2025年5月6日火曜日

高知港から市内へ。お城と山内一豊

3月26日、飛鳥IIが前日の姫路についで高知に着いた。
高知の町は細長い浦戸湾の奥にある。
浦戸湾の高知港は古くから天然の良港であったが、水深13メートル以上を必要とする1万トン以上の船の接岸には適さず、また中で大型船が何隻も自由に航行すること、大型物流施設などの建設も困難だった。そこで1968年、湾外の太平洋岸に高知新港がつくられ、飛鳥もそこの第7ふ頭2号岸壁についた。
2025₋03₋26 9:03
朝食後、12階にあがってみると浦戸湾の入口に浦戸大橋がみえた。
浦戸大橋の西(写真左)の森というか小山が桂浜という。
桂浜は一面、広い砂浜だと思っていたから意外だった。

高知新港は、高知市街から遠く離れて新しく作られたため、周りに街もなく、公共の交通機関が来ていない。少々遠くても歩いてしまう私でも、最寄りのバス停までは無理だった。
そこで飛鳥が用意した無料バスで桂浜までいき、そこで市内に行く路線バスに乗り換えることにした。
 10:06
高知駅に向かう路線バスは10:00発
左は太平洋。
高知市内の中心「南はりまや橋」で下車。
距離が長いにもかかわらず停留所が少なく、大して時間はかからなかったが運賃は高かった。(28分、730円。高知駅までだと800円)
10:31
南はりまや橋
とさでん交通の路面電車。
今まで乗った路面電車は現存するもので函館、長崎、熊本、鹿児島、広島、富山、あと都電荒川線。
こういうものが残っている地方都市は文化度が高いというイメージがある。

ちなみに、高知では路面電車のことを土電(とでん)、あるいは単に「電車」といい、JRのことを「汽車」というらしい。(JRはディーゼル車だが)。これは高知県内のJRが一切電化されていないことによる。香川県から人のいない四国山脈を延々と架線を引くのは費用対効果の面で無駄だったのだろう。
ちなみに日本で鉄道がまったく電化されていないのは、高知と徳島の2県だけだが、徳島は路面電車もないことからほんとうに「電車」がない。
10:34
はりまや橋
大きな川の橋でないことは分かっていたが、もう少し大きいと思っていた。
この赤い橋は江戸時代のものを復元設置したものらしい。
来てみてその小ささに驚くのは札幌時計台に似ている。
播磨屋は高知の豪商であったが、見上げたら、土産物屋の看板が「はりま家」と書いてあった。

ちなみに現在の播磨屋橋はすぐそばにある。すなわち、高知駅から南下する国道32号線にかかっているが、堀川が埋められているため石の欄干だけ残っている。その間を車がビュンビュン走り、播磨屋橋を見に来た人は、この赤い橋に目を奪われて、すぐ近くにある本物に誰も気づかない。
10:35
どこに行ってもインバウンド客
国道の向こう(東)のアーケード入り口の和菓子屋は「土佐日記」「竜馬がゆく」という商品を販売していた。その向こうあたりに明治時代の播磨屋橋が復元設置されているらしい。

我々はそちらへ行かず、左折して京町商店街のアーケードに入る。
10:37
京町のアーケードと並行して北に壱番街というアーケード商店街があった。
一でなく壱である。

そちらのアーケードに入り、ダンス仲間のKさん、Iさんと西の高知城に向かう。

Iさんはさっきから
「土佐の高知の はりまや橋で 坊さんかんざし 買うを見た よさこい よさこい」と歌っている。私が「よさこい節ですね」というと、「いや、ペギー葉山の南国土佐をあとにしてだ」と言い張られた。
10:37
観光客が入りやすい土佐料理店。
豪華なセットもあるが、ランチは1000円以内で食べられそうだ。
10:38
帯屋町壱番街のアーケードはまだ続く。
こんなに立派な商店街が維持できるほどの商圏があるのだろうか?

高知市は人口31万人(2025年推計)。2005年に348,990人だったが減少し続けている。しかし県内の人口減少のほうが大きく一極集中は依然変わらず、県内人口の48%を占める。
ちなみに、高知県では昭和の大合併が始まる1953年の時点で、市制を布いていたのは高知だけだった。もちろん市が一つしかなかったのは高知県だけである。

仕事も買い物も他に行こうにも四国山脈と太平洋に挟まれ、県内の人は高知に来るしかない。和歌山や姫路の人が大阪、神戸に行くようにはいかないのである。

今気づいたが、よさこい節は「土佐の高知の」で始まる。昔は城下町だけが高知だったが、今は県内全体が高知になった。
10:40
少し広いところに出た。細長い緑地を横断する。
いかにも川か堀を埋め立てたような感じ。

