2024年11月18日月曜日

植物色素クリプトキサンチンとカプサンチン

 急に寒くなって来た。

11月17日、都心で24度、季節外れの陽気。
今日から寒くなっていく。
2024₋11₋18
ようやくパプリカも1つだけ色づく気配。
この肉厚、甘い大型ピーマンは、長期間畑を占領するため、今年は鉢1つと日の当たらぬ庭の端に2株だけ。

色の成分はカプサンチンcapsanthin。
我々、イオンチャネルTRPV(バニロイド受容体)研究者になじみ深いカプサイシンcapsaicin が唐辛子の辛味成分であるのに対し、カプサンチンは色の成分である。名前が似ているのは、両方ともトウガラシ属の学名Capsicumにちなむから。

構造も全く違い、前者が共役二重結合が長く続くカロテノイドであるのに対し、後者はバニロイド誘導体で色はない。

秋になって緑のクロロフィルが分解されてきたのか、カプサンチンが蓄積されてきたのか、どちらかだろう。いずれにせよ、一つの色素の化学変化で色が変わっていくわけではない。
すぐ隣は温州ミカン。
昨年217個もなった反動で今年は少ししか生っていない。

柑橘類のだいだい色の成分はβクリプトキサンチンで、これもカプサンチンと同じカロテノイドである。

甘夏も色づいてきた。
昨年56個だったが、今年もそれくらいはあるだろう。
3つ目の柑橘は不知火。
デコポンの栽培品種名であるが、発育不足か、デコはない。
2022年2月に植え、3回目の秋、今年はじめて実をつけた。
まだ緑のうちに落ちたり割れたりして、残っているのは9個しかない。
木が小さいから9個でも多いくらい。来年もっと成長することを期待している。

柑橘類にはクリプトキサンチンの他にノビレチンというフラボノイド色素も含まれているらしいが、両者の比率は知らない。
健康ブームでフラボノイドという単語が世間では実力以上に取り上げられている。

そもそも植物の色は多くの色素が混じったものであり、絞り汁をクロマトグラフィーで展開すれば多くの色素帯がみえる。
フラボノイド、カロテノイド、など語尾のoidは「類」という意味である。世間がありがたがるフラボノイド(アントシアニン類とフラボン類)などはクロロフィル類と同様、微量成分まで見れば多くの植物に含まれていて、「体にいい」と売り込むほうも喜んで買うほうも、どっちもどっちである。
こちらも昨年363個なった反動で少ししか生っていない。
鳥に一つ齧られてから慌ててネットを張り、それ以降の被害はない。

柿の色も、βカロテン、クリプトキサンチンなど、カロテノイドである。
この日は柿9個とった。

先日サツマイモを収穫したあと、5番畝は春キャベツ、6番畝は玉ねぎを植える予定。
今日は昨日から一転、小雨で寒いから柿を取っただけで何もせず、こたつでこれを書いた。


2024年11月9日土曜日

ラッカセイ、里芋、サツマイモを掘る


2024₋11₋06
ラッカセイがいつまでも青々して光合成しているように見えるので収穫が遅れた。
過去9回の収穫日は、
2016 10.26
2017 10.31
2018 10.29
2019 11.04
2020 11.03
2021 10.15
2022 10.11
2023 10.16
2024 11.09
年によってずいぶん違う。

2024₋11₋06
「抜いたまま畑で乾燥」と書かれているが、鳥、ネズミなどに食われそうな気がして翌日鞘をとった。
2024₋11₋08
落花生の後にはレタスとホウレンソウの予定
2024₋11₋08
ことしは従来のものに加え、オオマサリを3株だけ植えた。
豊作とは言えないが、味見、節分豆まきの分はとれた。
従来種 800グラム 3.5リットル
オオマサリ 158グラム 0.8リットル

里芋も収穫。
2024₋11₋06
9株のうち3株掘った。
種芋は昨年収穫の自家製種芋と、スーパーで買った食用芋の二種類。
番号をつけたていたが、どれがどれだか分からなくなった。

里芋はサツマイモなどと違い、掘ったらすぐ食べたほうが良いらしい。
これは腐りやすいということなのか、新鮮なほうがおいしいということなのかよく分からない。保存がきかないことが、東北地方で里芋を使った芋煮会が始まった理由という。

