2020年9月15日火曜日

歌舞伎町の歴史、町を二分する花道通り

 かつてコマ劇場やミラノ座などで囲まれたシネシティ広場については別ブログで書いた。

2020-09-13

アパホテルの裏に回ると旧東急ミラノの工事現場が良く見える。

2020-09-13
48階の新ビルは2022年完成予定。
この通りを花道通りという。
この通りを境に南は歌舞伎町1丁目、北は歌舞伎町2丁目となり、雰囲気はガラッと変わる。
通りの北側に病院がある。
大久保病院
場所と名前は駅の古看板にある性病科、肛門科を思わせるが、1879年避病院として創立、1881年東京府立になり、2004年から東京都保健医療公社に運営を移管、304床の地域拠点病院である。
新しい病院のビルには都の施設(健康プラザ)も同居する。
要するに明治12年以来の先端病院はそのままで、戦後、周囲が大歓楽街に変貌してしまったのである。


かつて新宿は東京の郊外(昭和7年まで豊多摩郡)で、いまの東宝ビル(旧コマ劇場)のあたりには大正9(1920)年府立第五高等女学校(現富士高校)が創設された。
1923年の関東大震災以降には少しずつ住宅も建ち始め、新宿駅も中央線沿線の発展に伴いにぎやかになっていく。
1940 (昭和15)
第五高女、市立大久保病院、淀橋五小などがみえる。

それが、1945年の空襲で一気に灰燼に帰した。
戦後すぐ、角筈北町会の町会長だった鈴木喜兵衛が、借地権の入り組んでいたこの地域をまとめ、大劇場2、映画館4、お子様劇場1、演芸場1、大総合娯楽館1、大ソーシャルダンスホール1、その他ホテル、公衆浴場を配する大規模復興計画を立てた。

当初の計画では、同じく戦災で焼失した銀座の歌舞伎座を誘致しようとしたことから、1948年東京都の石川栄耀都市計画課長が一帯、すなわち角筈1丁目の北半分とその北に隣接する東大久保3丁目の一部を合わせ、歌舞伎町と名付けたらしい。

1975年(昭和50年)
私が上京した年に買った地図を、今回見て初めて気が付いたのだが、
当時、歌舞伎町はコマ劇場周辺の現一丁目だけで、1978年に花道通りの北が歌舞伎町2丁目となったようだ。

新宿アシベ会館
大久保病院の前から花道通りを東に歩く。
南が映画館などのある1丁目。
北が2丁目。
アシベ会館の角で北を見れば少し上り坂、両側にラブホテルが並ぶ。
ゲームセンター、映画館、風俗店の並ぶ喧噪の1丁目と対照的に、こちら歌舞伎町2丁目はカップルが密かに歩く。
男と女が交わる同じ欲望でも動と静。

2020-09-13
アシベ会館の1階は風俗店の無料紹介所になっていた。

花道通りは曲がり方といい、両側が高いことといい、川筋であることが明らか。
蟹川という川が東に流れ、戸山公園箱根山の西から早稲田大学の東を通って神田川に流れ込んでいた。
左すなわち北へ入る道を覗くたびに、ホテルの看板が両側に見える。
歌舞伎町2丁目全体に広がっていて新大久保までそういう雰囲気が続く。
全国一のホテル街ではなかろうか?
この世は男と女しかいないということが実感される。
1丁目で雰囲気を盛り上げ、こちらに流れてくるパターンが多いのだろうか。
片方がここを根拠地とするプロということもあるだろう。

一丁目側のビルの入り口をみるとホストクラブの多さに驚く。
東宝ビル(旧コマ劇場)の東隣のビルである。
コロナ感染者のクラスターで新宿が話題になったのもむべなるかな。

