2025年10月7日火曜日

千鳥屋、古河庭園は陸奥廣吉が相続したが

 10月1日、都民の日。都立の公園や動物園、美術館などが無料になる。

何十年ぶりかで近くの六義園にいったが(別ブログ)、帰り際に都立9公園のチラシを手にした。
入ったことがあるのは浜離宮、六義園、岩崎邸、古河庭園、小石川後楽園の5つ。もともと庭園そのものにはあまり興味がないので、向島百花苑、殿ヶ谷戸庭園、芝離宮は前を通ったが入らず、清澄庭園は行ったこともない。

久しぶりに自転車に空気を入れて来たので、抜けないうちにもう少し乗ってみたい。自転車で行けるところは後楽園と古河庭園。特に行きたくもないが近いほうに行ってみる。家に帰れば何もないが、外を動けば何かあるかもしれない。
9:48
六義園から本郷通りに出ると古河庭園まで1230メートルと書いてある。
9:51
JR駒込駅
1977年大学3年生の時の最寄り駅。
アパートは坂下の東口のほうが近かったのでこちらはあまり使わなかったが、外装などは新しくなっても当時と構造は変わっていない。

かつて、駅前の、通りの西側にチロリアンの千鳥屋があり、歩道からも中がよく見えた。
(実際買い物もしたかもしれない)

千鳥屋は1630年、竜造寺氏の家臣だった原田氏が九州佐賀で菓子屋・松月堂を始めたことを創始とする。(竜造寺は島津に敗れた後も秀吉から肥前31万石を安堵されたが、のち鍋島氏に領地を禅譲した)

千鳥屋は昭和2年に福岡で開店、千鳥饅頭を発売した。
1962年に千鳥餡に音が似たチロリアンを販売した後、経営者原田ツユの息子たちが次々と独立し、千鳥屋宗家(大阪)・千鳥屋総本家(東京)・千鳥屋本家(福岡飯塚)・千鳥饅頭総本舗(福岡博多)の4社に分かれた。
しかし、2016年、東京の千鳥屋総本家は民事再生法の適用を申請、千駄木に来てから長野への土産を買ったこともある、西日暮里駅の店舗とともに駒込駅前店も2018年ころ閉店した。

はて千鳥屋のビルはどれだったか、と横を見ながら妙義坂をおりる。

千駄木に来て付近を探検したころは、坂下に銭湯があった。
ブログを始めたのは2016年12月だから、前を通っても写真を撮らなかった。
千鳥屋とともに写真を撮っておけばよかったと思う場所。
9:53
銭湯の土地は、奥のほうにある香川栄養学園・女子栄養大学が取得したが、いまはコインパーキングになっている。大学の看板にはレストラン松柏軒の文字もあり、奥の大学ビルに入っているのだろうか。

本郷菊坂の旧伊勢屋質店を跡見女子大が買って集会施設として保存したように、女子栄養大も銭湯を保存できなかったものか。浴槽に魚を飼って鮮魚レストランとか料理教室とか。今や貴重になった銭湯の建物を壊した結果が、このあたりで最も殺風景なコインパーキングとは。
などと思っていると自転車が近づいてきた。
乗っているのが外国人というのが今風である。白人だからわかったが、中国人だったら分からない。
9:56
岩槻街道の霜降り橋跡をすぎ、坂をやっとこさ漕ぎ上がると到着。
国指定名勝 旧古河庭園
六義園や浜離宮などと違って、ここは「旧」の字がつく。なぜか?
庭単独で名前があるとき旧は不要で、旧岩崎庭園のように個人の庭だったという場合は旧があるのか?つまり旧は庭園ではなくかつての所有者につくと考えたが、浜離宮と旧芝離宮となると分からない。
9:57
前回来たのは2002年5月19日だから六義園よりもずっと最近である。
当時は川越線指扇に住んでいた。
柏瀬さんと来たのだが、ダンスの練習にでも行くついでだった気がする。
9:58
六義園との大きな違いは邸宅が残っていることだ。
大正8年(1919)に古河財閥の古河虎之助男爵の邸宅として建てられた。
戦後国有財産となり、敷地は東京都が借り受け1956年に都市公園として開放された。

