2025年9月23日火曜日

飯山城と彦次郎系本多家、佐藤武造、うなぎ

お盆の8月14日、日帰りで帰省した。

長野から久しぶりに飯山線に乗ったが、最寄り駅の立ヶ花で降りずに飯山まで来た。
飯山城を見たかった。
9:28に北飯山駅に着いた。
上り列車の時刻を見れば、10:03の次は2時間後の12:03だから、お城まで行って30分で戻ってこなくてはならない。駅から5分だからできないことはない。

飯山高校(旧飯山北高)の前の道を52年ぶりにあるいて飯山城についた。
9:35
飯山城は平山城で、城山の北側が飯山高校のグラウンドになっている。
皆が休むお盆というのに野球部が練習していた。
練習を見るのは好きだが、そんな時間はなく、城の坂を上がっていく。

こちらは裏門である。しかし戦国時代は上杉謙信の城だったこともあり、かつては北に大手門があったらしい。
9:36
高校生たちが弓道の練習をしていた。
市営の弓道場のようだが、城址に建てる公共施設としては最も景色になじむ。

こちらも練習を見る時間はなく、左の坂を上がる。
9:37
「なぜ三年坂というか不明」とある。ふつうこういう案内板は名前の由来とか歴史エピソードが書いてあるものだ。「三の丸に上がる急な坂」くらいしか書けないなら、わざわざ案内板を建てることもないかと思うが、昔の城内絵図があったので撮った。野球をしていたグラウンドも城内で下御台所、下御長屋があり濠に囲まれていたことや、北中門から入ったことなどが分かる。
9:37
三年坂
飯山城は石垣が少ない。
9:37
三の丸
誰もいない。
日本の観光地は国を挙げて、インバウンドも期待して金儲けを目標に作っている。しかし、ここは(少なくとも今は)市民の憩いの場として存在する。よそ者はそこを静かに見物させてもらうのが良い。日本中がこのようであってほしい。
9:38
二の丸
ようやく石垣が見えた。
城主の公邸であった二の丸御殿は図面も残っていて204坪あったという。
9:38
桝形石垣・本丸門
本丸への入口は一番いい石を積んだだろう。

石垣というのは安土城以後の城に盛んに取り入れられた。それ以前は濠を掘るとき掻きあげた土をもって土塁にした城が多かった。

石垣は遠く離れた石切り場から大勢の人足を使って巨石を一つ一つ運び、積み上げる。こんな大工事はよほど力のある城主でないとできない。

飯山城は13世紀、鎌倉幕府に仕えた泉小次郎親衡が築城したと伝わる。戦国時代になると南の中野にいた高梨氏が武田信玄に追われて飯山城に入り、上杉謙信に助けを求めた。そして謙信が対武田の前進基地として本格的に築城した。
その後、次世代の上杉景勝と武田勝頼の和睦により武田の城となり改修された。

武田滅亡後、甲州征伐に功あった森長可が信長から北信4郡20万石を与えられて飯山城はその支配下に置かれた。しかしその後、上杉景勝、豊臣秀吉と持ち主が変わり、ようやく1598年関一政が3万石で入封したが、彼も翌年転封する。

関ヶ原後の徳川体制になっても城主は目まぐるしく変わった。
1603年、皆川氏
1610年、堀氏
1616年、佐久間氏
1639年、桜井松平氏
1706年、永井氏
1711年、青山氏
1717年、本多氏
石高も2万石から4万石程度。
これでは大きな普請はできない。
もっとも、すでに飯山盆地の中心に平山城があったのだから、敢えて石垣を築く必要もない。

1717年に2万石で入封した本多氏は初代の助芳以下、すべて助の字をもち、9代目で明治維新を迎えた。

飯山の本多氏は三河以来の譜代の家だが、本多氏というのは西三河の国人領主として松平家に仕え、一族から50家以上と言われる大名、旗本が出た。維新後には旧大名家8家が子爵に、また越前松平、加賀の重臣だった2家が男爵に、つまり10家が華族に列した。

