2018年10月25日木曜日

柿の種はどこ? 断面をみる

10/13、日野の叔父のところに行って柿を大量にもらってきて、
まだ残っている。

たいてい丸ごと皮をむいたあと、上から包丁を入れて90度ずつ4等分する。
このとき、かなりの確率で包丁に種が当たる。
これが不愉快。
種はいくつあるのだろう。

たぶん種の場所は決まっているだろう。
この柿のように四角で外から目安があるなら、種を避けて包丁を入れられるのではないか。
老人になるまで柿を剥いて来て、今更遅い気もするが、ちゃんと調べてみた。

四角い柿を正しくおけば、4枚のへたは0,3,6,9時に向いている。
(へたの作る四角と柿本体の四角は45度ずれる)
柿は4、リンゴなどは5が基本数字になっていることは知っていた。
花びらの位置など見ておけばよかったのだが、思い立ったのが今だから。

こうしてカンサツすれば、果肉はへたとへたの間が膨れているのが分かる。
四角い形が最初にあるのでなく、へたの間、1時半、4時半、つまり丑寅、辰巳、の部分が肥大して角が4つでき、結果的に正方形になったのが分かる。(よく考えれば当たり前なんだけどね)

へたの間に肥大する部分があったのか、へたが肉の膨張を引っ張る作用があったのかどうかは不明。

で、いよいよ内部をみる。
皮むきは得意。
両親を含め、家族で一番うまい。
とくに意識しなくても、ふだんでも途中で切れることはない。
つまりそれだけ薄く剥けるということだ。
断面から明らかに種の最大値は8個。
すべて成熟するわけでないから、4つだったり6つだったりする。

まず上の柿、種はいったいどこを向いているのか。
8個だから対角線方向4つと、十字方向4つかと思ったが、微妙にずれている。
これでは包丁を入れる目安が分からない。
(もっとも正確に対角線と十字に種があるなら、12時と1時30分の間に入れなくてはならないから、これも難しいが)
個体差?

下の柿(断面の場所を変えた)を見て、発見した。
種は2つずつ組になり、肉と同じようにいったん実の角に向かって伸び(つまり十字方向を避ける)、そして途中から分かれている(だから対角線上にもない)

つまり、包丁を入れるときは、まっすぐ置き、十字方向に入れれば種に当たらない。
また対角線に入れても当たりにくい。

分かったからと言ってどうってことないんだけど。

2018-10-25

我が家の柿は、2014年に大量に生ったあと(→) 2015、2016とほとんど生らず、2017に生ったがヒョウで落ちた。今年はそこそこ生ったが、実の青いうちにほとんど落ち、2つだけ残っている。
さて
四角い柿は、こうして種の場所が分かった。

ここで問題を思いついた。
問: お隣さんのような、まん丸の柿は、どうやって推定するか?

家族(妻と娘)に問題出そうかな。
でも誰も聞いてくれないだろうな。

答: 実ではわからないので、裏のへたを目印にすればよい。
へたの指す方向に入れれば種は当たらないはずである。


2018年10月23日火曜日

根津、石川書店、赤札堂

10/21の散策はまだ続いている。ブログ4つ目になる。
三浦坂下からそのまま不忍通りに続く通りは根津観音通り商店会という。
しかし商店ほとんどなし。

三浦坂下からあかぢ坂下まで、藍染川あとの道を北上。
藍染大通りに出る。
根津千駄木下町祭りで、和太鼓のパフォーマンス

この道は戦前から広かったらしい。
(1つ上の写真の根津観音通りと比較)
渡辺治右衛門があかぢ坂上の自邸まで馬車だか自動車で帰るのに、広くしたという。
恐らく道の両側も彼の地所であったのだろう。
かつて藍染め大通りの南側に古本屋、石川書店があった。
学園祭の古本市に出して売れ残った本をここで売ったことがある。
コーン・スタンプの「生化学」とか。
あと、月刊明星、平凡の付録の歌本だけ100円で売っていて、持っていなかった古いものを何冊か買った。
その場所が何処か分からず、
「古本屋さんがこのあたりにありましたが」とお祭り実行委員会のテントの人たちに聞く。
地元の年配者ばかりが暇そうにパイプ椅子に座っておられ、全員知っていてすぐ教えてくれた。彼らは他のお店のことまで親切に教えてくれるも、私はほとんど記憶がない。
とにかく石川書店は家具の岡本の向こう、芋甚の手前という。
藍染め大通りは、かつては店がいっぱいあった。
今見れば、森まゆみ「不思議の町 根津」(1992)には減ったとはいえ、石川書店はじめまだ多くの店が地図に載っている。
あったころはとくにありがたみも感じなかったが、きれいになくなると寂しいものだ。
むしろ路地の方が変わらない。
この奥に杏屋だったか、杏子屋だったか、喫茶店があった気がする。

