2025年7月15日火曜日

千葉駅と千葉氏、亥鼻城

7月2日、薬物乱用防止講演で千葉市に来た。

千葉というのは長野から上京して50年、あまり縁がなかった。

学生時代でも就職しても、仕事でも遊びでもあまり来る機会がない。

九十九里に海水浴で2回行ったくらいか。

2025₋07₋02 12:26 
千葉駅改札内
現在の駅舎は2016年に完成した4代目。
中央改札口は3階にあり、線路は2階にある。

先日(2025年4月20日)ダンス競技会で千葉公園の体育館(YohaSアリーナ)に来たが、朝は急いでモノレールに乗り換え、帰りは西千葉駅まで歩いたため、この駅はじっくり見なかった。

エキナカはどこも似たようなものなので、改札から外に出てみる。
12:29
北東方面
先日のったモノレールの線路が見えた。2路線あって1号線は県庁前に、2号線は千葉公園を経て千城台に行く。構造をよく見れば、吊り下げ式ということが分かる。

下は佐倉方面のJR線路。
ちなみに総武本線というのは千葉が終点ではない。東京駅を起点とし佐倉(ここで成田線が分かれる)を経て銚子が終点である。

千葉駅はYの字を東(南東)に向けて横にした中心に位置し、西の東京から来て左(北東)に行けば銚子方面、右(南東)に行けば安房鴨川に行く外房線、内房線である。
12:31 南東方面
反対方向に出るとそごうが見えた。
そごうは各店舗が地域子会社であったが、2000年に22法人が経営破綻し半数以上の店舗が閉鎖。大宮、川口、柏など計13社は再生計画認可となり、営業を続けたが柏は2016年、川口は2021年に閉店した。
この千葉そごうは健在なのだろうか。

そごうの手前、地上4階に横たわっているのはモノレール駅である。
右(南)に行くと市役所前駅を経て、終着の千葉みなとでJR京葉線につながる。
その下に見える線路は京成線で右に行くと津田沼、上野方面。
外房線は足の下を向こうに伸びているから見えない。
12:31 東京方面
とくに何も見えない。

千葉市の東京への通勤通学率はどのくらいだろう?
総務省の統計では神奈川34.6%、さいたま市28.3%、横浜23.1%、千葉市21.5%とされる。
わりと低く、そごうなどもやっていけるのかもしれない。
地理的条件は和歌山と似ているが、紀伊半島とくらべ成田、銚子、木更津などをもつ千葉市のほうが商圏は大きく、駅前のにぎやかさに現れている。

用事が終わって千葉駅に戻って来た。
16:15 千葉駅正面玄関
千葉駅は東京方面から列車が来て、北東(佐倉、銚子方面)と南東(蘇我、安房鴨川方面)の二股に分かれることは書いた。
駅前広場はそのYの字型の股の部分にある。
前回来たときは1963年完成の3代目駅舎で、この二股部分の1階に改札があり、そこから2階の線路に上がった。
16:16
右は外房線、京成線の線路の高架。駅前広場から見る線路は2階だが、地形は東京方面が高くなっているため、駅の西側は線路が地上と同じレベルになる。
外房線は房総半島を横断し、大網を経て安房鴨川へ行く。途中蘇我で内房線が分かれ、こちらは東京湾に沿って南下、木更津、館山などをへて安房鴨川で外房線と出会う。

この高架に沿って南東に千葉の町を歩いた。
一駅分歩いて京成線の次の駅の前に出た。
16:28
京成線 千葉中央駅
駅名通りこのあたりが千葉市の中心だろうか。
以前は京成千葉駅といったらしいが、1987年4月1日に 国鉄分割民営化に際して、国鉄千葉駅前駅を京成千葉駅と改称するのに伴い、こちらを千葉中央駅に改称した。そして2002年、ホテルや映画館も入る高層ビルとなった。

千葉というのはどういう町だろう?
千葉は平安時代の坂東武士、すなわち先日書いた豊島氏の祖・秩父氏などとともに坂東八平氏の一つといわれる千葉氏にちなむと思う人もいるが、そうではない。千葉氏は桓武平氏の平忠常の曾孫である常兼が、下総国千葉荘に住んで千葉氏を称したわけだから、それ以前から地名としてあった。

千葉氏は鎌倉時代こそ歴代当主が下総国守護をつとめたが、室町時代になると本拠地を現在の千葉市から佐倉、酒々井の一帯に移し、衰退の一途をたどる。千葉氏がいなくなった後の千葉の町は寒村となっていたが、江戸時代になって千葉佐倉街道や東金御成街道が整備されると宿場町となった。
佐倉街道は千住宿から船橋・大和田・臼井などを経て佐倉に至る道筋で、成田参詣の道としてにぎわった。(いまバイト先のシェアガーデン北千住は佐倉道沿いにある)。
ただし千住を経由すると遠回りとなるため、日本橋から行徳へ水路をとる道筋が一般に用いられた。

