2025年3月31日月曜日

京都23 青蓮院と東寺、洛南、梅小路の市電

3月6日、翌日の京大・森泰生教授の退官記念講演と晩さん会に出席するため、妻と安土、近江八幡など見物したあと、京都に来た。

山科で地下鉄東西線に乗り換え、東山で降りた。
地上に出ると白川が流れている。
2025-03-06  17:49
日中歩いた近江と違い、ここは土地勘がある。
京都は65回以上来ている。一泊2日だったり4泊5日だったりしたが、2泊3日とすれば、130泊して195日くらい歩いている。195日というのは1年の半分以上で、とくに2003年から2005年にかけては京都リサーチパーク(KRP)のオフィスに自分の机とPCがあり半分住んでいるような感覚だった。

見慣れた都会というか京都の景色に安ど感があった。
しかしそれも今回が最後と思うといとおしくなり、何の変哲もない風景を写真に撮った。
17:51
三条通
17:55 青蓮院
ここは八坂神社と平安神宮・南禅寺などの間にあるから、懐かしい道だ。最後に来た
コロナ下の2022年3月も南禅寺のほうから歩いてきた。何度も通ったのに青蓮院には入ったことがない。知識もないし、入る理由もなかった。拝観料は600円。

青蓮院は、三千院、妙法院と共に、天台宗の三門跡寺院として格式を誇ってきた。
門跡寺院とは皇族や摂関家の子弟が入寺する寺院のことであり、青蓮院は多くの法親王・入道親王(親王という皇族出身の僧侶)が門主(住職)を務めた。後に室町幕府第6代将軍足利義教となる義円も門主を務めた。
現在の門主も、東伏見家(旧伯爵家)出身の東伏見慈晃。東伏見家は一代で絶家した東伏見宮を祭祀を継続すため久邇宮邦彦王の第3王子邦英王が昭和6年に臣籍降下して作った家。

その門前に豆腐料理の店がある。
M夫妻が予約してくれた。
17:56
豆腐料理 蓮月茶や
インバウンド客でごった返す京都にありながら客は誰もいない。
18時待ち合わせのM夫妻も来ていなかった。
17:57
通されたのは二部屋続きの離れ。ほかに客がいないから料理は隣の部屋からふすまを開けて出された。客がいたら庭から直接入れるのだろうか? それも野趣があるが様になるのかな?雨のときは離れを使わないのかもしれない。

豆腐料理というとやはり門跡寺院の上野輪王寺(寛永寺の一部)の宮・公
弁法親王ゆかりの鶯谷「笹の雪」が有名だが、そちらよりおいしい気がした。
湯豆腐などはどこも同じだが(私は違いが分からない)、カニ味噌風味のごま豆腐とか湯葉料理など前菜に工夫が見られた。

M夫妻は4月に京都を引き払って故郷に帰るらしい。
そうなると私は、仕事もない、知人もいない京都は二度と来ることはないだろう。

この日は朝一番の新幹線(東京6:00発ののぞみ)に乗り、近江を見物したので疲れが出て早めに寝た。
8:43
京都第一ホテル
翌3月7日。午前は時間がある。
が、あまり遠くは行く気がない。
九条通のホテルの西のほうに東寺があるので行ってみた。
8:55
今京都の中心軸は駅前からのびる烏丸通だが、平安京の朱雀通りは東寺の向こう(西)だからだいぶずれている。

8:57
東寺は2004年9月2日早朝に来ている。
8月31日に宇治川に面した鮎宗、1日に東寺の近くの安宿クリスタルホテルに泊まった翌朝であった。
8:58
五重塔のほうは柵があって行けない。