大別すると6つの家系がある。
我々がよく知る、酒井忠次、井伊直政、榊原康政とともに徳川四天王の一人とされた本多忠勝はそのうちの平八郎家、また家康、秀忠の知恵袋と言われた謀臣・本多正信、正純父子は弥八郎家、また「鬼作左」と言われ長篠から妻に日本一短い手紙「一筆啓上、火の用心、おせん泣かすな、馬こやせ」を出した本多重次は作左衛門家という系統である。

飯山の本多家は、彦次郎家(豊後守家)である。
これら諸家は嫡流である平八郎家の忠勝から数えて7代前、4代前に分かれ、それぞれの家系から多数の大名、旗本が出た。

9:39
本丸の中心に葵神社
明治維新で各地の城が廃されたあと、本丸に藩主を祀る神社を作る(あるいは移築する)のが流行した。米沢、新庄、鶴岡などだ。葵神社は明治16年に建てられ本多広孝を祀る。ふつうは藩祖とか中興の祖、あるいは最後の藩主を祀るものだが、飯山は違う。本多広孝というのは、飯山とは関係ないずっと昔、彦次郎系本多家の中興の祖、家康時代に活躍した武将である。家康の父、松平広忠から偏諱を受け、今川支配下の松平家、岡崎帰城後の家康を支えた。

葵神社の葵というのは本多氏の家紋である。徳川のは3枚の葉の先端を合わせて図案化したものだが、本多葵は葉柄までいれて3本並んで立っている。

ちなみに本丸に天守はなく二重櫓を代用とした。三の丸にも二重櫓があった。

城山の東の千曲川と堤防道路を見たくて葵神社の裏にまわった。
9:40
葵神社の裏からの眺め
子どもたちが小さかったころ、帰省すると両親は飯山を通って野沢温泉、北竜湖、西大滝ダムなどに連れて行ってくれた。レジャーシートを敷いてみんなで食べるお弁当は美味しかった。
その道中、何度か車中から飯山城を見た。千曲川の向こうに見たと思っていたのだが、今見れば道路はお城のすぐ下、千曲川の手前だった。飯山中学出身の佐藤武造(1891~1972)が対岸の堤防からお城を眺めて描いた絵と記憶が混同したのかもしれない。

ちなみに、弟は佐藤武造が好きで何枚も持っており、私が千駄木の家を買ったとき、お祝いに佐藤の桃の絵をくれた。佐藤は同じ信州(東御市)出身の丸山晩霞に師事し、丸山は太平洋画会の創立に関わり、千駄木に住んでいた。
9:40
本丸には石碑が何基かあるが、見る暇はない。

9:41
本丸から西曲輪を経て飯山市街を望む

飯山城はだいぶ昔、4月の終わりの夜だったか、桜を見に来たことがある。
また、ゴールデンウィークに帰省したときピクニックで来たこともある。
本丸から西曲輪に降りる途中の帯曲輪のあたりでお弁当を食べた。
もちろん父の運転で来たから両親はいたのだが、80年代だったか90年代だったか、私の子供は誰がいたのか、弟家族もいたのかどうか思い出せない。はっきりしているのは城とか歴史に興味がなかったから全く城内を見物しなかったこと。地元だといつでも来れると思っていたのかもしれない。
9:42
西曲輪に降りると、弓道場のほうまで広い空き地になっている。
9:44
西曲輪
ここには1963年に市民会館が建てられた。老朽化したこともあり、2015年11月末 に閉館、翌2016年1月に新しい施設「飯山市文化交流館・なちゅら」が駅の近くに開館、ここの旧市民会館は取り壊され広場となった。

西曲輪の端に小さな飯山城址公園交流展示館「城terrace」があり、入ってみた。
9:45
誰もいなかった。
無料休憩所になっていてWifiも使える。
9:45
飯山城の鳥観図が壁にかかっていた。
四周の堀はほとんど埋められた。