2020-09-13
店内ならともかく、路上に顔写真を出すというのは昔はなかった。
男女平等の時代になったと感じる。


もちろんホステスも顔写真で宣伝している。
花道通りは広い分、おおきな看板が目立つ。

気が付くと風林会館。
80年代に「オレたちひょうきん族」が出たとき、武田信玄の戦陣で風林火山の幟が並ぶ中に1本、風林会館と書いてある幟がある。目立たないから視聴者は気づかないのだが、100人に一人が気付くのがいい笑いだと評されていた。

90年代終わり、この風林会館には大きな海鮮料理店があった気がしたのだが記憶違いか。

2020-09-13
都電の跡、四季の道の出口にもホストクラブの看板

花道通りはどこまで歩いても、北側はホテル街。
鶯谷や渋谷円山町、池袋北口などは狭い路地に密集するが、こちらは区画整理されたところに整然と並んでいる。戦前はいい住宅地だったのだろう。

疎開先、出征先から戻ると焼け野原、極端な住宅不足となり、上野、鶯谷や新宿などターミナル駅周辺の焼け跡地には旅館が立ち並んだのだろう。それが歓楽街に来た人の受け皿ともなり、今や建て替えられておしゃれなホテルが多くなっている。

1988年竣工、美術館のような日清食品東京本社ビル
安藤百福発明記念館(カップヌードルミュージアム)は横浜。

花道通りが明治通りに出て、ようやく住所も、欲望の街並みも、ともに歌舞伎町が終わった。

2020年9月14日月曜日

歌舞伎町の噴水はいつなくなった?

7月、数年ぶりに新宿西口に来たとき、駅が工事で改札に出るまで迷路のようだった。
そこで9月13日、東口改札のほうに行ってみた。
新しい改札を出ると、そこはかつて駅構内だった旧東口改札と旧西口改札を結んで新たにできた広い自由通路だった。
これまで新宿は地下街を通るか甲州街道まで回らねば東西を行き来できなかったが、だいぶ便利になるだろう。
2020-09-13
今や改札の外になった旧東口改札跡。
旧改札はつい7月に廃止したばかりのようだ。
床のカバー、天井などにかつて東口改札口だった痕跡が残る。
改札出口に向かってわずかに上るスロープも覚えている。
何回か待ち合わせした記憶が懐かしい。

地下街か地上かどちらも懐かしくて迷うが、外に出た。

地上に出るとアルタがある。こんな小さかったっけ?

タカノのほうをみる。

1975年に上京したが、新宿はあまり来なかった。
駒場時代は渋谷だったし、本郷、谷中に来たら上野、池袋だった。
もちろん長い埼玉時代は池袋ばかり。
たまに渋谷に行ったが新宿は紀伊国屋書店以外、自分から行くことはなかった。

東口は2年前、高野フルーツ、中村屋に久しぶりに寄ったが(別ブログ)、その前は1990年代になってしまうのではなかろうか。
とにかく数年に1回くらいしか来ていない。それでもいろいろ思い出はある。

アルタの西、線路側で新宿通りを渡る。
歌舞伎町に向かう道。MOA 2番街というらしい。

工事中の左の角のビルの2階だったか、1991年3月18日の夜、関野裕子さん岡淳一郎さんと食事した。関野さんはご飯を口に入れながら一緒にビールを飲まれた(私ならしゃっくりが出そうだ)。何の集まりだったのだろう? とんかつ定食のような記憶があるから最初はこれで帰るつもりだったのだろうか。

3人とも30代、研究職として将来に不安を感じていた。
手帳を見れば、その後場所を変えて本格的に飲み始め夜中の1時半、終電がなくなりその日は妻がいなかったのでテレクラ赤い糸で朝まで過ごした。


緩やかに下っていくと靖国通りに出る。
正面にコマ劇場跡にできたホテルが見えた。

靖国通りの東を見る。
新宿サンパークというビルが残っていた。

1978年ころ、ここの8階にサ・バーンというジャガイモ料理の店があった。確か高見沢秀茂と町田憲一と一緒ではなかったか? 高見沢の知っている店で、アーリータイムスというバーボンのボトルを注文する様子からさすが慶応ボーイはおしゃれだな、と感心した。
この店はその後一度使わせてもらった気がする。