若いころ、地図を見てコガ庭園だかフルカワ庭園だかどっちだか分からなかった。
古河財閥との関係も知らなかったし、それ以前に、古河電工だけでなく富士通や朝日生命なども生んだ古河財閥についても大して知らなかったと思う。学校で習った財閥は住友安田までだったから。
9:58
湯島の旧岩崎庭園と違って、建物見学は有料である。
入館には1階のみで500円、二階も行くガイドツアーは予約制800円。
喫茶室のケーキセットは1400円。

建物は(財)大谷美術館が1983年から6年をかけ東京都の助成を受けながら修復、1989年に公開した。現在大谷美術館が管理運営しているから庭園とは別なのだろう。
大谷美術館は大谷重工などを起業した大谷米太郎が計画し、死後実現した。彼についてはニューオータニのブログで少し書いた。
9:59
洋館の周りは様々なバラが植えてあるが、私は野菜のほうが好きだ。

9:59
バラ園のほうにはいかず、日本庭園のほうに行こうとすると途中に売店があり、店員さんが二人きちんと姿勢よく並んで立ちこちらを見ている。他に誰もおらず、何も買うつもりもないからちょっと気まずく会釈して通り過ぎた。彼らが直立不動で立っていたのは店がキッチンカーのように小さく中に入る場所がないからだった。
公式パンフレット

江戸時代から明治初めまで、ここは駒込六義園と違って西ヶ原という原っぱ、畑などだった。
明治20年代になって陸奥宗光がこの地を取得した。

陸奥宗光は紀州藩士の父が浪人したため、若いころは困窮を極めた。しかし神戸海軍塾に入り塾頭の坂本龍馬に見いだされ、以後、竜馬の片腕として亀山社中、海援隊で行動を共にした。維新後は新政府に仕え、投獄、留学を経て明治19年外務省に出仕、カミソリのような頭の切れと仕事ぶりで外交問題に活躍、不平等条約の改正や日清戦争のときの外務大臣として知られる。

陸奥は最初、摂津、兵庫県知事のころは大坂の紀州藩屋敷に逗留していたが、明治5年ころから10年ころまで深川清澄(都立公園とは別の場所)に居を構え、明治16年ころに下谷根岸に屋敷を取得したとされる。そして外務省時代の明治20年代に西ヶ原の土地を取得、本邸とした。陸奥は、大磯に別邸も持ったが、持病の肺結核が悪化し、明治30年、この西ヶ原の地で死去している。

宗光の死後、子のいなかった古河市兵衛の養子となっていた宗光の二男・潤吉が西ヶ原に住んだ。古河市兵衛は足尾銅山を取得(のちの古河鉱業)、さらに銅加工品の生産など多角化をめざし、のちの古河電工を中心とする古河財閥の基礎をきずいた。

2代目当主となった養子・古河潤吉は病弱で生涯独身を通し、明治38年、35歳のとき父と同じく西ヶ原で死去した。古河の事業は市兵衛が晩年(明治20年)にできた実子、虎之助が3代目当主として引き継いだ。西ヶ原は質素な屋敷であったため、彼は財閥当主の本邸にふさわしく敷地を1万坪に拡張、斜面の上に豪邸を立てた。それが今に残る。

樹木に覆われた細い道を池のほうに降りて行った。
10:01
10:02
崩石積(くずれいしづみ)
京都で生まれた伝統的工法で、「石と石が嚙み合って崩れそうで崩れない美しさ」というが、アーチでも作れば別だが、私にはただ積んだだけのものと大差ないように思われた。
10:03
大滝
斜面をさらに削って滝の高さを出した。こういうものは一生に何回か本物を山に見にいけば良く、わざわざ庭に作ることもないと思うが、自然を再現したいという庭師とお金はたっぷりあって丸投げした施主のなせる作品に見える。
10:04
路傍に曼殊沙華が2本。
大滝や石組より、こういうものが好きだ。
山ぶどうや栗、アケビなどを植えたほうが散歩も楽しいのではなかろうか。

10:04
邸宅の前に広がる西洋庭園。最初からあったかどうか知らないが、海外からの賓客だけでなく、園遊会での日本人客をもてなすのに都合が良い。

立派な洋館は護国寺に墓があるジョサイア・コンドル設計。延べ414坪。地上2階・地下1階。煉瓦造りの躯体を、黒々とした真鶴産の本小松石(安山岩)が覆っている。
10:06
スマホ撮影の時以外は立ち止まらず、戻って来た。
六義園よりさらに短い10分間の見学だった。
無料だと見学も雑である。

