3月26日、飛鳥IIが前日の姫路についで高知に着いた。
高知の町は細長い浦戸湾の奥にある。
浦戸湾の高知港は古くから天然の良港であったが、水深13メートル以上を必要とする1万トン以上の船の接岸には適さず、また中で大型船が何隻も自由に航行すること、大型物流施設などの建設も困難だった。そこで1968年、湾外の太平洋岸に高知新港がつくられ、飛鳥もそこの第7ふ頭2号岸壁についた。
2025₋03₋26 9:03
朝食後、12階にあがってみると浦戸湾の入口に浦戸大橋がみえた。
浦戸大橋の西(写真左)の森というか小山が桂浜という。
桂浜は一面、広い砂浜だと思っていたから意外だった。
高知新港は、高知市街から遠く離れて新しく作られたため、周りに街もなく、公共の交通機関が来ていない。少々遠くても歩いてしまう私でも、最寄りのバス停までは無理だった。
そこで飛鳥が用意した無料バスで桂浜までいき、そこで市内に行く路線バスに乗り換えることにした。
10:06
高知駅に向かう路線バスは10:00発
左は太平洋。
高知市内の中心「南はりまや橋」で下車。
距離が長いにもかかわらず停留所が少なく、大して時間はかからなかったが運賃は高かった。(28分、730円。高知駅までだと800円)
10:31
南はりまや橋
とさでん交通の路面電車。
今まで乗った路面電車は現存するもので函館、長崎、熊本、鹿児島、広島、富山、あと都電荒川線。
こういうものが残っている地方都市は文化度が高いというイメージがある。
ちなみに、高知では路面電車のことを土電(とでん)、あるいは単に「電車」といい、JRのことを「汽車」というらしい。(JRはディーゼル車だが)。これは高知県内のJRが一切電化されていないことによる。香川県から人のいない四国山脈を延々と架線を引くのは費用対効果の面で無駄だったのだろう。
ちなみに日本で鉄道がまったく電化されていないのは、高知と徳島の2県だけだが、徳島は路面電車もないことからほんとうに「電車」がない。
10:34
はりまや橋
大きな川の橋でないことは分かっていたが、もう少し大きいと思っていた。
この赤い橋は江戸時代のものを復元設置したものらしい。
来てみてその小ささに驚くのは札幌時計台に似ている。
播磨屋は高知の豪商であったが、見上げたら、土産物屋の看板が「はりま家」と書いてあった。
ちなみに現在の播磨屋橋はすぐそばにある。すなわち、高知駅から南下する国道32号線にかかっているが、堀川が埋められているため石の欄干だけ残っている。その間を車がビュンビュン走り、播磨屋橋を見に来た人は、この赤い橋に目を奪われて、すぐ近くにある本物に誰も気づかない。
10:35
どこに行ってもインバウンド客
国道の向こう(東)のアーケード入り口の和菓子屋は「土佐日記」「竜馬がゆく」という商品を販売していた。その向こうあたりに明治時代の播磨屋橋が復元設置されているらしい。
我々はそちらへ行かず、左折して京町商店街のアーケードに入る。
10:37
京町のアーケードと並行して北に壱番街というアーケード商店街があった。
一でなく壱である。
そちらのアーケードに入り、ダンス仲間のKさん、Iさんと西の高知城に向かう。
Iさんはさっきから
「土佐の高知の はりまや橋で 坊さんかんざし 買うを見た よさこい よさこい」と歌っている。私が「よさこい節ですね」というと、「いや、ペギー葉山の南国土佐をあとにしてだ」と言い張られた。
10:37
観光客が入りやすい土佐料理店。
豪華なセットもあるが、ランチは1000円以内で食べられそうだ。
10:38
帯屋町壱番街のアーケードはまだ続く。
こんなに立派な商店街が維持できるほどの商圏があるのだろうか?