そうそう、かつて谷中荘の中尾氏が京都に行ってきて、「いいだろう」と町家の写真を見せてくれた時、「なんだ、根津の裏道みたいじゃないか」といってがっかりさせてしまった。不忍通りと並行する通りはそんな感じだった。

藍染大通りをそのまま西に歩いて不忍通りを渡って振り向く。
左の角は今、根津よし房(そば)
私のいた頃は有名な八重垣食堂だったはずだが記憶なし。
その前は戦前に倒産する渡辺銀行だったという。

再び藍染め大通りを戻ると外国人観光客が太鼓をたたいていた。
写真に見えるテート薬局は帝都薬局で古い。

そのむこう、角のマンションあたりに貸本屋「なかよし文庫」があった。
本駒込時代と違い、研究室配属になって本をほとんど読まなくなっていたこともあり、入ったことはなかった。そういえば駒場にも貸本屋があった。TSUTAYAとおなじく、借りる人は借りるし、借りない人は借りない。習慣の問題か。

不忍通りと並行する裏道を南下する。
根津は古い家が多い。
建て替えしないのは借地が多いのだろうか。
そのまま南に走り、
言問い通りに出るあたり、この辺りで買い物したり食事した。
右は肉屋で、100グラム100円の鳥唐揚げをよく買った。
左の角は八百屋だった気がする。

言問い通りに出て赤札堂側にわたる。
根津の交差点の向こうに弥生坂方面をのぞむ

交差点角の吉野家がなくなっていた。
前回来たときはあったのに。

1977年の12月から78年の正月にかけて、本駒込~向ヶ岡寮、谷中真島町、と引越しが続いた。このとき自炊も出来ず、吉野家で何回か食事した。牛丼よりは少しでも量が多いのではないかと牛皿とご飯を注文、紅ショウガをたっぷり食べた。いつも夜遅かったせいか客はほとんどいなかった。

同じころだったか、何かの飲み会の後、弥生坂の上だったか、根津交差点だったか、普段無口な石黒氏が、二次会はどこに入ろうか迷っている我々に「おい、牛丼パーティやろうぜ」と大声で言った。おしゃれな言葉だと思ったのを覚えている。
その弥生坂
昔は台上の一帯が水戸藩中屋敷だったから、坂下から本郷通りに抜ける道がなく、しばらく獣みちだったようだ。
明治11年の地図を見れば、千駄木方面は動坂、狸坂、狐坂、団子坂などはあるが、根津権現裏門坂から南は、池之端の無縁坂まで道はなかった。

交差点を渡っても弥生坂の勾配はなかなか写真にうつせない。
1979年の台風では坂の左がわにあったイチョウが歩道側に倒れた。

今は亡き吉野家の跡地を見る。
目を南に転ずれば
赤札堂
今は1階生鮮食品、2階加工食品、3階ホーム雑貨だが、
当時は、1階は食品だったが、2階は洋服売り場だった。
1280円くらいの安いワイシャツやポロシャツをよく買った。
たまに上野広小路の赤札堂まで自転車を走らせた。

なくなった吉野家の並びに、不動産屋があった。
谷中のアパートはそこで見つけた。

ひょっとして、とファイルを探したら、引っ越した当初に交差点をうつした写真が1枚だけあった。
(2013-05-19)長野の弟と自転車で五月祭にいく
拡大したら吉野家の4軒となりに不動産屋も見えた。