高知城下は鏡川などの川に挟まれ、洪水が頻繁に起きた。 このため、高知城の岡は当初、河中山(こうちやま)と呼ばれていて、 城は音を借りて大高坂山城から高智山城と改め、やがて高知城となったという。すなわち川の多い地形が県名にもなった。

アーケードが終わり、城に近づくと右手に神社があった。
高知大神宮という名前と違って小さな境内で、鳥小屋があった。
10:49
高知大神宮のニワトリ

高知で有名な闘鶏のシャモ(軍鶏)か、あるいは天然記念物の尾長鳥かとおもったら、ただのニワトリだった。
古事記で天照大神が隠れて真っ暗になったとき、呼び戻そうと常世長鳴鳥を集めたという記述から、天照大神のそばにその子孫と思われるニワトリを侍らしたということだ。

ちなみに○○大神宮というのは東京大神宮、芝大神宮、伊勢山皇大神宮のように、伊勢神宮(内宮)を勧進して天照大神を祭神とする神社であり、国家神道の影響を受け明治以降に作られたものが多い。「大」の文字もそれを思わせる。

やがて高知城が高々と見えた。
10:55
この橋は曲輪との関係から新しく架けたものだろう。
山の上に天守がある。
現存12天守のうちの一つとして知られる。12天守とは高知のほか、弘前、松本、丸岡、犬山、彦根、姫路、松江、備中松山、丸亀、松山、宇和島である。とくに行こうと思ったことはないが、いつの間にか8個目、残るは松江、備中松山、松山、宇和島の4つとなった。
10:59
高知城のたつ岡は河中山(こうちやま)と書いたが、山内一豊が来る前は大高坂山とよばれ、南北朝時代から小さな城があった。
土佐を平定した長曾我部元親が1588年(天正16年)、岡豊城(おこうじょう)からここへ本拠地を移そうとしたが低湿地の山麓は工事が難航し、代わりに港(浦戸湾)に臨む浦戸城を選んだ。
11:00
山が狭いから平らな土地が少なく石垣が多い。
長宗我部氏は関ヶ原のあと改易され、代わりに翌1601年、山内一豊が土佐一国を与えられて土佐藩を立てた。一豊は大高坂山で築城に取り掛かり、河中山城と命名し本丸や二の丸は完成したが、城全体の完工は1611年、一豊の没後、二代目藩主の忠義(一豊の甥)の代になっていた。
11:01
一豊の妻と馬
山内一豊の父は岩倉織田家の家老であったが、織田信長に滅ぼされ、一豊の父も討ち死にした。主家も当主も失った山内家は放浪し、やがて一豊は信長に仕える。信長は彼を木下秀吉に預けた。一豊は姉川の戦い(1570)が初陣で、以後、秀吉とともに戦場にあった。

秀吉の時代になって、四国平定後、羽柴秀次(豊臣秀次)が近江八幡で大幅に加増されると、田中吉政・堀尾吉晴・中村一氏・一柳直末と共に秀次の家老の1人として付けられて、一豊も近江へきて、長浜城主として2万石を領した。
徳川家康の関東転封、織田信雄の改易で再び秀次が尾張・伊勢、東海で加増されると、一豊ら宿老衆も転封して、遠州掛川に5万1000石の所領を与えられた。

一豊には英雄譚がない。
いちばん有名なのは、秀吉死後に上杉征伐で家康が諸将を率いて会津に向かったときの行動であろう。石田三成が上方で挙兵し、下野小山で家康が諸将に進退を自由にせよと言ったとき(小山評定)である。
豊臣恩顧の大名をはじめ、迷うものが多い中、山内一豊が恭しく前へ進み出て
「この一豊、主君家康公の御為とあらば、一命をも惜しまず仕る所存。拙者が守る掛川城、いかようにもお使い下され! 家康公の大義、我らが先陣を切ってお支え致す!」
と真っ先に発言し、これがきっかけとなって三成と家康どちらに着くか迷っていた諸将が家康につき、関ヶ原の結果が決まった。
(ちなみに、数日前からchatGPTを使い始めたが、一豊のセリフを彼に作らせてみた)

さて、妻(千代、見性院)と馬である。
天正9年(1581年)の安土城下、信長の前での馬揃えの際に、彼女が蓄えておいた黄金で良馬を買って一豊に武士の面目を施させたという美談がある。しかしこれは後世の創作とされる。

