持つ点では、まったく新たな地球の支配者になるだろう。

2026-09-23
雨が続いてナスは大きくならず、肥大を待っていたら腐ってしまった(左の3つ)。
東京都心は8月28日から途中太陽が2回出ただけで本日(9/28)まで連続33日雨が降っている。

(宗教と進化、遺伝子)

さて、話を戻すというか、今回書きたかったことは、脳すなわち自我が巨大化すると何が起こるかということだ。脳は何を考えるか?
一つは神である。

自分の力が及ばない自然のまえに、人間は災害や疫病を神のせいにした。
また、万物は神が作ったとした。
しかしダーウィンは、そのようなキリスト教の教えに対し、神などいなくてもヒトはサルから進化でできることを示し、さらにドーキンスによって宗教が妄想とされ、完全否定された。
(ドーキンスは、遺伝子と似たように自己複製して世代を越えて伝わる文化的な情報単位を考え、meme(ミーム)と名付けた。ミームの例として、歌、言葉、習慣、宗教的信念をあげた。
つまり、偉大な先人が万人を救う素晴らしい思想を産んだというのではなく、宗教という情報が、人間の脳を「媒体」にして複製・伝播しているとした。)

宗教は悩みから生まれたものだろう。
我々の悩みは脳が生み出す。恋愛、学業、健康、仕事、近所づきあい、すべて個体(脳)の悩みである。
しかし、生物の本体は遺伝子の流れであるという考え方は、我々の思考を大きく変える可能性を持つ。

遺伝子を中心にすれば、個人が病にかかり、死んでいくのは当然ことであり、むしろ何億年も続いてきた生物にとっても、5万年程度しか続いていないホモ・サピエンスにとっても、正しいことであり、少しも悲しむことではない。むしろ遺伝子を新しい乗り物に無事運んで役目を終えたという、めでたいことなのである。

これは現世の悩みと死の恐怖から人間を救うことを目的とした、宗教としては最も優れたものではないか?

今まですべての宗教はごく狭い範囲、一部の人が信じているものだった。違う家庭、違う国に生まれれば成立しない「ウソ」「迷信」である。
(よく、欧米人は無宗教の日本人を「信じられない」と野蛮人のようにいうが、なんでも自分こそが正しいという傲慢な無知である)

一方、遺伝子が生命の本質であるというのは科学である。
悠久の大河のように種族全体に流れる遺伝子の群れは、神と言ってもよい。
もし、遺伝子の前では苦しみも死も、悩んだり悲しんだりすることはない、という思想が生まれれば、最も優れた宗教になるだろう。その教えは無理やり天国や極楽を想定して押し付ける必要はないし、個人の悩み(利他による損失、老い、死)も、むしろ遺伝子を守るものとして正当化され、心の安らぎが得られる。

脳の肥大化は安らぎをもとめて迷信と言える宗教を無数に育ててきた。しかし、ここへ来て脳(個体)が遺伝子を外から眺めることによって、科学的に安らぎを産みうる思想の芽を作れるのではないか?

脳は何億年も支配してきた遺伝子を越えた。
脳はもう遺伝子に支配されることはないが、遺伝子を神として尊重することによって、自己の精神の安定と万物が生きる自然環境の永続を目指せるのではないか?
そこにAIは必要ない。
2026-09-23
バジルはみんな葉っぱが落ちてしまった。
サトイモは日光を求めて巨大化し周りを日陰にした。
これらは遺伝子を残し続けてきた成功者である。

結局、借りてきた「利己的な遺伝子」はそのぶ厚さに恐れをなし読むことなく返却した。

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2026年9月17日木曜日

縞なしスイカ。ヒトの長寿はおめでたいか?利己的な遺伝子の観点から

2026-09-01
2番畝、手前はエダマメとバジル。ネットは種まきしたばかりの大根。
4番畝、里芋は初めてのセレベス種だが巨大化し私の背丈ほどある。

9月は雨ばかり。
8月27日から続く雨は9月もやまない。各地で豪雨被害が出た。東京でも晴れたのは9月14日だけ。

この間に、妻の姉の嫁ぎ先の義父がなくなった。
9月3日、つくばの葬儀場へ通夜にいく。
100才だから悲しい葬儀ではなかった。みんなで俳句の好きだった故人を褒めるような会だった。私自身は法事で2,3度会った(見た)だけだからなんの感慨もなく、他人の死であり義理の出席である。