東寺は西寺とともに平安京正門の朱雀大路南端、羅城門の両側に建立された。
対となる二つの寺は都城、国家の鎮護として、また鴻臚館(外国使節の接遇場所)として建てられた。
しかし完成後間もなく、嵯峨天皇の時の823年、東寺は空海、西寺は守敏に下賜されたとされる。その後、東寺が真言密教の道場として発展したのに対し、西寺は鎮護国家の官寺となり、その後の度重なる火災で完全に地上から姿を消した。さらに西部の水はけの悪さから都が西から東に移動し、東寺が単独で西にあるという状態になっている。
8:59
昔は柵などあっただろうか?
2004年は朝の通り道に使っただけだから、本堂など見なかっただろう。
9:02
御所を思わせる広い砂利の広場
9:06
金堂、講堂、五重塔を含む区域は入場料800円。
昔は素通りしたから気づかなかったが、有料だったのだろうか。

東寺の境内の北西は洛南学園の校地になっている。
9:10
左は洛南学園の体育館

2004年朝はちょうど登校時の生徒と遭遇した。中、高の制服が違うだけでなく、学年でネクタイの色が違っていた記憶がある。いま調べたらその前年、2003年から皮膚の弱い生徒に配慮し詰襟学生服が廃止され、ネクタイが学年で違うブレザーの制服となったらしい。その後、2006年に男女共学となり(女子は学年で制服のリボンの色が違う)、2014年に小学校が開校した。
9:11
この学校の源流は、828年空海が創立した綜芸種智院に端を発するとされているが、実際は明治14年(1881)、真言宗の教育機関として設立された総黌である。これが大正時代に真言宗京都大学(伏見にある種智院大学の前身)と真言宗京都中学に分離、中学のほうが東寺中学と改称、戦後東寺高校となり、昭和37年(1962)に洛南高校と改称した。
1980年代前半に京大合格者を出し、新興進学校としての評価されるようになり、付属中学、付属小学校を新設し、小中高一貫となって現在に至る。
2025年は400名中、東大23人、京大69人と、見事な進学実績である。

ちなみに、名前の似た洛北高校は1870年に日本最古の旧制中学校として創立された府立京都一中である。戦前は京都のトップ校だったが、戦後の総合選抜制などで衰退した。近年は付属中学なども併設して徐々に盛り返し、2024年度は東大3人、京大12人。

洛星は中高一貫、男子カトリック系ミッションスクールで2024年は東大6、京大48人である。
9:13
洛南学園グラウンド
若い坊主頭の男性が入って行かれた。野球部でなければ僧侶の教師だろうか。

私が通り過ぎたのは卒業生の冨田洋之、中野大輔が2004年アテネオリンピックで日本代表として金メダルを取った直後で、校舎から縦の応援幕が下がっていた。
入学者の枠が違うとはいえ、進学とスポーツの両方で有望な生徒を集め、学園の名を売っていた。

智辯和歌山、東大寺学園もそうだが、宗教法人が運営する高校はスポーツ、大学進学ともになぜ優れているのだろう?と思いながら後にした。

2004年は東寺を出たあと、たぶんオフィスのあった丹波口のKRPまで歩いたと思う。どこを通ったか記憶にないが、地図を見ると広い操車場があり、大宮通しかない。
9:18
大宮通
車道は東海道線の上を通り、歩行者は線路の下を通る。

大宮通りで線路を越えると西側が梅小路公園になっている
地図を見れば、ここを斜めに突っ切ればKRPにいく。
しかしこんな立派な公園は記憶にない。

調べると公園は移転した貨物駅の跡地に1995年に作られたという。しかし2010年にJR西日本と京都市が再整備に着手、2012年に水族館、2016年に京都鉄道博物館、2014年にオープンカフェや大型遊具を設置した「すざくゆめ広場」と、「市電ひろば」が開設された。私が通ったころの景色と一変したようだ。
9:23
市電。
4両が並ぶ市電広場はここではなく右奥にある。
水族館も右にある。

京都の市電は1895年に日本で初めて開業した。しかし1960年代から乗客の減少で順次路線を縮小し、昭和53年(1978)に全面廃止された。その5年前、1973年10月、高校の修学旅行で初めて京都に来たときはまだ市電があり、実際に乗った。