サンパークのビルでは比較的安く食事ができた記憶がある。

1979年10月「アングル」

靖国通りを渡って西口へのガードをみる。

2020-09-13
いよいよ歌舞伎町に入っていく。
正面、ゴジラが顔をだしているのがコマ劇場の跡地にできた新宿東宝ビル。
2015年ホテルと合わせ開業したらしい。
  
コマ劇場は1956年開業、1958年には第9回紅白歌合戦が開催された。美空ひばりや北島三郎などのショウだけでなく、ミュージカルやボリショイ劇場バレエ団、宝塚歌劇なども興行された。しかし老朽化もあり2008年12月31日生放送「第41回年忘れにっぽんの歌」を最後に閉館。2011年から解体したという。

東宝ビル(コマ劇場)(写真右)の西に回ってみる。
歌舞伎町はT字路が多い。戦後の街路設計で、正面に店が見え、角を曲がると別の景色が広がるようにしたらしい。
曲がるとHumax Pavilion 新宿がみえた(写真中央)。 
以前はジョイパックビル(1971竣工。2009ジョイシネマ全館閉館、2011大改修)といった。

1979年、このビル4階にあったディスコ「ニューヨーク・ニューヨーク」に来た。
当時、研究室のメンバーはみな地方出身、高木さん(長崎)、藤井さん(富山)木内さん(長野)、渋谷(福島)、合田(広島)、高校から大学までまじめに勉強しているうちに年を取り、同棲していたフジキヨ(福井)は別として、誰もディスコに行ったことがなかった。

ジョン・トラボルタ「サタデー・ナイト・フィーバー」が1978年だから皆関心があったのだろう。確か東京生まれ東京育ちの教授秘書、山崎麻美さんに連れてきてもらったのではなかったか? 度肝を抜かれる雰囲気に圧倒されたが、次第に慣れ、へんてこな踊りだっただろうが、いい経験をした。当然ナンパする度胸まではなかった。

アングル 1979年10月別冊号
ここにある店はほとんどなくなった。

2020-09-13
HUMAX・ジョイパックピルの隣はアパホテルになっていた。
2015年9月開業という。インバウンド客がいなくなりひっそりしていた。

ここは昔、1955竣工のグランドビルといい、オデオン座などが入居していた。
1975年、第一東亜会館と改称。2009年全面閉館。解体。
7階にダンスのステレオホールがあった。

昭和の社交場、ダンスホールの老舗、ステレオホールに初めて来たのは2004年5月4日、モエギさんに連れてきてもらった。しかし通うことはなく、たまにダンスホールに行くときは鶯谷の新世紀だった。
この年の9月に競技デビューしたのでホールで遊ぶことはなくなったが、2008年12月21日、佐竹さんに頼まれ、パーティの男性要員としてアルバイトに来て7000円もらった。
これが私の歌舞伎町にきた最後となった。
ステレオホールは翌2009年11月に閉店。

2020-09-13
コマ劇場を背にしたこの広場はシネシティ広場というらしい。
かつて正面には圧倒的存在感のミラノ座ビル(新宿TOKYU MILANO)があった。
ここは1956年、新宿東急文化会館竣工、ミラノ座など入居。1967スケートリンク跡にミラノボウル開業。ミラノボウルは一度来たことあるようなメモの痕跡がある。

しかし、2014年12月すべて閉鎖、
隣のカプセルホテル跡地(グリーンプラザ新宿)を合わせた約4600平米の敷地に、48階建てホテルを含めた複合施設を目指し2019年8月に工事着工、2022年度の竣工の予定。

西武新宿駅に近いが東急というのが面白い。
渋谷の西武パルコのようなものか。


広場の南側は、手前がヒューマックス パビリオン 新宿アネックス。 
1958年地球会館竣工、地球座など入居。2011年大改修。
隣(写真おく)が第二東亜会館、1969年開業である。