この日は小雨が降ったりやんだり。
六義園からずっと、半数くらいの人が傘をさす天気。
ところが、ここで雨が強くなった。傘を持っていなかったが、野良着のせいか、知っている人が誰もいないせいか、それとも暇なせいか、あるいは年を取ったからか、ずぶ濡れでも平気だった。

自転車を走らせて帰宅後、昔から疑問に思っていたことが頭に浮かんだ。
陸奥宗光の次男が古河家の養子になり、陸奥の西ヶ原の屋敷が古河家のものになったことはあちこちに当たり前のように書いてある。
しかし陸奥宗光には長男・廣吉がいた。家督と伯爵位を相続した。一番の財産である西ヶ原も相続すべきだろう。 実子とはいえ他家の人になった古河潤吉がなぜ住んだのだろう?
簡単には分からなかった。
調べているうちに、陸奥の遺言書には西ヶ原の本邸は長男に、大磯の別邸は夫人に残すと書いてあったことがわかった。
(奈良岡聰智、https://www.kokudo.or.jp/grant/pdf/2021/naraoka.pdf?utm_source=chatgpt.com)

西ヶ原が古河邸になったのは、潤吉あるいは虎之助が、廣吉から買ったのかもしれない。廣吉は外交官であり、霞が関からこんな遠いところに大邸宅は必要なかった(のちに高輪に住んでいる)。彼は父の死の翌明治31年からサンフランシスコ領事となり、その後在英日本大使館、北京、ローマ、マルセイユなど海外勤務が多く、西ヶ原などもらっても持て余しただろう。
そういえば、後妻の亮子に残された大磯別邸も、昨年訪ねると古河電工の保養所になっていた。年をとると色んな記憶がつながってくる。

2025年10月5日日曜日

都民の日の六義園。柳沢吉保と48年前の私

10月1日、朝テレビを見ていたら、今日は都民の日です、都立公園などが無料になりますという。

2,3年に一度、こういうニュースを聞くが毎年どこにもいかなかった。
思いついたのは六義園。
歩いて15分くらいだからいつでも行けると思っていたが、この年齢になると死ぬまで行かないような気もする。

どうせ家でぶらぶらしているわけだからと、自転車で行ってみた。
レンガの重厚な塀が長く続く正門の前に駐輪するわけにいかない。隣の六義公園の自転車置き場へ。
9:16
「六義」は柳沢吉保がつくった庭園に対して付けた言葉である。この区立公園は六義園ゆかりの公園だから、六義公園ではなく六義園公園が正しいと思う。
1977年に都から文京区に移管された。
六義園の空気が伝わっていて普通の区立公園より落ち着いている。大和郷に隣接しているというのもあるかもしれない。
9:18
正門前に戻ってくるとバスガイドさんだけがいっぱい。
制服とマークからハトバスのようだ。
一人だけ年配の方がいて「ここは門が二つありますが、北の染井門は普段開いておらず、この門だけが開いています」と話し、残りの人はメモを取っている。新人研修だろうか。
9:18
4月のみどりの日と年2回の無料開放日なのに思ったより空いている。
平日で小雨模様だとこんなものか。
9:20
入ってすぐ、六義園の概略が記されている。
周知のごとく、5代将軍徳川綱吉の側近だった柳沢吉保が元禄15年(1702)ころ築庭し、明治後に三菱弥太郎の別邸となった。

順路の矢印に従って進むとすぐ、その歴史について展示パネルがあった。
9:20
江戸時代前期の地図
このあたり、今は山手線の内側でも昔は「畠」の文字があってあまり開けていない。
「イハツキ道」が切れる地図の右端に「土井スワウ」とある。六義園の南にあった古河7万石土井周防守の下屋敷である。つまり、六義園は地図に載っていない。
地図をよく見れば根津神社のところが甲府中納言(後述)とあり、根津神社が千駄木から現在地に移ったのが1706年と言われるからちょうど築庭のころの図であることが分かる。
9:22
柳沢文庫所蔵の屋敷図を初めて見た。
柳沢家下屋敷は、たいていの絵図では正方形に描かれる。しかしこれは南のほうに突出して長屋などが描いてある。城郭のように周囲を堀で囲まれていたのも初めて知った。

