2018年10月23日火曜日

あかじ坂、大名時計、三浦坂

10/21の続きである。
藍染川が暗渠になってできた道、へび道を北からきて、まっすぐになり、最初にぶつかるのが藍染大通り。
西へまっすぐ行くと不忍通りを超えて根津神社の鳥居前にでる。

東へ行くと(写真正面)、あかぢ坂

戦前、坂の上に渡辺治右衛門という実業家の別邸があった。(本邸は目白?)
江戸時代、渡辺家は、日本橋で海産物問屋、明石屋治右衛門商店、縮めて明治(あかぢ)を屋号とした。その9代目、渡辺治右衛門は実業界に進出、明治10年に第27国立銀行を設立(のちに渡辺銀行)、さらに姉妹行として零細預金者用のあかぢ貯蓄銀行も設立した。

渡辺銀行は昭和恐慌でつぶれるのだが、藍染大通りと不忍通りの角に支店があった。
つぶれたから「赤字」銀行、そこからあかぢ坂になったわけではないようである。
坂の上がり始め、左側の古い小屋は、谷中真島町の町内会倉庫のようだ。

坂途中、右側にある石段。
昔、上野駅から谷中のアパートに帰るときは芸大の間を通り、ヒマラヤスギを見て、この石段を下りた。
(逆に上野駅へ歩くことはあまりなかった)

石段の上からあかぢ坂の向う側をみる

 夕日がきれいであろう。
「ぎんぎんぎらぎら」ではじまる童謡「夕日」を作曲した室崎琴月は、この坂の下に住んでいた。

下の不忍通りはマンションが増えた。
「夕焼けだんだん」のように太陽が夕日になる前に隠れてしまわないことを祈る。

坂を上がった角にある家。
昭和2年築。
今は誰も住んでおらず、ドラマなどの撮影用に使われているらしい。


このあたり、西側下界の住宅密集地とは高い石垣、南と東は寺や墓地で仕切られ、ギニア高地のように隔離されている。道は広くても外部者が入らないから人がいない。
大きな家ばかりである。

ここら一帯は、美作勝山藩2万3千石の下屋敷であった。
殿さまは三浦志摩守(嘉永6年の尾張屋版絵図では備後守)。
絵図を見れば、西は真島湯などの面した藍染川、南は三浦坂、東は領玄寺、妙円寺に接し、北は崖下の平地から谷中小学校の際まで1万八千坪。

勝山藩は明治2年、勝山城のあった真島郡から真島藩と改名。明治4年真島県となるも、のちに岡山県に編入された。

以上、真島町、三浦坂の由来である。

渡辺治右衛門は、明治になって土地を買い集め、たちまち東京で第6位の大地主となった。丸の内取得を三菱と争ったのも渡辺である。治右衛門の本拠地は下谷区、本郷区で、真島藩下屋敷のほかに根津、千駄木、日暮里なども買った。
(今の開成の西、西日暮里4丁目は、かつて日暮里渡辺町と言った。)

大名屋敷などが明治中期以降に分譲されると(貸地、貸家でもいいが)良い住宅地となる。真島藩の屋敷はそのまま渡辺の破産後、緑風荘という高級中華料理屋となったが、戦争が始まる頃は廃業したようである。戦後、新たに道路を作り、分譲した。

石垣のある古い家が壊されていた。

あまちゃんロケ地(GMT47の寮 )
1980年当時、普通に歩いていたけれど特に何も感じなかった。
それだけ珍しくない風景だったのだろうか。
この道の東(右)は領玄寺であったが、明治以降民家が建った。

塀の向こうは大名時計博物館のはずだが、この建物、今も人が住んでる木造アパートのように見える。
入り口はどこだろう? 博物館の正門しかない。
勝山藩下屋敷跡の標柱もある。
ここはもともとあかぢ銀行渡辺治右衛門の縁者、渡辺六郎邸で1000坪あった。
門と塀は当時のままという。

高級紳士服の仕立て職人で陶芸家でもあった上口愚朗氏が集めた大名時計を展示。館長は子息の上口等氏であったが、今はご健在だろうか。

40年前、上野からアパートに帰るときはいつもこの前を通り、石段を降りてあかぢ坂に出た。
いつも門が閉まっていたような記憶がある。

この日は大きく開いているので、少し入ってみようかと思ったが、財布を持たずに出てきてしまった。
呼び止められたら完全な不審者になってしまう。
入れず。
この先が石段

道を戻って三浦坂上に出る。
坂を降りずに上野方面に足を向ける。
久しぶりだから切られていたらどうしよう。
谷中ランドマークのヒマラヤスギが聳えていて安堵、引き返す。

三浦坂上。右は大名時計博物館。
尾張屋版切絵図にもミウラサカと書いてある。
三浦坂下。
途中左に猫の置物をいっぱい置いた店がある。
右の塀は玉林寺の墓地

坂下の道をあかぢ坂下まで北上
途中、路地の奥に鳥居を発見

真島稲荷とあった。
(つづく)


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