さて、真ん中の広場。シネシティ広場というらしい。
最初はレインボーガーデンと呼ばれ、中央に噴水があった。噴水には7色のスポットライトが当たり、4種の大きなプランターが飾られていたという。

1973年には名称が「ヤングスポット」という「ナウい」名前に変更され再整備。その際にも噴水は残った。
(この写真だけ2023年、東急歌舞伎町タワー公式サイトから引用)

私が上京した1975年の「俺たちの旅」のオープニングでは中村雅俊らがこの池に飛び込んでいる。

それよりも当時、早稲田の学生が6大学野球のあとは、ここに集まり、朝まで大騒ぎした。
学生が柱に登り、池に飛び込んだ。明治の学生も来た。慶応は銀座か渋谷だろう。

1979年頃の噴水広場
歌舞伎町るねっさんすBlog by てらたにこういち
https://kabuki-cho.blog.ss-blog.jp/2007-11-27

ところが、池に入るのを危険とし、1998年、当局は池を埋めてしまった。
http://web2.nazca.co.jp/HP37/page036.html
学生も集まらなくなってしまった広場を再生しようと、2007年映画館の中心ということでシネシティ広場として再整備。さらに2016年には中心にあった段差をなくし、完全にフラットにした。
いまは臨時にスケートリンクを作ったりイベント広場になっている。
2020-09-13
うっすらと記憶にある池を思う。
敷石の色が変わっているところが池の中心だろうか。
それにしても、水に飛び込んでもいいではないか。
入る若者も見物人も喜んでいた。
歌舞伎町らしい光景だった。
当時のお役所?あるいは時代?はずいぶんつまらない頭の人ばかりだったか。
噴水の復活を望む。
もう私が歌舞伎町に行くことはないけれど。



千駄木菜園 総目次

2020年9月9日水曜日

サツマイモの芋虫、エビガラスズメ

6月に苗(茎)を植えたサツマイモが猛暑の間にはびこった。
2020-08-26

ツルは地面を這い、葉の付け根から根が出る。放っておくとその根が芋となり、養分が分散されるため、蔓を引き起こして根が付かないようにしなくてはならない。
2020-08-26
根が赤く、細い芋になりかけている。

でかい虫がいてびっくり。
気持ち悪くて、この年になってもまだ慣れない。

2020-08-26
灰褐色のものもいる。
アゲハのように成長すると変色するのかな?

イモムシという言葉がある。
青虫、毛虫、ヨトウムシ、シャクトリムシと、蝶・蛾の幼虫を素朴に分類すれば、イモムシというのは、毛が無くてそこそこ大きくて青虫でないものを指す。
しかしイモムシというからには芋と関係あるのではないか?

元来はサトイモの葉につくセスジスズメやキイロスズメ、サツマイモの葉につくエビガラスズメなどの、芋類の葉を食べるスズメガ科の幼虫を指す言葉らしい。

ネットで調べたら、上の写真の幼虫は確かにエビガラスズメだった。
角(ツノ)のある方が尾部。
スズメガのうち、エビのような模様なのかな?
スズメガが雀のような柄だったらエビガラと矛盾する。
雀のようにずんぐりして鳥のように早く飛ぶらしい。
この芋虫もウィンナーを思わせるほど太く大きいものがいたが気持ち悪くて写真は載せない。

ところで初めてサツマイモを作ったのだが、虫はどこから来たのだろう?
多分このあたりでサツマイモを作っているところはないだろう。
他の植物から来たとしてもこの庭では初めてみた。
あたかもサツマイモの森の中から湧いたようだ。

2020-08-27
開成、工事中

2020-08-29
ハクビシンにやられ16本のうち育ちの悪かった2本だけ残ったが、やはり受精不十分。
サツマイモの邪魔になっていたので抜いた。
もちろん食べられない。
来年まいてみよう。

