2025年6月18日水曜日

大阪城 総構え三の丸の範囲と砲兵工廠

最近、ひま老人らしく、城一覧表を作った。

ウィキペディアで「日本の城一覧」という項目があり、そのページでは2046城ほどリストされていた。中世以前の豪族の居館・山城や古代の防塁遺跡、アイヌのチャシなど、影も形もない遺跡も含まれる。

それらすべてをエクセルに入れ、これから訪問したら少しずつ入力できるようにした。

それらのうち今まで行ったことのある城を数えたら、まだわずか89城だった。(いったい死ぬまでにリストはどのくらい埋まるのだろう?)

89のうち、熊本や福岡など昔訪ねた城は写真もないが、携帯電話を持ってからは写真くらい取っていたので、それをブログに整理することにした。

まず大阪城。

2015年6月15日、日本化学品輸出入協会から大阪でセミナーを頼まれ「世界史を変えた化学物質3 ~フェノールとプラスチック時代の幕開け~」という話をした。講演は午後1時からだったが、前日から泊ってくれという指示だったので、午前中そっくり空いた。

京阪天満橋ホテルを8:50に出発。
堀端に出た。

9:10 西外堀と乾櫓
乾(戌亥)、艮(丑寅)、巽(辰巳)はよく聞くが坤(未申、ひつじさる)はあまり聞かないのはなぜか?

大きな城は堀と石垣も立派。

大阪城は久しぶり。
1981年、就職して2か月の工場実習の間、加島の寮に住んでいた。大阪も残り一週間となる5月23日、長野から両親が大阪見物に来て、中の島から大阪城、通天閣などを案内した。

その34年後、2015年6月、西から外堀を渡って大手門の桝形に入った。
いきなり巨石が目につく。

9:21
城内巨石ランキングの5位、4位、8位の石が並ぶ。
小豆島など瀬戸内の島から切り出された花崗岩が多い。
こんなに大きくなくても良いと思うが、コンクリートなどなかった時代、大きければ大きいほど、権力の大きさを示すことができたのだろう。

大手桝形の上は多門櫓。土塀のような櫓である。
多門(多聞)とは仏法僧を四方から守護する四天王の一つ、多聞天(=毘沙門天)から来ていると思いがちだが、「門が多くある」長屋のような櫓という普通名詞である。
本丸をぐるりと内堀と二の丸が同心円状に囲む。
のように見えるが、正式には北、東、南が二の丸で、西は西の丸という。
かつて二の丸は防御、家臣団の詰所など実戦的機能を持っていたが、西の丸は居住・儀礼空間としての性格が強く、堀によって二の丸から分かれていた。
それが、明治以降陸軍の施設が作られるとき、堀が埋められたらしい。

西の大手門から入ると本丸の南側の二の丸を東へ進むことになる。
右の植え込みに石山本願寺跡という柱が立っている。
大阪城は都市化によって平城に見えるが、四天王寺から続く上町台地の北端に建つ平山城である。比高20〜30mあるらしい。「石山」というくらいだから。
城の北東はすぐそばまで淀川が来ていたので、南西側を広くとって総構え(外郭)とした。これが存在したときは全体を三の丸と言ったようだ。
豊臣氏滅亡後は大幅に(4分の1に)縮小し、現在三の丸跡地というと大阪城ホール、大阪城公園などがある北東の一角が思われるが、かつて南は空堀筋、西は東横堀浜筋まで、つまり地下鉄・松屋町駅や谷町六丁目駅の南あたりまで広がっていた。

秀吉は大阪城を築いたが、ずっと居城としたわけではない。
京都の聚楽第や伏見城を本拠地とし、最後も伏見で息を引き取った。

大阪は、1570年から1580年9月まで10年続いた石山合戦の終結後は、丹羽長秀と津田信澄が同地を守備した。安土にいた信長はこの地を高く評価し、将来は大きな城を築く予定だったらしい。
1582年(天正10年)6月本能寺の変のときは、大坂にいた津田信澄は、織田家連枝でありながら妻が明智光秀の娘であったことから疑われ、混乱のなか織田信孝、丹羽長秀らに討たれた。
山崎の戦い後は、池田恒興が大坂に入った。
1583年3~4月の賤ヶ岳の合戦で羽柴秀吉が勝利を収めた後、同年6月、秀吉は恒興を美濃へ移し、大坂を直轄地とした。
すぐさま総奉行・黒田孝高で築城を開始、すべて完成したのは15年後の1598年(慶長3年)、秀吉が死ぬ年である。

最初は本丸から作り始めた。
何もなかった平山に作ったわけでなく、本願寺が立ち退いてから、西方作戦の基地としても使っていたため建造物はあり、秀吉は最初から居城としたようである。
しかし、1585年に秀吉が関白になると京都の聚楽第を着工、完成した1588年には本拠を京都に移した。さらに1592年に伏見城を着工、94年に完成後は本拠とし、最後も伏見で息を引き取った。
すなわち、大阪城に常住していたのは1583~1587、1592~1594とされる。ただし諸大名による年賀の挨拶は、基本的に大坂城で受けていた。

本丸への正面入り口となる桜門に向かって橋を渡る。
門両側の竜石、虎石は巨石だが壁のように真四角で平らなためコンクリートに慣れてしまった現代人には人工物のようで気づかない人も多いだろう。
9:26 
桜門に入る手前
内堀の南西側は空堀になっている。

この居城は天下人の秀吉亡き後、淀君と秀頼が住んだ。
秀吉時代の蔵入れ地220万石(家康は250万石)から摂河泉66万石の一大名に転落しが、豪華絢爛な城は目障りだったのだろう、家康がつぶしにかかる。
大坂冬の陣で攻め潰せなかったため、講和条件の一つとして堀を埋めることが決められ、大坂城は内堀と本丸のみを残す小さな裸城になり、夏の陣で落城した。

(講和条件は内堀のみ埋めるということだったが、徳川方は強引に総構えの掘、中堀を埋めた。をれを見つけた城方の武将が抗議し、やめさせようとしても圧倒的多数の人足たちが「おら知らね」「じゃまだ、どけどけ」と土を投入し続け、城方の数人がなすすべなく現場でおろおろしている様子をドラマで見た。徳川方は最初から全部埋めてしまうつもりだったのだろう。その結果天守閣のすぐそばまで何の防御も無い城となり、夏の陣の武将たちは籠城もできず、野に出て大軍に押しつぶされた)

