2020年2月6日木曜日

西川口駅から歩いて田辺製薬、戸田閉所式

1月24日、田辺三菱製薬・戸田事業所の閉所式があった。
3月いっぱいで閉鎖、売却、更地になるという。

1981(昭和56)年以来、
職業人生の大半を過ごした場所。

閉所式は15時から。
待ち遠しいので早めに家を出ることにした。
西川口駅 2020-01-24 13:38 
改札口は変わっていないが、西口への連絡橋が二倍に広がっている。

入社したころは埼京線(1985年開通)がなく、川口駅から前新田循環のバスに乗った。
そのうち西川口駅からバスを使い、しばらくすると歩くようになった。
いろんな思い出のある西川口からの道をゆっくり歩いてみる。
久しぶりに来たらホームの上に新たな店舗フロア(Beans)ができていてびっくり。

西口   13:41
右手(蕨寄り)は関東いや全国屈指の風俗街だったが、2004(平成16 )年埼玉県警が西川口を「風俗環境浄化重点推進地区」とした。県主導の浄化作戦と風営法改正などにより、火の消えたようになった街を何年か前にあるいたことがある。
空き家が数年続いた後、今は中国人、韓国人らが飲食店など経営しだし、外国人街のようになっているらしい。

そちらのほうへは行かず、田辺製薬のある左手に歩き始める
駅前ロータリーの一角、たまに入った立ち食いソバのあった角と駅エレベーターの間の狭い路地を抜けると右にはせ川。
シャッターの壊れくらいから閉店してだいぶ経つようだ。
角のショーケースは水槽で、貝や魚が飼われていた。
ミルガイだろうか、二枚貝だが棒のような身(水管)が長くて、ほとんど裸の肉の棒が伸びていた。画像で見るミルガイより長かった気がする。

はせ川の向かいにも飲み屋があった。名前を忘れたが、三階か四階建て。
入社したころ山田健二さんと入り一階のカウンターで焼酎をおごってもらった。
飲み会は川口より西川口が多かった。
このあたりの線路際に中二階のような飲み屋があった。確か名前は魚大。
相席で、病理、安全性の人たちが好きだった店だ。


13:43  この古本屋はよく寄った。
ご主人は本籍が千代田区一番町一番一号で、歴史・作家の話が好きだったが、ほーっという話はなかった。
そうだ、宇佐美書店だった。

13:45
はせ川の並びになるこの角はいろんな店が入ったが、80年代初めは柿五郎という寿司屋だった。リーズナブルな値段だったから何回も入った

このビルの隙間を歩くと近道。
串揚げ屋があった。

13:47  熊石はまだあった。
1982年3月、杉原重孝さんがパサディナに留学するとき大橋研で壮行会をした。
大橋元明さん、杉原さん、それから私の上司だった菅原洋一さんの3人がリーダー格であったが、奇しくも3人とも東北大の出身、しかし店は北海道料理であった。
若手は食べ盛りで予約していたコース料理を平らげてしまう。
すると杉原さんがおごりで追加の鍋を注文してくださった。
その言い方がスマートだった。


クマイシのあたりはハングル語、中国語の看板ばかり。

駅のほうに少し戻ってみると、かつてのにぎやかな店が並んでいた駅からのメインストリートの角も空き家になっていた。

13:51
西川口陸橋通り。青木信用金庫は昔のまま。

焼肉の千山閣は何回か飲み会の会場になった。

ダンスを自由に踊れるようになり、ダンスパブにも出かけるようになったころ、西川口にエスパスという店ができた。来てみると25年ぶりの千山閣のビルだった。
スタッフに学連出身のうまい若者をそろえているとのことで、踊れる女性客を目当てに何回か会社を午後半休して来た。2009年、2010年のころ。まさか私がこんな近くで昼から遊んでいるとは会社の人は思いもしなかっただろう。

