金沢は2度目。
1984年、やはり薬学会が金沢で行われた。
当時、大きな学会ができるようなホテルや会議場もなく、薬学会も金沢大学で行われた。
そして金沢大学は、戦前の陸軍と入れ替わるように、お城の中にあった。
医学部、薬学、病院、工学部を除く法文、教養、理学部などがほんとうに城内にあったのだ。
34年後、3/26、昼休みにお城を訪ねた。
全く当時の面影がない。一切大学の建物が残っていない。
時間もないのでぐるぐる回ったが、ほんのわずかな記憶の場所がどこだったか、さっぱりわからない。
思い切って管理事務所を訪ねた。観光案内所じゃないから普通のオフィスで、それでもご親切に資料を探してくださった。
それが以下の2枚である。
第九師団、第六旅団、第七連隊、という字が見える。
説明すれば、第九師団は、北陸の第7(金沢)、第35(富山)、第19(敦賀)、第36(鯖江)の4つの連隊からなり、7と35で第六旅団、19と36で第18旅団(敦賀)を構成した。
明治陸軍は各地の不平士族の鎮圧が大きな目的だったから、鎮台として司令部、兵舎を守りの堅い城内に置くのは合理的である。薩摩押さえの熊本鎮台(のちの第6師団)がいい例だ。
第九師団は日清が終わって日露戦争に備えてできた。既に鎮台が師団と変わり外征が目的になっていたから城の中にある必要はなかったのだが、まとまった土地、権威維持にふさわしい、とここに入ったのだろうか。藩政時代の建物もいくつか使えたかもしれない。
それが、敗戦とともに城内が空き地となり、大学が入った。
軍の建物をそのまま使ったと思いきや、ずいぶん建て替えている。それでも戦前の建物は残っていただろう。1984年、20代のころはそういうものに興味がなかった。
じっと見ると、34年前、埃っぽい道を歩き学生食堂に入って選抜高校野球を見たのは、二の丸の北、学生会館のあたりだと思う。
すっかり軍も大学もなくなった城内を歩いてみる。
玉泉院丸庭園
これは34年前にはなかった。説明を見れば、5年にわたる発掘調査と文献から復元、2015年に完成したという。
発掘調査は今も続く。
どうも、大学が移転した後、江戸時代の建物の位置など調査して城全体を復元する計画があるらしい。
城で一番好きなのは、こういう説明も何もない石垣や空堀。
第6旅団司令部
大学時代は、大学教育開放センターに使われていたという。
何とオシャレなこと。
本丸と二の丸の間の橋から五十間長屋を見る。
もちろん大学校舎をつぶして復元したのである。
金沢城の中心は二の丸であった。
御殿を再建する計画があるらしい。ただ建てるだけでなく襖、たたみ、欄間なども文献から推定して再現するらしいが、加賀前田家のこと、豪華絢爛なものを現代作るとなるといくらかかるのだろう?
それにしても、あちこちで草取り、植栽や柵のペンキ塗りなど、作業している人の多いこと。これは維持だけで相当金がかかるだろう。
第7連隊兵舎があったところ。
ここは、金沢大学が兵舎を校舎に使ったか、あるいは新校舎を建てた場所かと思ったら、グランドだった。東京の私立などグランドなど持てないのに、運動場やテニスコートまで城内にあるとは、金沢城は広い。
金沢大学の構内図をみていて、1984年の学会中、散歩して石垣の上から市内を見たのは、本丸の東南のすみ、巽櫓あとだと思われた。行こうと思ったら、封鎖されている。イノシシが出たと。
以前はこんな森はなかった気がする。
陸軍時代、石垣の途中にレンガで作られたトンネル。
そんなに向こうに行きたいなら、ぐるっと迂回すればいいと思うのだが。
トンネルづくりの訓練だったのだろうか??
金沢城時代の蔵。右は本丸跡に通じ、イノシシ出没で立ち入り禁止。
日陰にはまだ雪が残る。
石川門の内側から見る五十間長屋。ここは教養学部だった。
兼六園に向いている石川門。昔はこれしかなかった。
兼六園前の茶店。この景色はよく覚えている。
1984年、27歳の時、上に立って市内を眺めた石垣
案内所にいらしたボランティアのお二人に、金沢城の大きさと、それを復元しようという金沢市の意気込みに感心したと申すと
クリアファイルをもってこられて、過去の知事、市長などの談話を含む、大学移転から金沢城復活に関する新聞切抜き記事を見せてくださった。
「いやぁ、こんなにお金をかけて、中には反対する人もいます」
「街並みなんかも指導があって勝手に直せない。観光業者はいいけど一般人は迷惑だと思う人もいる」
「イノシシは噂話ではないか、私はいないと思う」
「でも川伝いに山から下りてきたのかもしれない。以前クマが檻にかかったんだから」
など、面白い話が聞けた。
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