その後、1620年から2代将軍秀忠によって、豊臣色を払拭する大坂城再築工事が開始された。
藤堂高虎を総責任者とし足かけ9年、三期にわたる天下普請で、各工事期は西国を中心に47~58大名が動員された。

全体に高さ約1メートルから10メートルの盛り土をした上により高く石垣を積み、秀吉時代の貴重な巨石も再利用されず地中に埋められてしまったという。まさに埋めて封じた。

完成後、城郭の面積は豊臣時代の4分の1の規模に縮小されたものの、天守は高さも総床面積も豊臣氏のそれを超え、徳川家の西国支配の拠点となった。幕末、京大阪で活動する尊王攘夷の朝廷、薩長らに対応するため、将軍家茂や慶喜が大阪城に入ったことはまさにこの城の存在目的に沿うものである。
幕府直轄の城であったから城主は徳川将軍自身であり、譜代大名から代々の大阪城代が選ばれた。
天主は1665年の落雷で焼失、再建されなかった。

桜門をくぐると本丸。
右手に戦前の鉄筋コンクリートの建物が残る。
9:30
旧陸軍第四師団司令部庁舎

明治陸軍は明治元年2月(1868年3月)明治政府直属の軍隊として御親兵が創設されたのを始まりとする。
明治4年4月(1871)には 東山道鎮台(石巻)、西海道鎮台(小倉)の設置が布告されたが、4か月後には東北鎮台(仙台)、東京鎮台、大阪鎮台、鎮西鎮台(熊本)の4鎮台となり、2年後の1873年には 名古屋鎮台、広島鎮台を設置して6鎮台となった。各鎮台は軍管区を持ち、それは反乱鎮圧や徴兵の地区割となった。

当初は中央集権国家による地方の治安維持が主目的でだったが、不平士族の反乱も終わり、海外派兵も視野に入ると、鎮台という静的なものより機動性のある師団という名称に変わった1888年(明治21年)のことである。日清戦争はこの6個師団で戦った。

大阪城は当初から陸軍の所管することとなり、大阪鎮台もここにおかれた。明治18年には和歌山城二の丸から御殿の一部が移築され、「紀州御殿」と命名され、大阪鎮台(後の第4師団)の司令部庁舎として利用された。
今の司令部庁舎は昭和3年、昭和天皇即位記念として大阪城公園、天守閣復興とともに計画・着工されたもので、1931(昭和6)竣工した。
大阪城天守閣
1931年(昭和6年)、博物館「天守閣郷土歴史館」として竣工した復興天守である。幸い1945年の空襲による焼失は免れた。

2015年はまだオーバーツーリズムが問題になっていない頃だったが、中国からかアジア人ばかりだった。
大阪城・上田城
友好城郭 提携記念碑
平成18年(2006)、両城の管理者である二人の市長の名前がある。
姉妹都市の提携ではなく、城である。
都市も城も、規模の点で全く違うのに提携するというのは、よっぽど大阪人は真田信繁(幸村)が好きなんだろう。
今の城は太閤ではなく徳川の城だし、上田も真田が松代に移封され、仙石忠政が築城、江戸時代を通して仙石氏、藤井松平氏の城であったが、そんなことは関係なく、大阪城=秀吉、上田城=真田幸村なのである。

9:38
天守閣の西から内堀を隔てて西の丸を見る。

9:39
ふつう空堀の壁は土塁が多い。
石垣で水がないのは珍しい。

天守閣の裏(北)にまわる。
そこは本丸の中でも一段低くなった山里曲輪。
夏の陣で天守炎上の際、天守から逃れてきた淀君と秀頼が自刃した場所とされる記念碑がある。もちろんここは徳川期大坂城のため正確にはこの地下数mに眠る「豊臣期大坂城の山里曲輪」であるが、堀や曲輪の場所は大きくは変わっていないとされる。
9:47
極楽橋で内堀を渡り、本丸から二の丸へ出る。
天下普請だけあり、どこも石垣は立派。

細いドーナツのような二の丸を青屋門からでて、三の丸に入った。
大阪城ホールや野球場がある。ここは戦前、陸軍砲兵工廠があった。

大阪砲兵工廠の範囲

大村益次郎の建言によって1870年、兵部省造兵司として設置され、1872年大砲製造所、1875年(明治8年)の組織改正で砲兵第二方面内砲兵支廠(東京は第一方面内本廠)と改称された。
その広大な敷地は国鉄の操車場はじめさまざまなものになったが、線路の西は大阪城公園となった。
10:02
三の丸・大阪城公園・記念樹の森
木々だけで何もないのが良い。

このあとJR森ノ宮駅から環状線で天王寺に向かった。
藤井寺にいく。
(続く)


2025年6月1日日曜日

延岡2 チッソの誕生、旭化成と野口遵

 3月27日、飛鳥IIが日向、細島港に入港し、ひとり電車に乗って延岡まできた。

11:19 延岡駅
九州のICカードはSUGOCA(スゴカ)だが、このあたりはまだ有人改札。
駅舎は日向市駅同様、まだ新しい。古い駅舎を見たかったな。

日豊本線の建設はなんとなく小倉から南に伸びていったように思ってしまうが、それは北のほうだけである。大分県佐伯の南、重岡駅から南は、宮崎本線として鹿児島県吉松駅から順次伸びていき、都城(1913)、宮崎(1915)、高鍋(1920)、美々津(1921)と北上してようやく1922年延岡駅が開業した。さらに北に延び、大分県重岡駅とつながって延岡から小倉に出られるようになったのは1923年である。
鹿児島、熊本などと比べ宮崎県の鉄道は遅い。県内で最初の駅が1913年というのは全国で一番遅い。

宮崎ばどげんかせんといかん、という流行語を思い出す。

そもそも延岡は内藤氏7万石の城下町として日向北部の中心都市だった。
廃藩置県で藩の領域だけ延岡県となったが、その直後の再編成(第一次統合)によって、南の佐土原県、高鍋県などと統合され、明治4年(1871)、日向の北半分を占めた美々津県になった。そして1年3か月後、さらに南部の都城県と一緒になって宮崎県ができ、延岡はかつての寒村だった県庁所在地・宮崎から県内で最も遠い、北端の地方都市になってしまった。