長いお経の間に思ったことは、どんな健康な人でも必ず死ぬということ。
死ぬようにできている。死は進化の過程で生まれた仕組みである。生物の種が存続するというのは、その遺伝子が存続するということ。遺伝子を大事にくるんでいるのが個体であり、個体は遺伝子の乗り物に過ぎない。生物が生存、繁殖しやすいように進化してきた理由はすべて遺伝子の永続のためである。100歳の彼はとっくに遺伝子を次代に送ったにもかかわらず、個体が頑健すぎて、主(あるじ)である遺伝子が想定していた以上に長生きした。

遺伝子としては新しい住まいである次の個体が十分な食料を得て生存していくために、抜け殻のような古い個体には消えてもらわねばならない。伊勢神宮が20年に一度の式年遷宮により、古い社殿を壊すことによってご神体が1300年以上も常に新しい住まいに安置されてきたように、遺伝子も外殻を新しくすることで自らの不変を保つ。
2026-09-01
例年のごとく5番6番7番はサツマイモが繁茂。

この雨の時期に、妻の母も危なくなってきた。
こちらは1927年7月生まれの99歳。ずっと自宅で暮らし、頭はしっかりしていて塗り絵をしたり心情を書き綴っていたりしていた。1週間ほど前に入院した。熱が出て心臓も弱ってきたのか足がむくみ息も苦しくなって酸素吸入になった。妻を含めた3人の娘(といっても婆さんだが)は、見舞いに行っていたが、3人の婿さんにも会いたいと言ったそうだ。しかし私はまだ大丈夫だと思い、妻がそれ以上言わなかったので行かなかった。今までのようにじきに退院して100才を迎えられればいいなと思っていた。ところがみるみる弱り、話すこともできなくなり、最後のあいさつのように目をつぶったまま指でバッテンをしたという。
9月10日、それを聞いて次の日曜に行こうと決めた。
ところが夜になって危ないとなった。

9月11日、金曜の午後、雨の中、取手医師会病院に見舞いに行った。
もう目をつむったままで意識がない。呼びかけても反応はなかった。しばらくいたが意識が戻ることはなく、私は息子一家(彼女の孫にあたる)と一緒に帰った。
妻は夕方千駄木に帰宅したが、虫の知らせか、夜になってふたたび茨城の病院に向かった。
夜中、熟睡中に妻からの電話で起こされた。すわわち日付が変わった12日の0:10、亡くなったという。
12日、土曜。午後妻が帰宅。
聞けば娘3人だけで母を看取ったという。他の人は誰もおらず、故人が最も愛してきた3人だけに送られるというのは最高の最後ではないか。
2026-09-01
3番畝東の空きスペースにニンジンをまいた。
しかし里芋が巨大化し日陰になってしまう。
ミカン(右)も大きくなってきた。

帰宅した妻は睡眠不足なのか、持病のめまいなのかソファでぐったりしている。彼女は私の何千、何万、何億倍も故人との思い出がある。なんせ生まれた瞬間からずっと一緒だったわけだから他人の私に悲しみは理解できるはずはない。

なにも言葉はかけず、ただ夕飯は私が作ることにした。
千駄木産の野菜(枝豆、トマト、ナス、甘長唐辛子)のみそ炒めに、株主優待の冷凍から揚げを解凍した。うまくできだが、彼女はあまり食べなかった。
2026-09-13
保存中に発芽した春ジャガ

13日、日曜、妻と二人、何もせず家でぼーっとしていた。私は他人だし人はみな死ぬものだと思っているから悲しくもない。しかし、6日後に迫ったダンス競技会の練習に行くわけにいかない。小雨があがったすきに庭に出て秋じゃがを植えた。

夕飯は味噌炒めの各野菜の比率が変わっただけで昨日と同じ。庭のスイカをとったが彼女は食べず、梨をむいたら食べた。
2026-09-01
3番畝の西は枯れなかったスイカ

14日、月曜、久しぶりの晴れ。午後納棺。
15日、火曜、大雨の午前中に告別式。
家族葬だから皆顔見知り。
死の数日前に書いて死後発見された「お礼の手紙」が額に入ってあった。たどたどしくも長文であり、苦労して書いたのだろう。読んでいるうちに涙が出た。
「感謝」という言葉が何度も出てきた。3人の婿さんに会いたいと言ったのは、娘たちと一緒に良い家庭を作ってくれてありがとう、と伝えたかったのかもしれない。お礼を言うのはこちらである。
写真も飾ってあった。多くは孫やひ孫と一緒であったが、中に、若き日の義母と小学生の3人の娘(文字通り)が一緒の一枚があった。その写真の娘たちがその後の各人の娘とそっくりなことに驚いた。遺伝子というのは不思議である。同じようでいて少しずつ違い、それが顔の違いになるのだが、顔を見れば確かに遺伝子が中で生きていることが分かる。

