2025年11月22日土曜日

鳥はネットに穴をあけて柿を食う

11月3日の芋ほりに、まだ色浅い柿を初めてとった。6個。
しかし硬くて甘くなかった。
2025-11-12
翌週、9日後、そろそろいいかな、と思って木を見に行ったら鳥に食われている。
ネットの下から入ったのだろう。
ちょうど食べごろになったときに鳥は来る。
2025-11-12
これからは鳥と競争。
食べきれないが、13個とった。
木を小さくしたいこともあり、枝ごととった。

さらに翌週。
2025-11-17
温州ミカン、
こちらは柿があるうちは鳥が来ない。

柿のほうを見に行ったらまた食われていた。
2025-11-17
鳥はネットの中に入ると、天国のように美味しいものがいっぱいある。

2025-11-17
2025-11-17
この日は40個とった。
ダンスの仲間に13個、アルバイト先に16個持って行った。

しかし、まだ熟していないからあまり甘くない。
せっかくだから美味しく食べてもらいたい。
手渡すときに数日おいたほうが良いといったが、うまく追熟してくれるだろうか?

柿というのは糖度14~16度。つまり100グラムの果実に15グラムの糖分が溶けている。
(ちなみに柿、桃、みかんはショ糖が多く、ナシ、スイカは果糖が多い。ブドウ、イチゴはブドウ糖と果糖が半々くらい)
これだけの糖分があっても、ほとんどが細胞内、液胞の中にある。セルロースでできた細胞壁は頑丈で、咀嚼してもなかなか糖液が外に出てこない。
糖が舌に触れなければ甘くない。

室内でおいておいて追熟つまり細胞壁が劣化するだろうか。
いちばんいいのは木で熟させればいいが、鳥が来る。

翌日、見るとまた食われていた。
かなり丁寧にネットを張っていたが、どこからはいるのだろう?
ここではっと気が付いた。
数年前、ミカンのネットの中に入り、私に見つかって逃げようとして飛び回り暴れている鳥がいたことから、鳥は飛びながらネットに入るものだと思っていた。

しかし、鳥は巣などに入るときは着地してちょんちょんと両足で歩いて入っていくのである。木のうろを巣にするものなどは、穴の手前あるいは枝などに着地してから小さな穴に入っていく。翼はもちろん閉じているからネズミと同じように小さな穴があれば入っていく。森に取り付ける野鳥の巣箱の穴の小ささを思えばよい。

今回はネットに穴を見つけた。
2025-11-18
ネットに穴2か所。
空中で浮揚しながら開けることは不可能だから、ネットに爪でしがみつき、嘴で穴をあけたのである。ここからも鳥はうんと小さな穴があれば簡単に入ることが分かる。ネットでは防げないことが分かった。

数日後、食われている柿が増えていた。
2025₋11₋21
こうなるともう収穫して室内で追熟させたほうが良い。
2025₋11₋21
2025₋11₋21
4日前と同じような写真だが、別の日である。
この日は33個とった。もちろん未熟である。

なおも食われ続ける。
近くの千駄木小学校の木々の中でギャーギャー言っている鳥だろうか。
しかし平均すると1日に1個か2個。
何匹も来るのでなく、1匹か2匹の犯行だろう。
しかし、それでも食われるのは悔しい。
全部取ることにした。
2025₋11₋22
48 個とって 8.7kg 一つあたり 181.3g
最大のものは 272 グラムあった。

今までとったものが140個。木にはまだ11個残っているから、今年は151個。
鳥に食われたものも入れれば160個以上は生った。

一昨年の363個には及ばないが、昨年の55個よりは多かった。
問題は熟さない前に取らざるを得なかったことだ。
昨年は
12月8日、葉が全部落ち、このころが食べごろだった。
12月10日、光合成がないことから全部収穫、室内に保管
12月15日、皮むきで手がぬるぬるするが柔らか、食べごろ。
12月17日、皮むきで手がべとべとになる。

今年はだいぶ早くとってしまったことが分かる。

ところでこの柿は次郎柿と富有柿のどちらか?
双方似ているが、形は次郎柿のほうが四角っぽくて食感はシャキシャキ。
富有柿は四角でも丸みを帯び、少し背が高い。食感はしっとり。
我が家の柿は、形状は次郎柿に近いが、収穫時期は10月から11月上旬の次郎柿ではなく、そのあとの富有柿のころであり、熟すとしっとりした食感になる。
今年は室内に1か月おくことになるがどうなるか?