高知市は人口31万人(2025年推計)。2005年に348,990人だったが減少し続けている。しかし県内の人口減少のほうが大きく一極集中は依然変わらず、県内人口の48%を占める。
ちなみに、高知県では昭和の大合併が始まる1953年の時点で、市制を布いていたのは高知だけだった。もちろん市が一つしかなかったのは高知県だけである。
今気づいたが、よさこい節は「土佐の高知の」で始まる。昔は城下町だけが高知だったが、今は県内全体が高知になった。
やがて高知城が高々と見えた。
10:40
少し広いところに出た。細長い緑地を横断する。
いかにも川か堀を埋め立てたような感じ。
高知城下は鏡川などの川に挟まれ、洪水が頻繁に起きた。 このため、高知城の岡は当初、河中山(こうちやま)と呼ばれていて、 城は音を借りて大高坂山城から高智山城と改め、やがて高知城となったという。すなわち川の多い地形が県名にもなった。
アーケードが終わり、城に近づくと右手に神社があった。
高知大神宮という名前と違って小さな境内で、鳥小屋があった。
10:49
高知大神宮のニワトリ
高知で有名な闘鶏のシャモ(軍鶏)か、あるいは天然記念物の尾長鳥かとおもったら、ただのニワトリだった。
古事記で天照大神が隠れて真っ暗になったとき、呼び戻そうと常世長鳴鳥を集めたという記述から、天照大神のそばにその子孫と思われるニワトリを侍らしたということだ。
ちなみに○○大神宮というのは東京大神宮、芝大神宮、伊勢山皇大神宮のように、伊勢神宮(内宮)を勧進して天照大神を祭神とする神社であり、国家神道の影響を受け明治以降に作られたものが多い。「大」の文字もそれを思わせる。
10:55
この橋は曲輪との関係から新しく架けたものだろう。
山の上に天守がある。
現存12天守のうちの一つとして知られる。12天守とは高知のほか、弘前、松本、丸岡、犬山、彦根、姫路、松江、備中松山、丸亀、松山、宇和島である。とくに行こうと思ったことはないが、いつの間にか8個目、残るは松江、備中松山、松山、宇和島の4つとなった。
10:59
高知城のたつ岡は河中山(こうちやま)と書いたが、山内一豊が来る前は大高坂山とよばれ、南北朝時代から小さな城があった。
土佐を平定した長曾我部元親が1588年(天正16年)、岡豊城(おこうじょう)からここへ本拠地を移そうとしたが低湿地の山麓は工事が難航し、代わりに港(浦戸湾)に臨む浦戸城を選んだ。
11:00
山が狭いから平らな土地が少なく石垣が多い。
長宗我部氏は関ヶ原のあと改易され、代わりに翌1601年、山内一豊が土佐一国を与えられて土佐藩を立てた。一豊は大高坂山で築城に取り掛かり、河中山城と命名し本丸や二の丸は完成したが、城全体の完工は1611年、一豊の没後、二代目藩主の忠義(一豊の甥)の代になっていた。
11:01
一豊の妻と馬
山内一豊の父は岩倉織田家の家老であったが、織田信長に滅ぼされ、一豊の父も討ち死にした。主家も当主も失った山内家は放浪し、やがて一豊は信長に仕える。信長は彼を木下秀吉に預けた。一豊は姉川の戦い(1570)が初陣で、以後、秀吉とともに戦場にあった。
秀吉の時代になって、四国平定後、羽柴秀次(豊臣秀次)が近江八幡で大幅に加増されると、田中吉政・堀尾吉晴・中村一氏・一柳直末と共に秀次の家老の1人として付けられて、一豊も近江へきて、長浜城主として2万石を領した。
徳川家康の関東転封、織田信雄の改易で再び秀次が尾張・伊勢、東海で加増されると、一豊ら宿老衆も転封して、遠州掛川に5万1000石の所領を与えられた。
一豊には英雄譚がない。
いちばん有名なのは、秀吉死後に上杉征伐で家康が諸将を率いて会津に向かったときの行動であろう。石田三成が上方で挙兵し、下野小山で家康が諸将に進退を自由にせよと言ったとき(小山評定)である。
豊臣恩顧の大名をはじめ、迷うものが多い中、山内一豊が恭しく前へ進み出て
「この一豊、主君家康公の御為とあらば、一命をも惜しまず仕る所存。拙者が守る掛川城、いかようにもお使い下され! 家康公の大義、我らが先陣を切ってお支え致す!」