1746年以後の後期堀田氏時代には11万石のうち7万石が下総にあり、このあたりを含む千葉郡31か村が佐倉藩領であった。佐倉藩は陸上・海上交通の要衝である千葉に役所を設け、また文政8年(1825年)には海防のために猪鼻山に陣屋が置かれた。
長岡藩が新潟を、長州藩が下関、三田尻を管理したように、佐倉藩は千葉を藩の外港とした。

私のような一般人は港としての千葉はぴんと来ないが、千葉港は国が指定する18の重要港湾の一つで、国際戦略港湾(東京、横浜、川崎、大阪、神戸)につぐ国際拠点港湾(室蘭、仙台、清水、名古屋、博多など15港)の一つである。JR千葉駅からモノレールで2駅である。

さて、歩いているところは政令指定都市の真ん中で港や海など全く感じさせない。
京成も外房線も千葉駅をでると東に向かっているイメージがあるが、千葉中央駅のあたりはほぼ南に向かっているから方向感覚が狂う。千葉中央駅の前の大通り(きぼーる通り)はほぼ東に向かっている。
16:29
モノレールの線路があった。
左が千葉駅方面、膨らんでいるのは葭川公園駅があるからだ。
モノレールに沿うように右折、南に向かう。
16:34
都川に沿う千葉県庁(の裏?)

頭に地図を浮かべると、千葉県というのは鉄道をもとにすると
1.総武線で千葉までの間の市川、船橋、津田沼など
2.松戸から常磐線沿いの柏、安孫子など
3.千葉から佐倉、成田、香取、銚子
4.千葉から茂原を経て大網、勝浦、九十九里など
5.東京湾沿いの蘇我、木更津、館山と分けられる。
このうち、1,2はまだしも、3,4,5は本当に土地勘がない。

これら5つの地域をまとめるなら、この千葉というのは適地かもしれない。
16:37
千葉県庁の東側に回り込む。
千葉県立羽衣公園になっていて、初の民選県知事の立像があった。

東に進むと県立中央図書館、千葉県文化会館などのある亥鼻公園の丘にぶつかる。
一角に寺院があった。
16:42
胤重寺(いんじゅうじ)
変わった寺名だが、1558年、千葉常胤の孫、武石三郎胤重の子孫である雲厳上人が祖先・胤重の菩提のため建立したという。

先ほど書いた千葉氏についてさらに書けば、千葉常胤(つねたね)は、平安時代末期から鎌倉時代前期にかけての千葉氏第3代当主。頼朝挙兵に際しすぐに参陣し、千葉氏を地方豪族から鎌倉御家人の地位まで登らしめた千葉氏中興の祖といわれる。その三男が下総国千葉郡武石郷(千葉市花見川区付近)を領したことで武石三郎胤盛と称し、その子がこの寺の名前にもなった武石三郎胤重であるが、武石氏はすぐに陸奥国亘理郡に移ったとされるから、千葉宗家でもないのに、ここに菩提の寺がある理由は不明。

寺の西の坂の上に城が見えた。
千葉氏はこの丘を本拠としたとされる。
すなわち千葉常胤の父である千葉常重が平安時代の1126年、上総国大椎城(千葉市緑区大椎町)からここに拠点を移し、1455年、千葉胤直が下総原氏(千葉氏の庶流)に追われるまで、千葉氏13代、約330年に渡り両総に覇を唱えた千葉氏の拠点であった。
しかし、中世の館であり、こんな江戸時代風のお城があったわけではない。
1967年(昭和42年)模擬天守として作られた。
16:45
亥鼻城
というより、城の形をした千葉市立郷土博物館である。

1987年3月31日、近くの千葉大医学部で日本薬理学会が開かれた。それまで薬物代謝という有機化学の分野から、生理学、薬理学という生物学に転向しようとしている時期だったため、発表される演題はこちらに知識がなくさっぱり理解できなかったことを覚えている。
学会が終わって京成の駅まで歩こうと、途中ここに立ち寄ると、花見を盛り上げるためか頭上に提灯が張り巡らされていた。

その1987年にはなかった騎乗武士の像があった。
「飛躍 大空に鏑矢を放つ」
2001年、千葉市制80周年・政令指定都市移行10周年を記念し建立したらしい。
武将像だが千葉氏とも関係なく歴史上のモデルもない。税金を使ってわざわざ建てるほどのものでもない。というより設置することで本来の史跡の雰囲気に合わないと思う人もいるだろう。
本来何もしないのが無難であり、公務員というのはそういうものだと思っていたが、ひょんなことで予算がついてしまうと、一切逆らわず執行するというのもお役所である。

ちなみに亥鼻というのは台地の先端がイノシシの鼻に似ているという説と、上総台地が亥の方角(北北西)にせり出しているからという説がある。北西でなく北北西というのは細かい。
国土地理院 千葉市中央部
JR千葉駅(左上)は北西からの丘陵が尽きたところにあり、駅前広場が1階、線路が2階というのがよく分かる。
千葉市の中心はこの台地と、亥鼻台地に挟まれた低地で、埋め立て前は海がすぐそばだったこともよく分かる。


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