2025年11月8日土曜日

アピオス・アメリカホド芋を初めて栽培

 西洋の花の名前かと思ったアピオスを知ったのは、昨年、偶然による。

リンゴや柑橘類の糖分を調べるのに文科省公式サイトから日本食品標準成分表(2023)をみていた。
ここは果実類、豆類、野菜類、などと分類されている。たまたま、その中の芋・でんぷん類をみたら、一番最初にアメリカほど芋とあった(表はアイウエオ順)。たんぱく質が他の芋よりずっと高い。これは何だろう?

ウィキペディアで「アメリカほど芋」と入れると、「アメリカホド」という項目が出てくる。
学名: Apios americana。マメ科ホドイモ属の植物。
原産は北アメリカ大陸東部で、日本には明治時代中期に導入された。
英名はpotato bean、Indian potato、ground nutなど。日本では属名であるアピオスや、単にホド(ホドイモ)ともよばれる。

アメリカほど芋ということから、ほど芋というのが古くから日本にあったのだろう。実際、
日本には在来野生種であるホドイモ (Apios fortunei) が存在するが、青森を中心に作物として栽培されているのはアメリカホドだという。

ほど芋の語源は何だろう?
真っ先に思うのは、古事記にも出てくる古語の「ホト」。女性の陰部である。転じて山間の窪んだ所の意味もあるから、谷間に生える芋から名づけられたかと思ったが、むしろ日当たりのいい林の中に自生する。

自分で栽培してみようと思った。
ネットで調べたらヤフーのフリマで種芋が売っていた。
初めてフリマのアカウントを作った。
2024₋11₋09
アピオス アメリカホド芋の種芋
ヤフー・フリマ
商品名:アピオス 種芋 10球 北海道家庭菜園
商品金額:680円

到着した商品は10玉より多かった。
買ったはいいが、植える場所を決めていないので地中に保存し、越冬。

年が明け、春が進み、4月7日。
2025‐04‐07
掘ってみるとネットの網目から芽(根?)がでている。
ネットからイモを取り出すと芽が全て引きちぎれそうなので、ハサミでネットを切った。それでも芽は取れてしまった。ネットに入れての地中保存は良くない。不織布を敷いてその上にばらばらに置いて土をかけるほうがいいかもしれない。

5番畝の横、リビングの日除けになるよう植えた。
東ブロック塀際、ヒラツカレッドとせとかの東にも2個ずつ植える。

発芽率は7~8割。
夏になった。
蔓は細い。
2025‐07‐03
紫色の花が咲いた。
観賞用にもなるらしいが、そこまで美しくはない。
植える間隔、ネットの目の大きさにもよるだろうが、日除けになるほどでもない。

同じマメ科の大豆やエンドウと違い、花が咲いてもそこに実はならない。
2025‐07‐03
デッキに沿ってアピオスを植えたが、並行する5番畝にはサツマイモを植えた。
一緒に収穫しようと思う。
さらに2か月経過。
2025₋09₋23
アピオスの茎にカメムシがびっしり付いている。
枝豆などにつくのと同じ。豆類の茎の汁は格別にうまいのだろうか?
マメ類に豊富なタンパク質あるいはその原料のアミノ酸が茎を流れているのだろうか?

アミノ酸を合成するには窒素源を必要とする。
豆類は地中の硝酸イオン(NO₃⁻)やアンモニウムイオン(NH₄⁺)だけでは足りず、根粒菌を共生させ、空気中の窒素を固定してもらっている。ほど芋の場合、窒素源の取り込み口も、産物のタンパク質の貯蔵も地中の根である。原料が茎まで上がってこなくてもよいかと思うが、タンパク質、アミノ酸の炭素部分は葉で合成されるから、アミノ酸、タンパク質本体も葉で合成され、それが根のほうまで下りてくるのだろう。
それがほかの植物より豊富だからカメムシが集まるということか。
他の植物にはまったく付かないのに、マメ科だけに集まってくる。
ちなみにタンパク質、アミノ酸は茎を「流れる」のではなく濃いほう(葉)から薄いほうに拡散してるに過ぎないのだろう。

