3月6日、安土駅前でレンタサイクルを借りて安土城から田んぼ道を走り、近江八幡の歴史的町並みを見て、ひたすら自転車をこぎ続け、再び安土駅前まで戻ってきた。
疲れたけれども、レンタサイクルの時間制限内(5時間)に戻って来られて、やっと一息ついた。(返却時も無人。セルフサービス)
疲労困憊の妻は口数も少なく、どこかで休みたいというが信長像のある駅前に飲食店はない。橋上駅の安土の裏口ともいえる反対側に降りてみてもない。
グーグル地図にあった喫茶店は営業していなかった。
駅と隣接するように安土城郭資料館があり、そこに喫茶コーナーがあることが分かった。
彼女はそこに入った。
私はいつも顔を合わせている人とは話すこともなく退屈なので、ひとりで近くの沙沙貴神社に行くことにした。
しかし歩き始めてしばらくすると太ももがつってしまった。
ふくらはぎとか足の裏はよくつるが、太ももは初めてで、歩けなくなった。
午前中安土城の400段の石段を上り下りし、そこから近江八幡まで自転車で往復したことで、太ももに今までなかった疲労を与えてしまったらしい。
どうにも動けず道の端で立ち止まったまま休んでいると筋肉の拘縮と痛みはおさまり、何とか目的地まで着いた。
2025₋03₋06 15:33
佐々木神社、楼門東側から入る。
15:33
見事な楼門にびっくり。
円錐型の独立峰とか巨岩とか巨木とか神体になるようなものもない平地の真ん中に、しかも栄えた古都でもなく田舎の田んぼの真ん中に何でこんなものが建てられたか不思議である。
祭神は少彦名命や宇多天皇など計五柱、総称して「佐佐木大明神」とする。なんとなく耳に覚えがあると思ったら「ハマの大魔神」。彼もこの姓であった。
平安時代中期に宇多源氏である源成頼(宇多天皇から4代後)が近江国蒲生郡佐々木庄に下向し、その子孫が佐々木氏を称した。この地をササキといったのは、少彦名神が小豆に似た豆のサヤである「ササゲ」の船に乗って海を渡り、当地に降り立ったからという。このことから地名となり、古代に沙沙貴山君ササキヤマギミが氏族の名前にして当社もできたという。
この古代氏族は源成頼すなわち近江源氏と融合したのか、消滅した。
15:34
神楽殿のような拝殿
近江に関しては6代の子、8代佐々木信綱(1181?‐1242)の子の代で分割された 。
すなわち、
長男・重綱が坂田郡大原荘(大原氏)
次男・高信が高島郡田中郷(高島氏)
三男・泰綱が宗家(9代)と江南6郡(神崎郡、蒲生郡、野洲郡、栗太郡、甲賀郡、滋賀郡)を継ぎ、
四男・氏信が江北6郡(高島郡、伊香郡、浅井郡、坂田郡、犬上郡、愛智郡)
を継いで、4家に分かれた。
宗家を継いだ三男は京都六角東洞院の館を継いだため六角氏と呼ばれ、
四男は京都の京極高辻の館を継いだので京極氏と呼ばれ、この2家が繫栄する。
(当時の守護は京都に住んだ)
だから京極氏は分家とはいえ、佐々木氏嫡流の六角氏から分かれたわけではない。山陰の尼子氏、江戸時代に筑前の大名となる黒田氏は京極氏から分かれた。
嫡流の六角氏は近江守護を世襲した。庶流の京極氏は鎌倉を拠点として幕府要職を務め、嫡流に勝る有力な家となる。
室町幕府が成立すると倒幕に貢献した京極氏の5代佐々木道誉が近江守護となったが、再び近江守護職は嫡流六角氏に戻った。しかし京極氏が出雲や飛騨の守護に代々任ぜられ繁栄し六角氏と対立していく。
その後、六角氏は戦国大名化したが、一族だけでなく畿内の三好氏とも争い、衰退していく。そして永禄11年(1568年)、織田信長率いる上洛軍と戦って敗れ、居城である観音寺城を去り、大名としては滅亡した。子孫は秀次、秀頼の家臣となったり、各大名に召し抱えられたりしたが、表舞台から消えた。