さらに明治9年(1876)宮崎は南の鹿児島県に編入されてしまった。明治の顕官を輩出した強大な薩摩に対して、小藩が分立してまとまりがなかった日向は弱かった。明治16年(1883)宮崎県はやっと鹿児島から独立したものの、延岡は力のない県のさらに辺境に位置する町となった。

延岡ばどげんかせんといかん、と思ったかどうか、
戦後は旭化成を中核として県内屈指の工業都市となった。

2006~2007年の北川町、北浦町などとの合併で市域が大分との県境まで広がり人口は11万8千人を数える(2020)。

さて、駅に立ち、まずはバスで延岡城に行ってみた。
(別ブログ)

駅についてから1時間、城山についてから30分も経たないうちに北大手門から出た。
ひとりだと見物も速い。
12:16
城山のふもとに野口遵記念館がある。
遵は法令遵守のジュンだからシタガウかジュンか。

野口遵(したがう)は、旭化成の前身、日本窒素肥料株式会社(現チッソ)の創業者である。延岡は旭化成の企業城下町。
恐らく旭化成がスポンサーとなっていて無料だろうと入ってみた。
12:20
平日でもあり、ほとんど人はいない。
写真左は野口遵を顕彰するギャラリーとなっている。

帰宅後調べたら、記念館の前身は昭和30(1955)年に建設された延岡市公会堂野口記念館である。
旭化成が創業30周年を記念して建て、従業員だけでなく広く延岡市民に対して音楽や舞台芸術などに親しむようにと、当時としては最新の施設を延岡市に寄付した。しかし60年以上たって老朽化がすすんだため、旭化成から30億円の寄付を受け建て替えられたもの。
12:21
ゆったりしたテーブルで女性ばかり何人かお弁当を食べている。
ここは「交流スペース」で使用料は1平米あたり1時間5円、ゆったりした一区画30平米が150円だから安い。しかし何も知らない私はただで座って休憩してしまった。

戻って野口遵ギャラリーに入ってみた。
12:24
野口遵(1873- 1944)は明治6年、金沢の士族の家に生まれた。
生後20日で東京に移転、東京府中学(現日比谷高)、第一高等中学を経て1896年帝大工学部電気工学科を卒業した。

郡山電灯、シーメンス東京支社を経て1902年、29歳の時、宮城県三居沢の宮城紡績電灯で、藤山常一(1898東大電気工学科を卒業)とカーバイド製造事業を始めた。

当時の電灯会社というのは電灯の装置を販売するのでなく、電力会社であり、水力発電所を作って電気を供給する会社だった。シーメンスは発電タービンを販売、設置していた。
そしてカーバイトは炭素と陽性元素の化合物の総称だが、一般には炭化カルシウムすなわちカルシウムカーバイトCaC2のことで、アセチレンガスの原料となる。CaC2 +2H2O → C2H2 + Ca(OH)2 である。

さて、カーバイトの合成は CaO+3C→CaC2+CO だが、製造には大量の電力を必要とするため(電気炉でコークスと生石灰を2000度に加熱)、そのため発電所を必要とした。日本では製造できずほとんどを輸入に頼っていた。
そこで野口は
1906年、33歳の時、鹿児島県の大口に曾木電気(株)を設立。曽木水力発電所を開いた。
1907年、日本カーバイド商会を設立、熊本県水俣でカーバイドの製造を始めた。
1908年、曾木電気と日本カーバイド商会を合併して日本窒素肥料株式会社を設立した。
後のチッソである。

ここで、なぜ電気とカーバイトから窒素肥料だったか?

カーバイドは窒素と反応し、カルシウムシアナミドを生じ(CaC2+N2→CaCN2+C)、これは青酸CNの原料となっていた。ところが1901年、カルシウムシアナミドは土壌中でアンモニアに変わることがわかった。つまり窒素肥料としての新しい用途が生まれた。それまでの窒素肥料はチリ硝石(NaNO3)が原料だったが、世界人口が増えるにつれ枯渇、すなわち食糧危機が心配されていた。
日本ではカルシウムシアナミドを石灰窒素と命名し、1906年に優れた肥料効果が国内でも発表された。この年、1906年からイタリアで肥料として工業生産も始まり、1907年には日本もそれを輸入した。

曾木電気の電力によるカーバイト製造を軌道に乗せていた野口が注目するのは当然であった。1908年に設立した日本窒素肥料株式会社は、出資の関係から大阪商船社長の中橋徳五郎が会長となり、野口は専務、宮城県以来の藤山常一は常務となり、1909年から水俣工場で石灰窒素の製造を始めた。これは世界的に見てかなり早い展開といえる。
翌1910年には石灰窒素から硫安を作るため大阪に工場を建設した。
石灰窒素が普及し始めたころ、正しい使用法が伝わらず、植物に薬害が出た。そのため硫安に変換したのだが苦肉の策であった。

子どものころ、父親が畑に石灰窒素を蒔いていたのを覚えている。主成分のカルシウムシアナミドは白色だが、炭素が混じっているから灰黒色で、独特の臭いがした。毒だから吸うなと言われた。実際有毒である。
12:28
さて、延岡である。
1920年、野口47歳のとき、延岡に五ヶ瀬川電力(株)を設立、1925年発電所が完成した。
1923年には延岡工場が完成、ここでカザレ―法によるアンモニアの合成を開始した。

世界では1906年にドイツのハーバー、ボッシュが空気中の窒素と水素を直接反応させアンモニアを作ることに成功した。1913年にはボッシュ率いるBASFの研究陣が工業レベルでの合成に成功。これは世界中の農業生産高をあげたということで、人類が成し遂げた発明のうち最大のものの一つである。
その後の第一次大戦でドイツが負けたため、賠償金のほかに知的財産も戦勝国に渡ることになり、特許や技術が無償供与の対象となった。その結果、ハーバー・ボッシュ法が普及し、その改良が各国で進んだ。イタリアではカザレー法が生まれ、これは750気圧という高圧(ハーバーボッシュ法は150₋200気圧)だから、N2+3H2→2NH3という反応は右に進みやすく、収率が良い。

