2025年7月17日木曜日

千葉大亥鼻キャンパスと一高医学部

7月2日、薬物乱用防止講演で千葉市に来て、終わってから市内を歩き、38年ぶりに亥鼻城をみた。 (別ブログ)

亥鼻城のすぐそばに千葉大医学部がある(と書くと同じキャンパスにある看護学部、薬学部に怒られるか)
医学部だけあえて取り上げたのは、亥鼻は明治以来、千葉大医学部(という名前ではなかったが)の代名詞であったからだ。

亥鼻城址の北のバス通り(旧東金街道)の坂を上がってすぐ、通用門みたいなものがあったのでキャンパスに入った。
2025₋07₋02 16:53 看護学部前
通勤通学用の自家用車が自由に停められている。
まだ千葉大はふんだんに土地がある。

少し歩くと旧正門があった。
千葉大は西千葉キャンパスのほうがなじみ深いが、亥鼻のほうも最低3回は来ている。
最初は大学院生だった1980年ころ、生物活性研究所の山崎幹夫先生のところにアフラトキシンを産するカビのスラントをもらいに来た。
2回目は1987年3月、薬理学会を初めて聴講に。
3回目は2003年5月、シンシナチ大シュワルツ教授を常宿のオークラで内藤一秋氏とピックアップしブランチを食べたあと、医学部薬理学教室の中谷晴昭先生のところまで連れてきた。中谷教授は私より12年ほど前にシュワルツ研に留学されていて、シュワルツは来日すると会いたがられ、他にも1度食事会をセッティングしたことがある。
16:55 千葉大医学部 旧本館
旧正門からまっすぐ右斜めにある。
最後に来てから20年以上たっているがまだ残っていてうれしかった。

16:57 医学部正面玄関
かなり大きな建物だが現在は使われていないようだ。
1987年、2003年のときはこの中に入った。入れば何か思い出すかと思ったが
鍵がかかっていて無人のようだ。
16:59
奥に進むとミルフィーユのような建物があった。
ゐのはな同窓会館とあった。
左の向こうは旧医学部本館

ゐはW・Iと入れれば変換される。たしかにウィであるが、13世紀には音は「い」と一緒になり文書では大いに混同された。しかし明治以降の学校教育で復活し、井、位、為、猪はこのように書かれた。ただし人々が「うぃど」「うぃのしし」と発音したわけではない。
同窓会は過去とのつながりが大事だからこの字を用いるのであろう。実際「亥鼻会」、「いのはなかい」よりも良いと思う。
17:00
中を覗くと講演会場にもなるようだが、四方ガラス張りでエネルギー効率が悪そう。

17:02
旧医学部本館の裏に古びた建物があった。
このあたりは亥鼻台地の北縁に当たり、北に向かって崖のようになっている。
この古い建物は何だろう、と思って近くの案内図を見たが、書いてない。
代わりに5号塚、6号塚、などが目に留まった。
その一つの6号塚にはいってみた。
17:03 七天王塚
塚というが高さはほとんどない。7つの塚はいずれも径10mの円ないし類円形、高さは0.5mから1.5mほどの小円墳という。疫病除けとして牛頭天王をまつり、亥鼻城の大手口に北斗七星の形で並んでいるという。

しかし7つの塚をつなげても北斗七星の形に見えない。ただ千葉氏の家紋が月星紋・九曜紋という天体から採ったもので、北斗七星というのもあながち嘘ではないかもしれない。
(ちなみに千葉周作も千葉氏の末裔を名乗り、紋は月星紋、剣は北極星にちなむ北辰一刀流である。)
17:06
七天王塚をみたあと、さっきの古い建物が気になったので戻って中に入ってみた。
17:07
山岳部、軽音楽部、
学生のクラブ活動の部室だった。
敷地に余裕があるから歴史的建物も保存できる。

17:10
薬学部
薬学部は昭和41年(1966)以来、他の教育学部や工学部などと一緒に西千葉キャンパスにあったが、2004年と2011年に半分ずつ(新校舎の完成に合わせて)亥鼻に移転してきた。

ところで、我が国の薬学部は2006年度の入学生から6年制になった。
これは1999年に厚生省が「薬学教育のあり方に関する調査研究協力者会議」を設置、2002年には文部省と厚生省が合同で「薬学教育モデル・コアカリキュラム」を策定、薬学教育6年制の具体的検討を進めた結果である。これには薬科大学や薬剤師会の意向が入っている。

この変更は薬学教育を従来の有機化学主体の製薬化学から臨床薬学に大きく舵を切るもので、増えた2年間を臨床薬学の教育に充てることになった。
臨床薬学というのは生命倫理とか、薬局実習、病院実習などで、東大などは従来大学院修士課程で2年間実験していた学生が(将来あまり役に立つとは思えない)調剤実習に行ってしまうことで我が国の基礎薬学(有機化学、生命科学)が衰退してしまうことから大反対した。
しかし多くの私学や薬剤師会は2年間分の学費の収入が増えることと、医師と同じ6年になることで薬剤師の地位が上がるのではないかという期待から強く後押しした。

(ちなみに地位向上の期待は裏切られた。なぜなら6年制は学費収入が1.5倍になるということで新設薬科大が乱立、薬剤師が過剰となったからである。さらに6年制薬学部の学生は研究をほとんどしなくなってしまったため、製薬会社の研究所には就職できなくなるなど、ライフサイエンスの分野では理学部、農学部の学生(4年制プラス修士2年)に太刀打ちできなくなった)

