2025年8月31日日曜日

青森ねぶた祭を見物した

8月6日、クルーズ船飛鳥で青森に来た。
昼はひとりで三内丸山遺跡、自衛隊青森駐屯地を見物した。
この日は昼も夜も珍しくダンスの仕事がない。しかし、おいしい夕食を食べるためだけに飛鳥に戻った。
もどる途中、アスパム(青森県観光物産館)を通った。
15:41
ここはねぶたの格納庫が並んでいる。
一帯は青森湾に面した青い海公園の一部で、らっせランド(ねぶた小屋)といい、毎年ここで大型ねぶた二十数台が製作され、祭りの期間が終わるまで待機場所となる。
15:42
夜の出陣を待つ各ねぶた。
今年は8月2日から6日の夜5回と7日の昼、合計6回市内を練り歩く。
我々が見るのは最後の夜ということになる。

船内に戻り、少しベッドで寝転んだあと、ダンス講師仲間4人で早めの夕食をとった。
ふつう飛鳥の夕食は和食も洋食も1品ずつ供されるフルコースなのだが、竿灯まつり、ねぶた祭り、青森湾花火大会の日は、イベントに間に合うように17時くらいから大きなお盆に全部載せて出される。この日はうな重だったかステーキ重だったか。うな重と言っても重箱のほかに肝吸い、漬物だけの町のうな重ではない。刺身など、いくつもの小鉢、フルーツまでついた豪勢なもので、それほど空腹でなくても美味しいから全部食べてしまう。

食後、のんびり薄暮の中、歩いて出かけた。
会場は飛鳥のいる新中央ふ頭クルーズターミナルから南にまっすぐ柳町通を歩くと着く。
ねぶたは柳町通と新町通りの交差点、柳町通と国道4号の交差点の2か所から出発し、反時計回りに練り歩く。

我々の席は遠くはないが、4人で歩くこと、だんだん人が増えたことなどから、遅々として進まず、そのうち動き始めたねぶたに遭遇するとますます歩みが遅れ、暗くなってきてしまった。
18:45
柳町通り
最初に見たのは金魚のねぶた。

ねぶたには大型の武者ねぶたと子供ねぶたがある。子供のねぶたの題材によく使われるのが金魚。江戸時代弘前城下では武士による金魚の養殖がおこなわれ「津軽錦」として知られた。そして子どもたちが夏祭りの宵に金魚の形をした灯籠を持ち歩く「金魚ねぷた」が風物詩になっていた。青森は弘前津軽藩の外港であったからねぷた祭りも行われ(同じ青森の主要都市八戸は盛岡南部氏の一族の藩だからねぶたはない)、子供たちも楽しめるように大人の武者ねぶたのほかに金魚ねぶたも普及した。

だんだん人が多くなり歩みも進まない。
18:50
柳町通と新町通りの交差点。ねぶたの出発点の一つである。

今年は何台作られたか知らないが、日によって(各ねぶたの都合により?)出陣台数は違う。大型ねぶたに限って言えば、8/3は14台だし、我々が見る8/6は23台である。つまり6回全部出るねぶたもあれば、登場4回のねぶたもある。目当てのねぶたを見たいなら町中に置いてあるプログラムをみなくてはならない。
18:53
この日は雨予報のため、和紙でできたねぶたが濡れないようにビニールをかぶっているものが多い。ビニールは巨大な袋で継ぎ目がなく、特注のように見える。
中の電球は10~100Wのもの1000個以上という。
19:02
やはりビニールがないほうが迫力ある。
ねぶた運行は18:45から始まっているのだが、我々の席はここではない。

人込みを抜け、ようやく国道4号沿いの飛鳥乗客用の指定席についた。
19:07
飛鳥の乗客は出不精なのか、席はガラガラ。
公式サイトでは一人3500円という。指定席設置場所以外は自由に観覧できる。
19:09
こちらのほうから来るはずだが、まだ来ない。
ねぶたは新町通りを西にいき、八甲通りを南に練り歩き、県庁の角で曲がって国道4号(我々の席がある)を東に進む。
(どうでも良いことだが、この道路は西から国道7号、東から国道4号が来る。どこが境か、それぞれの終点はどこかと調べたら、青森駅でも青森港でも県庁でもなく、県庁の東の青い森公園の南側だった。碑もあるらしい)
19:22
ようやく最初のねぶたが来た。
最初は青森市PTA連合会。
三菱グループの青森菱友会のねぶたが続く。
19:28
飛鳥の乗客が混じっていたようだ。
ちなみに、はねと(跳人)衣装を着れば誰でも行列に参加できる。
事前登録も受付もなく、ただ運行スタート前に好きなねぶたの待機場所に行き、そこから参加すればいいらしい。行列が終われば自由解散。
19:29
跳人で参加するならラッセー、ラッセー、ラッセーラと叫びながら乱雑なほうが楽しいだろうが、見るほうとしては整然としたパレードのほうが目を引く。
とくに笛の集団は、楽器の性質から全員が体をひねった状態で固定して歩くから美しい。