空気中の窒素からアンモニアを作る方法はハーバー・ボッシュ以前にアーク放電法があり、野口も石灰窒素合成成功のあと1913年に導入したが、これは大量の電気を消費した。そこで、このカザレー法の特許を買って延岡でアンモニア合成を始めたのである。

空気中の窒素分子は安定だが、アンモニアにすれば容易に他の窒素化合物に変換できる。もちろん肥料は人類にとって最も重要なものだが、硝酸に変換すれば爆薬の原料になる。これは人類よりも国家にとって重要なものだった。
さらにはセルロースを硝酸と反応させると絹のような光沢ある繊維となる(人造絹糸、ニトロセルロース)。またセルロースを銅アンモニアに溶かし、そこから繊維を再生させると吸湿性の優れたベンベルグ繊維ができる。

野口は1922年大津市膳所で旭絹織株式会社を、1929年延岡に日本ベンベルグ絹糸株式会社、1931年延岡アンモニア絹糸株式会社を設立した。1933年3社は合併し旭ベンベルグ絹糸株式会社となる。また爆薬については、硝酸を利用して1930年に延岡近郊の東海村に日本窒素火薬株式会社が設立され、1943年には旭ベンベルグ絹糸と合併し、日窒化学工業株式会社という大会社となった。
(これらは戦後の旭化成の母体となる。旭は旭絹織からきているが、膳所の近くに旭将軍木曽義仲の墓があるからという。日が昇る延岡日向の会社名にふさわしい)。

戦後石油を中心とした石油コンビナートが各地にできたが、これら延岡の会社群は窒素コンビナートとでも言おうか。肥料部門も加えた野口の会社群は日窒コンツェルン、野口財閥と呼ばれた。
野口財閥は戦後解散させられたが、その後継会社が新日本窒素肥料(のちのチッソ)、旭化成、積水化学、信越化学などである。
現在の延岡市の旭化成事業所

旭化成というと宗兄弟や谷口のマラソンだが、私はもう一つ思い出がある。
50年以上前の1970年代前半、高校生のころクラブ活動が18時に終わったが、飯山線は電車がなく、乗る電車は決まっていたから家に着くのは必ず19:35だった。月曜から金曜まで毎日、「クイズグランプリ」をやっていて「文学歴史の50」などという声を聞きながら遅い夕飯を一人で食べ始めると、19:45から「スター千一夜」が始まる。このゴールデンタイム15分の帯番組は旭化成が単独でスポンサーになっていて、おしゃれなCMソングが毎晩流れていた。

「旭化成のやってる事はカシミヤタッチのカシミロン、さわやかさわやかベンベルグ、エステル、ナイロン、アンダリア、ミタス、そのほかエトセトラ~。
(2番) アサヒカセイのやってる事は、せせせの石油をチキチキコン、カメノコひねってぱぱぱのぱ、たてて走って、すどんどん、明日のおひさまワチニンコ~」

旭化成はコンツエルンの繊維部門が独立したのだが、戦後は多角化し、2番の歌詞にあるように、サランラップなど高分子やエレクトロニクス、医薬品にも進出した。富久娘の東洋醸造なども傘下に持ち、ここ自体がコンツエルンの様相を呈した。
ノーベル賞を受賞した吉野彰氏は旭化成の研究員で定年退職した後も2020年まで名誉フェローとして在籍した。受賞対象がリチウム電池だったことでも旭化成の多角化がわかる。
12:34
ロビーに野口遵の像があった。
裏口から入って正面玄関から出ることになった。
加賀藩の士族の家に生まれ、明治の東大工学部で化学を学び、実業界で成功したというと高峰譲吉を思わせる。
野口というと子供が読む伝記の影響もあってほとんどの人は野口英世を思うが、その業績と後世への影響の点では野口遵のほうが大きいと思う。

12:34
野口記念館正面

廃藩置県後眠っていた延岡は、1920年の五ヶ瀬川電力(株)設立、1923年の延岡工場の完成で目を覚ました。時を同じくして駅が開業(1922)、日豊本線が開通(1923)した。延岡町・恒富村・岡富村は合併(1930)、市制施行(1933)。これらと歩調を合わせるように日本窒素肥料、日窒化学系の工場が次々と建設され、大正11年(1922)に2万3千人ほどであった人口は、昭和14年(1939年)には9万1千人を数え、宮崎県内最多の人口を有する都市となった。

1951年頃は人口の約半数、市税納入額の3分の2、市議会議員の3分の1が旭化成関係であり、内藤城下町は「企業城下町」となって栄えた。
12:36
野口記念館の向こうに城山。右は延岡市役所。
雨が降ってきたが駅まで歩く時間はある。
急ぎ足で五ヶ瀬川を渡る。
12:42
板田橋を渡り終わって振り返り、城山と延岡市役所を見た。
なぜ野口遵は延岡を選んだか?

この五ヶ瀬川は標高差が大きく発電に適しており、またダムのある山間部から遠くないところに人口の多い平地があって工場建設に適していたということがあろう。主力工場の水俣と同じ九州ということもある。
城山の銅像にもなっている延岡藩最後の藩主、内藤政挙が明治43年(1910)延岡電気所(1924に株式会社化)を設立したことも日本窒素の工場誘致の呼び水になったとされる。
12:43
板田橋からの通りは歩道に屋根がついている。
しかしひと気があまりない。

企業城下町ということは、企業の景気によって町の盛衰が左右されるということだ。旭化成の経営戦略により延岡の比重は次第に小さくなったこと、大消費地から遠いこと、更には化学工業が窒素化学から石油中心となったことから戦前ほどの経済力はなくなり、人口も1982年を境に減少している。
12:47
坂田橋からまっすぐ歩いてくるとアーケード商店街があった。
車が通らないためますますひと気がない。

1つ書き忘れた。
野口コンツエルンの創業会社の日本窒素肥料についてもう少し書く。
1909年から水俣工場でカーバイトから石灰窒素の製造を始めたことはすでに書いた。
1931年水俣工場の技術者らは、カーバイトからできるアセチレンをアセトアルデヒドに変える一連の合成方法を発明した。さらにこれらを原料としブタノール、酢酸、酢酸エチル、無水酢酸、酢酸繊維素、酢酸ビニールなどの製品化に成功、社名にある窒素も肥料も離れて総合化学会社に脱皮した。