いずれにしろ年代も場所も離れた高知城に千代と馬の像はあまり似つかわしくない。しかし初代城主の山内一豊といえば世間が知っているのは妻と馬の話だけである。観光地の像というのは、観光客が知っていることを表現するものである以上、これしかないのかもしれない。
11:02
どうでもいいことだが、近年、やまのうちかずとよではなく、「やまうちかつとよ」が正しいのではないかと言われている。

11:03
三の丸には行かず、二の丸、本丸がある山頂に上がった。
頂上は二の丸と本丸が並んでいる。
山の中腹は三の丸以外まとまった土地が取れず、獅子の段、杉の段、武者走、犬走、といった文字が見える。
11:15
詰門(廊下橋)と天守閣
二の丸と本丸の間は峰が二つあったのか、人工的に掘ったのか、空堀になっていて、玄関のような門がある。
11:09
詰門を抜けると本丸。
高知城は現存12天守の一つとその南の本丸御殿(懐徳館)が残り、本丸の建物がほぼ完全に残る唯一の例として知られる。(例えば姫路城は天守は残るが、備前丸の御殿などが消失している)。本丸が小さいことが幸いしている。

内部見学は有料でったこともあり、割愛。
11:16
二の丸から本丸(左)の下の獅子の段(梅の段)を見下ろす。

山頂の二の丸から降りて本丸の南にまわってみた。
11:31
天主のある本丸から2段ほど下、太鼓櫓の下あたり。
この曲輪は何というか不明。途中に犬走りという名があるように帯のように狭い。
高知は他の主要観光地と離れているのに、ここでもインバウンド客が多い。

三の丸下の板垣退助の立像の脇を通って城山から下りた。
11:36
板垣像のそばの城内地図の写真は撮ったが、板垣像は撮らなかった。
板垣退助(1837 - 1919)は100円札になったから、何をやったかということまでは知らないまでも、私より上の世代は髭のじいさんとして誰でも知っている有名人である。
(100円札は1974年8月に発行停止となったが、四国、高知では割と長く使われたとか。経済圏が独立していたことのほかに、板垣への愛着があったからだったりして)

板垣像のそばの追手門(おってもん)から出る。
城の正面の門という意味で大手門と同じだが、追手(攻城側)を迎えるという意味で戦国から江戸初期に用いられ、一方大手門は政治的・儀礼的な文脈で江戸時代以降に好まれたという。
11:37
追手門から出ると「国宝高知城」の石柱。
この国宝は戦前の基準で、今より緩かった。現存天守12城の一つだが、戦後の国宝にならないのは、1727年の大火でほとんどが焼失し、1747年以降に再建されたため。

高知城を出て、さてどうしようか、となった。
おそらく、Iさん、Kさんは街をぶらぶら歩いてどこかカフェなどに入るだろう。
しかし面と向かって話すこともなく退屈だ。私は行きたくなかった。
11:38
観光は一人のほうがいい。
知らない街を好きなようにずんずん歩いたほうがずっと楽しい。
向こうは一緒に行こうと親切に誘ってくれる。私も単独がいいとは言いだせず、ずるずると一緒に歩いていく。しかし「疲れた」という人もいるし、私だけ興味ある所にみんな連れて行くわけにもいかないし。

「じゃ、私は寺田寅彦記念館を見に行きたいので別れましょう」と二人が興味なさそうな場所を思い切って言い、別れた。

(続く)

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2025年4月30日水曜日

姫路城、行かずに10年前の写真で書く

3月25日の朝、ダンス講師として乗り組んだクルーズ船・飛鳥IIが姫路、飾磨4号岸壁に入港した。

朝食後、飛鳥が用意した無料バスでJR姫路駅に来た。
バスで来た人々はおそらく全員、姫路城の見物に行ったが、私は一人電車に乗って赤穂に行った。(前のブログ)

9:40発の播州赤穂行きの電車に乗る前、駅北口から姫路城を眺めた。
2025₋03₋25 9:34
大手前通り。
姫路駅前から正面に姫路城がみえる。
かつての大手筋はこれより少し西の通りだったらしいが、1945年7月3日、姫路は深夜の大空襲で大きな被害を受けた。戦後の復興計画の目玉事業として、駅と姫路城を結ぶ幅50メートル道路が作られた。だから駅からお城が正面に見えるのは偶然ではなく、当然なのである。

姫路は2015年3月27日、薬学会で神戸に来たときついでにお城を見に来たことがある。
ちょうど10年経っているが昔の写真がPCに残っているので比べてみた。

2015₋03₋27 14:52
ほとんど景色は変わっていないが、昔のほうが写真の解像度が粗かった。

昔撮ってPCにある写真など、もう死ぬまで二度と見ることもないので、この機会に外に出してみた。
2015年、15:07
駅前から歩いて15分後、大手門から三の丸に入ったところ。