日除けとして上のほうまで蔓を伸ばしてしまったから消毒も難しい。

10月になると山芋同様に葉が黄色くなってきた。
ほど芋は北方の植物であることが分かる。
青々しているサツマイモなどと対照的である。

収穫できる時期だが、生い茂るサツマイモが邪魔で掘れない。
2025‐11‐03
葉は黄色を通り越して枯れてしまった。
この日はサツマイモを掘る日。
この畝を担当した娘が、ほど芋もいくつか一緒に掘り出した。
翌朝、サツマイモがなくなって、私も本格的に掘った。
2025‐11‐04
ほど芋の根はサツマイモの畝を完全に横断して伸びていた。
フリマで送られてきた種芋は蔓(根?地下茎?)でつながっていて、その乾燥した蔓は太くて丈夫そうであった。しかし今掘り出した蔓は細くて弱く、引っ張るとちぎれ、「芋づる式に」とはいかなかった。

ところで「芋づる式に」とは何だろう?
ジャガイモ、サツマイモ、里芋、山芋はいずれも地中に芋はできるが、芋は株の下に固まっていて、株を引っ張ればほぼ同時にすべて出る。山芋に至っては、芋はたった一つしかない。

ほど芋の形態だけが「芋づる式に」に合うが、こんなマイナーな芋がことわざになるわけがない。おそらくサツマイモだろう。サツマイモの茎は、蔓返しなどせずに野放しにすれば、地上を這ううちにあちこちに根をおろし、それが多数の小さな芋にまで発展する。おそらく地上の茎をひっぱるとのそれら小型多数の芋がつながって取れることを指したのだろう。しかし近年の栽培品種は蔓返しをしなくても小芋はできにくくなっているから諺が死語になりつつある。
2025‐11‐05
茎すなわち株のすぐ下に大きめの親芋があり、そこから根が何本か出て、その根のところどころが肥大して芋になる。その親芋は埋めた種芋ではなさそうで、新たにできた芋のようである。

さて、根はプチプチと切れてしまうため、芋づる式とはいかない。畑を全部掘り返さなくてはならず、収穫は手間がかかった。
朝飯前の1時間を連続3日、一度サツマイモを掘った5番畝(長さ3.6m、幅1.0m)を再び最初から掘り返した。
2025‐11‐06 7:43
落花生、サツマイモなど、保存の基本は乾燥させて冷暗所だが、アピオスは小さいから乾燥させるとしわになってしまうかもしれない。

2025₋11₋07 6:43
乾燥は軽めにして、芋を根から切り離して秤量した。
芋は913グラム、根(蔓)は216グラム

この日の夕食後、一人調理した。
小さいのをいくつも洗うのが非常に面倒。
ムカゴも小さいが、あれは空中に生るから洗わなくてもよい。しかしアピオスは皮が里芋のように毛羽立っていて土を抱き込んでいるから束子で一つ一つこすらなくてはならない。
最初なので電子レンジでなく鍋で茹でた。
2025₋11₋07 22:44
楊枝が刺さるまで茹でようと思ったが、かなり早い時間に縦に割れ、楊枝を使うまでもなかった。(この後食べるときに分かったが、口に残るほどの線維が縦に無数に走っている)

ジャガイモ、サツマイモは皮まで食べてしまう私も、アピオスの皮は食べなかった。
英語名のground nutからピーナッツ様な味を期待したが、そんな味はしなかった。
豆類特有の青臭さ(もやし類の風味)が少し感じられた。

ちょっと期待しすぎだった。
洗いの面倒くささを考えると来年は作らなくてもいいかな。
いちおう種芋として、6番畝、保存用サツマイモ蔓を植えた西側、つまり端に埋めたけれども。

・・・・
これを書いているとき検索したら農水省の公式サイトに、青森県三八地域の農業普及振興室?のプレゼン資料がアップされていた。

https://www.maff.go.jp/j/seisan/gizyutu/hukyu/h_event/pdf/dream10_aomori.pdf

作付け面積は平成7年には鳥取が全国1位で100a、青森は60aの3位。それが平成16年には鳥取は栽培をやめてしまい、青森が全国の8割を占める800aの主産地となった。しかし、その後伸び悩み、というか減少し、現在は少し持ち直して700aという。青森以外は家庭菜園レベルらしい。

栽培法に関しては一つ勉強になった。すなわち、
栽培期間途中で地面にスコップを刺し、芋づる(根)を切ると、根が広がらず、芋数は減るが芋が大きくなり、また何より掘り出しが楽になるらしい。それでも栽培の手間は他の作物よりかかり、省力化対策が求められているという。