ま、とにかく一度に全部掘らず3株だけにした。

サトイモ過去ブログ
20240521 サトイモが発芽、サツマイモにネズミ、ジャガイモは花
20231201 里芋は名前通り古い作物か

サツマイモも掘った。
2024₋11₋07
品種はすべて紅はるか、だったような気がする。
昨年同様5,6,7番畝を使用。
2024₋11₋07
7番畝はマウンドを盛って植えたりしたが、日照など条件が違い過ぎてデータにならない。
5番畝がいちばん日当たりがよく、6番は前の家と生垣の陰、7番は柿の木の陰でいちばん日当たりが悪い。
2024₋11₋09
午前中でかけている間、次女と妻が掘ってくれた。
2024₋11₋09
5番畝 25本植えて芋がついたのが14株、3.18kg
6番畝 24本 6株 1.68kg
7番畝 18本 3株 0.67kg
つまり合計67本植えて23株にしか芋ができず、総量は5.53kgであった。

これは不作だった昨年より悪い。
サツマイモは2020年からだから5年目。
 2020年 3番畝 13本 収量測らず
 2021年 1番、5番畝など 28本 収量測らず
 2022年 5, 6, 7番畝 111本 22.3kg
 2023年 5, 6, 7番畝 77本 6.5kg
 2024年 5, 6, 7番畝 67本 5.5kg

サツマイモは連作障害がないと言われるが、来年は場所を変えてみるか。

サツマイモ過去ブログ

2024年11月5日火曜日

素人にイチジク栽培は無理

イチジクに対するあこがれのようなものがあった。
ふつうの果物にない、宗教性、歴史性が感じられる。
また長野の実家のまわりでも見なかったし、もちろん作ったことがないことも、憧れた理由の一つだ。


また、私の最も好きなパンは、チーズと乾燥イチジクの入ったパンである。
一見欠点のような甘味酸味が薄いというのも、パンだけでなく料理にも使えそうな発展性を秘めている
2022‐09‐29

初めて植えたのは2017年3月、上尾セキチューで買った苗(fig-1)。しかし実が生り始めた2020年9月、カミキリムシで枯死した。
その後、2021年6月、道灌山通りの三菱パークマンションの建設で立ち退いた人が路上に「ご自由にお持ちください」と書いた鉢を置き去りにした。しかしイチジクと思われなかったのか誰も持って行かず、数日後私が2本とも引き取った(fig-2, fig-3)。
そして2022年2月、退職前、伊奈町のコメリでまた1本苗を買った(fig-4)。

つまり1本枯れたにもかかわらず、3本も狭い庭に植えていた。
拾った苗は翌2022年の夏秋に実を付けた(上の写真)が、やはり手狭であるため、1本(fig2)を抜根した。

残った2本(fig3、fig4)のうち、拾ったほうfig-3は2023年10月にカミキリムシにやられ、一命はとりとめたが患部から上を切断したため無残な姿となった。
2023₋10₋01
イチジクfig3に巣食っていたカミキリムシの幼虫。
虫体は白くて大きい。
カミキリムシの恐ろしさは、幼虫が葉を食わず幹を食うため、木を枯らしてしまうことだ。

そして2024年、4番目のイチジクfig-4が実をつけた。
一番まともに大きな実をいくつもつけていたのに、またカミキリムシにやられた。
2024₋09₋29
イチジクfig4の幹から出る虫の糞。
ああ、またか。
ネットを見ると、糞が出ている穴に針金やピンセットを差し込み、中の虫を殺せとあったので、新しい糞が出るたびに針金を突っ込んでいた。

しかし、糞の噴出はなかなかやまない。
これらが成虫になったときが恐ろしかった。カミキリムシはイチジクだけでなく柑橘類や他の果樹も襲うという。長野でもリンゴの木にいたし、防除用の白い薬液を幹にこってり塗っている桃の木を見た記憶もある。

いま千駄木菜園にある夏ミカン、温州ミカン、育ちつつある不知火、せとか、にカミキリムシがついたら泣いてしまう。
残念だけどイチジクを諦めるしかない。

糞を見つけて1か月たった。
2024₋10₋30
これを切るのか、惜しいなあ、と切るかどうか迷いながら毎日眺めていたら、食べごろのイチジクが鳥に食われていた。
2024₋10₋30
イチジクの敵はカミキリムシだけではない。

理由は省くが、鳥からの防御はミカン、柿よりも難しい。
踏ん切りがついた。
2024₋11₋03
根元から切ろうと思って分け入ったら新しい糞が噴出されている。
ますます諦めがつた。