柳沢吉保についてはテレビドラマ元禄太平記などの記憶からか、生類憐みの令の5代綱吉の側用人で、地名では舘林、川越、甲府、大和郡山、といった単語が浮かぶが、詳しくは知らなかった。六義園に入ったついでに書いておく。

柳沢吉保(1659₋1714)は武田遺臣を祖に持つ柳沢安忠(1602₋1687)の長男(庶子)として生まれた。保忠は大坂夏の陣で活躍し、旗本であったが将軍家光の第4子徳松(後の徳川綱吉)付きを命じられ、徳松が上野国館林15万石に封じられると安忠も館林藩士(直参旗本ではない)となった。(もっとも綱吉は基本的に江戸在住であって家臣のほとんどは神田の御殿に詰めていた)

保忠の子・のちの柳沢吉保は
1664年、5歳にして綱吉(1646₋1709)に謁見。
1675年、家督を相続
1680年、綱吉が5代将軍となると直参幕臣となり、小納戸役。530石。
1683年、1030石
1688年(元禄元年)、1万2000石、大名となる。
1692年、武蔵川越、7万石の藩主、老中格
1695年(元禄8年)、駒込の旧加賀前田家の屋敷を拝領
1698年、大老格
1701年、将軍綱吉から松平姓と「吉」の偏諱を与えられ、松平吉保となる。(それまでは
保明といった)
1702年、駒込拝領屋敷に庭園が完成。
1704年、綱吉の後継が甲府徳川家の綱豊(甲府中納言、のちの家宣)に決まると、綱豊の後任として祖先の地・甲斐に所領を与えられ、15万石となった。もっとも幕政などもあったから甲斐に行くことはなかった。
1709年、綱吉死去。吉保も隠居し、この駒込の地に住んだ。
1714年、死去、甲斐の恵林寺に葬られた。

嫡男・吉里は幕府の甲斐一国直轄化に伴い、1724年、大和郡山15万石に転封された。
9:23
この地は幕末まで柳沢家の下屋敷(別邸)であったが、明治11年、荒れていた屋敷(4万5千坪)を岩崎弥太郎が別邸として購入した。パネルによれば隣接する藤堂、前田、安藤家などの敷地を合わせて12万坪の土地を手に入れたという。
(安藤家とは紀州田辺の大名(紀伊家付家老)のようだが、私が調べたところ幕末の絵図に屋敷はない)

三菱2代目の弥之助(弥太郎の弟)は荒れた庭園を明治19年以降、完成時の姿に復元した。しかし3代目久弥(弥太郎の長男)の代に、庭園部分2万6千坪だけを別邸として残し(幕末の柳沢家屋敷は正方形だが4万坪)、大部分を売却した。北は山手線敷設、本郷学園、西は大和郷住宅地、南は理研、東洋文庫などになった。
昭和13年、岩崎家から六義園が東京市に寄付された。
9:24
内庭大門をくぐると庭にはいる。
おそらくここらあたりまで岩崎家別邸の家屋があったのだろう。

門をくぐるとまた説明パネルがあった。
9:25
六義園は紀州・和歌の浦の景勝や、古今和歌集などに詠まれた名勝、中国古典の景観などを88景として再現したものらしい。これは初めて知った。
柳沢吉保は王朝文化にあこがれた文化人でもあり、作庭にも力が入った。
9:26
一見西洋庭園のように広々した芝生が広がり、禅宗の枯山水、室町時代の書院造りの庭とは違う。

前回来たのは約40年前の1986年5月。
前年に理科大から入社した中原美香さんが駒込・都立臨床研の山本一夫氏のもとで卒業研究をしたという。山本氏は私の薬学時代の同級生だから、一緒に訪ねることになった。
都立臨床研は美濃部時代の1976年に開所し、1999年財団法人化、2009年上北沢に移転するまで駒込病院の中にあった。(2011年、都立神経研、都立精神研と統合された)