2020-08-29
キウリが元気ないので抜いたら根にこぶが。
ネコブセンチュウだろうか。

2020-08-30
こちらはインゲンにハダニ。花咲かず。
ナス、トマトのハダニがこちらにうつったか。

病気に虫害。
野菜作りは難しい。

2020-09-09
蔓を起こして2週間近く。
サツマイモは勢いを増し、手前の大根のネットに這い上がろうとする。
ネットがなければ大根も覆われてしまっただろう。
向こうの落花生は圧迫され、枝を広げられずに花が咲いても花柄(かへい)が地面に潜れない。

2020-09-09
サツマイモの蔓を引き上げているうちに、ジャングルの中に枝豆を3本見つけた。
完全に埋もれていたから、すっかり忘れていた。

(追記 2021‐10‐12)
サツマイモ栽培2年目、芋虫は夜行性ということが分かった。
夜畑を見回り、1週間で10匹くらいの幼虫を捕まえた。
2021‐10‐11
夜、じっと止まっているガも2匹見つけた。
割りばしで捕まえ、そのまま力を込めて殺した。
外側の羽は枯れ葉にそっくり。内側が鮮やか。
しかしエビ柄ではない。
ネットで検索するとアケビコノハというらしい。
この幼虫は捕まえた芋虫とは違うから成虫がどこかから飛んできたのだろう。

2020年8月24日月曜日

神田上水の謎2つ、どうやって川を越えるか?

1.掛樋(水道橋)跡は白山通りより高いところにあるが・・?
2.上水はなぜ南岸を通らなかったか?

神田上水は文京区関口で取水された後、関口(目白)台地、小日向台地、小石川台地の南端をとおって水戸屋敷に入り、今の水道橋の東で外堀(神田川)をわたり、猿楽町に至る。
嘉永6年
水道橋の東に上水樋が描かれている。
ここは行ってみればわかるが、お茶の水坂の中腹である。
水戸屋敷の東、小石川(千川)が流れる今の白山通りより高いところにある。

ここまで水は上がらないのでは? 
どうやって小石川を越えたか? 
本当は地形通りに下がらず、高架だったのではないか?

そんなことを考えながら現地に行ってみた。
雨で暑さは緩んだとはいえ歩くのは大変なので白山から2駅地下鉄にのった。
2020-08-23 11:04
JR水道橋駅の東口、水道橋北詰
、江戸時代は延焼防止か、広小路になっていた。
いまは中央線の向こう千代田区側に(左から)東洋高校、日大経済学部、東京歯科大のビルが並ぶ。文京区側と合わせ学校の多い地区だ。

振り返れば後楽園ドームホテル、黄色いビル、ラクーアなど。
ここは小石川台地と本郷台地の間の谷で、小石川(千川)が流れていた。
低地だから丸ノ内線は地上に出てしまう。
この谷に神田上水が下りたら、懸樋の場所までどうやって水が上がるのか?

懸樋(水道橋)を描いたレリーフ
ここは思ったより景色が良い。

11:07
白山通りに架かる橋は江戸切絵図の時代から水道橋といった。
橋の名前は目印となるものに「橋」をつける。
ここは東に水道橋(すいどうきょう)があったから水道橋橋になるのではないかとも思ったが、水道に橋を付けたと思えばいいのか。

暗渠の出口のようなものがある。
先月、江戸川橋のブログでも書いたが、洪水対策で白鳥橋下流で分流し水道橋下流で本川に合流する水道橋分水路の吐き出し口と、昌平橋下流で出るお茶の水分水路の吞み口である。神田川がJRと並行するようになってからは、江戸川橋分水路と異なり、川の北側に掘られている。同じ側に掘られたのだから、吐口と吞み口が並ぶのは当然である。

11:08
外堀通りのお茶の水坂を上がっていく。
このモニュメントは上水道の懸樋を表しているのかな。

振り向けば水道橋駅に出入りする電車

11:10
お茶の水分水路の記念碑
この下は水道橋分水路の吐き出し口でもあるはずだが、吞み口を優先するのかな。

ありました。目的の神田上水懸樋(掛樋)跡。
だいぶ白山通りから坂を上っている。
どうやって水をここまで上げたか?