城テラスをでて坂を西におりた。
内長屋のあった曲輪である。
9:47
左:飯山城の城門(移築)と七賢人の像
右:「長野県スキー発祥の地」

西のふもとに近い西曲輪の下は、かつて市民会館に来る人の駐車場になっていたが、今は城門が復元されている。
飯山城には絵図などから5つの二層門を含め13から15の門があったとされるが、明治維新後破却、売却(移築)された。現在、近隣の寺や民家に残る9つの門が飯山城のものとされる。中野市江部の豪農山田庄左エ門家(山田顕五氏)の裏門などもその一つだ。しかし文献などで確実なのは3つだけらしい。

(写真には左隅に壁だけしか写っていないが)移築したこの門は、1993年に丸山家の旧住居の解体にともなって飯山市が復元したもの。実は丸山家でも改築を行ったこともあり、飯山城内の門か上級家臣の門か確証はなく、城内門である確率が高いとして飯山市が復元移築した。
それに先立つ1992年、弓道場の建設にともなう発掘調査で、南中門の礎石が出た。その規模から間口5間、奥行き2間半の二層構造と推定され、丸山家の門(平屋の長屋門になっていた)の部材を使い、それに合うように作り直された。移築というより建築である。

こうして、わずか13分で飯山城の見物を終えた。
9:48
飯山城址整備計画。
普通の城内案内板がないので全体図を収めて残したく撮影した。
私はよく裏口、裏門から入るので帰るときに全体図・案内板を見ることが多いが、これも復習、余韻になってよい。

改めて謙信公築城450年の整備計画を見れば、樹木の整理、案内サインの整備などで安心した。かつて4万人いた人口も2万人を切る豪雪過疎地帯。市の活性化政策として飯山城を観光資源の核としてイベント広場やレストランを兼ねた観光会館など作ろうと言い出す人もいて不思議はない。しかし特定の人(観光客と観光業者)のための公園整備はしてほしくない。普通の市民の憩いの場であってほしい。
9:51
鉄さびで赤くなった道を北飯山駅に急いだ。
踏切の向こうに見える赤い屋根は本光寺。1582年本能寺の変の後、織田軍が飯山から退去して上杉景勝が家臣の岩井信能に飯山城の守備を命じた。彼は城の修復とともに、真西に城の庇護としてこの寺を建て、その後、代々の飯山藩主の信仰を集めた。

このあたりは飯山市街地の北のはずれである。
飯山には、他にも「阿弥陀堂だより」のロケにも使われた正受庵など、歩ける範囲の市内に20余りの寺がある。町中の仏壇通りなども歩いてみたい気もするが、実現するかどうか。

最後に飯山の記憶をもう一つ。
飯山の本多と言えば、書いてきたように飯山藩の殿様、藩主家だが、今の人はほとんど鰻専門店「本多」を思うだろう。
2019年の年末、珍しく(最初で最後?)息子と二人きりで新幹線に乗り、途中上田城を見物したりして帰省した。夜帰京する前に、母と弟夫婦と5人で「本多」に鰻を食べに来た。
この店は藩主家の一族で家老だった人が明治になって創業した。当時は千曲川で鰻が取れたが、その後のダムや治水で激減、東京から電車で運んだ時代を経て、今は九州産のウナギを使っている。現店主は6代目で、本多5代目の娘さんと結婚した松岡氏である。
2019年末というと母が亡くなる4年前で、脳梗塞を患って動けなくなった母はもうあまり食べられず、残した鰻を孫である息子がきれいに平らげた。

北飯山駅には無事、10:00前に到着、上りの列車に乗った。
わずか30分の飯山滞在だったが、来てよかった。
親がいなくなり中野への帰省もずっと少なくなることを考えれば、今まで何度も来た飯山は、もう来ないだろう。

(終わり)

前のブログ

0 件のコメント:

コメントを投稿