2024₋11₋03
最後の雄姿
向こうの夏ミカンより高く、我が家では一番背が高い。

2023₋04₋12
昨年はこんなに小さかったのに(右の塀際)、夏2回でずいぶん大きくなるものだ。
柔らかい茎でぐんと伸び、そのあと木質化する。
・・・・・・
切断した。
2024₋11₋03
切断面。真ん中に虫の穴が開いている。
乳状の樹液がにじみ出る。
この独特の匂いがカミキリムシを呼ぶのだろうか?
この匂いのないミカンなどに来ないことを願う。

いままで庭でカミキリムシの成虫は2種類、幼虫も2種類みた。
これらがイチジク限定、レッドロビン限定の種であることを願っている。

2024₋11₋03
こんなに実が生っていたのに。

2024₋11₋03
抜根。
まわりはサトイモとかラッカセイとか所狭しと植わっているので作業に気を遣う。
2024₋11₋03
糞の出ていた横穴で切断したが虫はいない。
いくら針やピンセットを刺しても殺せないわけだ。
幼虫は竪穴の奥のほうに引っ込んでいるようだ。
探すために輪切りにしていくと居た。

2024₋11₋03
レンガの幅は60mm
虫はずいぶん大きい。
いままで糞が出る横穴一つに対し、幼虫1匹いると思っていたが、この穴の数に対し2匹しかいないところから、幼虫はいくつも横穴を開けるのかもしれない。
2024₋11₋03
大きなほうは頭を切断してしまった。
長さ6センチ近くあった。

過去のイチジクブログをもう一度読んで追悼とする。

2024年11月2日土曜日

柿に防鳥ネットを張る。鳥は甘さが見えるか?

外で鳥がギャーギャー鳴いている。
またこの季節がやって来た。不思議と夏は来ない。

昨年は柿と温州ミカンをやられた。
色づいてきた柿の木に来たのだろうか?

声だけでムクドリ、ヒヨドリ、ツグミのいずれかを判断する能力はない。
2024₋10₋28 15:43
今年は残暑が長かったからか、柿はまだそれほど赤くなっていない。
15:44
しかし覗くと一番赤いものを食べられていた。
もちろん鳥は色が分かる。
さらにいえば、ヒトは色を識別する錐体が3種類(R、G、B)だが爬虫類と鳥類はRGBに加えて紫を感じる4つ目の錐体がある。
様々な色の識別は3種類で十分だと思っていたが、それはヒトの可視領域(波長360~800nm)の話で、RGBの外にある光は感知できない。鳥は4つ目の紫担当錐体で紫外領域(波長300~330nm)も見えるらしい。

(哺乳類も4種類あったが、初期の種の多くは夜行性だったため退化して2種類となった。しかしヒトは昼行性になったため、R担当錐体からG錐体を作り出した。だからRGの分離が不十分で、色盲となる人も出る)

15:45
夏ミカンは襲われていない。
色づいていないし皮が厚いからな。
実際、温州ミカンは色づくと食べられる。

とにかく柿の木をネットで覆うことにした。
1.5mx5.0m(6.0m?)を2枚縫い合わせ、さらに2つに折って1辺を縫い頭巾型にしたもの。
昨年はテグスを張ったのだが効果がなかったから、今年はすっぽり覆う。

16:08
その前に木を小さくせねばならない。徒長枝や、実のついていない枝を切った。
枝葉は、まだ甘くするのに光合成しているだろうから切りたくはないのだが。

16:22
ネットをかけようとするが思ったより難しい。
棒(園芸用支柱)で持ち上げたり引っ張ったりするのだが、うまくいかない。
腕は疲れるし、イライラするし、暗くなってくるし、もうやめたくなった。

しかしネットに紐をつけて他端を棒に結び、その棒を向こう側に放り投げ、支柱を引っ張ることでなんとかかぶせた。
17:02
下はフキ、サツマイモなどがあるのだが、もうぐちゃぐちゃに踏みつけてしまった。
それでも何とかめどをつけて、この日は終了。

2024₋10₋29
翌日、完全に覆った。
幸か不幸か、全然生っていない枝があるので、それらを包む必要はなく、またそれらはネットの抑えになった。

2024₋10₋29
一息入れて枯れかけたインゲンをみたら実が生っていた。
やはり猛暑のときは花がついても実らないのである。

2024₋10₋30
初収穫。
昨年は363個もなったが、今年はその反動で不作。50個くらいかな。
ところで甘いだろうか?