どういう会議で発表されたかは知らないが、イントロのスライドを見れば、非常に精のつく食べ物らしい。北米インディアンが他の部族と戦う前に食べたとか、青森県では「嫁入り芋」として嫁ぐ娘に母親が「体が弱ったときに掘って食べなさい」と持たせたとか、みんなで食べれば精力増強で出生率アップとか、まじめに書いてあった。

私の場合、茹でたものを一人でいっぱい食べたが、何の変化もなかった。1日の適量は3~6個というが、その何倍も食べた。
さて、洗うのが面倒なアピオス、どうやって消費しようか。まだ10分の1しか使っていない。妻は食べず、したがって調理もしてくれない。


(2025‐11‐10追記)
二回目の調理、試食。
皮をむいて食べることを前提に、洗うのは簡単にした。また加熱も簡単な電子レンジでやったせいか、すこしピーナッツ風の香ばしさが出た。これなら来年も作ろうかな。
収穫の大変さから、山芋のように肥料袋で栽培することも考えられるが、水抜きの穴から根が外に出ないか心配もある。


千駄木菜園 (総合)目次

千駄木菜園(庭と野菜と植物)目次

2025年11月6日木曜日

落花生、サツマイモ収穫

 

2025₋10₋29
落花生収穫
昨年より良い。
6番畝の一部に6株。
90センチ幅の畝に例年なら3列9株植えるところを2列6株に減らしたのが良かったか。
3番畝の一部にオオマサリを2株。こちらはサツマイモに圧迫されたのか、もともとオオマサリは収量が良くない品種なのか、あまりとれなかった。

11月2日上尾でA級戦があった。午前のラテンは19組中12組アップなのに予選敗退。午後は自信のあったボールルームだったが、こちらもまさかの1回戦敗退。
この2か月ほどの練習で踊りが変わってきたという手ごたえがあっただけに、ショックだった。その落胆と恥ずかしさとで、そそくさと会場を後にした。

幸か不幸か信じられないほど明るいうちに帰宅できたので、翌日の芋ほり大会の準備をした。
千駄木菜園の1年で一番のイベント。

繫茂した芋の蔓を切らなくてはならない。
2025₋11₋02 16:36
6番畝だけ終了。
膨大な蔓を廃棄するスペースがないため、手間取る。
暗くなったのでこの日はやめ。
2025₋11₋03 7:26
早起きして蔓をきる。5番3番も終了。
今年は高畝2列で植えた。
9:55
蔓を保存して越冬させる実験のため、採取。
ビニール袋に入れて室内、そのまま地中、半分埋めてビニールドームの3条件を試す。

作業していると次女がきた。
11:28
1歳半になる孫はまだ掘れない。

11:30
息子夫婦の子供は3か月なので部屋の中にいる。

掘り出した後、例年通りドミノピザの昼食、デザートはケーキ。

皆が団らんしている中、一人庭に出て作業を続ける。
種芋用の芋を別に分け、食用の芋の根や茎をトリミングした。
数年経ったら孫たちが手伝ってくれるだろうか。
15:39

昨年よりはましだが。
重量測定
3番畝の7割(2.9m)から 3.2キロ
5番畝全部(3.5m)から 3.7キロ
6番畝の7割(2.9m)から 2.2キロ
合計 9.1キロ
6番畝はいちばん日当たりが悪い。蔓の繁茂はどれも立派だった。
苗を何本植えたか記録しなかったが、畝の長さから50本くらいか?

過去は
 2020年 3番畝のみ 種芋1個から苗13本 (写真から6キロくらい?)
 2021年 1, 3, 5番畝 41本 (写真から12キロくらい?)
 2022年 5, 6, 7番畝 111本 22.3kg
 2023年 5, 6, 7番畝 77本 6.5kg
 2024年 5, 6, 7番畝 67本 5.5kg

長野の弟は市販苗10株で数十キロとったという。今年は特に豊作で最大の芋は3キロもあったとか。何が違うか分からない。
お化け巨大芋は人にあげるわけにもいかず、かといって捨てるわけにもいかず、炊飯器でふかし少しずつ切って、干し芋のようにして食事代わりに食べているが、さすがに飽きたという。