さて、家を出てから1時間、お昼だから帰ろうと思ったら、吉野家がかつて八百屋さん?だったところに移転しているのを発見。
2018-10-21

そのまま裏道を北にむかって家に帰る途中、
谷中のアパートから不忍通りに最短距離で出る道と交差した。

この道を西に行けば不忍通りと根津神社裏門坂(日医大通り)の交わる三つ角にでる。
カーブを緩やかにするため、東側をごっそり削って拡張した。

歩道が広くなるのは嬉しいが、マンションで景色がガラッと変わるのは残念だ。
文京区というのは本当に開発という名のマンション建設が好きである。
削られた中に、この左側、谷中に近いほうに銭湯、梅の湯があった。
三崎坂の朝日湯より近く、真島湯が休みの時はここに来た。
一時、密かにあこがれた古川賀洋子氏もこの銭湯だと言っていた。

あと、やはり削られた場所に喫茶店があった。
(たぶん私が指定して)ある人と待ち合わせたのだが、先に行ったらインベーダーゲームがうるさくて汚かったことを覚えている。それで外で待って他所に行ったか、そのまま入ったか。

このときは病院薬剤部のIさんに会って問題集をもらったように思うのだが、どうしてこの場所だったのか、なぜ来てくれたか、といった疑問が出てきた。もらったのは違う場所で、この喫茶店は彼女とではない気がしてきた。

いろんな可能性を考えていると、それがうっすらした記憶と混じって、どれもが経験したことのように思えてくる。つまり空想と過去の事実が混じる。

こうなると、思い出そうと努力するほど、貴重な記憶を歪めてしまうことになる。
脳と記憶のはかなさを感じる。


千駄木菜園 総目次

あかじ坂、大名時計、三浦坂

10/21の続きである。
藍染川が暗渠になってできた道、へび道を北からきて、まっすぐになり、最初にぶつかるのが藍染大通り。
西へまっすぐ行くと不忍通りを超えて根津神社の鳥居前にでる。

東へ行くと(写真正面)、あかぢ坂

戦前、坂の上に渡辺治右衛門という実業家の別邸があった。(本邸は目白?)
江戸時代、渡辺家は、日本橋で海産物問屋、明石屋治右衛門商店、縮めて明治(あかぢ)を屋号とした。その9代目、渡辺治右衛門は実業界に進出、明治10年に第27国立銀行を設立(のちに渡辺銀行)、さらに姉妹行として零細預金者用のあかぢ貯蓄銀行も設立した。

渡辺銀行は昭和恐慌でつぶれるのだが、藍染大通りと不忍通りの角に支店があった。
つぶれたから「赤字」銀行、そこからあかぢ坂になったわけではないようである。
坂の上がり始め、左側の古い小屋は、谷中真島町の町内会倉庫のようだ。

坂途中、右側にある石段。
昔、上野駅から谷中のアパートに帰るときは芸大の間を通り、ヒマラヤスギを見て、この石段を下りた。
(逆に上野駅へ歩くことはあまりなかった)

石段の上からあかぢ坂の向う側をみる

 夕日がきれいであろう。
「ぎんぎんぎらぎら」ではじまる童謡「夕日」を作曲した室崎琴月は、この坂の下に住んでいた。

下の不忍通りはマンションが増えた。
「夕焼けだんだん」のように太陽が夕日になる前に隠れてしまわないことを祈る。

坂を上がった角にある家。
昭和2年築。
今は誰も住んでおらず、ドラマなどの撮影用に使われているらしい。


このあたり、西側下界の住宅密集地とは高い石垣、南と東は寺や墓地で仕切られ、ギニア高地のように隔離されている。道は広くても外部者が入らないから人がいない。
大きな家ばかりである。

ここら一帯は、美作勝山藩2万3千石の下屋敷であった。
殿さまは三浦志摩守(嘉永6年の尾張屋版絵図では備後守)。
絵図を見れば、西は真島湯などの面した藍染川、南は三浦坂、東は領玄寺、妙円寺に接し、北は崖下の平地から谷中小学校の際まで1万八千坪。

勝山藩は明治2年、勝山城のあった真島郡から真島藩と改名。明治4年真島県となるも、のちに岡山県に編入された。

以上、真島町、三浦坂の由来である。

渡辺治右衛門は、明治になって土地を買い集め、たちまち東京で第6位の大地主となった。丸の内取得を三菱と争ったのも渡辺である。治右衛門の本拠地は下谷区、本郷区で、真島藩下屋敷のほかに根津、千駄木、日暮里なども買った。
(今の開成の西、西日暮里4丁目は、かつて日暮里渡辺町と言った。)