戦後、財閥解体によって、旭化成などは分離し、新日本窒素肥料株式会社として発足。
1965年、ようやく社名から肥料をとり、かたかなのチッソ株式会社に変更した。

ここでチッソと言えば水俣病である。
この会社は消費者製品を作っているわけではないから一般人はこの公害についてのみ社名を記憶している。

水俣の奇病は1956年公式に確認され、1958年には水俣病と命名された。1968年厚生省は原因を新日本窒素肥料~チッソの工場が出す廃液のメチル水銀と正式に認定した。会社はアセトアルデヒドの合成やアセチレンの付加反応に金属水銀や塩化水銀を触媒として使っていて、廃液にそれらが混じっていた。

私がこれらを学んだのは薬学に進学した1970年代終わりころだろうか。
その後チッソのことは忘れていたのだが、1993年1月、皇太子妃に小和田雅子氏が内定したことで、ちらりとチッソが話題になった。すなわち、雅子さまの母・優美子氏のほうの祖父・江頭豊が水俣病の原因となったチッソの社長、会長を務めたことを問題にした。しかしこれは1962年水俣病問題と労働争議で経営不振に陥っていたチッソへメインバンクだった日本興業銀行から専務として送り込まれたからである。
ちなみに江頭豊の父は江頭安太郎で、海城学園を創立した古賀喜三郎の娘婿である。古賀は薩長土肥のなかで肥前出身者が活躍しないことを嘆き、故郷佐賀出身で最も優秀だった海軍軍人の江頭安太郎に娘を嫁がせ期待した。彼は海兵、海軍大学校ともに首席で卒業し将来の連合艦隊司令長官、海軍大臣間違いなしと言われた逸材だったが中将のとき早世した。また、母方の祖母(すなわち江頭豊の妻)・寿々子は海軍大将・連合艦隊司令長官だった山屋他人の娘である。(このあたりは江藤淳「一族再会」に詳しい)。つまり雅子さまの母・優美子氏の2人の祖父は、二人とも帝国海軍の逸材だった。

チッソは2011年、事業継続会社としてJNC株式会社を設立、チッソは水俣病の補償業務を専業とした持株会社となった。ところでJNCは何の略だろう?
Jはジャパン、Cはケミカルズ、ケミストリー、カンパニーいろいろある。Nはチッソの英語、Nitrogenしか思いつかない。戦前から窒素を離れた総合化学メーカーだったのに今更なおnitrogenにこだわるかと思って、正解をウィキペディアに求めたら、略ではなく、「ジェー・エヌ・シー」が正式社名だという。Japan New Chissoの意味も込められているとか。

延岡発13:24の電車にのった。
線路から旭化成の工場群と紅白の煙突を見たかったのだが、いい町だったな、と地図を見ているうちに次の駅まで行ってしまった。

日向市駅について飛鳥の送迎バスの時間までヒマだったので、土産でも買おうと構内の物産館に行くとレンタサイクルがあった。1日800円。電動は3時間1000円。
はっとして調べたら延岡にも30分ごとに110円というレンタサイクルがあった。坂道もらくらくな電動である。これを使えば旭化成の工場も延岡城西ノ丸も行けた。

(クルーズ船の旅、これで終わり)

前のブログ

2025年5月28日水曜日

延岡、続100名城と譜代大名

飛鳥IIが高知の翌日、3月27日、日向、雨の細島港に入港した。
周辺には(こちらに知識がないから)面白そうなものが見つからない。
そこで日向市駅から電車にのった。
(日豊本線は高知県の鉄道と違い全区間電化されている。)
北に向かって延岡まで22分、560円。
11:17
延岡駅改札口
日向市駅同様、改札は有人。

延岡は内藤氏7万石の城下町として日向北部の中心だった。
しかし明治になって宮崎県になると県都から大きく離れた地方都市となった。それでも工業都市として発展し、戦後は日向延岡として新産業都市15地域の一つに指定されたことは前のブログに書いた。

雨は上がった。
さて、まずは延岡城に行ってみる。
街を見ながら歩いて行きたいが、時間があまりないし、夜のダンスに体力をとっておかねばならない。バスに乗ることにした。
11:26
まちなか循環バス(しろやま号)200円
関東自治体のコミニティバスと違って普通のバスだった。

運転手さんに聞くとお城にはいかないが近くは通るというので乗りこむ。
乗客は私を入れて二人。
五ヶ瀬川を渡って、教えられた中央通り二丁目というバス停を降りるとき、運転手さんはお城への道を指さして教えてくれた。
その道を西に歩くと城山の南東隅にぶつかった。
11:47
城山周辺
北東には市役所、裁判所、野口記念館などがある。
少し離れた西の丘に内藤記念博物館がある。これは歴代藩主が住んだ西の丸の跡らしい。
歴代延岡城主が列挙されていた。
最も重要な事柄が箇条書きになっていて、これほど情報が十分で、分かりやすい碑はあまりない。

書こうと思っていたことが必要十分に碑文になっている。
追加で書けば、
最初の高橋氏は豊前の武将で秀吉の九州征伐で降伏し、延岡に5万3千石で封ぜられた高橋元種のこと。しかし1613年改易。

続く有馬氏は、同じ九州の久留米21万石の国持大名・有馬氏(摂津有馬氏または赤松有馬氏という)とは関係なく肥前有馬氏の流れ。キリシタン大名として1582年に大友宗麟や大村純忠とともに天正遣欧使節を派遣した有馬晴信の家である。関ヶ原で東軍に与したので肥前高来郡などの本領4万石を安堵された。
1619年、延岡に5万3千石で加増転封されたが、しかし1692年、有馬清純の代で藩内の一揆の責任を問われ越後糸魚川へ、続いて越前丸岡に転封され、有馬氏は丸岡で明治を迎えた。

