以前、
20210305 上野公園9 新鶯亭など茶店の歴史
として書いたが、たまたま今日見たらだらだら長くて読みづらい。
そこで二つに分け、後半部をこのブログに独立させた。
(以下、再録)
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2019‐03‐02 11:02 新鶯亭
たぶん入ったことはない。
鶯団子とある。
鶯色ならヨモギ団子みたいなものかな?
店は休業中であったが、ちょうど年配の女性が腰にラジオをぶら下げながら、草取りでもされるのだろうか、出てこられ、動物園側に行かれた。
私もそちらに行くと目が合ったので「店はお休みですか」とご挨拶した。
コロナで客がほとんどいないから、団子を作っても無駄になってしまう。土日だけ開けているという。
私は上野公園が大好きなんです、
と昭和50年以来の記憶を話すと、いろいろ教えてくださった。
「昭和20年にここで生まれたの」と彼女は目の前の店を指す。
一番感受性の高い時期、この一帯を遊びまわっていたのは昭和20年代か。
戦後の上野公園を毎日見ていらしたことになる。
今の西洋美術館、東京文化会館があった辺り、凌雲院の跡地は引揚者のバラックが並んでいたこと、帰省の時季は公園に徹夜の行列ができたこと、白装束でアコーディオンを弾く傷痍軍人のこと、不忍池の入水、森の中、便所での首つりなど自殺が多かったこと、などを話してくださった。
テレビ東京「池の水ぜんぶ抜く」で不忍池が出ないのは泥の中から死体が出てくるからじゃないかしら、と仰る。不忍池への石段を下りたところ(今は更地)にあった桜木亭の女将とは友人だったらしく、都の依頼で池のレンコンを収穫した業者が、差し上げようとしたが、気持ち悪くて断った、という話も。
不忍通りの向こう、池之端にある忍岡小学校の1年下に小川潔さんがいらしたという。
「確かご兄弟もみんな東大だったんじゃないかしら」
彰義隊の小川何某のご子孫、西郷さんの北、彰義隊墓所の横にあった墓守小屋(平成時代まであった)でお生まれになり、やはり公園で育ち、東大理学部から学芸大教授になられたことは、以前書いた。
「小川さんにお会いしたら○○といえばわかりますよ」とおっしゃったが失念した。
彼女は公園内の上野中学に進まれた。
実は公園内に、国立博物館を挟んで区立中学校が2つもある。上野公園に住んでいる生徒などいないはずだが、安直に学校用地を調達したのだろう。
12:03
上野公園は外国人観光客がよく来る。国や都はさらにその数を増やしたがった。
東京都は噴水を縮小、イベント広場を広げ、樹木を切って、パークサイドカフェ、スターバックスを開業させた。公務員、お役所は開発とイベントが大好き。しかし上野公園は常に人があふれるようになり、すっかり良さが消えてしまった。
一方、弁天島の茶屋3軒(こちらの地主は寛永寺?)、石段下の桜木亭などもなくなり、昔の茶店はここくらいしか残っていない。
スタバなどを入れた東京都は古くて小さな茶店を撤去したかったのではあるまいか。明治時代の公園開設当初は場所代で公園維持費を賄おうと茶店を入れたにもかかわらず、1956年の都市公園法以来、茶店への規制が厳しくなった。新鶯亭でも雨漏りの修繕すらなかなか許可が下りず、水洗便所化も大変だったという。
店が暴力団などにわたるのを防ぐためもあるのだろう、借地権という権利はないらしい。
しかし権利がなければ先祖代々ここに住んでいられる拠り所があいまいになってしまう。また、(権利として)売れなければ他に引っ越すこともできない。
退去圧力に屈せず居住、営業を続けるには、ご先祖様が上野公園の石碑など文化財の設置、維持に尽力あったということを認めてもらうしかないだろう。
相続する親族がいなくなれば都に返還することになるから茶店はなくなる運命にある。
ちなみに新鶯亭の「新」は昔、鶯亭があったから。
鶯亭は鶯谷駅南口に行く途中の右側、今の忍岡中学の敷地にあった料亭。
そこの経営者が上野公園内に囲碁の対局も行われた東華亭や新鶯亭などを開いた。新鶯亭は山下の不忍池のほうにあったらしいが、大正4年には今のところに来て106年になるという。