あたりは1977年に暮らして懐かしい土地だからあちこち立ち寄ろうと思ったのだろう、早めに駒込駅に集合し、六義園に立ち寄った。
9:27
この場所である。
中原さんとここまで来ると、むかし流行ったミドリガメが歩道を歩いていた。
私が池に戻してあげようと拾って投げた。
ところが、小さくてしっかり掴めず、そっと握ったまま強く投げたが水面に届かなかった。カメは芝生に叩きつけられ、あー可哀そう、と彼女は言った。

この後ゆっくり園内を歩いて、たぶん時間的に、不忍通りの勤労福祉会館にあったレストランでランチをしてから、山本氏を訪問した気がする。
(このレストランはこの近辺で一番お洒落だったが、同じ建物内に介護センター若駒の里を開所したときだろうか、大改築が行われ、今レストランはなく、その場所は会議室になっている)
9:28
池の向こうに本郷通りのマンションが見える。
最後に来た40年前、あるいは暮らしていた約50年前は、こんなマンションがあったかどうか。
池を中心とした回遊式築山泉水の大名庭園である。

9:29
滝見茶屋
相変わらず人がいない。
無料だから来たというケチな人は私くらいかもしれない。
9:30
滝見茶屋と小さい滝

六義園は50年前から知っているが、この日まで六義の意味を知らなかった。
六義は、儒教の5徳・仁義礼智信のひとつ「義」を6つに細分化したというのではなかった。中国の詩の分類法、あるいは詩の体裁(詩の六義)をいうらしい。すなわち、賦、比、興、風、雅、頌である。つまり義は義理・義務の義ではなく意義の義であった。
武士道の7徳目にも「義」「忠義」が入っているが、それとは全く関係なく、元禄時代に生きた柳沢吉保の文人ぶりが分かる。
9:33
桜の老木。
十分丁寧に育てられていたはずだが、3年前に伐採した我が家の保護樹木より小さかった。
桜はこの大きさが限界なのだろうか。

桜のそばに吹上茶屋がある。
抹茶と上生菓子が1000円という看板が出ていた。ここでも英語表記が添えられていた。
(上生菓子というのは生菓子の中でもとくに四季の移り変わりや自然を美しく表現した手作りのものをいい、茶道などで出される。では生菓子であって上生菓子でないものは何か。どら焼きや草餅などか)
吹上茶屋では池を見ながら休めるだけでなく、箱に六義園の文字が入った人形焼きや瓦せんべいなどの土産も買える。

山のほうに登りかけたが、やっぱりやめたと元の道まで戻ったら、はとバス研修グループが追いついていた。彼女らは意外と足が早い。
9:36
相変わらずメモを取る新人たち。
企業の研修など、わざわざ混雑する無料開放日にしなくても良いかと思ったが、こんなに空いているなら関係ない。むしろ大人数の入場料が節約できる。もっとも20人なら6,000円だが。

はとバスは皇居、東京タワー、浅草などが定番で、地味な六義園などは対象外と思っていたが、近年のインバウンド客に合わせて行き先の一つになったのかもしれない。

引率する先輩社員の説明をなんとなく聞いていると「決して山のほうに行ってはいけません。足の悪い方もいらっしゃいます。池の周りのコースだけにしてください」
なるほど、園内最高点の藤代峠へ団体で行ったら大変だ。庭全部を満喫させてはいけない。

ちなみに藤代峠も吹上茶屋の前の吹上浜も紀州、和歌の浦付近にある地名である。
園内88か所の名所には石柱が建てられていたらしいが(現存32か所)、見逃した。
白鴎橋
救命具が置いてあるが、溺れるほど深くはなく、投げたら滑稽でさえある。お役所仕事か。
むこうに文京グリーンコートのオフィスビルが見えた。あそこもかつては岩崎家の土地だった。
9:40
渡月橋
渡月は和歌浦を歌った和歌から採っている。
注意書きのように雨のあとは滑って落ちる人がいるかもしれない。溺れることはないが、浅いから打撲のけがをするかも。
「まっすぐな橋ではありません」
どうしてこんなことを書くのだろう? 文京区公園課の上司はやめろと言わなかったのか?
呆れ果て、危うくフリガナが「とげつけう」というせっかくのこだわりも見落とすところだった。

こうして池を一周した。

1977年、大学3年のとき、ここから歩いて数分の本駒込5-37-4 二葉荘に住んでいた。
当時、六義園は無料だったから、何度か入った。夏はアパートが暑いから文庫本などもって涼みに来たが、蚊がいて長時間はいられなかった。

