2023年11月22日水曜日

全国藩校サミットに出席した殿様50人、一覧

第20回を数える全国藩校サミット、2023年は第一回以来2度目の文京区。
区の広報紙で知り、無料入場券が当たったので行ってきた。
11月18日、奇しくも水戸弘道館をブログで書いていたところだった。

今までの開催地は
第1回 H14 2002 文京区 幕府・昌平黌
第2回 H15 2003 会津若松
第3回 H16 2004 佐賀・多久 佐賀藩多久邑
第4回 H17 2005 高梁  備中松山藩
第5回 H18 2006 伊那   高遠藩
第6回 H19 2007 鶴岡 庄内藩
第7回 H20 2008 熊本
第8回 H21 2009 長岡
第9回 H22 2010 松江
第10回 H24 2012 水戸
第11回 H25 2013 鹿児島
第12回 H26 2014 行田 忍藩
第13回 H27 2015 福岡
第14回 H28 2016 丸亀
第15回 H29 2017 金沢 加賀藩
第16回 H30 2018 舞鶴 丹後田辺藩
第17回 R1 2019
第18回 R3 2021 栃木・壬生  壬生藩
第19回 R4 2022 福山
第20回 R5 2023 文京区

幕末約270あったという藩。
藩校も250ほどあった。開催できるところだけでも順番にやったら一巡するのに100年、200年かかる。どういう順番、基準で開催するのか分からないが、北から南まで、大藩から小藩まで、バランスよく開催されている。それなのにわずか20回で文京区に戻ってきていいものか、東京という利便性の威力だろうか。
それとも薬理学会などのように、地方ブロックを決め、その持ち回りにしてブロック内で手を挙げた藩がやるのかな?
2023₋11₋18 13:12
富坂下交差点
久しぶりに来たら、区役所の北側、フェンスで覆われ工事中だったビルがすっかり完成していた。都心の風景である。

開演は13:30だからちょうど良い時間だ。
13:14
後楽園ドームに向かい、左は会場の文京シビックホール(区役所)、右は地下鉄後楽園駅。
古い地下鉄は、銀座線渋谷駅も地上3階だが、丸ノ内線後楽園駅も地上2階である。

上の写真(2階の窓)でも見えるシビック小ホールは文京区ダンス連盟のダンスパーティで来たことがあるが、会場の大ホールは入ったことがない。どこだろう?と区役所ビル(文京シビックセンター)に入ったら、すぐ1階にホール入口があった。南北線なら駅直結だ。
13:16
藩校サミットなんて物好きな人はあまりいないと思ったら、びっくり。
同好の士がこれほど多いとは。

今年の3月6日、文京シビックセンター小ホールで「将軍・殿様サミット2023」が開催され、文京区にゆかりのある徳川家広(徳川宗家19代当主)、徳川斉正(水戸家15代当主)、水野勝之(結城藩、20代当主)、阿部正紘(福山藩、17代当主)のトークショー、シンポジウムが開かれた。区民対象に無料であったが、抽選に外れた。
将軍・殿様サミット2023(文京区公式サイトから)

今回はもっと大規模なイベントで、無料席(抽選)のほかに1000円の有料チケット(大会冊子付)があった。この二本立ては良い。1000円で確実に入りたい人と、タダなら外れてもいいという人の両方に対応する。私は抽選に当たった。
13:17
手荷物検査があった。
プログラムを見ると旧藩主家の現当主が何人も集まる。人命は平等と言えど、知名度やかけがえのなさという点では、政府要人より貴重な人々と言える。凶器を持っていないかチェックするのも仕方がないか。
13:27
シビックホール大ホールは1802席(1階1242、2階560席)
1階席の前半分は関係者席だった。
最前3列ほどは、旧藩主家の当主たち。二席並んでいる藩はご夫妻で出席か。
続く数列は藩校関係者。富山藩や白河藩のように一人のところもあれば、壬生藩、佐倉藩(ともに16人)、長岡藩(10)、秋月藩(15)のように10人以上参加の藩校も多かった。栃木の作新学院は黒羽藩の藩校の名前だったことをこの日に知る。
藩校関係者の後ろは、文京区など自治体のひとびとの席。