しかし路線が減っていたのか、グループ行動で京都駅から苔寺・西芳寺にいくときはバスだった。それが幸いした。走り始めてすぐ、そばに立っていた女子高生が私に吊皮を譲ってくれた。彼女とはそのあと、西芳寺でも笑顔を交わし、次の天竜寺ではその制服を見ると彼女を探すようになっていた。嵯峨野でその制服を見失ってから連絡先を聞かなかったことを大いに後悔した。
ところが夜、奇跡が起きた。新京極の商店街に出た帰りの寺町通りでばったり会った。少し言葉を交わし、山梨高校(女子高)ということだったが、まだうぶな高校生で連絡先などもちろん、名前すら聞かなかった。
ホテルに帰ってから、さらに落ち込んだ。翌日長野に帰るバスの窓から見た、もの悲しく鈍い灰色の琵琶湖をまだ覚えている。
もちろん長野に帰っても彼女が忘れられず、勉強も手につかなくなった。

ところが奇跡がまた起きた。縁があると感じたのか彼女も私に会いたがっていたようで、すでに私の同級生の寺瀬徹氏(軟派だった)と文通を始めていた友人に頼み、ピンクのシャツに黒のブレザーという服装から私を探り当てたのである。お互い喜び、文通が始まり、彼女はクラブ活動の謡曲仕舞で踊っている写真を送ってくれたりした。
その冬、彼女は友人、私は玉木一徳をつれ、2対2で中間地・上諏訪で会った。ところが玉木と彼女(三科よしみさん)が仲良くなってしまった。彼女は一緒に来た友人が私を気に入っているから付き合えと言い、三科さんと私の文通は終わった。
大学に入った1975年の年末、たまたま信越線でなく中央線で帰省するので久しぶりに電話して朝の塩山駅で出勤前の彼女に会った。お互い京都で会った時の印象からだいぶずれてしまったのか(上諏訪のときもずれはあった)、その後、二度と連絡を取り合うことはなかった。

私の1973年初めての京都はこういうことがあり、この市電が走っていた。再び市電を見た2025年のこの日が私の京都最後の日となる。52年間の京都ではいろんなことがあった。そのうちこういう記憶もなくなっていくのだろう。

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2025年3月29日土曜日

安土の沙沙貴神社と浄厳院。佐々木一族のこと

3月6日、安土駅前でレンタサイクルを借りて安土城から田んぼ道を走り、近江八幡の歴史的町並みを見て、ひたすら自転車をこぎ続け、再び安土駅前まで戻ってきた。
疲れたけれども、レンタサイクルの時間制限内(5時間)に戻って来られて、やっと一息ついた。(返却時も無人。セルフサービス)

疲労困憊の妻は口数も少なく、どこかで休みたいというが信長像のある駅前に飲食店はない。橋上駅の安土の裏口ともいえる反対側に降りてみてもない。
グーグル地図にあった喫茶店は営業していなかった。

駅と隣接するように安土城郭資料館があり、そこに喫茶コーナーがあることが分かった。
彼女はそこに入った。
私はいつも顔を合わせている人とは話すこともなく退屈なので、ひとりで近くの沙沙貴神社に行くことにした。

しかし歩き始めてしばらくすると太ももがつってしまった。
ふくらはぎとか足の裏はよくつるが、太ももは初めてで、歩けなくなった。
午前中安土城の400段の石段を上り下りし、そこから近江八幡まで自転車で往復したことで、太ももに今までなかった疲労を与えてしまったらしい。
どうにも動けず道の端で立ち止まったまま休んでいると筋肉の拘縮と痛みはおさまり、何とか目的地まで着いた。
2025₋03₋06 15:33
佐々木神社、楼門東側から入る。

15:33
見事な楼門にびっくり。
円錐型の独立峰とか巨岩とか巨木とか神体になるようなものもない平地の真ん中に、しかも栄えた古都でもなく田舎の田んぼの真ん中に何でこんなものが建てられたか不思議である。