ねぶた祭りは台車に乗ったねぶたが中心となるが、前後を固める跳人と囃子方も重要である。囃子方は笛のほか、太鼓と手振り鉦(てぶりかね)の行列が祭りを盛り上げる。

青森菱友会のあとは、マルハニチロ佞武多会。
19:37
ショッピングセンター・サンロード青森の太鼓。
19:49
東北電力ねぶた愛好会、日本通運ねぶた実行委員会、プログレアねぶた実行プロジェクト、日立連合ねぶた委員会、と続く。一台2000万とも3000万ともいわれる制作、運行費用を出せるのは町内会というより大企業ということだ。

日立連合の行列は、大提灯を先頭に、小提灯(多数)、小ねぶた、のぼり隊、跳人集団、大ねぶた、大太鼓、笛隊、跳人集団2次、という布陣だった。(ふつうは手振り鉦組も含め囃子隊は大ねぶたの前らしい)

日立は8月1日の前夜祭、ねぶたラッセランド の特設ステージで行われた、ねぶた囃子コンクールで9年連続の囃子賞を受賞した。

行列は続く。
しかし、雨が激しくなってきたので席を立った。
昼間行った自衛隊の「後藤伍長ねぶた」を見たかったが、プログラムでは行列のだいぶ後ろだったので諦めた。
20:02
会場を後にして4人で飲みに行った。
飛鳥では毎晩ダンスパーティがあるから、スタッフ4人で飲むことなど普通はあり得ず、もちろん今回が初めて。理由は分からないまま、とにかく青森で飲みに行けることが乗船前から話題になっていた。
そのとき誰かが「青森は刺身が旨いでしょうね。大間のマグロとか」と言っていたが、私は黙っていた。

しかしねぶたの帰りにリーダーのM先生が「ここ、はいりましょう」と指さしたのは、たまたま前を通った串カツ田中だった。
正解である。
もうさんざん飛鳥で旨いものを食べてきている。どんな店に入っても出てくる料理は飛鳥に及ばない。初めての4人で飲むことに意義がある。ごちゃごちゃした店でジョッキを傾けながら安っぽい皿の串カツとお通しの生キャベツも美味しい。M先生が飛鳥のエンタメ部門と専属契約を結んだばかりのころの失敗談などを面白く聞いた。

そのうちガラガラだった店内が混んできて、我々の隣にも20歳くらいのねぶた衣装の女性2人組が座った。どこのねぶただったの?と聞くと「ヤマト運輸で跳ねてました」と元気に答え、その後、田中名物チンチロリンのサイコロを振ったりして盛り上がっていた。
夏休みに(久しぶりに会ったかもしれない)友人と二人でふらりと参加し、終わって串カツを食べて飲む。自由でいいお祭りだと思った。これは観光資源というよりも、青森市民にとっても大きな財産なのではなかろうか。

店を出て歩く途中、ねぶた小屋に帰るのか、青森山田学園のねぶたが1台いた。
21:43
逆さ富士ならぬ逆さ飛鳥
もちろん船内の電気は自家発電。

夕食が早い日は21:00からブッフェスタイルで夜食が用意されているが、さすがに満腹、時間も22時過ぎ。ゆったりと大風呂に入ってそのまま寝た。

翌日8月7日は16:00の講習会まで自由時間。
せっかくなので天気は悪かったが市内を歩いてみた。

10時過ぎに船を出て、歩いて青森駅まで行き、お土産に南部せんべい(津軽せんべい?)を買った。そのあと県庁、善知鳥(うとう)神社をみて、飛鳥がみえる青い海公園まで来たら向こうからトミーさんが歩いてきた。ヨーヨー元世界チャンピョンのエンターティナーとして船内でショーやヨーヨー教室をやっている。