どんな藩校が来ているのか、メモし始めたが書ききれず。
開演が迫っているので諦めて通路に出たら、指定席の席次表が立ててあった。急いで写して二階の自分の席に戻った。
今、この席次表を見て出席者を活字にしてみる。
(私のメモには久留里藩があるが、この席次表にはない。はて?)

概ね、右前方から左後方にかけて、北の藩から並べ、最前列中央に徳川宗家と御三家を配置してある。藩校サミットと言いながら、やはり旧藩主の序列は無視するわけにいかなかったらしい。

出席藩主 参加藩校
1 亀田 岩城
2 盛岡 南部 作人館
3 天童織田 養正館
4 山形 水野
5 江戸幕府 徳川家広 昌平坂学問所
6 水戸 徳川斉正 弘道館
7 紀州 徳川宜子
8 尾張 明倫堂
9 新庄 戸澤 明倫堂
10 庄内 酒井 致道館
11 米沢 上杉
12 福島 板倉
13 会津 松平
14 白河 立教館
15 湯長谷 内藤 致道館
16 棚倉 阿部
17 黒羽 作新館
18 結城 水野 秉彝館(へいいかん)
19 壬生 鳥居 学習館
20 七日市 前田 成器館
21 松平 進修塾
22 上総一宮 加納 崇文館
23 関宿 久世
24 佐倉 堀田 成徳書院
25 長岡 牧野 崇徳館
26 三根山 牧野
27 松代 真田幸俊
28 富山 前田 廣徳塾
29 加賀 前田
30 小浜 酒井 順造館
31 郡上 青山
32 大垣 敬教堂
33 苗木 遠山
34 彦根 井伊 弘道館
35 田中 本多
36 吉田 大河内
37 岡崎 本多 允文館
38 西大平 大岡
39 丹後田辺 明倫館
40 豊岡 稽古堂
41 峰山 京極 敬業堂
42 田辺 牧野
43 郡山 柳澤 総稽古所
44 赤穂
45 岡山 閑谷学校
46 備中松山 板倉 有終館
47 津山 松平
48 新見 思誠館
49 福山 阿部 誠之館
50 清末 毛利
51 岩国 吉川
52 多度津 京極
53 阿波 長久館
54 福岡 黒田 修猷館
55 豊津 育徳館高校
56 秋月 黒田 稽古館
57 柳河 立花 傳習館
58 佐賀多久 多久 東原庠舎
59 蓮池 鍋島 成章館
60 熊本 細川 時習館
61 高鍋 秋月 明倫堂
62 長崎 長崎聖堂
63 鹿児島 造士館
合計 50 41

63の藩から旧藩主家の現当主が50人、藩校関係者は41校が集まった。
第一回(2002)は16の大名家当主が集まったそうだが、年々増え今回は50家。

午前中は旧藩主会議と、35校参加の藩校会議があったらしい。

プログラムは、幕が開くと江戸消防記念会による2つの大きな纏ふりから始まった。
将軍吉宗、町奉行大岡忠相の時代に始まった江戸町火消しはイロハ48組、小石川のな組と音羽のう組の纏らしい。(文京区地域は他にた、れ、そ、つ、ね組などがあった)。
続いてはしご乗り。
てっぺんの片方の棒に乗り両手を離して遠望のポーズをとる「遠見」、そのあと落下するかのように見せて逆さになる「肝潰し」を3人の演者が披露。正月にニュースで見るものよりも見事だった。
そのあと都の無形文化財という江戸木遣り歌。
110曲ある中でどれかを披露されたのだが、歌詞はよく分からなかった。寺院の朝の勤行ではところどころ聞き取れる部分があるし、「山の神様 お願いだ~」と諏訪御柱「木落とし」で歌われる木遣りでも歌詞が分かるのだが、この江戸木遣りはさっぱり聞き取れなかった。