可視光線以外も見える鳥なら、わかるだろうか?

血中のグルコース濃度を赤外線で非侵襲的に見る方法がある。これは組織を透過できる1500nm より長い赤外線を照射し、グルコースで吸収された後の散乱光あるいは透過光を測るものだが、変化率は最大でも0.4%に過ぎず、鳥でも全部同じものに見えるだろう。

と、ここまで書いて糖度計というものがあることを思い出した。
2015年8月、前職のとき「子ども大学」で小学生を50人くらい引き連れて上尾の三井金属鉱業・研究所を見学した。
ここは測定装置をいろいろ持っていて、電子顕微鏡で昆虫などを見たりしたあと、みんなでみかんの糖度を測った。一人一個ずつ測って、数値が高いものと低いものを箱に分け、そのあと皆で味見すると、確かに合っていた。

糖度計も赤外線を当てて返ってくる光の減衰を見る。光は散乱することを利用し、受光機は入射光の反射に妨害されないよう斜めに置く。ここで重要なのは果物の糖度は血液の糖分よりはるかに高いことだ。
文科省公式サイト、日本食品標準成分表(2023)

血中グルコースが100㎎/100mLすなわち0.1%であるのに対し、糖度10度の果物はその100倍、全量の10%が糖分である。
食品分析表を見れば、柿は
 水分 83.1(%)
 タンパク質 0.4
 脂質 0.2
 炭水化物 15.9
(うち糖質 13.3)
 有機酸 0
 ミネラル 0.4

つまり柿の内部は、ほとんど糖分である。赤外線の吸収はほとんど糖質によるから、血糖の測定よりはるかに簡単である。

しかし鳥は赤外線を照射できないから、太陽光線の赤外線の吸収分を外から見なくてはならない。外見(すなわち可視光線の反射像)が全く同じ柿二つの、赤外線像を比較するのは、2つの波長で像を見ることになる。これはプリズムでも使わないかぎり、同じ目では不可能である。

だから赤外線が見える鳥でも甘さは検知できない。もっとも一部の鳥が見える赤外線はかなり可視光線に近い800~900nmであり、これは内部まで浸透しにくいだろう。

2024₋10₋30
ふとイチジクを見ると食われていた。

しかし、食べごろになると突つかれるところを見ると、内部の糖をみるのでなく、熟したことによる外見の変化を見ているのだろう。

それが人間の目と比べどちらが正確か興味がある。

ところで鳥は渋柿を食べるだろうか?
渋柿を外見で区別できたら大したものだ。


過去のブログ

2024年10月26日土曜日

山形12 酒田の北前船、米1石の意味

9月19日、山形県に来た。早朝から米沢、山形、新庄、鶴岡を見て、今回の最終地、酒田にきた。

本間家本邸を外から見たあと、だんだん暗くなってきたが、行くべきところが見つからない。
地図に日和山公園があった。
(日和見山のほうが正確だが日本語はこういうものだ。)
本間邸から1.1キロ。普段なら大したことがない距離だが疲れてきた。
しかし、ここに行けば、江戸時代に海を見て出航日を決めたように、酒田港が上から見えるはず。
酒田市役所の北を通り、西にひたすら歩く。
17:46
丘に向かう上り坂が見えた。
17:47
空き地の向こうに古い大きな家が残る。
あとで地図をみたら明治28年建築の料亭を利用した観光施設「山王くらぶ」の裏側だったようだ。
17:47
左の枝道。下り坂なので酒田港に行くのだろう。
17:48
日和山の坂下
かつては商店街だったのかどうか。
道路ものっぺらな舗装でない。
17:50
日枝神社
17:51
日和山は西が公園、東が日枝神社になっている。
日枝神社境内には光丘神社、光丘文庫がある。
本間家三代目の当主光丘(みつおか)は、学問を修めるため文庫を兼ねた寺院を建てようとした。宝暦8年(1758年)から40年近くにわたりお上に願い出たが、新寺建立の禁止政策により、果たせなかった。
はるか後世の大正時代になって八代目当主、光弥(みつや)は、光丘の遺志を継ぎ、先祖伝来の蔵書2万冊と建設費、及び維持基金として10万円を寄贈し、大正14年(1925年)に1925年光丘(ひかりがおか)文庫が開館した。