2025年10月30日木曜日

柿にネット、ベッド処分、ネズミ、地代の調停

 急に寒くなった。あっという間に今年も終わりそう。
冬になる前に前回以降の庭の様子を残しておく。
2025₋10₋08 
10月に入ると早くも柿が鳥に食われた。
昨年は、10月28日だったからだいぶ早い。まだ色は薄いのだが。
15:51
ネットをかぶせ始めたが作業は難航。
昨年はどうやってかぶせたのだろう?
ネットの端に2.1メートルの園芸用支柱を紐でしばりつけ、向こう側に投げようとしたが、木が大きくてうまくいかない。そもそもネットも大きいから持て余して端がどこか分からない。木の周りにいろんなものを所狭しと植えているから作業環境も最悪。

手伝ってもらおうと、家の中でテレビを見ていた妻を呼び出した。作業を再開、畝と柿の間を行き来するうちバランスを崩した。一旦はこらえるも大根の畝に転倒し、育ちつつある苗を押しつぶした。「あー、私でなくてよかった。あたしだったらうんと怒られる」と妻が言う。

暗くなってきて、見上げる首も、支柱をもつ腕も疲れ、もうやめたくなった。柿などなくても生活に困らないし。

しかし、他の苦労、心配事を考えれば大したことはない、この程度でやめたら今後どうやって生きていく? と自分に言い聞かせ、作業続行。

ついに、なんとかかぶせた。
17:42
鳥は賢いから下が開いていると入り込む。
しかし、鳥も私ももう目が見えない。この日東京の日没は17:15:44。

2025₋10₋09 7:09
早起きして何とか朝飯前にかぶせ終わった。
あとは色づくのを待つだけ。

庭の野菜つくりばかりしていて、家の中の片付けから逃げてきたが、すこしずつ終活しなくてはならない。
2025₋10₋13
子どもたちが使っていたベッドを分解して区に持って行ってもらう。
2台分で2700円だった。
以前、彼らが使った自転車を出した時と同じく、ちょっと感傷的になる。
前回同様、写真だけでも撮った。

この日の庭の様子は以下の写真。
2025₋10₋13
「せとか」の幼木に大きなアゲハの幼虫。
箸でつかむと角を出して臭いが、箸の横で腹をそっと押すようにして枝から引きはがす。そして板の上にのせて捨てると角を出さない。

2025₋10₋13
ムカゴ。
数年前に生ごみから生え、いつのまにか自生するようになった山芋のつるからムカゴをとる。大して旨いものではないが、毎年季節ものとして米に少し混ぜて炊飯する。
2025₋10₋13
白菜苗は悲惨。
今年もダイソーの2袋110円の種をまいた。
苗は成長が悪いだけでなく虫に食われた。
それでも定植した。
2025₋10₋14
先日仕掛けた粘着式ネズミ捕りにネズミがかかった。
死後数日たち悪臭で集まったハエたちもトラップされていた。

藤沢、平塚に行った翌日、10月20日、千駄木菜園の地代値上げに関する2回目の調停で東京簡易裁判所墨田庁舎に行く。
昨年12月、近年の土地、固定資産税の値上がりに応じて地代を上げたいという。
現在の月額51,200円から2倍の103,655円を提示された。固定資産税の4.0倍だから相場として高くはないという。しかしこれを払うと我が家の月収は生活保護世帯よりもはるかに少なくなる。
地主方の代理弁護士の最初の手紙には
「賃貸人側としましても、自ら直接に使用収益するわけでもない土地について、年々増加する固定資産税等を納付し、また、相続の発生時には、上昇した地価評価に基づく相続税の納付を余儀なくされております。殊更利益を追求する意図はなくとも、環境変化に応じた増額をお願いせざるを得ない状況に置かれております。」
と書いてあった。
そうだろうか?