と真っ先に発言し、これがきっかけとなって三成と家康どちらに着くか迷っていた諸将が家康につき、関ヶ原の結果が決まった。
(ちなみに、数日前からchatGPTを使い始めたが、一豊のセリフを彼に作らせてみた)
さて、妻(千代、見性院)と馬である。
天正9年(1581年)の安土城下、信長の前での馬揃えの際に、彼女が蓄えておいた黄金で良馬を買って一豊に武士の面目を施させたという美談がある。しかしこれは後世の創作とされる。いずれにしろ年代も場所も離れた高知城に千代と馬の像はあまり似つかわしくない。しかし初代城主の山内一豊といえば世間が知っているのは妻と馬の話だけである。観光地の像というのは、観光客が知っていることを表現するものである以上、これしかないのかもしれない。
山頂の二の丸から降りて本丸の南にまわってみた。
板垣像のそばの追手門(おってもん)から出る。
11:02
どうでもいいことだが、近年、やまのうちかずとよではなく、「やまうちかつとよ」が正しいのではないかと言われている。
11:03
三の丸には行かず、二の丸、本丸がある山頂に上がった。
頂上は二の丸と本丸が並んでいる。
山の中腹は三の丸以外まとまった土地が取れず、獅子の段、杉の段、武者走、犬走、といった文字が見える。
11:15
詰門(廊下橋)と天守閣
二の丸と本丸の間は峰が二つあったのか、人工的に掘ったのか、空堀になっていて、玄関のような門がある。
11:09
詰門を抜けると本丸。
高知城は現存12天守の一つとその南の本丸御殿(懐徳館)が残り、本丸の建物がほぼ完全に残る唯一の例として知られる。(例えば姫路城は天守は残るが、備前丸の御殿などが消失している)。本丸が小さいことが幸いしている。
内部見学は有料でったこともあり、割愛。
11:16
二の丸から本丸(左)の下の獅子の段(梅の段)を見下ろす。
山頂の二の丸から降りて本丸の南にまわってみた。
11:31
天主のある本丸から2段ほど下、太鼓櫓の下あたり。
この曲輪は何というか不明。途中に犬走りという名があるように帯のように狭い。
高知は他の主要観光地と離れているのに、ここでもインバウンド客が多い。
三の丸下の板垣退助の立像の脇を通って城山から下りた。
11:36
板垣像のそばの城内地図の写真は撮ったが、板垣像は撮らなかった。
板垣退助(1837 - 1919)は100円札になったから、何をやったかということまでは知らないまでも、私より上の世代は髭のじいさんとして誰でも知っている有名人である。
(100円札は1974年8月に発行停止となったが、四国、高知では割と長く使われたとか。経済圏が独立していたことのほかに、板垣への愛着があったからだったりして)
城の正面の門という意味で大手門と同じだが、追手(攻城側)を迎えるという意味で戦国から江戸初期に用いられ、一方大手門は政治的・儀礼的な文脈で江戸時代以降に好まれたという。
前のブログ
11:37
追手門から出ると「国宝高知城」の石柱。
この国宝は戦前の基準で、今より緩かった。現存天守12城の一つだが、戦後の国宝にならないのは、1727年の大火でほとんどが焼失し、1747年以降に再建されたため。
高知城を出て、さてどうしようか、となった。
おそらく、Iさん、Kさんは街をぶらぶら歩いてどこかカフェなどに入るだろう。
しかし面と向かって話すこともなく退屈だ。私は行きたくなかった。
11:38
観光は一人のほうがいい。
知らない街を好きなようにずんずん歩いたほうがずっと楽しい。
向こうは一緒に行こうと親切に誘ってくれる。私も単独がいいとは言いだせず、ずるずると一緒に歩いていく。しかし「疲れた」という人もいるし、私だけ興味ある所にみんな連れて行くわけにもいかないし。
「じゃ、私は寺田寅彦記念館を見に行きたいので別れましょう」と二人が興味なさそうな場所を思い切って言い、別れた。
(続く)
20250407 クルーズ6 二度目の飛鳥IIと前川清ショー
20250325 近江の日牟禮八幡と豊臣秀次の築城と最後
20171106 「開運のまちおやま」と小山評定
20180601 丸岡城は国宝になるか?