続いて、
開催地挨拶(文京区長・成澤廣修)
主催者挨拶(大会副会長・徳川斉正、水戸家15代当主)
歓迎挨拶(大会会長・徳川家広、宗家19代当主)
来賓挨拶(都知事・小池百合子)
 (斯文会理事長・宇野茂彦)

斯文会は湯島聖堂の維持管理、孔子祭の挙行、漢文関係の公開講座の開講、学術誌『斯文』の発行などをしている。江戸時代の藩校は主に漢学を学んだところであり、また湯島聖堂が藩校の模範ともなった幕府の昌平坂学問所の場所でもあることから、宇野氏は来賓にふさわしい。彼は祖父も父も漢学・国文学の東大名誉教授であり、彼本人は令和改元のときの最終6案のうち4案の考案者である。

徳川斉正氏は漢字文化振興協会会長で、これまた藩校の主要教科であった漢学に通じる。

小池氏は遅れてきたからプログラムの後のほうで登壇、家広氏と友人のようで「お久しぶりです」と壇上から最前列の徳川宗家当主に呼びかけていた。
第20回全国藩校サミット文京大会プログラム

続いての旧藩主紹介がすごかった。
ステージを準備して、50人が登壇、整列着席するのに時間がかかるため幕がいったんおり、しばらくして幕が開くとそれはそれは豪華絢爛、壮観だった。写真撮影が禁止されていたのが残念。

壇上の右から、北の亀田藩(秋田・由利本荘市、2万石)旧藩主家岩城氏から、南部氏(盛岡)、水野氏(山形)、と続き、左端は細川氏(熊本)、秋月氏(高鍋3万石)まで、50人の現当主が横一列に並んだ。(列は3分の1ずつ、左と右は斜めにして鶴翼のように)。

そして酒井氏(小浜藩主家)と青山氏(郡上藩主家)の間、つまり中央列の真ん中に、徳川宗家と水戸家、紀州家の現当主が座った。

殿様が50人並ぶことなど、秀吉や徳川時代の年賀の挨拶のようで、壮観というのはこういう景色かと思った。
彼らの背中には白い板が立てられ、遠くからも読めるよう大きく藩名とお名前が書かれている。
藩校サミットというが、このイベントは実質的に殿様(旧藩主)サミットといったほうがよい。

司会の女性が、北の亀田藩、旧藩主から紹介していく。
「盛岡藩 藩主家、第46代当主、南部利文さま」などと呼ばれると、殿様たちは立ち上がり少し前に出てお辞儀する。このとき客席は拍手する。私はまわりがするから、最低限、形式的に小さく叩くだけなのだが、すぐ後ろの人がとんでもなく大きな音で拍手していた。耳元で非常にうるさく、この熱血漢はどんな人か振り向いて顔を見たかったが、怖くて向けなかった。

私の席は2階席9列34番すなわち、2階の一番前であったが、殿様たちの顔はよく見えない。隣の方はオペラグラスを取り出された。しかし大きなモニターでも同時に映しているので顔は確認できた。皆さんお上品な顔立ちのご老人だった。
しかし松代藩、藩主家14代当主、真田幸俊氏の顔はきりっとされている。慶応理工学部の現役教授だからか。

紀州徳川家第19代当主は、紅一点、徳川宜子(ことこ、1956年- )。私と同じ年で建築家。子息はいらっしゃらないようなので、後継者探しは難しそうだ。

(今回知ったのだが、徳川家(宗家、慶喜家、御三家、御三卿家、およびそれらの分家)のうち、徳川慶喜家も5代目の現当主は女性、山岸美喜氏。4代目慶朝氏の姪、慶喜の玄孫である。慶喜家には存命中の親族が7人いるが、徳川姓の男子はなく、ここも断絶の危機にある。当主というと華やかな感じだが、彼女に言わせると祭祀の継承者に過ぎないという。彼女は自分の代で墓じまい、家も終わりにするつもりのようだ。谷中の慶喜の墓の維持は相当金がかかるらしい。)