もし地代が固定資産税と同じなら儲けはなく、確かに地価、税の値上がりは負担になるだろうが、しかしながら、2.0倍なら税と同額分がそっくり利益になり、4.0倍なら固定資産税の3倍分が利益になる。ほとんどの国民は固定資産税が上がれば困るが、彼らは地価、固定資産税が上がれば上がるほど儲かる仕組みになっている。
近隣相場と物価を考慮しなければならないアパート家賃との違いである。

しかし同じ借地人3軒との情報交換により、弁護士と不動産鑑定士の調停員たちは地主側の味方であり、どうも払わざるを得ないようである。
調停員たちからは敷地が広すぎると言われた。それを言われても・・・・

2025₋10₋23
10月19日、ネクタリンのヒラツカレッドの故郷、平塚に行ってきたので写す。
手前から、せとか、ヒラツカレッド、ビューティ(プラム)、夏ミカン。
ちょっと狭いところに植えすぎたか。
2024₋12₋13
植えたばかり、1年前の姿。
このときは狭さは感じなかったのだが。
2025₋10₋23
これらに実がなるころ、私はどうなっているか?
健康でいられるかな?
木々は私と関係なく成長する。
私が先に死ぬか、この家を去るか、いずれにしろ、私が永遠に実を収穫できるわけではない。
2025₋10₋23
温州ミカン(奥)もネットをかぶせた。
こちらは柿と違って木が小さいので簡単だった。
昨年51個、一昨年217個も生ったが、今年は100個行くかどうか。

洗濯の物干しの下までサツマイモの蔓が伸びてきて妻に文句を言われる。
週明け、11月3日に芋ほりをする。初孫も来る。




2025年10月28日火曜日

平塚の海軍火薬廠、園芸試験場の跡、中原街道の終点

10月20日、藤沢に40分ほど立ち寄った後、辻堂、茅ケ崎を通過して平塚に来た。

11:49 駅前地図

駅前でレンタサイクルを借り、初めての町を自転車で走った。
平塚に来た目的だった平塚の塚、要法寺を後にして、二番目の目的地に向かう。
要法寺北方の国道1号線に出た。中央分離帯もある広い道だが思ったより車は少ない。

この平塚の道路の広さについては、前のブログで、軍事施設を狙った平塚大空襲で全市が焦土となったことが関係することを書いた。平塚は市街地の近くに海軍火薬廠や陸軍四式戦闘機「疾風」を作っていた日本国際航空工業(中島飛行機製作所の系列工場、のちの日産車体)、横須賀海軍工廠造機部などがあった。

広い歩道を東に向かうと左手に崇善小学校がある。ここも広い。戦前は軍の施設だったのだろうか。
小学校の角を北に曲がる。
右手に緑地が見えた。
12:28
左:平塚郵便局、右:八幡山公園
八幡山公園には家康も参拝したという平塚八幡宮のほか、海軍火薬廠時代の洋館(旧横浜ゴム記念館を移設)、平和慰霊塔などもあるらしいが、立ち寄らなかった。

平塚駅からきた人と思われる平塚ベルマーレのユニフォームを着た応援団の人がいっぱい北に向かって歩いていた。これから試合があるのだろう。(2000年からチーム名を「ベルマーレ平塚」から「湘南ベルマーレ」に改称。ホームタウンを平塚1市から神奈川県7市3町へ変更・広域化した)

この交差点から北は、東も西も工場や学校、市役所、博物館などである。
左に公園があり、目的地の平塚市総合公園かと思ったら浅間緑地。スマホで地図を見たらまだ先(北方)のほうに比べ物にならないくらい広大な緑地があった。
左手、海軍火薬廠跡地に建つ広い横浜ゴムの工場をすぎると、ようやく総合公園に到着。
12:36
総合公園(右)前の松並木
これは戦前のものか、しかし空襲があったからな。
12:38
平塚市総合公園
とにかく広い。入り口から入って付近を見渡しただけ、奥までは行かなかった。
幸い、ここに平塚に来た目的の記念碑があった。
農林省園芸試験場は、明治33年農事試験場園芸部として静岡県興津町(静岡市清水区)に開かれた。大正時代に園芸試験場として独立、
戦後は園芸産業振興の必要性から昭和22年海軍火薬廠のあったこの地に移転した。1977年つくば市に移転するまで、職員二百余名が、野菜・花きと果樹の研究に従事、780名の研修生を送り出したと書いてある。

ところで1年前にネットでネクタリンの苗を買った。品種はヒラツカレッドという。
2025₋10₋23
千駄木菜園のヒラツカレッド
ハダニにやられ葉が白っぽい。

この品種は1961年、平塚で「興津」と「NJN17」を交配し、1964年初結実、66年一次選抜、71年から「モモ平塚68号」として各地で試験され、1981年にヒラツカレッドとして登録、公表された。