しかし、もう暗くなっていたので神社のほうには行かず、港が見える公園のほうに急いだ。

酒田は自然地形としての入り江はないため、港は最上川と並行する新井田川の河口にできた。信濃川河口の新潟港と同じである。
17:52
手前が酒田港、向こうが最上川
間にある石油タンクのようなものは、全国漁業協同組合連合会・酒田油槽所とあるから、漁船の燃料タンクだろうか。
17:53
日本海側に落日の明るさが残る酒田港
9月19日の酒田市の日の入りは17:43。
ちなみに日の出、日の入りというのは、太陽の上辺が水平線に一致した時刻である。(太陽が少しでも出始めたとき、完全に沈んだとき)
17:53
日本最古級といわれる木造の六角灯台(明治28年築)がみえる
17:53
こちらの方向、39キロ先に飛島(酒田市、2017年の住人210人)があるはずだがよく分からず。
17:56
公園は広い芝生の斜面もあり、いい感じ。
園内には酒田を訪れた文人墨客を紹介した29基もの文学碑があるらしいが、暗くて、疲れていたこともあり、一つも見なかった。
斜面の下には日本列島の岸と日本海をかたどった池が掘られ、北前船が浮かんでいた。
17:57
「河村瑞賢と湊町酒田の繁栄」
「千石船と西廻り航路」
この案内板を見るといろんなことを書きたくなる。

まず「港」と「湊」の違い。
港は水の部分をさし、湊は陸の部分をさす。つまり入港、港湾工事、不凍港に対し、湊町、三国湊である。森進一の歌は「湊町ブルース」のほうがよい。しかし湊は人名用漢字であり、常用漢字(1981年までは当用漢字といった)ではないことから、すべて港になってしまった。

それから千石船。
ここまで北前船と書いてきたが、北前は大阪など上方で北陸方面を指した言葉で、北陸では弁才船、千石船と呼ばれた。
千石とはどのくらいか?
1石=10斗=100升=1000合
いっぽう、1 俵=4 斗=400 合
だから一石は2.5俵。千石は2500俵になる。

だいたい1合(=180mL)は150gだから、一俵は60kg、一石は150kg(180リットル)と
なる。千石船は150トン載せられるということだ。

ちなみに日本人は老人、女子供も平均すれば、1日3合x365日、1年で1石食べる。(副食物がないともっと食べるが、足りない分は麦、粟、稗、芋などで補った。農作業に必要なカロリーは2石くらい必要らしい。日本陸軍の兵站は兵士一人、1日6合として計算した)
すなわち前田家100万石というのは加賀・能登・越中の大半を領して100万人養えたということだ。江戸時代、全国の米の取れ高は3000万石であり、人口も3000万人だった。もっとも、五公五民、藩によっては六公四民、農民は6割も年貢として取られたわけだから、不作のとき飢饉になるのは当然である。

江戸時代、武士の俸禄(給料)は米だった。
槍もちを従えたり馬に乗れたりする100石、200石取りというのはいいとして(五公五民なら半分が収入)、微禄なものは5人扶持というのがあった。一家5人が1年暮らせる米ということである。これは一人一日5合で計算した。一人当たり5合x354(旧暦)=1770合=1石7斗7升である。これはほぼ5俵に相当した。5人扶持なら25俵(約9石)で、これを12で割って毎月支給された。

また戦国時代、大名の動員兵力は1万石に対して250人と言われた。
関ヶ原でも石田三成・5,820人/19.4万石、小西行長・6,000/20.0、大谷吉継・1,500/5.0、井伊直政・3,600/12.0、福島正則・6,000/24.0、藤堂高虎・2,490/8.0 である。これは1万石の領民が1万人、うち男が5000人、15歳から25歳までが1000人、そのうち4分の1が足軽として戦場に出たとすれば辻褄が合う。

さて、西回り航路。
それまで例えば加賀から大阪に米を送るには(加賀藩は毎年7万石ほどを大阪で換金していた)、敦賀まで船、そこから馬で陸送して琵琶湖、淀川の水運を使ったが、運賃が高く米も傷んだ。そこで藩では寛永16年(1639)、下関を回り、大阪まで蔵米を運んだ。これが西回り航路の始まりである。

出羽の最上氏が改易された後、村山地方には北日本最大の天領があった。幕府はここの米を江戸まで運ぶよう河村瑞賢に命じた。彼は1671年、酒田から津軽海峡を周って仙台から南下し、(それまで危険な房総沖を避け、銚子で川船に荷を積み替えていたのを)一気に伊豆まで南下させ、風待ちして江戸に入るという東回り航路を開拓した。
翌1672年、彼は酒田から太平洋より穏やかな日本海を周って大阪に入り、さらに紀伊半島を周って江戸へいく西回り航路を確立した。距離は東回りの倍になったが、より安全であり、出羽の米は西回りが主流となった。