3番目は三浦氏。
三浦といえば、坂東八平氏の一つで相模を根拠地とした名族。一時は鎌倉幕府内で大きな力をもったが後に執権北条氏によって滅亡した。その末裔といわれるがよく分からない。
元禄5年(1692年)、譜代大名三浦明敬が下野国壬生藩より2万3000石で入封し、以後日本最南端の譜代大名藩となった。
この三浦氏は幼少のころ家光に近侍し下総矢作で780石を与えられた三浦正次を藩祖とする。のち1万石まで加増され大名となった。
他の譜代大名のように関ヶ原以前から徳川氏の家臣だったわけではない。しかし側近としての家であるため譜代大名として扱われる。
(ちなみに関ヶ原の2年前の1598年、家康に3000石で召し出された三浦為春は家康の十男・長福丸(のちの頼宣)の傅役を命じられたことから、のち、紀州徳川頼宣の家老となり1万五千石を領した。)

道なりに城山をあがっていこうとすると、東側から北側に回り込んだ。
平日だからか誰もいない。
11:51
石垣はいつのものか、新しい。
11:52
三の丸の跡を過ぎてさらに登ると見晴らしのいいところに出た。
11:54
三階櫓跡
延岡城は天守閣がなかった。関東周辺の譜代大名の城でよく見られた天守閣代用三階櫓と同じで、ここでも三階櫓が一番大きな建物だった。

三階櫓跡からの眺め。
左下に市役所。
左から五ヶ瀬川、右から大瀬川が来て合流し日向灘にそそぐ。
といいたいところだが、合流せずに接したまま進み、北から来る祝子川、北川とともに海に入る。
11:56
天守台跡
天守閣は作られなかったが、台だけある。
赤穂城などもそうだったが、幕府に遠慮したのか金がなかったのか。

前々日、前日と続けて訪ねた同じ平山城の姫路、高知城と同様、本丸、二の丸、三の丸が一つの山にあって濠で分かれていないから区別しにくい。この一段下の三階櫓は三の丸ではなく、本丸のようだ。
11:57
天守台跡から南東方向を見る。
大瀬川の向こうの紅白の煙突は旭化成の工場のようだ。
11:58
先ほどの三階櫓跡からの眺めと同じ方向。
より高いところから見たので、五ヶ瀬川(左、坂田橋)、大瀬川(右)、合流点がみえる。

後ろに鐘楼がある。
年配の男性がいらした。足元の時計を見ておられる。

鐘の歴史でも記すような立派な看板に「お願い」が書いてあった。
11:58
「お願い!
鐘撞堂まで登って来ていただきありがとうございます。城山の鐘は1878年から「時を告げる鐘」として市民に親しまれております。定時(6時、8時、10時、12時、15時、17時)以外の鐘は市民に混乱を与えますので、来園者の皆様には鐘を撞かないようお願いいたします。
延岡市都市計画課」

明治11年から時報代わりということで、何万という人々が毎日欠かさず聞いてきたことを思うと、何か、歴史建造物や伝統芸能よりも貴重なものにみえてきた。

鐘をついているときは話しかけたり写真を撮ったりしないで下さいという注意書きもあったので、スマホは向けられず、反対方向を見たら鐘の説明パネルがあった。
12:00
この鐘は、戦時中金属として供出しなければならなくなったとき、空襲警報のサイレンが故障したときの代用として必要であると要望し、何とか供出を免れたとか。
昔の写真を見ると、主婦や子供たちが撞いている場面がある。
読んでいたら背中のほうで鐘が鳴った。

天守台からおりた本丸は芝生で広々して銅像が立っている。
12:03
内藤政挙公像
延岡藩内藤家の第8代(最後)の藩主。内藤家宗家として13代。

延岡藩について書き始めたが、三浦家で止まっていた。
三浦氏は一代限りで、1712年、三浦明敬は三河・刈谷藩に転封となった。

つづいて三河・吉田藩より牧野成央が延岡城歴代最高の8万石で入封した。日向国内のみならず豊後国大分郡・国東郡・速見郡をも領有した。
牧野氏は東三河を本拠地とし、戦国末期から松平(徳川)に仕え、江戸時代には門閥譜代として多数の大名・旗本家を分出した。大名としては幕末の時点で、長岡、常陸笠間、小諸、三根山、丹後田辺の5家もあった。維新後、牧野の5家はいずれも子爵となった。

延岡の牧野は2代目が常陸笠間に転封となり、代わって1747年、陸奥国・磐城平藩より内藤政樹(まさき)が7万石で入封した。内藤家は上総佐貫で立藩し、1622年から磐城平で6代続いたが、延岡に来てそのまま明治を迎えた。

内藤とは「内舎人(うどねり)の藤原氏」の意味で、全国的にいた国人、守護代は藤原氏の秀郷流とされる。甲斐の内藤氏で有名なのは信玄の家臣、武田四天王の一人とされた内藤昌豊で、長篠で戦死した。

江戸時代に大名となったのは、三河の内藤氏で、戦国時代から家康に仕え、幕府成立後は数家に分かれ、信濃高遠藩、陸奥湯長谷藩、三河挙母藩、日向延岡藩、信濃岩村田藩、越後村上藩の譜代6大名が明治を迎えた。内藤新宿は高遠藩3万石の四谷中屋敷の一部を幕府に返上させて、宿場町を作ったことによる。
12:06
本丸から降りて振り返る

延岡は、三浦、牧野、内藤、と譜代大名が城主をつとめた。これはおそらく中津の奥平、小倉の小笠原といった譜代大名と同じく、九州の外様大名の監視であろう。

関ヶ原で西軍についた大名は多くが大幅に減封されたり潰された。いっぽう東軍についた者は所領を安堵されたものから土佐山内や安芸浅野などのように大幅加増で大大名になったものまで出た。すなわち江戸時代の大名は東軍に着いたものが圧倒的に多く、彼らは幕府に対して恩があった。
しかし島津などは幕府に恩はない。4分の1に減らされた毛利なども恨みこそあれ恩はない。彼らは徳川が影も形もなかった鎌倉時代から続く名門であり、恭順を装っていても、幕府からしたら油断ならない存在である。
また関ヶ原で東軍についた外様大名も徳川の部下ではない。徳川家は全国の大名の集合の(圧倒的)最大というだけである。ほかの大名は単に、戦っても勝てないから従っているだけである。しかし連合したらどうだろう。