一方京極氏は家督争いや家臣の浅井氏の台頭により衰弱したが、信長、秀吉につかえ、(氏信を初代として)17代高次が豊臣秀次のあとの近江八幡山城で2万8,000石(前のブログ)、弟の高知が信州伊那郡で6万石の大名となった。関ヶ原でも家康について江戸幕府が成立すると高次は小浜藩、高知は宮津藩の藩祖となった。
本家の高次流 (若狭京極家)は出雲松江26万石に加増転封されたが、高次死後は播磨龍野藩さらに讃岐丸亀藩6万石へと転封された。ここから多度津藩1万石が分かれた。
高次の弟の高知は、12万石を嫡男の高広に宮津藩7万8,000石、三男の高三に丹後田辺藩3万5,000石(のち但馬豊岡藩に転封)、甥で婿養子の高通に峰山藩1万石を分けたが、嫡男の宮津藩は改易された。
15:35
東屋のような休憩所の天井にいろんなものが貼ってある。
2枚の絵の中で四角形が4つ並んでいるのはこの神社の神紋であるが、京極氏の家紋、平四つ目結でもある。本来の佐々木氏宗家(六角氏)の家紋は「平」でなく全体を斜めにした(つまり菱形が4つ並ぶ)隅立て四ツ目結である。
六角氏が没落したのに対し、京極氏は繫栄し江戸時代4家が大名となり、江戸末期に丸亀藩京極家が神社を再建したとき神紋をかえたという。
15:37
寄付金の奉納者が書いてある。
京極高澄(丸亀藩京極家)、京極高晴(豊岡藩京極家、靖国神社18代宮司)というのは分かるが、六角敦義(京都)、佐々木宏(全国佐々木会)、樋口聡(全国佐々木会)というのがどういう方がたなのか分からない。元横浜ベイスターズの佐々木主浩はなかった。
15:42
和泉元彌の名もある。
ちなみに京極家の当主は大名4家とも、代々「高」の字を使う。
これは鎌倉時代末期の中興の祖、5代高氏(佐々木道誉)が執権北条高時から偏諱を賜ってからのこと。一時足利将軍家から偏諱をもらう関係でその慣習がやや崩れかけていたが、京極高清(初め秀綱)が第11代将軍足利義高(のちの義澄)から「高」の字を賜ってからは再び「高」が通字となり現在に至っている。
日露戦争が終わった翌、明治39年6月、世間は神様のように崇めていたころである。乃木は本神社を訪ね、自ら鍬をとり松を植え、そのあと安土小学校に立ち寄って児童たちに講話した。
誰もいない。
このあとすぐそばに旧伊庭家住宅があるので行ってみた。
15:44
乃木さんの(児童たちへの)お言葉とお手植えの松。
「われわれ人間は祖先が本である。・・・祖先を敬うようにしてほしいと、この爺が言ったと覚えていてもらいたい」
乃木(野木)家は先に述べたように、佐々木氏6代・定綱の弟、高綱を祖とする。それは石碑の注書きにも書いてあった。
乃木夫妻はたびたび参拝していると話している。
15:45
八角神殿
うしろに十二支の石像群がある。
15:46
本殿
第4座は宇多天皇とその第八皇子・敦実親王を合わせて祀る。敦実親王が臣籍降下し源姓となったので佐々木氏の始祖とされる。
15:48
無人の社務所の前に貼ってあった。
宗家・六角氏の盛衰が書いてある。
15:52
楼門を出ると女石(手前)と男石があった。
それぞれ自分の石から目をつぶって歩き異性の石にたどり着けば結ばれるという。
15:50
境内の西の端に行くと田んぼが広がっていた。
私の子供のころの信州の風景に似ていた。
向こうにお寺らしきものが見えた。地図では浄厳院とある。
大正2年、建築家ヴォーリズ氏の設計により建てられたというが、写真は撮らず。
伊庭氏というのは佐々木氏3代の子から分かれた。
建築主 - 伊庭貞剛(住友二代目総理事歴任)