沙沙貴は佐々木。
祭神は少彦名命や宇多天皇など計五柱、総称して「佐佐木大明神」とする。なんとなく耳に覚えがあると思ったら「ハマの大魔神」。彼もこの姓であった。

平安時代中期に宇多源氏である源成頼(宇多天皇から4代後)が近江国蒲生郡佐々木庄に下向し、その子孫が佐々木氏を称した。この地をササキといったのは、少彦名神が小豆に似た豆のサヤである「ササゲ」の船に乗って海を渡り、当地に降り立ったからという。このことから地名となり、古代に沙沙貴山君ササキヤマギミが氏族の名前にして当社もできたという。
この古代氏族は源成頼すなわち近江源氏と融合したのか、消滅した。

15:34
神楽殿のような拝殿

近江に来た源成頼を初代(佐々木成頼)として5代秀義、6代定綱らは頼朝挙兵から平家討伐まで貢献し、定綱とその兄弟たちは本貫の近江だけでなく長門、石見、隠岐など17か国の守護へ補せられた。6代定綱の弟たちは加地、野木(乃木)、出雲源氏、吉田氏の祖となる。

近江に関しては6代の子、8代佐々木信綱(1181?‐1242)の子の代で分割された 。
すなわち、
長男・重綱が坂田郡大原荘(大原氏)
次男・高信が高島郡田中郷(高島氏)
三男・泰綱が宗家(9代)と江南6郡(神崎郡、蒲生郡、野洲郡、栗太郡、甲賀郡、滋賀郡)を継ぎ、
四男・氏信が江北6郡(高島郡、伊香郡、浅井郡、坂田郡、犬上郡、愛智郡)
を継いで、4家に分かれた。

宗家を継いだ三男は京都六角東洞院の館を継いだため六角氏と呼ばれ、
四男は京都の京極高辻の館を継いだので京極氏と呼ばれ、この2家が繫栄する。
(当時の守護は京都に住んだ)

だから京極氏は分家とはいえ、佐々木氏嫡流の六角氏から分かれたわけではない。山陰の尼子氏、江戸時代に筑前の大名となる黒田氏は京極氏から分かれた。

嫡流の六角氏は近江守護を世襲した。庶流の京極氏は鎌倉を拠点として幕府要職を務め、嫡流に勝る有力な家となる。
室町幕府が成立すると倒幕に貢献した京極氏の5代佐々木道誉が近江守護となったが、再び近江守護職は嫡流六角氏に戻った。しかし京極氏が出雲や飛騨の守護に代々任ぜられ繁栄し六角氏と対立していく。
その後、六角氏は戦国大名化したが、一族だけでなく畿内の三好氏とも争い、衰退していく。そして永禄11年(1568年)、織田信長率いる上洛軍と戦って敗れ、居城である観音寺城を去り、大名としては滅亡した。子孫は秀次、秀頼の家臣となったり、各大名に召し抱えられたりしたが、表舞台から消えた。

一方京極氏は家督争いや家臣の浅井氏の台頭により衰弱したが、信長、秀吉につかえ、(氏信を初代として)17代高次が豊臣秀次のあとの近江八幡山城で2万8,000石(前のブログ)、弟の高知が信州伊那郡で6万石の大名となった。関ヶ原でも家康について江戸幕府が成立すると高次は小浜藩、高知は宮津藩の藩祖となった。

本家の高次流 (若狭京極家)は出雲松江26万石に加増転封されたが、高次死後は播磨龍野藩さらに讃岐丸亀藩6万石へと転封された。ここから多度津藩1万石が分かれた。
高次の弟の高知は、12万石を嫡男の高広に宮津藩7万8,000石、三男の高三に丹後田辺藩3万5,000石(のち但馬豊岡藩に転封)、甥で婿養子の高通に峰山藩1万石を分けたが、嫡男の宮津藩は改易された。
15:35
東屋のような休憩所の天井にいろんなものが貼ってある。