大天守が真っ白である。
それもそのはず、なんとこの日、奇しくも2015年3月27日は大天守の修理事業が完了し再公開が始まった初日だった。朝から混んでいたらしいが知らずに来たこの時間になると空いていた。

平成の修理事業というのは大天守の白漆喰の塗り替え・瓦の葺き替え・耐震補強を重点とした。白漆喰は昭和の大修理から45年経過しカビで黒ずみ、白鷺城の別名にふさわしくなかった。
2009年5月:鹿島建設らが16億2千万円で修理工事を落札。
8月:起工式、10月:工事着工。
工事は大天守をすっぽり覆う素屋根(足場)を設置したため、長い期間、大天守の美しい姿は見ることができなかったらしい。

姫路城は国宝5城の中でも抜群に大きく、また保存状態もよく、1993年に法隆寺とともに我が国初の世界文化遺産に登録された。
2015年、初めて見た時の立派さは期待を裏切るものではなく、いま10年前の写真を見てもそう思う。
15:09
三の丸広場。
いま改めて見ても、広い。だだっ広い。
売店とか資料館とか公共施設を所狭しと建てる日本の城郭にあって、運動場のように広い。

三の丸は明治になって建物を破却し大阪鎮台所属の歩兵第10連隊が置かれ、戦後は野球場が作られ(1947)プロ野球の試合も行われたほどである。

姫路城は規模的には(江戸城を除くと)名古屋、大阪とともに日本で3本の指に入るらしい。

内堀で囲まれた三の丸までの内曲輪(現在の姫路城公園)は23ヘクタール、かつて中堀で囲まれ家臣の屋敷が並んでいた中曲輪(白鷺中学校や淳心学院などが含まれる)までが107ヘクタール、外堀で囲まれていた外曲輪(南端は現在のJR姫路駅近くまであった)まで含めると233ヘクタールである。外曲輪には町人地や寺町が置かれたから城郭都市というべきで、外堀まで含めた江戸城、北条時代の小田原城、三の丸まで含めた山形城に似ている。

(山形城は二の丸までの城址公園は25ヘクタールだが、山形駅まですっぽり入る三の丸まで入れると235ヘクタールで姫路城に匹敵する。しかしあまり有名でないのはなぜか?)

三の丸までは自由には入れるが、二の丸から先は入場料(1000円)が必要。

15:17
菱の門
チケットを買って入って最初の門。
平地から天守などのある城山(姫山・鷺山)に登っていく門である。

それにしても大きい。姫路城はなぜ大きいか?
徳川家康が関ヶ原のあと、豊臣恩顧の多い西国大名を抑える意味で、池田輝政を播磨一国52万石の大大名にして姫路城を8年かけて巨城にした。加藤、福島が改易され、池田が転封された後は毛利島津の来襲をここで防ごうと徳川譜代の大名を置いた。

西南の役で西郷軍が新政府軍のこもる熊本城で食い止められたように、もし西国大名が決起して幕府軍、佐幕藩と各地で争いながら東進したら姫路は期待された働きをしたかもしれない。
しかし実際は、いつのまにか戦は姫路の東の鳥羽伏見、越後、会津で起こった。
15:19
いの門、ろの門をくぐると天守閣への上り坂となる。
15:19
暴れん坊将軍のロケにたびたび使われたことから将軍坂といわれる。

姫路城は姫山を中心に築かれた平山城である。
姫山は桜が多かったから桜木山とも呼ばれ、転じて鷺山になったとか。
(しかし三国堀を挟んで天主のある右の岡を姫山、左・西の丸の岡を鷺山とする説もある)
ちなみに別名・白鷺城の読みははくろじょうが正しいとされる。大手門の南西にある姫路市立白鷺小中学校も(はくろ)である。

はの門、にの門、ほの門をくぐり、天守閣の内部に入っていく。

15:26
大天守内部

15:28
下を見ると櫓や門が複雑に並んでいる。
地形を反映しているのか向きがばらばらである。

姫路は池田輝政が大改築する前から城があった。

もともとここは山陽道の要地であったから、今の姫路城がたつ姫山、鷺山のうえには南北朝時代から赤松氏の砦があった。しかし戦国時代の城としては小寺氏の家臣、黒田重隆が城代として入ったころの城が最初とされる。重隆は江戸時代の大名、筑前黒田家の家祖とされ、秀吉の部下となった黒田孝高(通称・官兵衛、剃髪後は如水)の祖父である。

のちの秀吉時代に名を挙げる黒田官兵衛は姫路城代として小寺氏に仕えていたが、信長の才能を高く評価し、天正3年(1575)主君小寺氏に信長への臣従を進言した。天正5年(1577)信長は秀吉を播磨に進駐させた。官兵衛は一族を国府山城に移らせ、居城であった姫路城本丸を秀吉に提供し、自らは二の丸に住み、参謀として活躍するようになる。