秋田竿灯まつり以来、会っていなかったので、青森市内でどこに行ったかという話になった。自衛隊駐屯地の八甲田山資料館に行ったのだが、昨夜は残念ながらそれを題材にした自衛隊ねぶたを見られなかったというと、「私見ましたよ。近くにありますよ」と、公園内ねぶた村の自衛隊の陣地まで連れて行ってくれた。
12:02
後藤房之助伍長が戦っているのは手と口から吹雪を吹き出す白魔(しろま)だという。
兵士が二人いるが、ひとりが後藤伍長、もうひとりは仲間・亡くなった兵士たちの象徴 として配置されたらしい。
12:03
12:12
ねぶた祭はこの日が最終日。
最終日は夜に花火があるため、運行は13:00~15:30である。
出陣の時間が近づき、みな集まって来た。カップ麺を食べている人もいる。
市中の会場よりもここで見るのが一番いいのではないか?
私は運行行列を見に行かず、美味しい昼食を楽しみに船に戻った。

(続く)

2025年8月26日火曜日

食べた種からカボチャ、スイカ、メロン

秋田竿灯祭り、青森ねぶた祭りをみる6泊7日の飛鳥クルーズから帰って来たら、我が家のカボチャが外に飛び出していた。
2025₋08₋09
脱走している最中か? 
植物も意思のある動物のようである。
2025₋08₋09 13:57
この日の収穫。
板の幅は18センチ。
私がいない6日間、妻は何回か収穫したらしいが、ヘチマのようなお化けキウリがあった。ナスも大きくなりすぎ。まともなのはスイカ、枝豆、キウリ1本、くらいか。
彼女は自分の花には毎朝水をやるが、野菜のほうには来ない。慣れない人にはよく見えないのだろうか?

8月14日、長野の実家に日帰りでいってきた。
東京産のスイカと枝豆をお土産にしようと思ったが、向こうにもありそうなのでやめた。
08₋18
カボチャの塀の内側部分
雌花はいっぱいつくが、ほとんどの実は途中で腐ってしまう。
受粉しなかったからとよく言われるが、本当だろうか?
受粉してもこうなるのではないか?
常識やテレビ、新聞に常に疑いの目を向け、自分で体験するまで信用しないというのは、研究所時代に培われた職業病かもしれないが、生まれつきの性格のような気もする。これが良いこともあれば悪いこともある。
08₋18
一つ大きなカボチャが生っていた。
千駄木菜園では2013年の開園以来、2015年に続き2つ目である。
もっとも、毎年生ごみから発芽するがほとんど草のように抜いてしまい、育てたのは4回くらいしかないが。
妻にかぼちゃを見つけたと話すと「ほら、自分だって気づかないこともあるでしょ」と反撃された。

08₋18
スイカ(ピノガール)。
去年食べた小玉スイカの種を冷蔵保存しておき今年まいた。

08₋18
こちらはメロン「イバラキング」
これも昨年食べた後の種を保存していた。
4株植えたが、2つしか生っていない

8月24日、バイト先農園の同僚、田中さんから種なし黒スイカを頂いた。
ご自分の畑で大量にとれたそうだ。出勤日が違うので「物置の前に置いておきました。それなりに重いので準備万端できてください」と伝言をもらっていたが、実際見るとその大きさにびっくり。
2025₋08₋24
田中さんのスイカと我が家のスイカ。
板の幅は18センチ。横のナスは取り忘れ、市販品よりかなり大きい。

田中さんのスイカは何と重さ7.4キロ。
2025₋08₋26
メロンは巻きひげどころか株自体が枯れてきた。
まだ縞模様が十分入っていないが収穫する。

2025₋08₋26 6:14
昨日大丈夫だったスイカが割れた。
ピノガールとしては普通の975グラム。
収穫の目安として、巻きひげが枯れてきたころ、というのがある。
(受粉してから35日というのは陽気で変動するからダメ。また、叩いて音を聞くというのは迷信だと思っている)
このスイカの巻きひげはまだ青かったから大丈夫だと思っていたのに。

しかし、なぜ割れたのだろう?
教科書的には、水不足のあと雨が降って急に膨張したときに割れるというが、毎日ずっと猛暑だから、この説も怪しい。割れる理由は何だろう?