2枚の絵の中で四角形が4つ並んでいるのはこの神社の神紋であるが、京極氏の家紋、平四つ目結でもある。本来の佐々木氏宗家(六角氏)の家紋は「平」でなく全体を斜めにした(つまり菱形が4つ並ぶ)隅立て四ツ目結である。
六角氏が没落したのに対し、京極氏は繫栄し江戸時代4家が大名となり、江戸末期に丸亀藩京極家が神社を再建したとき神紋をかえたという。
15:37
寄付金の奉納者が書いてある。
京極高澄(丸亀藩京極家)、京極高晴(豊岡藩京極家、靖国神社18代宮司)というのは分かるが、六角敦義(京都)、佐々木宏(全国佐々木会)、樋口聡(全国佐々木会)というのがどういう方がたなのか分からない。元横浜ベイスターズの佐々木主浩はなかった。
15:42
和泉元彌の名もある。

ちなみに京極家の当主は大名4家とも、代々「高」の字を使う。
これは鎌倉時代末期の中興の祖、5代高氏(佐々木道誉)が執権北条高時から偏諱を賜ってからのこと。一時足利将軍家から偏諱をもらう関係でその慣習がやや崩れかけていたが、京極高清(初め秀綱)が第11代将軍足利義高(のちの義澄)から「高」の字を賜ってからは再び「高」が通字となり現在に至っている。

本殿の前に乃木希典の言葉が石碑になっていた。
日露戦争が終わった翌、明治39年6月、世間は神様のように崇めていたころである。乃木は本神社を訪ね、自ら鍬をとり松を植え、そのあと安土小学校に立ち寄って児童たちに講話した。
15:44
乃木さんの(児童たちへの)お言葉とお手植えの松。
「われわれ人間は祖先が本である。・・・祖先を敬うようにしてほしいと、この爺が言ったと覚えていてもらいたい」
乃木(野木)家は先に述べたように、佐々木氏6代・定綱の弟、高綱を祖とする。それは石碑の注書きにも書いてあった。
乃木夫妻はたびたび参拝していると話している。

誰もいない。
15:45
八角神殿
うしろに十二支の石像群がある。
15:46
本殿
第4座は宇多天皇とその第八皇子・敦実親王を合わせて祀る。敦実親王が臣籍降下し源姓となったので佐々木氏の始祖とされる。

15:48
無人の社務所の前に貼ってあった。
宗家・六角氏の盛衰が書いてある。
15:52
楼門を出ると女石(手前)と男石があった。
それぞれ自分の石から目をつぶって歩き異性の石にたどり着けば結ばれるという。
15:50
境内の西の端に行くと田んぼが広がっていた。
私の子供のころの信州の風景に似ていた。
向こうにお寺らしきものが見えた。地図では浄厳院とある。

このあとすぐそばに旧伊庭家住宅があるので行ってみた。
大正2年、建築家ヴォーリズ氏の設計により建てられたというが、写真は撮らず。
伊庭氏というのは佐々木氏3代の子から分かれた。
建築主 - 伊庭貞剛(住友二代目総理事歴任)
居住者 - 伊庭慎吉(伊庭貞剛四男・安土村村長)
現在、安土町から近江八幡市が所有し、郷土資料館となって公開されているが入らず。
夕方になると頭が見学に飽きてきて、一目見ただけで次に行く。

16:02
沙沙貴神社の北東の隅に戻る。
16:08
神社の北の住宅街を歩いて西に出ると田んぼの向こうにお寺がみえた。
16:10
まっすぐ近づくと麦畑に阻まれた。

北に迂回した。
16:13
浄厳院
立派な門があるが、ここは裏口。
楼門のある正面は反対の南にある。

ここには天台宗慈恩寺という寺があった。領主佐々木六角氏の菩提寺だったから大寺だったか。しかし二度の兵乱で一時廃寺となった。そのあと織田信長が浄土宗の寺として再興したらしい。

ちなみに、不思議なことに、このあたり一帯の住所は
〒521-1345 滋賀県近江八幡市安土町慈恩寺
で、廃寺となった慈恩寺の名が残る。
さらにちなみに、すぐそばの沙沙貴神社の住所は
〒521-1351 滋賀県近江八幡市安土町常楽寺1
だが、ここも常楽寺という寺はない。
16:13
説明板の向こうに佐々木六角氏の居城、観音寺城があった繖山(きぬがさやま、観音寺山ともいう)が見える。標高 432m。
観音寺城は当時の山城としては大規模な石垣が残っていて、石垣を多用する信長の安土城に影響を与えたとされる。戦闘(防御)より居住性を高め、権威の象徴としたのも安土城に似ている。
16:14
信長は跡地に寺を建立するにあたり、本堂や本尊は他の寺から移したという。
これも安土城の摠見寺を思わせる。
16:14
本堂
滋賀県は古いものがいっぱいある。