天正8年(1580年)秀吉はようやく陥とした別所長治の三木城を拠点とすることで姫路城を官兵衛に還そうとするが、官兵衛は「姫路城は播州統治の適地である」と進言して受け取らず、秀吉から姫路城普請を命じられた。
15:31
他の城と比べ内部も広い。

それにしても、よく残ったものだ。太平洋戦争中には姫路も2度の空襲被害があったが、大天守最上階に落ちた焼夷弾が不発弾となる幸運もあり奇跡的に焼失を免れた。
姫路城は文化財保護の観点から京都のように空襲対象から外されたわけではなかった。しかし米軍が上空からみて灯りがなかったため田んぼと思われ濠も沼に見えたらしい。
15:33
空いているとはいえ、狭い階段の前では行列になる。
10年前はインバウンド客もおらず良かった。

15:50
開いた窓から屋根を見ると、平瓦と丸瓦が並べられ、上に盛り上がる丸瓦が1枚1枚、漆喰で塗り固められている。これが遠くから見ると壁の白さもさることながら、雪が積もったように白く見える理由である。白漆喰は防カビ剤を入れたそうだが5年ほどしか持たないというから、私が見たのは最も白い白鷺城だったということになる。当時はシロスギ城とも揶揄されたが、今は落ち着いた色になっただろうか?
15:54
大天守から西の丸をのぞむ

大天守から降りると備前丸広場に出る。
姫路城本丸は天守群がある天守丸と一段下の備前丸に分かれる。
ここからの大天守はとりわけ大きく見える。
15:56
池田輝政は城主としてここに居館を立てた。池田氏のあと入封した本多忠政は山上の館が不便だったのか、山下の三の丸に新たな居館を作り、以後城主は三の丸に住んだ。
備前丸という名前は本多時代から使われ始めたようで、これは二代藩主池田利隆が備前岡山城代を兼ね、姫路城池田氏最後の三代池田光政がそこで生まれ、備前殿とでも呼ばれていたか?(三国堀も西国将軍・池田輝政の領地、播磨、備前、淡路にちなむ?)

本丸、二の丸、三の丸などという曲輪は、我々は濠などで区切られたものとして見るが、備前丸、天守丸などという言葉を見ると、本来は城内のまとまった土地に対して使うのかもしれない。

備前丸から上山里曲輪に降りると井戸があった。
16:02
お菊の井戸
夜になると井戸から一枚、二枚、三枚、と皿を数える女の声が聞こえたという「播州皿屋敷」の怪談。舞台は小寺氏の室町時代だが、江戸時代、上方で歌舞伎、浄瑠璃として広まった。似た話は各地にある。江戸では少し遅れて18世紀なかごろ、怪談芝居として「番町皿屋敷」がつくられた。やはりお菊を主人公として10枚の皿と井戸が舞台である。大正時代には番町皿屋敷が恋愛悲劇として作り直された。
ちなみに、「お菊の井戸」はこのあたりが公園として大正元年に一般公開された時に創作されたものらしい。

上山里曲輪から二の丸に降りる。
16:04
二の丸とロの門
午前中あるいは日中は混んでいたのだろうか? 行列の誘導ライン。
ロの門から大天守まで並んだということか?

西の丸に行く。
16:10
西の丸から見た天守群
姫路城天守は、外観5重、内部7階という大天守と東・西・乾の3つの小天守からなり、それらが渡り櫓で結ばれた連立式天守である。秀吉時代は3層の天守閣1つであったが、池田輝政の時代に解体され乾小天守に転用されたという。
16:18
姫路城の城主、姫路藩は誰だったか、パッとでない。
熊本は加藤清正から細川氏、福岡は黒田、広島は福島正則から浅野氏、高知は山内、高松は松平、彦根は井伊、仙台は伊達、という風に出てこない。
これは先に書いたように、西国大名の抑えという姫路城の特殊性による。
多くの藩は藩主が急死したら幼い子を次の藩主にたてたり、死後に急いで養子をとったりした。幕府も大目に見た。
ところが姫路の城主は幼い子供では困る。

1613年、池田輝政が死ぬと嫡男利隆があとを継ぐ。しかし1617年、彼が若くして没すると嫡男光政が第3代藩主となるも7歳と幼かったため、幼君には要衝姫路を任せられないという理由で鳥取藩32万石に転封された。