巻きひげが青いということは熟す前に割れたということか?
しかし食べてみて甘く熟していれば、巻きひげの法則も嘘ということになる。
さっそく冷やして食べようと冷蔵庫をあけたら、田中さんの巨大スイカがあった。
24日から食べ続けているが、まだ大きな半球と4半球1つ、つまり6キログラム近くが残っている。

私は早くもスイカの食べ過ぎで体調が今一つ(食事時になっても食欲がない)。
我が家にはピノガール7個分が冷蔵庫にあることになるが、人に差し上げることもできない。


2025年8月19日火曜日

青森駐屯地の防衛館と八甲田山遭難事件

8月6日、クルーズ船・飛鳥で青森に来て、三内丸山遺跡をみたあと、それほど遠くない自衛隊青森駐屯地の資料館を見学したくなった。
上陸する前にHPをみると見学者は前の日までに予約してくれという。見学申込用紙のPDFまでダウンロードできるようになっている。
例外的に当日見学できるかどうか。
四国・善通寺の資料館はいきなり行っても対応してもらえたが。

13:10に三内丸山遺跡の休憩所で電話すると、14時から見学できるというので歩いてやってきた。
13:46
陸上自衛隊青森駐屯地
表札が何枚もあるが、目立つのは「第九師団司令部」と「第五普通科連隊」。

約束が14:00なので近くのバス停(待合室)で座って待った。

日本陸軍は、明治6年東京、仙台、名古屋、大阪、広島、熊本に鎮台をおき、明治7年からその下に歩兵連隊を14個置いた。番号は東京のあとは北から順につけた。
すなわち、1赤坂檜町、2佐倉、3麻布、4仙台、5青森、6名古屋、7金沢、8大阪、9大津、10姫路、11広島、12丸亀、13熊本、14小倉である。その後明治17年から連隊を増やし、明治19年には24個連隊となり(1鎮台2旅団4連隊制)、明治21年には鎮台が第1~第6師団と改称した。
つまり青森第5連隊は最も伝統ある連隊の一つである。

明治29年、日清戦争後の軍備増強で仙台の第2師団の軍管区を二つに分け、青森秋田岩手は弘前に司令部を置く第8師団とし、青森第5連隊のほかに仙台から秋田に移した17連隊、弘前に31連隊、秋田(のち山形)に32連隊を新設し付属させた。そして4年後、日露開戦を前にした八甲田山雪中行軍は第5連隊と31連隊で行われることになる(後述)。

しかし自衛隊の普通科連隊の番号付けはどうなんだろう?
第5連隊は1951年、金沢で警察予備隊第1管区第5連隊として編成され、半年後に第一大隊が青森に移転、1952年連隊本部も金沢から青森に移転した。このとき栄光ある明治以来の称号、青森第5連隊を継承することになる。
1954年には陸上自衛隊発足により、第5普通科連隊に称号変更した。
これがいま正門にみえる表札である。
14:00
5分前になって受付に行き要件を言うと、奥からTシャツ姿のふつうのおじさんが出てこられた。
正門に入ったときから出会う隊員がすべて子供のようにあどけない顔をして、ぴしっと制服を着ているのに対し、食堂の親父さんのような風貌だった。
14:00
案内してくださる齋藤さんは、2年前に退官したと仰る。
本来対応するべき広報の人が自衛隊のねぶた祭の出陣(責任者?)とかで忙しく、急遽呼び出されたという。たぶん自転車をこいで来られた気がする。

三内丸山遺跡の休憩所で(HPでは前日までに予約してくれというのに)「これから見学できますか?」と電話したときに、ちょっと困ったような対応をされた理由がよく分かった。
14:01
資料館は防衛館という。
善通寺の資料館は乃木館といったし、入間航空自衛隊は修武台記念館、朝霞駐屯地は振武台記念館などというが、防衛館とは珍しい。
14:07
齋藤さん
めったにない見学者に対し、鍵をいちいち開け、付き添い説明するわけだから、これは予約しないといけない。

建物は明治11年建築の第5連隊本部兵舎
第5連隊の創始は明治7年(1874)だが軍旗拝受は12年1月。

松本の旧開智学校(明治9年築)のように、当時はまだ大工さんが写真を見ながら建てた和洋折衷の洋館が多かった中、まずまず近代的な建築と言える。

当時の連隊本部はいまの青森高校の場所にあった。
青森高校というのは旧県立第三中学である。
(1884年に各県1校の尋常中学が設置されたとき、青森は東津軽郡青森新町(現青森市)に置かれた。ところが弘前の士族が運動し、1889年弘前に移転、分校が八戸に置かれた。1895年に複数置けることになったとき、弘前は一中、八戸は独立して二中となり、1900年青森市に第三中学が置かれた。)

戦後、陸軍が消滅した後、空襲で校舎を失った第三中学が現在の合浦公園の青森市営野球場付近からうつって来た。その後、兵舎は高校教員の宿舎や物置として使われていたが荒廃が進んだ。そこで昭和43年、この地に青森市の史跡保存会が解体移築した。
14:07
積んである瓦1枚1枚に菊の御紋が入っている。
瓦が余っているのは、移築復元するにあたり敷地の関係から両端を短くしたためか。