だから牽制、監視の意味で信頼できる譜代大名を近くに置いたのではないか。譜代大名というのは先祖代々徳川家の家臣というか部下であり、大名と言えど使用人のようであったから将軍に代わって徳川の家を切り盛りした。
幕府はよく公儀と言われるが、将軍の私物であり、幕府を動かす人間は当然将軍家の部下すなわち譜代大名でなくてはならない。豊臣時代の五大老、五奉行とは全然違う。
12:07
本丸(右の石垣の上)から二の丸に降りる途中

譜代大名の多くは関ヶ原以前から徳川の家臣だったものが1万石以上の領地をもらって大名となったものだが、この典型は三河の松平時代からの家臣である。
この三河衆に対し近国衆という譜代大名もいる。つまり、今川氏旧臣の井伊氏・岡部氏、武田氏遺臣の土屋氏・柳沢氏、信濃領主だった保科氏・諏訪氏・小笠原氏(旧守護)といった譜代大名である。

ちなみに譜代という言葉は、父から子へ、子から孫へというように同一血統の中で正しく継承が行われてきた家系を指す。また、特定の主家に代々仕えてきた家臣の系統を指して「譜代の臣」と称した。だから譜代大名というのは、「徳川氏の譜代の家臣であった大名」ということになる。

他にもある。家光の三浦正次、吉宗の大岡忠相、9代家重の田沼意次のように将軍の側近となって出世して大名となったものも譜代大名である。
つまり、譜代大名の定義は、外様、親藩、およびそれらの支藩を除いた家ということになる。
12:08
二の丸からみた本丸の石垣

12:09
「千人殺しの石垣」という。
礎石の一つを外せば、石垣が崩れ敵兵1000人を殺すことができるという。しかし戦闘中に数人で動かせるような石で支えた石垣など、雨や軽い地震で崩れてしまうだろう。もっとましなネーミングはなかったものか。
12:11
どれを外せば石垣が崩れるか、見てわかるわけがないし、あるはずもない。
1000人殺しよりも毎日1000人の人足を使って積んだとする「1000人泣かせの石垣」などのほうがもっともらしく、また見事さを表せる。
12:12
北大手門から出た。
続日本100名城の一つという。財団法人日本城郭協会が2006年の日本100名城に続いて2017年に定めた。曲輪の保存状態や全体の雰囲気は100名城に入れたいが、日本は城がいっぱいあるから仕方がない。
ちなみに九州の日本100名城は
福岡、 大野(古代山城)、名護屋、 吉野ヶ里遺跡、佐賀、平戸、 島原、 熊本、 人吉、大分府内、 岡、 飫肥、鹿児島の13。

また、続日本100名城は、
小倉、 水城(古代山城)、久留米、 基肄(きい、古代山城)、 唐津、 金田(かなたのき、朝鮮式)、福江(海賊)、原、鞠智城(くくちのき、古代山城)、八代、中津、角牟礼城、臼杵、佐伯、延岡、佐土原、志布志、 知覧の18であるが、我々がイメージする濠や石垣をもった近世の城郭としては、小倉、 久留米、  唐津、 福江、原、八代、中津、臼杵、佐伯、延岡の10城である。
12:16
ちなみに、もとは縣城と言い、三浦氏の時代に延岡城と改称した。
のべは、広がるという意味か野辺か、わからない。

今は日本全国どこでもコンビニがあるように、景色が画一化してきた。
しかしこの城を見てようやく関東との違いを感じた。

(続く)

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2025年5月21日水曜日

日向市と宮崎県、美々津、細島港

3月27日、前日の高知に続き、飛鳥が最後の寄港地、日向の細島港に入った。
細島という地名は飛鳥II乗船の話があるまで知らなかった。

日向市の海側の地名というが、日向も令制国の地名として認識していて日向市という市があることを知らなかった。

小学校だか中学校だかの社会で「新産業都市」というのを習った。私が小学校2年だった1964年に、四大工業地帯から離れた地域の振興を目的として15地域が指定された。(これに関する法律は2001年に廃止され、この言葉も意味がなくなった)

いかにもテスト問題になりそうで、15の地域も覚えさせられた。松本諏訪、八戸、岡山、富山高岡などとともに「日向延岡」というのも覚えている。それ以来、これは日向国の延岡と理解していたが、いま調べたら日向市は1951年に市制を布いているから、日向市・延岡市だったのである。(もちろん先生はそんなことは教えてくれないし、生徒も分からない)

日向市は1951年に富島町(1937年細島町と富高町が合併)と岩脇村が合併してできた。1955年には美々津町を編入している。

これらの町村のうち細島は、明治22年(1889)に町村制が実施され宮崎県が5町95村となったときの5町(宮崎、油津、細島、延岡、都城)のうちの一つだから、かつてはこの地方の中心だったといえる。

その細島は天然の良港で、江戸時代には日向、薩摩、大隅の各藩主が参勤交代の際には、必ず細島港を経由したという。
細島町が細島市にならず、富島町、日向市となった背景には、明治以降、港がかつてほどの重要性をもたなかったことにあろう。

細島と日向について話したついでに明治以前の宮崎県について書いておく。

大分県、宮崎県となる豊後、日向は九州の他の県が黒田、有馬、鍋島、細川、島津の国持大名の領国だったのに対し、小さな藩が分立した。
日向に関しては、都城を中心に大隅側に島津の分家(同じ島津一族の佐土原藩と違い独立していない)がいて、1871年の廃藩置県では延岡県、高鍋県(中央部の海岸沿い)、佐土原県(中南部)、飫肥県(南部)、それと人吉県、鹿児島県の飛地があった。

細島は江戸時代初期には延岡藩領であったがのちに天領となったため、このあたりの天領をまとめてひきついだ日田県に属した。

廃藩置県の同年の第一次統合で日向は北の美々津県と南の都城県の2つとなり、1873年に統合されるも(寒村宮崎に県庁を置く)、しかし明治9年(1876)に鹿児島県に編入されてしまった。強大な薩摩に対して、小藩が分立してまとまりがなかった宮崎県は弱かった。

しかし西南の役で鹿児島が弱まり、明治16年(1883)、分県運動が功を奏し、ようやく独立した。(同時に富山、佐賀が石川、長崎から独立した)
日向市と細島港(東が上)
さて細島に戻る。
古くからの細島港は細島商業港で漁港もあるが、狭いため北方に細島工業港と白浜港がつくられた。飛鳥IIは工業港1,2号岸壁についた。
宮崎県公式サイトから
細島周辺の海岸は柱状節理がみられ、これは縦に割れるから深い断崖のような地形ができる。商業港の南の半島には、馬ケ背、クルスの海といった狭く切れ込んだ地形が名所になっている。海辺で天照大神をまつる大御(おおみ)神社には、国内最大のさざれ石群と柱状節理が見られるという。
しかし、この日はあいにくの雨でこれらを見ることは難しい。

