2020年7月27日月曜日

江戸川橋の不思議3つ。地名と分水路

江戸川橋とは奇妙な名前である。

1.江戸川、これは江戸川区と千葉県市川の間を流れる川ではない。
あちらは千葉から見て江戸との間にあるから彼らが江戸川というのは自然である。
しかし、東京の真ん中で江戸川と名付けるだろうか?
東京の人はおでんを関東煮とはいわない。

2.江戸川にかかっている橋に江戸川橋とつけるだろうか?
多摩川大橋はあるが、神田川橋、石神井川橋、妙正寺川橋など聞いたことがない。

2020-07-26 14:04
江戸川橋の上で
東(下流方面)をみる。
上は首都高5号線

1の答えとしては、おそらく昔は豊島郡高田村あたりからみれば、はるか下流の江戸に向かって流れる川だから江戸川といったのかもしれない。
ちなみに、江戸川は神田川の中流域、すなわち都電早稲田駅付近からJR飯田橋駅付近まで、3キロ程度の部分で使われた名前だが、いまは神田川に統一されている。

谷端川、千川、小石川はすべて暗渠になってしまったから、統一する必要がでたときにはどれも存在しなかった。

14:00
東から江戸川橋を見る
あの口は暗渠となった水窪川の出口だろうか。
(別ブログ)

2については分からない。
江戸川に橋が一つしかなかったときにつけられた名前だろう。
長さが3キロ程度の範囲であればうなづける。

13:58
左の口は暗渠となった弦巻川の出口だろう。
しかし、橋の下で川が3つに分かれているのはなぜか?

帰宅後調べたら、江戸川橋分水路という。
河道拡幅による洪水対策が困難であったため、昭和 47~52 年にかけて神田川の水を本流から分離し、並行する目白通りの下に流す工事をした。2本のうち、1本は 1,060m下の新白鳥橋下流で本川に合流、もう一本は さらに580m下流の船河原橋下流で神田川本川に合流する。(神田川には他に、お茶の水分水路、高田馬場分水路、水道橋分水路の 3 つの分水路あり)。
https://www.kensetsu.metro.tokyo.lg.jp/jigyo/river/chusho_seibi/bunsuiro.html

14:05
じっと川を見ている老婦人とその嫁さんみたいな(少しだけ若い)老婦人がいらした。
絵を描いているわけでもなく、ただ川面を飽きずに見ていたらした。
日課のようで、椅子をたたんで南詰のほうに帰って行かれた。
左上は5号線の早稲田出口

14:09
橋のそばに江戸川公園の石碑 男爵阪谷芳郎書

下流にあった小石川江戸川町、西江戸川町という町名も昭和40年の地名変更で消え、いま付近での「江戸川」は死語になった。江戸川といえばほぼ全員が江戸川区のほうを連想する。
その結果、新江戸川公園が肥後細川邸園に改称された。しかし、ここは江戸川公園のままである。こんな立派な石碑があるからか、あるいは男爵とあるように開園が1919年で江戸川区(1932年成立)より早く、町に古くから親しまれているからか。

阪谷芳郎は大蔵官僚であったが、日露戦争の戦費調達などの功績により男爵が授けられた。戦勝で軍人、官僚、経済人に多くの華族が誕生した時期である。明治42年の地図に小石川植物園の北東、阪谷という大きな屋敷がある。彼の邸宅であろう。東京市長も務めた。



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