鍵が開いて中央の玄関から入るといきなり銃を持った兵士の等身大パネル(銅像の写真)があった。
「今年の自衛隊のねぶたはゴトウゴチョウなんですよ」と斎藤さんがおっしゃる。
最初何のことか分からなかったが、わかったふりをしたら話を続けられたので思い出した。八甲田山雪中行軍の遭難で凍死者続出の大惨事のなか、救援隊が来るであろう地点まで偵察に行き、目印になるように直立不動で雪に埋まり仮死状態で見つかった兵士である。

私の知識は新田次郎「八甲田山死の彷徨」(1971)とその映画(1977)を1980年代になって見たり読んだりしただけであり、登場人物は仮名であったから、津軽弁で「ゴトウゴチョウ」と言われても後藤(房之助)伍長につながるはずがない。もっとも映画も本も40年以上も前だから仮名すら覚えていない。(今見たら仮名は江藤伍長だった)
14:08
中央正面玄関から中に入ると、後藤伍長の銅像のパネルのほかに階段があり、右側が展示室と廊下、左側は壁になっていた。左側は倉庫などになっているのだろうか。
階段は湿気の上がる下部数段が石だった。石の減り具合に目が行く。
来週だか、建築関係のグループが見学に来るそうだ。

右側に来園者名簿があり、私も住所氏名を書いたが、今までの訪問者の数(日付から推定する頻度)と住所は見なかった。
防衛館パンフレット
バッジは帰るとき頂いたもの。

ここで頂いた資料館のパンフレットを見ると、裏表紙(左)に銃を持った後藤伍長の銅像とことしの自衛隊ねぶたが描いてあった。
館内はいくつかの展示室に分かれている。
最初の部屋、第一展示室は第5連隊の歴史。
歴代の連隊長の写真から始まるが、ほとんどが八甲田山雪中行軍の資料であった。
14:13
第1展示室

「遭難始末」
「原本 八甲田山遭難記」

ところで青森市観光振興財団が運営する八甲田山雪中行軍遭難資料館が市内幸畑にある。(1978年開館、2004年リニューアルオープン)。ここは陸軍墓地(明治36年創設)に隣接していて、参道から入った正面には士官下士官10名と当時生存していた11名の墓標、また参道両側には遭難死した189人の墓標が整然と並んでいるそうだ。
その資料館に行こうと思ったことを話すと、斎藤さんは「いや、うちのほうがモノはずっといいです」という。第5連隊を引き継いだような自衛隊として、貴重な遺品、資料などを早くから保存してきたのだろう。
14:15 行軍経路
明治35年(1902)1月23日、第五連隊(現青森高校の敷地)から210名が出発。
幸畑、田茂木野、小峠を経て、田代の近くまで行ったが遭難。帰営を決定したが吹雪の中迷走した。17名が救助されたが6名が死去、じつに199名が遭難死した。

一人が雪中で動けなくなったら助けようとして他のものも遭難、さらにそれを助けようとすれば全員が遭難する。全員が自力で無事帰還するには全員が若くて体力頑健というだけでなく、少数なほうが良い。確率100分の1でも100人の部隊なら1人が体調不良になるからだ。みんなで助け合うという美しい行為は成立しない。

責任者の神成大尉は少数精鋭の編成を計画した。ところが、上官である大隊長の山口少佐は、同時に実施する弘前第31連隊の十和田湖をまわる長い行程を聞いて、特色を出すために中隊規模に拡大した上に大隊本部付きでの大行軍にすることにした。