居住者 - 伊庭慎吉(伊庭貞剛四男・安土村村長)
現在、安土町から近江八幡市が所有し、郷土資料館となって公開されているが入らず。
夕方になると頭が見学に飽きてきて、一目見ただけで次に行く。
16:02
沙沙貴神社の北東の隅に戻る。
16:08
神社の北の住宅街を歩いて西に出ると田んぼの向こうにお寺がみえた。
16:10
まっすぐ近づくと麦畑に阻まれた。
北に迂回した。
16:13
浄厳院
立派な門があるが、ここは裏口。
楼門のある正面は反対の南にある。
ここには天台宗慈恩寺という寺があった。領主佐々木六角氏の菩提寺だったから大寺だったか。しかし二度の兵乱で一時廃寺となった。そのあと織田信長が浄土宗の寺として再興したらしい。
ちなみに、不思議なことに、このあたり一帯の住所は
〒521-1345 滋賀県近江八幡市安土町慈恩寺
で、廃寺となった慈恩寺の名が残る。
さらにちなみに、すぐそばの沙沙貴神社の住所は
〒521-1351 滋賀県近江八幡市安土町常楽寺1
だが、ここも常楽寺という寺はない。
16:13
説明板の向こうに佐々木六角氏の居城、観音寺城があった繖山(きぬがさやま、観音寺山ともいう)が見える。標高 432m。
観音寺城は当時の山城としては大規模な石垣が残っていて、石垣を多用する信長の安土城に影響を与えたとされる。戦闘(防御)より居住性を高め、権威の象徴としたのも安土城に似ている。
16:14
信長は跡地に寺を建立するにあたり、本堂や本尊は他の寺から移したという。
これも安土城の摠見寺を思わせる。
16:14
本堂
滋賀県は古いものがいっぱいある。
浄厳院をでて安土駅に戻る。
16:22
このあたりふつうの住宅にも風情がある。
16:23
浄厳院の北門から東海道線と平行に行く道は景清道とある。
路傍に祠があったりする。
16:24
景清道
平安末期の平家の家人平景清(伊藤景清ともいう)が、平家再興を祈願するため尾張から京都の清水寺へ行く際に通ったことに由来するといわる。あるいは東山道をさけて通る「かげのみち」、「かげ京道」からきているとする説もある。このまま東へいくと六角氏観音寺城の城下町(楽市)であった石寺に通じる。
16:29
若宮八幡神社
祭神は誉田別尊(ほんだわけのみこと)と比売神(ひめがみ)という。
誉田別尊は応神天皇のことだが、前者が神としての名であることに対し後者は人間である。
神社によって書き分けているのは意味があるのかどうか知らない。ちなみに比売神というのは特定の神ではなく本祭神の妻という、いわば普通名詞である。
社地の広さから何か由緒あるかと思ったが、よく分からない。
先に訪ねた沙沙貴神社の境外社に若宮神社というのがある。それがこれだろうか?
JR安土駅と安土城郭資料館
左側は北口への連絡通路入口である。
擬古的建築だが安土城を模しているわけでもなさそう。八角堂を載せたような特徴的な天守閣は、この資料館の目玉として大型模型が展示されている。
入るとすぐそばの喫茶コーナーで妻が座っていた。
資料館の人お二人も暇だったと見え、私が佐々木神社に行ったことを聞いたようだ。「お近くなのになかなか戻って来られませんね、と話していたんですよ」と受付の人に言われた。
佐々木神社と浄厳院が立派だったと感想をいうと喜ばれた。観音寺城とか安土城の話もしたが、初心者用の当たり前のことから話されれることはなく、好ましかった。
妻は待っている間、安土城関連の展示は、有料だったからか見なかったらしい。
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