さてコロナ禍の新鶯亭。
開店休業であっても営業時間が10時から17時までだから時短協力金の6万円はもらえないという。貯金を崩して耐えているのだろう。その話からコロナ、都政、国政と話が広がった。75歳とは思えないほどお元気で、1時間以上も話してくださった。
長い立ち話に腰が痛くなり、まっすぐ家に帰ろうと歩き出した。
しかし東京都美術館のすぐ横を通ったのでちょっと入ってみた。
何年ぶりだろう。
12:14
東京都美術館のレストラン・ミューズ
Museとはギリシア神話で音楽、文芸、学問全般の神とされた9人の姉妹。
同じ館内にあるカフェ・アート、レストラン・サロンは休業中。
3軒とも精養軒の経営のようだ。
Museion(ギ)の英語MuseumはMuseたちの神殿という意味だ。
多くの茶店がなくなり寂しいが、新しい文化施設に入るカフェ、レストランは良い。
新設のために樹木を切るわけでもないし、明るくて広くて若者も喜ぶメニューだろうから、古い茶屋と併存すればよいが、その茶屋は大部分消滅した。
旧奏楽堂前まで来たら林の中に行列。
12:22
生活困窮者?に食料の配布。見ていると箱入りのビスケットや果物(バナナ)、遠足のお菓子みたいな袋の詰め合わせ、もちろん腹の足しになるものや主食、おかずもあるのだろう。
どんなものがもらえるのかな。
ボランチアの人が多く、食料もたっぷりだが、もらっている人は少ない。
段ボールがいくつも空いてつぶれていた。
早く配り終わりたいのか、係の人は集まった人たちに三回目、四回目と何回ももらうように誘導するため、行列が円を描くように案内している。もらう人はすでに満杯のレジ袋を両手に抱え、手が使えないから差し出す袋に係の人がどんどん詰めてあげている。
彼らはホームレスではなく、身なりも私よりいいものを着ていた。
私も並んでもらおうかどうか迷った。
彼らは1週間で食べきれず無駄になるほどの食料をもらっていた。私がもらえばボランチアの人も早く片付いて喜ぶかもしれない。
しかし並ぶことができなかった。
自分が生活困窮者でないから資格がないということもあるが、他者のためにボランチアをしている尊い人の前に立てなかったからである。
12:27
芸大美術学部の正木門が開いていた。
芸大アートプラザというミュージアムショップだが、門にカフェメニューが出ていた。
門内を覗くとキッチンカーと椅子テーブルがある。。
これも上野公園のポスト茶屋時代の休憩所かもしれない。
12:36
久しぶりに通ったら谷中名所ヒマラヤスギが派手に強剪定され小さくなっていた。
40年前、この近く、谷中真島町あかじ坂下に住んでいた。
しかしこの日は荷物が重くて回り道する気にならない。
三崎坂をおり、団子坂を上がって帰宅した。
・・・
昼食後、本棚を探したら出てきた。
小川潔先生・上野しのばず学習会の資料
第16回(2019-05-25)
ずばり、上野公園休憩所(茶屋・貸席等)の変遷
大学の先生だから、新鶯亭の女将の思い出話と違い、資料を確認しながらの講義だった。
その日の受講者は4、5人で、今見てもレベルの高い話だったことが分かるが、わずか2年前の自分のメモを見ても思い出せない。新たな学びはできないほど耄碌したか。
オーナー、店名の変遷
西郷さんの横、グリーンパーク旦妃楼飯店はコロナのせいか昨年3月閉店。
1階のクアトロスタジオーニは存続。
当時私が入ったのはここにない弁天島の勝亭などで、高台上で営業していたはずのこれら茶店は記憶にない。
上野公園を愛し、その隅から隅までご存じの小川先生は、公園を観光客誘致のコンテンツにしようという経済(金儲け)優先の国や都による乱開発を憂慮されていた。以前は市民のための公園であり、金を儲けようという発想はなかったと思う。
そのセミナーは、コロナで昨年春に中断したまま再開されない。
「遺言のつもりで上野公園のことを話しています」とおっしゃっていたが、お元気だろうか。
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