雪中行軍は神成大尉を中隊長として編成されたが、編成外に山口少佐らが加わったため、上官に指揮権が移動し、進軍、撤退の決定が適切に行えなくなった。それに加え、体力的に劣る山口少佐を助けるため兵士が犠牲になり、被害を拡大した。
14:19 山口鋠少佐愛用の拳銃
山口少佐は部下の犠牲の上に生還したが、まもなく死去した。小説、映画では三国連太郎演じる山口少佐が責任を感じて拳銃自殺した。しかし公式発表では心臓麻痺となっており、また衰弱激しく凍傷の手指では引き金を引けなかったのではないか、という説が有力である。
14:24 生存者
11人のうち8人が手足を切断、無傷だったのは3人だけだった。
村松文武伍長は映画では緒形拳が演じ、昭和の戦後、老いてロープウェイができたとき夏の八甲田山を訪ねるラストシーンが記憶に残る。
14:31
同時期に弘前31連隊は、精鋭37名と新聞記者1名が周到な準備の上、十和田湖の南を通り八甲田山を経て青森まで到達した。
14:33
時間経過と遭難現場地図。
遺体発見場所が広範囲にわたっていることから、視界の効かない吹雪の中、兵士たちが何度も迷いながら各自散らばって力尽き倒れていったことが分かる。
凍傷でマッチを擦れず、擦れても暴風で火を起こせず、携行食料は凍結して食べられなかった。スコップをもっていた兵が遭難行方不明になり壕も掘れず、手指の凍傷でズボンのボタンをはずせぬまま放尿排便すると凍結し体温を奪い、寒さと空腹、疲労、睡眠不足で意識朦朧の中、次々と死んでいった。
14:35
遭難者の名簿。
岩手144、宮城48、青森6、秋田山形各3。
地元青森が少ないのは、青森県で徴兵されたものは弘前31連隊に入ったからである。

展示資料をしっかり見たら、いくら時間があっても足りない。
バスの時間があるので15:00までしか居られないことを伝えた。

次の展示は第5連隊の上部組織、第8師団について。
14:38
弘前は2年前に行ったから当時の市内地図を見てもよく分かる。
喫茶店(スタバ)になっている第8師団長の官舎も見おぼえある。
14:43
いそいで第8師団関連資料の前を通り過ぎた。

2階に上がる。
軍服コーナー(第3展示室)
八甲田山遭難以後、外套の袖が長くなり、手袋も5本指からミトンになったとされる。

本来この標柱は青森高校の敷地にあるべきだが、「諸般の事情により」ここにあると書いてあった。

14:47
青森県出身者の遺品など(第4展示室)
日露戦争の旅順攻撃で知られた猛将、一戸兵衛の展示もここにあった。
彼は第8師団とは関係ないが、津軽藩士の長男として生まれ、青森県人で唯一大将になった。
スキーの金具についてお互い子どものころのことを斎藤さんと話した。

14:51
国際貢献活動、災害派遣(東日本地震など)の展示室
齋藤さんも海外に派遣されたそうだ。
14:56
青森自衛隊のねぶたの展示室
ねぶたは1基2000万円くらいかかるそうだ。自衛隊では700万円位で押さえ、その費用もスポンサーを募り国費は使わないという。
14:58
青森自衛隊の歴代ねぶた一覧
昭和35年以来の題材と、デザイン者(ねぶた師)の系譜。
題材を見れば、三国志や戦国武将、川中島や桶狭間など合戦シーンも多い。

ねぶた師はふつうは2000万のうち400万円位もらうらしいが、自衛隊のねぶた師はもちろん無報酬。

慌ただしく外に出た。
最後にこの敷地は金沢から普通科第5連隊がくる前なんだったのか聞いたが、わからないという。すぐ近くに県営運動場、美術館、三内丸山遺跡があるくらいだから平地の林かせいぜい畑だったのかもしれない。

忙しくも楽しい見学だった。
黒石市出身の斎藤さんにはうんとお礼を言った。
15:28 アウガ
青森駅に戻って来た。
アウガはショッピングモール、市役所駅前庁舎、市民図書館が入居する。青森市の建物はアウガの他、A-ファクトリー、アスパムなどAで始まるものが多い。

この日の夜のねぶた見物は途中で雨が降ってきたため、後藤伍長の自衛隊ねぶたが来るまで待てずに席をあとにした。
そこで翌日、各ねぶたが格納されているアスパムにそれを見に来た。
2025₋08₋07 12:02
タイトルは「八甲田雪中行軍 使命遂行 後藤房之助」である。
使命遂行というのは、神成大尉が後藤に、危急を知らせるために単身で麓に向かうことを命じ、仮死状態になっても見晴らしの良いところに立っていたことをいう。

なぜか後藤伍長が二人いる。戦っているのは睡魔と寒さだという。
実際はこんな勇ましい姿ではなく、戦っていたとしても夢の中であろう。二人いても不思議はない。
今年の自衛隊ねぶたうちわとバッジ
バッジは春夏秋冬の防衛館(2枚は人にあげた)と2025ねぶた記念バッジ5枚。

うちわの裏面がお祭りうちわとしては異例の、長文の説明になっていた。後藤房之助には青森県人にも馴染みがないと考えたか、あるいは語らずにはいられなかったか。

(続く)