瑞賢は伊勢の貧農の子に生まれた。13歳で江戸に出て奉公しながら、お盆で川に流される野菜馬を拾って売ったりして金を貯めたり、明暦の大火では木曽福島の材木を買い占め、莫大な利益を得た。その後、幕府の公共事業を請け負うようになる。ほかにも全国各地で治水・灌漑・鉱山採掘・築港・開墾などの事業を実施。その功により晩年には旗本に加えられた。ここ日和山公園には瑞賢の銅像がある。

幕府米の輸送として開かれた西回り航路は、その後、国内の輸送に大きな役割を果たす。
北前船は1年に1航海で、3月下旬大阪をたち様々な商品(下り荷)を寄港地で売りながら5月下旬に蝦夷に到達した。上りは7月下旬に蝦夷を出発、イワシ(肥料)や各藩の米、もちろん最上の紅花なども積み、11月上旬、大阪に戻った。冬は海が荒れる。
17:57
縮尺1/2の復元模型「日和丸」
思ったより小さくてびっくりした。縦横高さが2分の1だから実物はこの8倍だが、それでも1000石すなわち2500俵も載るのだろうか?
1984年、高田屋嘉兵衛が所有していた北前船・辰悦丸が復元建造された。これは全長29m、幅9m、深さ3mで載貨重量が約225 t(1,500石)という。また、2005年に建造された「みちのく丸」は全長32m、幅8.5m、深さ3m、帆柱までの高さ28m、千石積み(150t)であった。ここ日和山公園の1/2模型は長さ10.6m、幅3.2mというから、まあ1000石載るのかな。
ちなみに京都伏見と淀川を結んでいた船は十石船、三十石船である。

・・・・
すっかり暗くなり、脚も疲れた。
もう見物はやめ、ゆったり座って夕食をとりたかった。
駅に戻る途中で何かあるだろう。
大きな病院があった。
18:11
道の両側が本間病院
あの本間家と関係あるのかどうか不明。

柳小路をこえ、アーケードの中町モールにも飲食店がない。
駅のほうに戻るため国道112号を北に行っても、灯りが少なくほとんど商店がない。
酒田の中心はどこなのだろう? 駅に向かって歩いているうちに何かあるだろう、と楽観していたが、驚くことに住宅ばかりでほとんど何もなかった。

駅のそばに定食屋があったが満席。
周りを探すが、小さな飲み屋が何軒か集合した長屋、スナックみたいなドアで中が見えない焼肉屋、駅前ロータリー角の居酒屋・大庄水産くらいしかない。
建物は二階建てですらなく平屋が多い。空き地も目立つ。これが人口9万の駅前だろうか。南の酒田南高校のほうは住宅地のように灯りすらない。
酒田は北前船の時代のように、JRの駅より港が中心なのだろうか。

ミライニにはいると二階にフレンチレストランがあったが、おしゃれなグループが食事するところのようで、ちょっと入りずらい。
疲れたので図書館でぶらぶらして、もう一度定食屋に行ったらガラガラに空いていた。

せっかく酒田に来たのだから新鮮な海産物を食べるべきだった。
山居倉庫の川沿い、湊のほうに飲食店があったのだろうか?

メニューに最上どりムネ肉チキンカツというのがあった。
19:47
チキンカツ定食 1000円

最上どりというのは、新庄を中心とする最上地方で餌の30%を米にして育てたブランドチキンらしい。他の鶏肉との味の違いは分からなかったが、とにかく大きかった。ご飯はお替り自由というが、それどころでなく、カツを平らげるだけで難儀した。

しかし、長い一日、置賜、村山のあと、最上を歩いたことなどすっかり遠い日のように忘れていたが、この最上どりで新庄城址や最上峡を思い出した。
食べながら朝からもらった山形各地の地図やパンフレットをリックから取り出した。
米沢、山形、新庄、鶴岡。よく歩いた。
そして酒田の地図をみたが繁華街はどこだか最後まで分からなかった。

・・・
おおた食堂の真ん前、ミライニ前の高速バス乗り場を20:40に出発、翌朝5:45、新宿についた。
人との会話はほとんどなかったが、山形の地形、市町村の場所、距離感に関してはなんとなくわかった。

(終わり)