浄厳院をでて安土駅に戻る。
16:22
このあたりふつうの住宅にも風情がある。
16:23

浄厳院の北門から東海道線と平行に行く道は景清道とある。
路傍に祠があったりする。
16:24
景清道
平安末期の平家の家人平景清(伊藤景清ともいう)が、平家再興を祈願するため尾張から京都の清水寺へ行く際に通ったことに由来するといわる。あるいは東山道をさけて通る「かげのみち」、「かげ京道」からきているとする説もある。このまま東へいくと六角氏観音寺城の城下町(楽市)であった石寺に通じる。

駅に向かって歩いていると、右手にこのあたりとしてはかなり大きな森があり、南にまわってみる。神社だった。
16:29
若宮八幡神社
祭神は誉田別尊(ほんだわけのみこと)と比売神(ひめがみ)という。
誉田別尊は応神天皇のことだが、前者が神としての名であることに対し後者は人間である。
神社によって書き分けているのは意味があるのかどうか知らない。ちなみに比売神というのは特定の神ではなく本祭神の妻という、いわば普通名詞である。

社地の広さから何か由緒あるかと思ったが、よく分からない。
先に訪ねた沙沙貴神社の境外社に若宮神社というのがある。それがこれだろうか?

今夜は京都の粟田口青蓮院の近くで会食がある。
電車は安土発 16:51だからそろそろ駅に戻らねばならない。
16:33
JR安土駅と安土城郭資料館
左側は北口への連絡通路入口である。

擬古的建築だが安土城を模しているわけでもなさそう。八角堂を載せたような特徴的な天守閣は、この資料館の目玉として大型模型が展示されている。

入るとすぐそばの喫茶コーナーで妻が座っていた。
資料館の人お二人も暇だったと見え、私が佐々木神社に行ったことを聞いたようだ。「お近くなのになかなか戻って来られませんね、と話していたんですよ」と受付の人に言われた。
佐々木神社と浄厳院が立派だったと感想をいうと喜ばれた。観音寺城とか安土城の話もしたが、初心者用の当たり前のことから話されれることはなく、好ましかった。
妻は待っている間、安土城関連の展示は、有料だったからか見なかったらしい。


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2025年3月27日木曜日

近江商人とふとんの西川家、当主たちの旧宅

3月6日、京都に向かう途中、安土で降り、10時半ころレンタサイクルを借り、安土城から近江八幡にやってきた。

田んぼ道からやっと近江八幡の街中に入ると左手にヴォーリズ学園すなわち近江兄弟社学園があり、さらに少し行くと右手に近江八幡の地名の元になった日牟禮八幡宮の鳥居があった。
この八幡社こそ老人には少々きつかったサイクリングの、安土城と並ぶ、もう一つの目的地であった。しかし寒くて疲れたこともあり、見物は後にして昼食にする。

このあたりは観光地と思ったが意外と人通りはなく飲食店も少ない。
鳥居のすぐそばに近江牛と書いた幟があり、妻が反応した。
12:32
千成亭
自転車に疲れたのでもう他を探すことはやめ、最初に目に入ったここに入る。
一階は近江牛の肉製品など土産物の販売店になっており、二階に上がる。
12:38
ほぼ観光客の店内は壁に向かう並び席しか空いていなかった。

千成亭のマークは瓢箪である。
ちなみに千成瓢箪は秀吉の馬印(旗印)だが、近江八幡に城を築いた甥の秀次のそれは金の御幣だったという。
12:39
すき鍋御膳2420円が一番安かった。
追加肉は70グラム1540円。リブロースだと50グラム2200円という。
13:21
千成亭を出ると、滋賀県名物「飛び出し君」がいた。
店の法被を着て「献上品・近江肉の味噌漬け」を持っているから千成亭が作ったのだろう。
飛び出し坊や(とび太くん)は各人が自由に作って公道に設置しても良いようだ。