あるとき老紳士がいて昔話をしてくれた。
不忍通りの坂(たぶん神明坂)の上から下を見ると一面、田んぼだったというのである。当時の私は、それが戦前の話、彼の幼児の記憶のように受け取ったのだが、今思えば、彼の親や書物から得た知識を話された気がする。すでに団子坂下から南は江戸時代から人家が並んでいた。動坂下まで不忍通りができたのが明治43年(1910)、上野からの都電が開通したのが大正6年(1917)だが、彼が私より50年上の1906年生まれとしても、子供のころはすっかり宅地化されていたはずである。
彼は写真が趣味で、私がたまたま持って行ったカメラで21歳になったばかりの私を撮ってくれた。
1977年夏
サンダル履きである

むかし六義園に入ってから39年、48年経った。
私は老人になった。樹木も幼木が老木になるはずだが、庭はあまり変わっていない。
9:41
入ってから23分間の散歩、見学だった。

天気も怪しかったが、久しぶりに自転車に空気を入れて乗ったので、ついでに古河庭園も行ってみることにした。
9:48
本郷通りに出ると古河庭園は六義園から1230メートルと書いてある。

ふと前を見たらはとバスが止まっていた。運転手が一人座っていらした。
よく考えると彼女たちがあの制服で電車に乗ってくるのは恥ずかしい。このバスで来たのだろう。
9:50
六義園染井門
この日は都民の日だから特別に開いていた。丁寧に係の人も二人、暇そうに立っていらした。

六義園はいつから有料になったのだろうと思って調べたら、9つの都立公園は革新系知事だった美濃部亮吉都政の政策で1972年4月から無料になり、しかしと財政の悪化や無料化による公園の荒廃などから1978年11月以降、順次、再度有料化されていったようだ。
つまり、私が住んでいた1977年はちょうど無料の時期で、中原さんと来た1986年は有料化されていたことになる。入場料は私が誘ったから私が払ったのだろう。


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2025年10月1日水曜日

春ジャガイモの種芋の残りを秋に植える

 2013年から千駄木で野菜を作り始めて13年目。

初期のころはナス、キウリや大根、野沢菜、白菜などだった。玉ねぎとジャガイモは長野からもらうので自分で作ることはなかった。

ジャガイモに関しては、台所で出た生ごみ(要するに皮)を捨てていると発芽し、小さな芋ができていたが、邪魔な雑草のように抜いていた。
しかし、だんだん樹木を伐採し耕作地が増えたこともあり、ようやく
2022年、台所で出た皮や芽を、初めて「畝を作って」うえてみた。
2023年、ゴミの皮や芽ではなく初めて「ジャガイモ」を植えた。(長野で発芽したから捨てるといった芋)
2024年、人並みに芋(発芽ジャガと種芋)を植えた。
また秋10月には、完全二期作を目指し6月に収穫した芋を植え、1月にほんの少し収穫した。

そして今年。
2025年春、3月に芋を埋めた。
このとき種芋が余ったので紙に包んでビニール袋に入れ冷蔵庫に5か月保管した。
それを出すと不気味な形態をしていた。
2025₋09₋11
しわくちゃだが枯死してはいない
キノコのようなものが芋から出ている。
キノコのように見えたのは発芽した茎の先にできた小さな芋だった。
これら保管していた4つの種芋は前年の6月に収穫したものであろう。

いっぽう3月に植えた芋はモザイク病にかかりながらも6月に収穫した。
2025年6月に千駄木で収穫した春ジャガ。
外の日影に置いていたら猛暑の夏を乗り切った。

つまり、2024年夏と2025年夏に収穫した2種類のジャガイモがある。
それぞれ保管3か月(新ジャガ)と1年3か月(古種芋)の芋である。
これを秋植え栽培の種として使う。
2025₋09₋15
植える場所はスイカメロンを片付けた1番畝
2025-09-30
古種芋が発芽した。
しかし新ジャガを埋めた穴に変化はない。
心配になったので新ジャガのほうを掘ってみた。
ほんの小さな1ミリほどの芽が出始めていた。