大名屋敷などが明治中期以降に分譲されると(貸地、貸家でもいいが)良い住宅地となる。真島藩の屋敷はそのまま渡辺の破産後、緑風荘という高級中華料理屋となったが、戦争が始まる頃は廃業したようである。戦後、新たに道路を作り、分譲した。

石垣のある古い家が壊されていた。

あまちゃんロケ地(GMT47の寮 )
1980年当時、普通に歩いていたけれど特に何も感じなかった。
それだけ珍しくない風景だったのだろうか。
この道の東(右)は領玄寺であったが、明治以降民家が建った。

塀の向こうは大名時計博物館のはずだが、この建物、今も人が住んでる木造アパートのように見える。
入り口はどこだろう? 博物館の正門しかない。
勝山藩下屋敷跡の標柱もある。
ここはもともとあかぢ銀行渡辺治右衛門の縁者、渡辺六郎邸で1000坪あった。
門と塀は当時のままという。

高級紳士服の仕立て職人で陶芸家でもあった上口愚朗氏が集めた大名時計を展示。館長は子息の上口等氏であったが、今はご健在だろうか。

40年前、上野からアパートに帰るときはいつもこの前を通り、石段を降りてあかぢ坂に出た。
いつも門が閉まっていたような記憶がある。

この日は大きく開いているので、少し入ってみようかと思ったが、財布を持たずに出てきてしまった。
呼び止められたら完全な不審者になってしまう。
入れず。
この先が石段

道を戻って三浦坂上に出る。
坂を降りずに上野方面に足を向ける。
久しぶりだから切られていたらどうしよう。
谷中ランドマークのヒマラヤスギが聳えていて安堵、引き返す。

三浦坂上。右は大名時計博物館。
尾張屋版切絵図にもミウラサカと書いてある。
三浦坂下。
途中左に猫の置物をいっぱい置いた店がある。
右の塀は玉林寺の墓地

坂下の道をあかぢ坂下まで北上
途中、路地の奥に鳥居を発見

真島稲荷とあった。
(つづく)


2018年10月22日月曜日

特務艇はしだて 洋上パーティ

10月22日、晴海ふ頭から特務艇はしだてが出航、洋上懇談会に参加する機会を得た。

はしだては、艦ではなく艇、わずか400トン、速力20ノットという小型船であるが、内外の賓客を饗応する目的で作られた。
海の迎賓館とも呼ばれるが、災害発生時には医療、給食、指揮支援を任務とする。
本来7月25日の予定が、西日本豪雨災害でそれどころでなくなり、台風がもう来ることのない10月末に延期されていた。
月齢13(たぶん)、快晴の夜だが、ちと寒い。
しかし見学する機会などめったにないので喜んで出かけた。

一番の楽しみは登舷礼である。
かつて空母 Kitty Hawk に乗船したときは若い水兵が両側に並び、口を固く結び視線を全く動かさず敬礼している間を、緊張しながら通ったが、今回は片側に将官が並んでお出迎え。敬礼こそあるものの、なごやかに「お世話になります」「ようこそおいでくださいました」と笑顔で通過できた。

参加者名簿を見れば、幕僚長(海将)以下、将補5名、一佐14名、二佐1名、と偉い人ばかり。
ちなみに自衛隊では将官は将と将補しかない。
内勤はよくわからないが、昔の海軍(艦隊勤務)との対応は、将が中将(艦隊司令長官)、将補が少将(戦隊司令官)、一佐は大佐(武蔵など大型艦の艦長)である。幕僚長は将であるが旧軍の大将(連合艦隊司令長官)に相当する。
実際は名簿にある将官のほかに、制服の人が多く立っていて、階級章や船のことなど気軽に聞けば何でも説明してくださる。
写真を撮ってくださったり、村川豊・海上幕僚長に引き合わせて下さったり、料理を進めてくださったり、至れり尽くせり。
当初、誰も知っている人がおらず心配したが、まったく退屈しなかった。
料理は素晴らしかった。
各艦、各部隊はすべて調理専門の隊員を持つが(給養員という)、はしだてはとくに優秀なものを集めており、東大に入るよりも難しい、とウェルカムスピーチで笑いをとっていたが、なるほど普通のホテルのビュッフェとは全然違う。