飛び出し君の向こう、つまり千成亭の隣に旧西川甚五郎邸があった。
13:23
西川甚五郎・旧本邸
ふとんの西川である。
初代西川仁右衛門は八幡山城築城にもかかわった大工組西川家に生まれた。
彼は数え18歳の時、蚊帳などの生活用品を天秤棒で肩に担ぎ行商を始めた。その永禄9年(1566)を創業の年とする。名高い近江商人の代表といえる。

時代は、信長が桶狭間の戦い(1560)のあと1565年犬山城にいた一族の織田信清を破ることで尾張の統一を果たしたものの、美濃には道三の孫・斎藤龍興がいて、近江への道を阻んでいた頃である。
北近江には浅井長政、ここ近江八幡のある南近江は近江の守護大名・六角氏がいた。

初代仁右衛門は天正15年(1587)近江国八幡町に、当時の屋号「山形屋」として店を開いた。羽柴秀次がここに城を築き、翌年楽市楽座としたからその将来性を見込んでのことらしい。
その初代から12代目まで(昭和17年ころまで)が実際この屋敷に暮らしていたという。建物200坪、庭を入れると700坪という。

二代目は初代の四男・甚五が継ぎ、萌黄蚊帳を考案、家業を発展させた。
、5代目利助からは蚊帳のほかに弓も扱い、7代目利助は中興の祖とされ、隠居後に甚五郎を名乗った。

また西川家は1843年には尾張藩に御用金を1000両、1866年長州征伐の幕府に1800両を上納した。
明治20年代には11代甚五郎が布団の販売も始める。
13:25
現在、代表取締役会長CEOは西川康行(通称・八一行、やすゆき)氏。銀行マンからの婿養子で、2006年に38歳で社長に就任、創業450年西川の15代目となる。彼は年配層に認知されていた寝具の西川産業を「睡眠」のソリューション企業に変え、アスリートに支持されるAiR(エアー)を生み、新たなブランドとして西川を復活させた。
ちなみに布団の西川は、2019年、西川産業(東京西川)・西川リビング(大阪西川)・京都西川(1750年開設)の三社が統合し、西川株式会社となった。
13:26
敷地の一角に土産物店があり、さすがに布団は売っていなかったが、妻はタオル地のハンカチを買った。
店員さんの応対が(東京と比べ)とても感じ良かった。それは千成亭でも感じた。近江商人の「三方よし」(売り手よし、買い手よし、世間よし)の精神が生きているのだろうか。

西川邸のとなり千成亭の横から裏にまわると八幡堀。
13:36
近江商人たちはこれを使えば琵琶湖に通じ、北陸や京大阪も近い。

感心したのは時代劇にも使われるという景観。
人がいないのも良い。
近江八幡、滋賀県の実力を感じた。変な商業主義に負けないでほしい。
13:36
堀に沿ってずっと歩いたら良いだろうな、と思いながらも自転車を止めていた千成亭に戻る。

2,3軒分(数メートル)東の八幡宮の鳥居の真ん前に明治風の建物がある。
13:39
白雲館
1877年(明治10年)、蒲生郡八幡町に八幡東学校(現・近江八幡市立八幡小学校)として建てられた。近江商人が子どもの教育充実を図るために建設したもので、建設費の大半が先ほどの西川家を代表とする商人たちの寄付によってまかなわれた。しかし1891年に校舎としての役割を終え、1893年以降は八幡町役場や蒲生郡役所などに使用された。
戦後、1966年以降は民間所有となっていたが、1992年に近江八幡市に移管され、現在は観光案内所などとなった(登録有形文化財)。棟梁は近江蒲生郡の大工高木作右衛門だが、信州松本の開智学校に似ている。