続いて姫路城には徳川四天王の一人本多忠勝の子忠政が桑名から15万石で入封した。
忠政の嫡男・忠刻は、1616年(大坂夏の陣の翌年)将軍徳川秀忠の娘千姫(豊臣秀頼未亡人)と結婚したため、千姫も姫路に来て西の丸に住んだ。すなわち西の丸の建物群は池田時代でなく江戸時代になってから作られ、西の丸長局(百間廊下)と千姫化粧櫓が有名である。

そうした千姫に関する説明板が西の丸の長い板廊下のあちこちにあった。
夕方ということもあり、誰もいなかった。

16:28
西の丸ところどころから見える天守群は何度見ても美しかった。

さて、本多忠刻は父より早く若くして死んだため、姫路藩本多家二代目は龍野藩主であった弟の政朝がつぎ、政朝も病に倒れたため政勝が継いだが、1年で転封し代わりに奥平松平家が入るが、やはり病没、跡継ぎが幼いということで転封。
つづいて、やはり徳川四天王を祖に持つ名門榊原家がはいるも、越後高田に転封。さらに本多家(再封)、結城松平家がはいるも二代目が幼いということで転封。

最終的に、1749年、老中首座酒井忠恭が前橋から入封した。家康の重臣酒井正親・重忠を祖とし、大老酒井忠世・酒井忠清を出した酒井雅楽頭家の宗家である。この家が明治まで姫路藩を維持した。江戸下屋敷は文京区白山にあり、明治後はそこに酒井伯爵家が住んだことは以前書いた。
16:36
桜門橋と大手門
駅からまっすぐの大手前通りが突き当るところに出て、最後に振り返ったところで2015年3月の写真は終わっていた。
・・・・
さて、2025年3月25日。
赤穂から姫路に戻った。

2025年 12:42
駅前の展望デッキの下
2013年にできたというが、2015年に来たときは気が付かなかった。
上がってみた。
12:43
展望デッキからJR駅と山陽姫路駅を結ぶ「連絡デッキ」も設置された。
両デッキは姫路市が約15億円かけて整備したらしい。
デッキの上からお城を見る
桜門橋まで1.1キロ、15分だから姫路城まで行けないこともないが、だいたい想像できたので帰ることにした。
12:46
姫路駅南口
飛鳥の送迎バスが止まっていたので乗り込んだ。
赤穂のパンフレットなど見ていたら姫路城に行っていたIさん、Kさんが乗って来た。
13:00発だから13:30までの美味しいランチブッフェに間に合うかもしれないと思っていたが、飾磨4号岸壁についたら、姫路の観光業者の人々がテントで出店していて、土産物など見ていたら13:30を過ぎてしまった。
それでも船内11階に上がり、ビーフハンバーガー、ピザ、フルーツ、ケーキなどを食べた。

夕刻、飛鳥は高知に向けて出港、夜は姫路から乗りこんできた前川清のショーがあった。

(続く)

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2025年4月25日金曜日

赤穂浪士の義とは何か。花岳寺にて

3月25日、クルーズ船飛鳥IIが姫路に入港した。

姫路城は見たことがあるので皆と別れ、電車に乗ってひとり赤穂に来た。

10:11播州赤穂駅着

改札を出るとすべてが赤穂義士だった。
駅ビルの階段には義士たちの雄姿がパネルになっている。たぶん47枚あるのだろう。
10:16
辞世句 大石内蔵助良雄 
あら楽しや思ひは晴るる身は捨つる浮世の月にかかる雲なし

階段を下りて駅前ロータリーをわたる。
10:20
一角に赤穂の標語?スローガン?が建っている。
「日本の魂のふるさと忠臣蔵と、山鹿素行の武士道の教えが生きたまち」
とある。
「日本の魂のふるさと」とは大げさだな。次の「武士道の教えが生きた」も本当かな、と思うが「生きた」と過去形だからまあいいか。
10:20
新築だが和風の駅舎を見ようと振り返れば、「義魂」とかかれた大石内蔵助の立像。
何から何まで忠臣蔵である。
しかし私は忠臣蔵を見に来たのではなかった。
駅に着くまですっかり忘れていたほどである。

わざわざ来たのは赤穂城を見たかったから。
(前のブログ)

お城に向かって歩くと交差点に広場があった。
10:25
いきつぎ広場と書いてある。

元禄14年(1701年)3月14日九ツ前(午前11時頃)、主君の浅野長矩が江戸城松之大廊下で吉良義央に切りつけた。江戸上屋敷で事件を知った早水藤左衛門、萱野三平が午後江戸を出発、普通なら17日、飛脚で8日かかるところを僅か4日で走破した。
4昼夜半早かごに揺られ続けた両人は、城下に入りここにあった井戸の水を飲んで「息継ぎ」をしたという。