このネクタリンが生まれた場所を見るのが今回の平塚訪問2番目の目的だった。

しかし、戦後80年、園芸試験場が移転してからも50年近く。
海軍の施設、建物などを園芸試験場が転用し、さらにその一部が現在も公園事務所や売店にでもなっていれば最高だったが、大部分が新たに植樹され、親子連れやサッカーファンが歩いている公園にそんなものはなさそうだった。

総合公園を出ると、向かいの道路を挟んだ東側は、広大な空き地になっていた。
まさか海軍の敷地がそのままになっているわけじゃないだろうな。
12:43
総合公園の東の道路(県道606号)
調べたら、もとは海軍の敷地で、戦後1946年に第一製薬が工場をたてたようだ。2007年に第一製薬が三共と合併した後は第一三共ケミカルファーマの平塚工場として2017年まで操業、その年に閉鎖されたらしい。8年もたつのに更地のままである。
地図を見れば総合公園の北方、平塚市新町、四ノ宮にも第一三共ファーマの工場がある。

自転車で総合公園に沿って北にいくと、また門があった。
12:44
野球場入り口。
ナイター設備もあるようだ。
その西には湘南ベルマーレの本拠地、レモンガススタジアムがあった。
このように、海軍火薬廠、のち園芸試験場は非常に広かった。

さて、ネクタリン平塚レッドのふるさとのほか、平塚ではもう一つ見たいものがあった。
中原街道の語源となった中原御殿の跡地である。
中原街道は大山街道(現・玉川通り、国道246)と東海道のあいだにある。桜田通りから五反田をへて、都道2号で昭和大学病院、洗足池を通り、丸子橋で多摩川をわたり、県道2号となり武蔵小杉を過ぎ、日吉、綱島など東横線の東側を南下していく。いまもこの名で呼ばれ、かなり重要な幹線道路である。埼玉から車で綱島の叔母のところに行くとき環7から入って何回か通った。
この街道は中世以前からあり、鎌倉時代に本格的に整備され、日蓮も利用した。
1590年、家康が関東に入るときも五街道整備前であるから、この道を通ったとされる。

東海道が整備された江戸時代は東海道の脇街道となり、途中の小杉、下川井、中原に御殿が作られ、家康の駿府往還や鷹狩などにも利用された。その中原が平塚にあり、街道は平塚で東海道に合流した。

・・・
住宅街を自転車で行くと記念碑があった。
12:54
中原御殿跡地
現在は平塚市立中原小学校になっている。
住所は平塚市御殿二丁目である。
約7000坪、周囲には幅10メートルの堀がめぐらされていた。
造営から60余年後の1657年、明暦の大火のあと、解体された。

いっぽう、付随して御殿の周囲に作られた127ヘクタールにも及ぶ中原御林は、その後も厳重に保護され、その木材は江戸城修復や、東海道線平塚駅の駅舎建造などに使われた。御林は全部で16か所あり、今の平塚市総合公園もそっくり入る。明治になって官有地となり、海軍火薬廠などになった。

(ちなみに北区滝野川にあった海軍下瀬火薬製造所は明治33年に開庁したが、明治38年設立の日本火薬製造株式会社平塚工場が大正8年に海軍火薬廠になると、その製造部第5工場となり、製造部から爆薬部門が独立、昭和4年(1929)に爆薬部が舞鶴に移転すると、滝野川も閉鎖、移転した)

雨が降りそうな天気の中、平塚サイクリングはやめ、駅に向かった
途中、どこかで聞いたことがある平塚江南高校があったが寄らず。
大学2年のときの学園祭で古典ギター部が教室を会場として演奏会をした。そのとき他大学から来ている女子部員の友人が聴きに来て、その子が平塚江南だったか平塚在住だったか。女子部員に彼女の名前も電話番号も聞いたが、連絡しなかったのか連絡しても断られたのか記憶にない。
13:10
自転車を無事返却。
来るときは中央改札、北口からぐるっと回ってきたが、駐輪場から見ればすぐそばに駅の西口があった。
13:12
平塚駅西口改札は駅ビルなどの商業施設もなく、あまり人がいない。

ホームは島型2面4本あることから、終点、始発の駅になれる。
駅メロは「たなばたさま」。
1941年発表の文部省唱歌である。この年、太平洋戦争が始まり、4年後に平塚は焦土となった。その復興過程で始まった七夕祭りからJRが採用したメロディだが、もちろん戦災とは関係ない。
 
約1時間半の忙しい平塚見物だった。

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