2020年7月16日木曜日

滝沢馬琴と深光寺のミョウガ

7月12日、巻石通りの寺寺、徳川慶喜邸あとをみて、荒木坂を上り、切支丹屋敷を経て蛙坂を下りた。

20200713 巻石通り、金剛寺の場所、れんげ山霊園の不思議
20200714 第六天町の谷を挟んだ徳川慶喜邸と会津松平邸
20200715 切支丹坂と蛙坂、パークハウス小日向の遺骨

2020-07-12 15:06
蛙坂から茗荷谷に降りるとき、谷の上を丸ノ内線が通った。

15:06
蛙坂下から地下鉄高架を右にみて歩くと
左に宗四郎稲荷大明神。

ここの茗荷谷だったか、どこかの谷だったか、歩きだったか自転車だったか、道端に茗荷を見たような記憶がある。10年前だったか40年前だったか、いや、あれは夢だったかもしれない、と思いながらも茗荷のありそうな地面、空き地を探してしまう。
15:08
谷底の道は拓殖大学東門にぶつかった。
右を行くと茗荷坂をのぼり茗荷谷駅にいく。
手前右に滝沢馬琴の墓があるという深光寺。

15:09
深光寺(じんこうじ)
我々は滝沢馬琴と習ったが、ウィキペディアでは曲亭馬琴とあった。
本名が滝沢興邦、戯号(ペンネーム)が曲亭馬琴で、これを混ぜることはないという。

古い墓石、石像など
赤い幟は〇福神とよめる。 小石川七福神の一つ恵比寿天のことだろう。

15:10
本殿前の一番手前に馬琴(1767- 1848)墓
南総里見八犬伝など原稿料だけで生計をたてられた日本初の作家といわれる。

夏ミカン?
馬琴は深川の旗本・松平信成(1000石)の屋敷で、同家用人・滝沢興義の子として生まれた。長じて俳諧に興味を持つとともに、武家の渡り奉公を転々とし、25歳で武家としての名を捨て、戯作者として出発した。
27歳のとき、履物商「伊勢屋」の未亡人・百(30歳)の婿となり、彼女との間に1男3女をもうける。
南総里見八犬伝は28年を費やしたライフワーク。葛飾北斎と親しく、彼の作品の挿絵は北斎が一番多い。

15:11
ようやくみつけた茗荷谷のミョウガ

1833、67歳ころから目が不自由になり
1839、73歳で失明、亡くなった息子(医師・宗伯)の妻、すなわち同居していた嫁のお路(みち)が口述筆記した。3歳年上の妻、お百は嫉妬したとか。
1841、文化文政時代の爛熟期、八犬伝は完結、この年お百が78歳で亡くなり、
1848、口述筆記を続けた馬琴は82歳の生涯を閉じた。

お路(土岐村路)は、八犬伝の後半になるとときに馬琴の代作もし、才女、貞女としても知られる。
2020-07-12 15:13

この散歩の目的の一つは茗荷谷でミョウガを探すことだった。
偶然にも馬琴の墓の前、夏ミカンの下で見つけたが、深光寺から降りてきたら拓大東門の前に大量に植えられ看板もたっていた。

千駄木のミョウガは今、根のわきに芽が出てきたところである。


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