このいきつぎ広場には「義士行燈」もあった。
毎正時には人形が出てくるからくり時計だそうだ。
大石内蔵助が「昼行燈」と言われたこととは関係なさそうだ。

要するに町全体が赤穂浪士一色になっている。
地図を見れば赤穂忠臣蔵郵便局まである。
(ごく普通の郵便局だが2013年に赤穂加里屋郵便局から改称した)

しかし目的地はお城なので先を急いだ。

赤穂城は元和偃武のあとに13年かけて作られた珍しい城である。
その縄張りが他の名城と比べても当時最先端であったことはあまり知られていない。
さらに、いったん破却され、本丸、二の丸、三の丸ほぼすべての城地が学校、農地、住宅、商業地などとなったのに、すべてを移転させ、元の姿に復活させようとしていることも、他の城址では見られない。
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実に、来てよかった。

急ぎ足で見物して駅に戻ったが、1時間に一本の電車に乗り遅れた。
11:11
電車は出たばかり。次は58分後。
ここで待っていてもしょうがないので再び赤穂の町を歩くことにした。

駅前通り(お城通り)の商店が和風外観の建物になっていることを前のブログで述べた。
すなわち城郭と同じように屋根は瓦、壁は白または黒という風に統一されている。
11:25
キックボクシングジムまでがその和風景観の建物になっていた。

お城通りを進むと、朝通り過ぎた息継ぎ広場に再び出た。
改めて赤穂浪士のことを考える。
赤穂では「浪士」とは言わず、「義士」という。
「義魂」である。

義は、儒教の主要な思想であり、五常(仁・義・礼・智・信)のひとつである。正しい行いを守ることであり、人間の欲望を追求する「利」と対立する概念として考えられた。

彼らの義、正義は何であったか?
吉良上野介を殺すことか?
彼は浅野内匠頭に意地悪したかもしれないが、討ち入りされるほどではないだろう。赤穂浪士たちが恨むべくは即刻切腹、お家とり潰しを決めた将軍、幕府だろう。
(吉良は刀を抜いていないから、喧嘩両成敗とはならず、吉良に御咎めがなかったことに不満をもってはならない)

息継ぎ広場で考えて彼らの墓のある花岳寺にいくことにした。
すぐ近くということも大きな理由だった。
11:30
花岳寺へいく裏通り。
白壁に瓦屋根で統一して歴史的景観を作ろうとしたお城通りよりも、こちらのほうが城下町らしい風情がある。
11:32
曹洞宗台雲山
花岳寺
ふつう寺号は抽象的、道徳的なものが多いが、花岳とは珍しい。
1645年赤穂浅野家初代、浅野長直が入封してすぐ、浅野家菩提寺として創建した。
この山門は赤穂城の西惣門であったものを明治になって寺が購入し移築したらしい。

11:33
浅野公霊廟義士木像 という石柱
浅野家だけでなく、続いて入封した森家も菩提寺とした。しかし二代・森長孝の代に臨済宗に改宗しており、長孝から11代・忠典まで花岳寺には葬られていない。最後の赤穂藩主、12代・森忠儀(ただのり)は、ここに墓がある。
また、大石内蔵助の祖先が眠る大石家先祖の墓、義士墓、家族墓などがあるらしい。

入ると境内は思ったほど広くはなかった。
11:34
鳴らずの鐘
梵鐘は浅野家二代・長友が父である初代・長直のために鋳造した。
元禄15年12月14日吉良邸に討ち入った47士が翌年2月4日、見事切腹したとの知らせが赤穂に届いたとき、町民が続々この寺に集まり(改易され赤穂藩士は表にはいなかった)、弔うためにこの鐘を延々と撞き続けたという。
以来少なくとも50年は誰も撞かず、「鳴らずの鐘」と呼ばれた。
鳴らなくなったのは人々が思い出したくなくて撞かなくなったのか、それとも撞きすぎて鐘が変形してしまったのか、1797年、再鋳造され、以降は鳴っている。
戦時中の金属供出のときは「義士との由緒深きにより」と供出を免れたという。

11:36
初代「大石なごりの松」
切り株の上に乗った説明板は「天然記念物 双樹梗概」とあり、東松、西松と2本あったようだ。
読むと、元禄4年(1691年)に大石良雄が母の冥福を祈り移植した松であり、元禄14年(1701年)に赤穂を離れるとき、この木の下で名残を惜しんだという。昭和2年(1927)枯死。樹齢310年とも書いてある。松くい虫というから2本同時に枯れたのだろう。
しかし、1701年は310-(1927₋1701)=樹齢84年の松だったことになり、その10年前に移植できるか?
11:42
本殿と「大石なごりの松(二代目)」
義士墓所・義士宝物館・義士木像堂の拝観は有料(500円)なのでここで退出した。