13:53
仕事が終わり、大塚峯三さんと西川口まで歩いて帰ったとき、ここでおごってもらった。
具沢山の汁がうまかった。

西川口陸橋通りもシャッターが目立つ。
普通の住宅に代わっているところもある。
千山閣の近くに東仙閣という焼き肉屋があり、ここも飲み会で使った。
探したが、ない。

13:56  鬼澤橋
住所は戸田市喜沢であるが、もとはこの字だったのだろう。
山は遠く、昔は田んぼしかなかっただろうから語源は不明。

橋の西の鋭角に交番があった気がする。
道のこちら側に中野さんの送別会など何回か使った店があったが名前を忘れた。

鬼沢橋のすぐ南の橋。
会社からここまで裏道を来て、ここで左折し陸橋通りに出た。

14:01  陸橋通りの南の裏道。

喜沢小学校の西の角に来ると、金属加工の金屑のにおい。
においにも懐かしさがある。
右、喜沢小学校

14:03   けん作はまだあった。
埼京線ができて歩かなくなった90年代に新しくできたのではなかったか?
菅野賢吉氏が酔っ払って、店内のいけすに飛び込んだという話。


いったん碁盤の目で宅地化した後、斜めに道を通したようで変な交差点が多い。

14:05   並行する陸橋通りに戻ると、とんでん。
1998年10月ころ、MacHoneyさんに論文の英語を見てもらい、そのお礼にここで御馳走した。当時は違うファミレスだったような気もするが、メモだととんでんになっている。
彼はどういう経緯で入社したか知らないが、小松原さん率いるスクリーニング部門におり、当時はまだ珍しかったネットでの株取引をしていた。アメリカの証券会社だったのだろうか?


この家は(とくに旧家という感じではなかったが)屋敷門があった。

14:08
右側は花屋だった。花昇とあるが廃業されたようだ。

14:10
ここはただの空き地のような公園だった。
当時はフェンスもなく、斜めに突っ切った。

大塚さんが「人間はどんなに大金持ちになっても、おにぎりやラーメンがうまいと思うんだろうな。それはなぜだろう?」なんて私に問題を出したのはこの真ん中を歩いているとき。

左側に戸田中央病院の看護師寮があった。

右側のヨークマートやマンションは埼京線ができて歩かなくなってから出来た。

14:15
この正面に田辺製薬・戸田事業所の液剤工場があったが、今は大きなマンションになっている。

戸二小通り、左が戸田事業所、右は田辺のテニスコートだった。

14:17
左はガソリンスタンド、右は田辺の敷地(バスケットコート)
まっすぐ歩くと西川口へのバス停、あるいは埼京線戸田公園駅にいく。

ここまで来るとさすがにワクワクしてきた。
7年ぶりだし、それ以前に転勤した人、退職している人も来ているだろう。

正門まで来ると守衛室横の特設受付から懐かしい人がいっぱい。
会場の食堂に行く間も、いろんな人に会う。
みんな笑顔、笑顔。
うれしい。
でも名前が出てこない。

15時からの式には時間があるので少し敷地を歩いた。
14:33
1960年以来、戸田最古の建物、本館。
1981年は工場長室、有機化学研究所、微生物研究所、図書室などが入っていた。

研究所はここから出発したが、近代的な研究棟が周りにできて、2000年代には医務室、資材部、スクリーニング部の一部などしか入っていなかった。
4号館
研究員の移動は以前から始まっていて、1年前に来た時もがらんとしていたが、いよいよ最後か。

流政之「天命拓新」
これは設置するのに基礎工事のやり直しも含め相当お金がかかったものだ。
更地になるにあたり、建物と一緒に廃棄するのだろうか?

かつて一緒に研究した若者も中堅になっていて、いろんな部署に散っていた。
研究員として残ったものは、半分は横浜事業所(旧三菱化成研究所)、半分は武田が作ったまま空いている湘南リサーチパークに移っていた。
彼らにとっても久しぶり、懐かしの戸田である。

15時からの閉所式は、ただの親睦パーティかと思ったら、ちゃんとした式だった。
式次第にのっとって三津家正之社長、子林孝司専務、上野裕明常務(次期社長)、松本健取締役などのあいさつがあった。
退職して7年、社長は3歳上、次期社長は2歳下。専務と取締役は私と同じ年になっていた。

しかし、壇上に立った人々は全員研究所出身であるが、戸田事業所の(80年代を知る生え抜きの)ひとは一人もいなかった。戸田の敷地でヘルベッサー、カルグート、カナグルなど独創的医薬品を創出した人たち、尊敬されていた所長たち、先輩たちを中心にして、もう一度お別れ会を開いてほしいが、3月閉鎖では時間がない。

別ブログ
 20190306 田辺三菱・戸田の変わりよう
 20190224 戸田公園駅2 酔月園から転職まで
 20190223 戸田公園駅1 田辺製薬までの道

千駄木菜園 総目次

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