飛鳥の無料バスは日向市駅までしか行かない。乗客はせいぜい駅のそばの売店で土産物を買うくらいである。
せっかく宮崎県に来たのだから、電車に乗ってどこかに行こうかと思った。
10:41
日向市駅
地図を見ると南に美々津がある。
第一次府県統合で日向国北半分の県名にもなった美々津は、1955年に日向市に編入されるように、細島の南の町だったが、江戸時代から耳川(美々津川)河口の美々津港は高鍋藩の上方交易港として栄えた。
耳川は、延岡から高千穂にのぼる五ヶ瀬川のように、深く九州山地に入り込んでいて、神武東征は美々津から船出したという伝承がある(ただし記紀に美々津の記述はない)。

そのため1940年、紀元2600年記念行事として、海軍協会、大日本海洋少年団、大阪毎日新聞社の主催で、おきよ丸(神武が出征の日に寝ている部下たちを起きよ起きよ、と起こした伝承から)が建造され、美々津から大阪中之島まで航海し橿原神宮に神楯を奉納した。さらに1942年、「日本海軍発祥之地」碑と錨の像が立てられた。占領期に碑文が一部進駐軍に破壊されたが、現在は修復されている。

宮崎県・日向は神話の国だ。
記紀には天照大御神の孫(天孫)の邇邇芸命(ニニギノミコト)が高天ヶ原から降りたことになっている。降りた場所は古事記では「筑紫の日向の高千穂の久士布流多気(くしふるだけ)」、日本書紀では「日向の襲(くまそ)の高千穂峯」である。高千穂は日向に2つある。最北端の高千穂峡と最南端、霧島連山第2峰の高千穂峰だ。どちらかはわからない。いっぽう日向(ひむか)は今の宮崎県で間違いなかろう。太陽に向かっている国というのは九州の中心から見た話で(畿内や関東から見たら伊勢や常陸がヒムカになろう)、高天原が九州にあったことを思わせる。

神武天皇(即位前はカムヤマトイワレヒコ)はニニギノミコトのひ孫にあたるから、高千穂がどこであっても3代もあとの彼のころは日向一円に勢力が広がっていただろう。美々津から出航しても不思議はないが。
しかし、ちょっと神話の時代は古すぎて、南の美々津に行っても面白いかどうか。

いっぽう北には延岡がある。
これは有名である。
電車で22分。こちらに行った。
(別ブログに書く)

延岡は旭化成と内藤家の延岡藩が有名である。
知識として知っているのと実際に街を歩いたことがあるのとは全然違う。慌ただしくも、もう二度と来ない地を歩いて満足して列車に乗り、日向市に戻り船に帰った。

飛鳥は17時ころ細島港を出港。
2025₋03₋27 17:13
細島港・尾末湾の乙島
この島には大小7つの海触洞穴があるらしい。なかでも「茶屋の大門」が乙島最大で、入り口の高さは約14m、幅8m、奥行きは63mもあるという。

再び細島港について書く。
宮崎県には港湾法で指定された全国102の重要港湾のうち、3つがある。
細島、宮崎、油津である。宮崎は明治になって県庁がおかれるまで寒村であったから歴史はない。
油津(今の日南市)は、江戸時代、伊東氏飫肥藩の支配地となり、飫肥杉の積出港となった。また沖の日向灘は船の難所であったことから、油津で風見のため滞在船が多く、湊町としてにぎわった。

宮崎県の公式サイトで
トップ > くらし・健康・福祉 > 社会基盤 > 河川・砂防・港湾 > 港湾 > 宮崎県ポートセールス協議会、細島港、宮崎港、油津港 > クルーズ船寄港情報 
にクルーズ船の3港への寄港実績、予定がある。

令和6(2024)は
細島 にっぽん丸、飛鳥II、バイキングエデンなど5隻のべ9回。
宮崎 にっぽん丸、のべ2回。
油津 オイローパ、ウェステルダム、クイーンエリザベス、MSCベリッシマ、飛鳥IIなど9隻で9回

令和7年(予定)
細島 バイキングエデン、飛鳥II、三井オーシャン富士、4隻11回。
宮崎 にっぽん丸、1回
油津 ノールダム、ダイヤモンドプリンセス、アイーダステラ、MSCベリッシマなど10隻15回

恐らく宮崎港はにっぼん丸以上の大型船は入れないのだろう。

細島、油津とも宋、明との貿易の寄港地として栄え、倭寇の拠点にもなったと観光情報(ネット)で言われるが、これはどうか。京都大阪と中国の間の航路は瀬戸内海から北九州であるから大きく外れている。港内から中国の陶磁器、貨幣などが発見されているのは、北九州からの再分配ではないか?
今、両港は太平洋に直接面し、日本国内と東アジアをつなぐ航路の経由地になっているため、輸入ではFIRSTPORT、輸出ではLASTPORTとして機能しているようだ。
17:29
細島港から日向灘に出た。

宮崎県は、1990年4月3日から5日、宮崎大学(宮崎医大?)で日本生理学会があり、関野祐子さん野坂さんと市内からタクシーで青島に行き、帰りにうどんを食った。しかし33歳、宮崎とはどういう県か、などとは考えもしなかった。もう二度とこの県にはいかないと思っていただけに、いい機会をもらった。
2025₋03₋27 17:30
日向枇杷島灯台そば
この日は船が揺れた。
ダンスタイムの遅番で、仕事が終わると24時。
疲れていたので風呂は翌朝入ることにして即眠った。

3/28 朝食後、風呂に入る。
露天風呂は誰もおらず、天気も良かったが海だけ見ている習慣もないので普通の大風呂に戻り頭を洗って出た。
体重計に乗るも、依然として波が荒く、船が揺れるから体も揺れ数字が一定しない。

この日は太平洋をひたすら東に向かう。

3/29 朝、横浜入港。

(続く)

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