門前を南に歩けば三の丸の塩屋門跡とか市立民俗資料館(旧大蔵省赤穂塩務局庁舎)があるが、時間がないので行かない。
11:47
花岳寺の周辺民家は古く、観光用に作られたお城通りの街並みよりずっと落ち着いている。

11:49
再びお城通りに出た。
11:52
ここは駅から赤穂城まで結ぶメイン観光道路として整備された。
道幅を広げただけでなく赤穂義士にまつわるモニュメントをやたらと置いている。
例えば植え込みごとに47士の名前が書いたプレートが置かれている。
11:59
「茶舗わかさ
中村勘助正辰」
と書いてある。
「茶舗わかさ」は、この植え込みの前の店。
名前を入れることで植え込みの維持費用を出してもらっているのだろうか?

何の説明もないが、中村勘助正辰は浅野家譜代、禄高百石の家臣。もちろん47士の一人である。

同じ植え込みの中に歌碑がある。
12:00
原惣右衛門元辰
かねてより君と母とにしらせんと人よりいそぐ死出の山みち
これも説明ないが彼の辞世の句だろう。

息継ぎの井戸で水を飲んでから大石邸に向かった早水満尭と萱野重実は第一の急使。彼らは事件のみを伝えた。続いて足軽飛脚による第二の急使があり、そしてこの原惣右衛門元辰が大石信清とともに第三の急使となり、主君切腹とお家とり潰しを伝えた。彼ももちろん47士である。(一人一人に番号が付いていれば説明したり知識を整理するのに便利なのだが、義士に対して失礼なのだろうか。例えば天皇は第96代などと番号が付いているから覚えやすいのである)

続いて町飛脚による第四・第五・第六の急使が次々に赤穂藩邸から国許赤穂へ情報が送られ、事件から14日後の3月28日までには刃傷事件・当日午後の浅野長矩切腹・赤穂藩改易といった情報が出揃った。3月27日には家臣に総登城の号令がかけられ、3日間にわたって評定が行われている。

その後、翌年12月の吉良邸討ち入りまでのことは多くの日本人が知る通り。

「義」というのは正義の義でもあるが、義理とか義務とかの「義」は、本心とは違う行動、仕方なしに行う行為の文字でもある。47人の赤穂「義」士たちの中には本心では行きたくなかったものもいたのではないか? 

もちろん当時の事情など分からない後世のものが、好き勝手に想像することはできない。
しかし当時あれだけ話題になったということは、当時においてさえ尋常でない行動だったことを示す。尋常でないことをやり遂げた彼らを偉いともいえるが、尋常でないゆえに(声を大にできないながら)反対意見もあったのではないか?

義は儒教の中の5徳のうちの一つである。
儒学者としても有名だった兵学者・山鹿素行(1622‐1685)は、赤穂に二度滞在した。一度目は7か月、二度目は1666年から8年半。元禄赤穂事件よりだいぶ前のことであるが、大石らの討ち入りに影響したという説もある。
しかし山鹿語録には、
「君、君たらずんば自ら去るべし」(論語から)つまり士は二君に仕えるべしとし、
「君のために百年の命を絶つ、夏虫の火に入りて死するにも同じ」主君の為に死ぬのは愚行と主張する。
「士は怒りにまかせ行動すべからず。憤怒の心は身を亡ぼす」
「逃ぐるは恥にあらず。礼なき勇は狭小にして欺天亡国の業」
士は例え辱められても、売られた喧嘩は買うべからずと説いているから、生きていれば、およそ吉良邸討ち入りには反対だったのではないか?

駅に向かいながら、赤穂市の忠臣蔵に対する尋常でない熱意を感じた。
しかし、浅野家は3代・56年だが、そのあとの森家はずっと長く12代・165年である。しかも明治維新を迎え、森の家臣たちの子孫は現在も赤穂市に多く住んでいるだろう。赤穂のお城、殿様といえば森家なのである。なぜ浅野家、忠臣蔵なのだろう?

今の若い人は忠臣蔵など知らないのではないか? テレビが普及したころから昭和いっぱいは年末になるとよくドラマが放送されていたが、もう40年も前のこと。近ごろは見なくなった。今さら忠臣蔵を町おこしに使うのも時代遅れのような気もする。

しかし、赤穂城の大々的な復元事業が忠臣蔵とセットになっているとすれば、吉良邸討ち入りは、江戸時代の庶民の娯楽以外に、現在の赤穂の城址公園整備という大事業に役立ったといえる。

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