例えば寿司は、普通のすしなど一つもなく、てまり寿司とかお稲荷さんと軍艦巻きの中間のような創作寿司のような、見た目も美しいものばかり。
秋ということで、サンマ、カモ、柿も使われ、松葉のような串に刺さっていたり、葉っぱにつつまれていたり、和え物は小さな器にもられ、季節豊かな懐石料理がそのまま大皿になった感じ。
おでんと海軍カレーは屋台が出た。

最後のデザートのケーキも素晴らしかった。チョコレートケーキは上にかかったチョコレート自体がおいしくて、一番下はアーモンドだけから作ったような台になっており、初めての食感。洋ナシのタルトも上品。小さかったからもっと食べたかったが、2つにとどめた。
町で売っていたら評判になるのではないか。

あんまりおいしいので、ケーキもここの厨房で作ったのですか、と聞くと
「もちろんです。すべて自分たちで作ります。冷凍食品も一切使いません」
と誇り高く仰る。
昨日、横須賀から晴海に回航、準備していたという。
「まあ、よく自衛隊なんかにいてくれますよ」
と、外に出たら引っ張りだこになる調理人(隊員)たちであることを認めていた。

後部デッキでは演奏

以前室内での音楽会にいったことがあるが、年配者のファンが多い会で昭和の歌謡(瀬戸の花嫁とか)とクラシックが演奏された。
ここでは、スペースの関係から少人数のユニットで、パーティにふさわしく、ジャズの演奏であった。ユニット(オーケストラなら40人とか)によって、得意ジャンルが決まっているらしい。
退艦するときは蛍の光だったが、出港の軍艦マーチはなかった。雰囲気、出席者によって最適の演奏をする。


晴海で停泊しているときは揺れていたが、洋上を動いているときは不思議とゆれない。

艦尾の旭日旗でかろうじて自衛隊の船と分かる。
まったく右翼がこの旗で中韓を煽るものだから、ずっと静かに平和に使っていた自衛隊が迷惑している。

日本社会と同じく、ここも人手不足、若者不足で平均年齢が上がっているそうな。
潜水艦と航空機の乗員を減らすことはできないから、他の艦艇の充足率を低くして運行しているようだ。
アメリカのように、現国籍は日本だが生まれは外国という隊員も増えてきた。
奥さんが中国人であっても、問題なければ採用するという。
これからは昔のような戦争はもう起こらず、災害救助がメインになるのではないか、などと将官のお一人と雑談した。
二階にあがると船首に出られる。
羅針盤を見ながら、東京タワー、お台場の観覧車、スカイツリー、晴海ふ頭を確認したり。

7月だったらビール片手に最高だっただろう。

とても気持ちの良い会だった。
自衛隊は皆気持ちの良い人ばかりなのである。
これは教育でそうなるのか、あるいは感じの悪い人は早い段階で排除されてしまうのか。
まあ、橋立だから選ばれた人、と考えるのが普通か。

枡酒は横須賀の何とかという銘柄だった。
枡はおみやげ。

片桐大自 連合艦隊軍艦銘銘伝
久しぶりにこの本を開いた。
茶色のシミがいくつもついていた。
ネットが普及する前、ずいぶん重宝し、私の一番大切な本だった。
860隻ではなく860の艦名について解説したもの。

橋立はもちろん僚艦松島、厳島とともに、日清戦争の時の主力艦として有名。4278トン。
完成をまって(1か月後)開戦したといわれ、当時の海軍、国民の誇りであった。東洋最大の巨艦、定遠、鎮遠に大きさで劣っても速力で2ノット上回り、巧みな操艦で3隻一緒に敵に当たり、黄海海戦に勝利した。
二代目橋立は昭和15年竣工、999トンの砲艦。

三代目が今日乗ったはしだてである。
それまでは日本三景の意味しかなかったが、特務艇はしだては、迎賓艇として、国民、諸外国との間の架け橋となることを願い命名されたという。
武装は一切なく小さな船だが、役割は大きい。