ようやく猛暑の日々が過ぎたと思ったら、この日で9月ももう終わり。
あと3か月で今年も終わる。
あと何年野菜を作れるのだろう。
などと感傷に浸っている暇はなく、秋冬野菜のために夏野菜を片付け場所を作らなくてはならない。
まずカボチャと人参。
2025-09-30
たった一つ生ったカボチャ。
ちょっと見なかったら大量のウリハムシが葉っぱから移動して食い散らかしていた。
追い払ったが、一匹だけ残っている(写真中央)。
ニンジンは3月14日に種を蒔いてビニール保温したもの。
食べきれずに放っておいたら中に芯がでてきた。
白菜用の畝にするためすべて抜いた。
ネコブセンチュウにやられたのか、ひげ根にこぶができている。
7月には食べ終わりたかったが、夏はカレーや煮物をしないため残っていた。
2025-09-30
7番畝北(左)に大根、カブ
南(右)に白菜など(市販苗。実生苗は作成中)

岩手盛岡の駒野宏人氏が土地を借りて野菜を作り始めたらしい。送ってくれた写真は無農薬というのに白菜も大根も防虫ネットをしていなかった。この写真を送ったが、もう手遅れだろう。彼が何年続けるか分からないが、最初の年は失敗すれば良い。


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2025年9月29日月曜日

枝豆がネズミに食われた

 

2025₋09₋03 7:11
スイカとメロンは葉が枯れてきた。
ウリハムシに葉を食われたこともあり無残な姿となって片付けた。

最後のスイカは未熟だった。
結局スイカは13、メロンは2つ取れた。
メロンは追熟しないと甘くならないので、猛暑の室内に置いていた。そしたら良くできたほうが腐ってしまったこともあり、今一つだった。
2025-09-11 7:38
繁茂するサツマイモ
サツマイモは3,5,6番畝に植えたのだが、庭一面に広がった。
まだ苗を植えたばかりのころ、その周りが空いていたので、枝豆の種をまいた。
2025-07-03
(2か月前のサツマイモと枝豆、同じアングルから)

長野では枝豆は畑でなく、田んぼの畔で作った。すなわち掻き揚げた泥に鎌をグサッと刺してその割れ目に一粒ずつ豆を入れて行く。味噌などにする大豆と違って、枝豆は短期間で収穫でき自家用に少しだけあればいいから、こういういい加減な作り方だった。サツマイモの畝の外周に1列に種を入れたとき、そんな記憶が蘇った。

上の写真のように畝は長いので食べきれないほどとれるはずだったが、サツマイモに追いつかれ覆われてしまったせいか実の成熟が遅かった。

スイカやメロンに気を取られていて、久しぶりに見ると、鞘が何かにかじられている。

見れば下に豆の莢が散乱。
ネズミに間違いない。
2025-09-11 7:38
鞘ごと食いちぎって地面で食べたほかに、登ったのか生っている状態で中身だけ齧っているのもある。
腹が立つのは、実がしっかり入って太った鞘だけかじって、やせた鞘はそのままであることだ。あんなに脳が小さいのに幼児よりも知能が高そうだ。

枝豆はナスやキュウリと違ってやせた鞘は残しておいても太らないから、すべて引き抜いた。
桜の巨木を伐採して以来、何匹もいたヒキガエルがいなくなってしまったが(絶滅?)、ネズミが目立つようになった。ここ数年、春先に苗をとるため土に埋めているサツマイモをかじられたり、天井で音がしたりする。

今回かなり大きな実害が出たので、駆除を試みた。
まず、粘着型のネズミ捕りを家屋から庭への通り道と思われる縁の下のところに置いた。
設置して3日後の朝、ネズミ捕りがひっくり返っていた。
みれば毛が2か所にくっついている。

ネズミは足が4本ともマットの上に乗れば逃れられないが、1本以上の足が地面に残っているうちに、それ以上進まなかったのだろう。残った自由な足で暴れるうちに、マットがひっくり返り、背中に粘着するも、縁の下の柱や踏み石にマットがひっかかったときに体重も利用して、暴れるうちに足が地面をひっかき、足、続いて背中が離脱できたと思われる。

その後、2週間以上経つがネズミは二度とかからなかった。
やはり賢い。

枝豆はなくなったものの、サツマイモ、落花生は依然として畑の地中にある。
これに気付くような知能を持っていたら恐ろしい。