さて、50人の殿様の末裔の紹介は見ごたえがあった。
多くの藩は関ヶ原などで手柄をあげ大名となり藩主となったから13代から16代くらいが多いが、鎌倉時代から続く吉川家(36代)、南部家(46代)などは、当主の存在自体が不思議な感じがした。歴史上の人物が、生身の人間として現れた感じ。
この光景は、テレビでも放映する価値があると思った。

50人の紹介が終わると中央の徳川宗家現当主、家広氏が代表で挨拶。
「よく教科書には、参勤交代は大名を弱らせるためだったと書いてあります。そうではありません。大名は江戸にいたほうが楽しかったでしょう。幕府も、そのつもりなら嫌な大名は関ヶ原の後、さっさと潰しています。だから残った大名、ここにいる人たちはみんな仲がいいんです」と笑いをとっていた。

50人が壇から下りて、続いては、藩校サミットの名に恥じない「藩校活動発表」。
漢字文化振興協会の堀江氏が
1.幕府、昌平黌:幕臣の子弟だけでなく各藩士の子弟も学び、高杉晋作、佐久間象山も在籍したらしい。
2.庄内藩、致道館:現存する数少ない藩校で、鶴岡市が所有。
3.七日市藩、成器館:黒門などが富岡高校の敷地に残る。
この3つの例を挙げ、話された。財政難、藩校維持者の高齢化を述べられたが、スライドがなく、ずっと話に集中するのは難しかった。

次は子ども論語塾。
安岡正篤の孫、正岡定子氏が湯島聖堂、伝通院などで論語の素読の塾を開いている。
素読は幼少のころから意味が分からなくとも四書五経などを先生の後にしたがって音読すること。
声を出すことの重要性は近年注目されているが、先生が次に何を言うか、聴く力を養うにもいいという。
論語の素読は、藩校で盛んに行われていたことからプログラムに入ったのであろう。
定子氏が、小学校低学年から高校生?までの塾生、二、三十人を引き連れ登壇、論語の一節の素読を披露した。
我々が高校のとき習った「子曰く」は「いわく」でなく、敬語の「のたまわく」と読まれていた。
16:12
子どもたちの論語素読のあとは休憩に入った。

私は終盤の「文京区ゆかりの旧藩主トークセッション」を聴きたかった。
登場するゆかりの殿様とは誰だろう?

文京区は水戸、加賀、大聖寺、喜連川、青山(郡上八幡)など大名の住んでいた上屋敷が多くあり、また明治後は江戸城近くに上屋敷を持っていた大名も政府に屋敷を接収された後、多くが文京区に邸宅を建てた。中には自藩の中屋敷、下屋敷跡に屋敷を構えたものもいる。千駄木だけでも、太田氏、大給氏、藤堂氏、松平氏(津山藩)がいるし、弥生町に広大な敷地をもった芸州浅野氏、西片の阿部氏、本駒込の土井氏、白山の酒井氏、西のほうへ行けば徳川慶喜家、会津松平家、伊達、細川氏などが住んでいた。
登壇人物だけでも知りたかったが、休憩時間が長く、つぎの記念講演「渋沢栄一の論語:受けた教育とその近代への影響」を集中して聴く自信がなかったので、ここで退出した。

・・・・
江戸時代ならともかく、藩校がなくなった今になって藩校サミットを開く意義が分からない。しかし、殿様50人を拝見できたことは良かった。テレビ中継、少なくとも夜のニュースになってもいいイベントだった。と、ダンスの練習に向かいながら思った。


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