焼香が終わり、最後に皆で棺に花を入れた。
後から少し大きな花が追加されてきた。前にいた妻を含む3人の娘が入れ始めたとき皆は遠慮して、3人だけが最後のお別れをする形になって、涙を誘っていた。

あらためて祭壇を見る。故人の遺影と供花に添えられた木札の名前。
彼女はこの世から退出したが、3人の子供と8人の孫、7人のひ孫に遺伝子を残した。遺伝子の保護者、中継者として十分な働きをし、悲しむよりたたえるべきものだが、個体である我々は、やはり遺伝子よりその外側の乗り物のほうを大事に思ってしまう。
2026-09-08
今年は雨が多いからか、
ここまで3つ収穫、2つ食べたが今一つ。

遺伝子こそが生命の本質で、それが永続するように、乗り物、外套を進化させていくという考え方はリチャード・ドーキンス「利己的な遺伝子」で有名になった。もともとこういう考え方は複数の研究者が述べていたのだが、「利己的な遺伝子」というタイトルや個体を「生存機械」「乗り物 Vihicle]という分かりやすい比喩を使ったことで爆発的に広まった。

原著 The selfish gene が出たのは私が大学2年の1976年。日本語版の初版は1980年。「生物=生存機械論」というタイトルだった。
駒場の最後、2年生の終わり、薬学に進学が決まった70人で自己紹介文集を作った。私は代々木オリンピックプールのスケート場に行ったくだらない話を書いたのだが、渋谷雅明氏が、利己的な遺伝子のことを書いていた。彼は原著を読んだのだろうか?

名著でありすぎたため、その内容はあちこちで取り上げられたから、かえって読んだような気分になり実際に読んだことのない人が多いのではないか。
私もその一人である。今回近くの図書館にあるかと思って検索したら初版のほか、増補第2版、30周年記念版、40周年記念版があった。「利己的な遺伝子」という原著の直訳タイトルは第2版からである。

借りてきたものの、その分厚さに、読むのを躊躇している。多分読まずに返すだろう。
2026-09-08
利己的な遺伝子の代わりに利己的な個体を考えるとどうなるか?
生物は突然変異と自然淘汰で進化してきたと考えられてきた。しかし生物には自己犠牲によって種族全体を生かすものが多くいる。群れを守るために敵を引きつけるように鳴くサルや鳥などである。これは生存競争に勝つ個体が生き残るという自然淘汰では説明できない。なぜなら自己犠牲の個体は遺伝子を残せず、利己的な個体ばかりになってしまうからだ。

この現象は遺伝子こそが自然淘汰と進化の主役だと考えると矛盾しない。なぜなら自己犠牲の個体の遺伝子のコピーは、生き残った群れの中の子供や兄弟に残るからだ。利己的な遺伝子は、利己的な個体も自己犠牲となるような個体も、両方生じさせるよう進化しているのだ。

大量に卵を産む魚類なども、遺伝子を残すために犠牲となる個体を余分に作る。これらの仕組みは遺伝子で決まっており、各個体が考えて大量に産むわけではない。
2026-09-08
スイカは6個なった。
同じ種(ピノガール)をまいたと思うのだが、縞のある実とない実の2種類ができた。
同じ株にできているのか調べようとしたが、つるがこんがらかっていて分からない。

植物ももちろん遺伝子が自分のコピーを広くばらまくように進化した。鳥などが食べてくれるように実を大きく、甘くしてきた。ところが農耕時代になると遺伝子のゆっくりした変異が進化の主体ではなくなり、ヒトが代わりに作物として実を大きく甘くした。
2026-09-08
板幅は18センチ
縞がない小玉スイカ。

個体が自己犠牲になるのは人類でもみられるか?
戦時中、国を守ろうとした特攻隊は、社会が強いたもので、個体が内蔵する遺伝子のせいではないだろう。
しかし、子供や孫のために自己犠牲になるのはどうだろう。DNAという物質である遺伝子に意志などあるわけではないのだが、自己のコピーを残すことを大原則のように進化してきたのなら、自己犠牲は合理的である。
しかし人類は脳(=個体)が大きくなりすぎて、見えない遺伝子よりも今ある個体を優先する。
極限状態でない限り自己犠牲はない。

自己犠牲の代わりに残ったのが、肉親に対する愛情であろう。
故人は妻や孫をかわいがった。その心(=現象)は、ずっと代々、遺伝子の形で続いていく。