ちなみに、八幡町と近江商人と教育について考えると、明治時代にヴォーリズ(前のブログ)が英語教師として赴任した滋賀県立商業学校(現・八幡商業)のことが思われる。すなわち、校名に八幡の文字がないことに、滋賀県における近江商人と当時の八幡町の実力が分かる。この学校は近江商人の士官学校とも言われた。

・・・
白雲間の前の鳥居から日牟禮八幡宮の境内に入り、ざっと見物してまた白雲館前に戻った。
しかし白雲館には入らず、前の道路を西に、豊臣秀次像があるという八幡公園に向かった。
途中、近江兄弟社のメンターム資料館をすぎ、八幡公園まで行ったが、特に見るものもなく、秀次像の写真だけ撮って安土へ戻ることにした。

来た道を戻ると、南に(JRの駅のほうへ)入る道路が何本かある。
その一本に入った。
近江八幡の町は豊臣秀次の時代に作られた。
城の濠として掘られた八幡堀を北辺とし、碁盤の目のようになっている。
前のブログで書いたように、八幡山城は徹底的に破却されたが、楽市楽座で集まった近江商人たちは残った。その当主たちの家々が今も残る。
14:26
新町通り
予想以上に古い家が残されている。
どうせなら「止まれ」も書かなければいいのに。
14:27
旧西川家住宅と私が乗って来たレンタサイクル。

のれんに西川利右衛門、「大」とあるのは屋号の大文字屋を表す。
ふとんの西川(山形屋)と同じく代表的な近江商人だが別の家である。
越前朝倉氏が滅んでその家臣、木原勘右衛門数吉が近江に来て、西川家の養子となる。蒲生郡市村で生まれた長男が八幡町新町に移住し、 (初代)西川利右衛門数政となった。

初代は馬一頭を買って荷を載せ、山形屋のように蚊帳と畳表などを売り歩き財を成し、大坂では近江屋八右衛門、江戸では大文字屋嘉兵衛の名義で店を構えた。江戸では江戸城本丸、西の丸の畳替えを一手に引き受け、一代で隆盛を極めた。
こうして初代から昭和5年に11代が没するまで、約300年間に渡って近江商人の代表のように繫栄した。11代が没した後、分家の西川庄六家の厚意によって市に土地建物共に寄贈された。
14:28
西川庄六邸
二代目利右衛門の次男が分家し庄六家を興した。
14:29
ポストも昔のまま。
ほんとに機能しているのか(郵便屋さんに忘れられていないか)確かめるために横を見れば収集は、市の中心部でありながら一日一回。

14:30
近江八幡市立歴史民俗資料館(郷土資料館)
石柱に彫った「歴」の文字が略字になっているのは珍しいのではないか?
どうでもいいことに気づいたくらいで中に入らず。
建物は、明治19年に八幡警察署として建設、1953年に大幅に改築された。
敷地は近江商人の一人、西村太郎衛門邸跡。
14:31
このあたりは見物に飽きてきてひたすら帰り道を自転車こぐ。

ちなみに、近江商人はここ近江八幡と日野町(蒲生氏郷の城下)、東近江(五個荘)を出身とするものが多い。
近江を源流とする有名企業は、堤康次郎の西武グループ、伊藤忠商事、双日(日商岩井、ニチメン)、高島屋(創業者飯田新七の出身地・高島郡は北部だが)などが有名。三井は伊勢だが元は六角氏の家臣だったというし、武田薬品は道修町で日野発祥の近江屋喜助からのれん分けした。

14:34
八幡公民館(八幡コミニティセンター)
近江八幡は公民館まで歴史的建造物である。他の地ではわざと擬古的なデザインで新たに作るのだが、ここではそのものを使っているように見える。

時間がないので(疲れたし、飽きたこともある)もうどこも見物しなかった。
新町通りは、先ほど述べた県立商業学校の後身・県立八幡商業高校の塀にそって走っているのだが、何も知らず通り過ぎた。
信号で止まることはあっても自転車を下りることはなく、ただひたすら安土まで帰路を急いだ。
頭の中は、近江商人のことなど忘れ、安土に無事にたどり着くかどうか、その心配だけになって来た。

(続く)