水戸屋敷からこの掛樋までの上水路の流路を知るため、この日は近くの東京都水道歴史館に行くことになっていた。そのためには外堀通りを渡らねばならない。
11:14
ところが外堀通りは水道橋駅からお茶の水橋近くの順天堂大学まで、ほぼJRの一駅区間にわたって横断歩道がない。それどころか、南側はガードレールにまったく切れ目がない。ひとたび足を踏み入れたら次の駅に行くまで散歩を中断できなくなっている。仕方がないのでガードレールを乗り越えて車道を渡った。

水道歴史館は1,2階が展示室で、3階がレファレンスサービスのある資料室になっている。
今はコロナでレファレンスサービスは予約が必要。
行くと係の人が待っていてくれて、『上水記』(東京都水道局編・発行)を見せてくださった。寛政3年(1791)の作図である。絵図の文字を活字に変えた図が添えられている。
神田上水は水戸屋敷を出た後、大下水(千川、小石川の下流)を掛樋で越えたあと、「万年石樋」となって神田川掛樋まで伸びていた。つまり、密閉された暗渠である。

これなら現在のゲリラ豪雨でマンホールから水が噴き出すのと同じで、一旦低くなっても開渠部分の高さまでは上がれる。
つまりこうした低くくぐる上水樋は多くあった。

しかしそうだとしても、大下水の上と同じ高さまでしか水は上がらない。
11:39
「もりやま」は鰻屋

このあと2階の展示室を見たら、懸樋はお茶の水坂の地面からかなり下を通っていることが分かった。よく考えたら当たり前である。あの記念石碑の高さから懸樋が渡っていると錯覚していた。

11:40
これだけ低いところを通るからには豪雨洪水の時は上水懸樋は流されたことだろう。

しかしもっと西、つまりお茶の水坂の下の方で神田川を渡せば深く掘る必要はなかった。なぜ中腹まで持ってきたか? 今ある江戸の地図は中期、末期ばかりで上水建設時の地図が少ない。だが水戸屋敷すら通過したのだから有力大名屋敷、寺院があっても障害にはならなかったはずである。
正保年中江戸絵図(1644ころ) 国立公文書館蔵
掛樋の場所には吉祥寺があった。

さて、2つ目の謎。
神田上水は関口で堰き止めた後、神田川の北、文京区を流れるが、千代田区に水を供給するなら、上水は南を流せばよかったのではないか? そうすれば神田川を渡す必要もない。
この答えは、考えると同時に思いついた。
昔の神田川は飯田橋を過ぎたあたりから平川として日比谷に流れ込んでいた。大名小路や日本橋など江戸城大手門の東に給水するなら神田川の左岸(北)を流したほうがいい。

と、安直に思ったが、神田川が駿河台を切り開いて東に行ったのはいつか?
伊達藩が請け負った仙台掘は1620年、秀忠の時代に正宗が受け1625年完成した。そのご万治4年(1661年)までには船が通れるように拡張された。

一方神田上水のほうはよく分かっていない。『水戸紀年』によると水戸藩邸に上水が引かれるようになったのが1629年(寛永6年)とあるから、その少し前だろう。

すでに駿河台の掘削が始まっているから、北側を流しても南側を流しても、川や濠を渡ることは避けられない。

ひょっとしたら南ルートは低湿地が多かったのかもしれないし、あるいは神田上水の前の小石川上水の設備を使うため北に流したのかもしれない。

水道歴史館は分かっているだけでも1997、2012,2015、2019、につづき5回目である。
地形と歴史を両方考えるから面白い。


20200721 文京区と谷中の全228坂道ランキング

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