さて、6年制になると医療現場と薬学はぐっと近くなる。千葉大薬学部の亥鼻移転はこうした流れと時期が重なることからそれに合わせたものかと思ったが、どうだろう?
よく分からないが、とにかく亥鼻に医学部、薬学部、看護学部が集まった。

千葉大薬学部は戦前の千葉医科大学附属薬学専門部から続いている。当時は薬剤師になるものが多かったが、戦後、国内での製薬業の興隆とともに基礎科学である製薬化学が重視されるようになり、1966年工学部や理学部(当初は文理学部)などのある西千葉に移転した。

すなわち、亥鼻(矢作町)→西千葉→亥鼻という校地の変遷は、薬剤師→創薬研究者→薬剤師という養成すべき人材の変遷と一致する。

薬学部の新しい2つのビルを見た後、奥(東)にすすむと真新しい大きなビルがあった。
亥鼻の主・医学部である。
この大きなビルを見れば、先に見た旧医学部本館が空っぽになったのもうなづける。
17:12
遠く離れていても大きく見える医学部。

千葉大医学部の前身については、20年近く前、ファルマシアのコラム「薬学むかしむかし」に何回か書いた。
すなわち、明治15年亥鼻城址の一角に創立された県立千葉医学校が、明治20年官立(国立)第一高等中学の医学部になったのが始まりである。第一高等中学というのは本郷弥生に本部があり、明治27年には第一高等学校となった。

当時の5つの官立高等学校は学部を持ち、二高(仙台)、四高(金沢)の医学部はそれぞれ本部の地にあったが、三高(京都)は岡山に、五高(熊本)は長崎に医学部を置いた。その後、二高、三高は帝国大学に昇格、他の官立高等学校は帝国大学の予科となり、付属の医学部は官立医学専門学校として独立した。
大正の終わりにはこれら官立医専は官立医科大学に昇格する。
岡山、長崎、千葉が戦後、入試制度で国立一期校に割り振られたのは、その設立母体の一部にこれら戦前の官立大学が入っていたからである。

ちなみに、これら高等学校附属の医学部には薬学科が付設されていた。
千葉も明治23年薬学科が附設され、卒業生は薬学得業士の称号が与えられ、試験免除で薬剤師免許が得られた。大正時代に薬学科は千葉医科大学附属薬学専門部と改称した。 
ちなみに、千葉は薬学部としての独立が早かった。東大は京都帝大ができるまで日本で唯一、学士を輩出する大学の薬学科であったが、薬学部として医学部から独立したのは昭和33年である。しかし千葉は戦後新制大学となったと同時に薬学部として独立している。
医学部の前の道
北は崖である。
ここで再び、初めて亥鼻に来たときのことを思い出した。
1980年、修士課程の2年目、生物活性研究所にきたとき、やはり左側が崖だった。秋の夕方だった気がする。それまでうまくいかなかったペニシリン、セファロスポリンの生合成に関する研究をやめ、アフラトキシン類の生合成研究に切り替えようとしていた。
亥鼻台の地形
生物活性研究所は戦後すぐの1946年 9月、千葉医科大学に付設された腐敗研究所が前身であった。いまは改組され真菌医学研究センターとなっている。場所はどこだったか分からない。もちろん地形図を見ても分からない。

地形図では県庁の横で渡った都川が北を流れている。亥鼻の崖は川が作ったというより太古は海が入っていて波が斜面を洗って削ったのだろう。
17:14
医学部正面
威圧感があり、入りたい気も起きず素通り。
17:14
医学部の向こうに附属病院が見えた。
空も広いが、敷地も広い。
17:16
外来診療棟ロビー
 2014年夏に竣工。
ドラマでよく見ている。調べたらドクターX(大門未知子)、ブラックペアンなど数多くのロケに使われている。
17:17
二階に上がってみた。
この時間だと診療時間でないから人は少ない。
17:26
旧正門
薬学部、医学部、病院、みな東のほうに新築して正門も東に移ったが、歩きの人はこちらのほうが使いやすい。
17:30
旧東金街道を下る。
昔の道は尾根を通った。千葉氏がいたころからこの道はあったか。

17:32
亥鼻台の東、北、西を流れてきた都川まで降りて亥鼻城をみる。
近世の城であれば、このあたり家臣などの住んだ武家町であろうが、あれは城ではなく郷土博物館だから、ここに城下町の雰囲気はない。
17:43
県庁前に向かうモノレール。
亥鼻に行くとき通った地点に戻って来た。

歩いてくる途中、かつての千葉町の中心に、通りの名前にもなっている官民共同複合ビル「きぼーる」があった。中央区役所、千葉市科学館、子育て支援館、保健福祉センターなどが入居する。その前に「公立千葉病院の跡」という碑があった。

明治7年創立の共立病院は、
明治9年にこの地で公立千葉病院と改称し、医学教場を付設した。
それが明治15年に県立千葉医学校と附属病院、明治21年に第一高等中学医学部となり、
明治23年9月、亥鼻台に移転したと、記されていた。
すなわち、県立千葉医学校は、多くの人が信じているように亥鼻城址の一角にあったのではなかった。

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