2025年10月28日火曜日

平塚の海軍火薬廠、園芸試験場の跡、中原街道の終点

10月20日、藤沢に40分ほど立ち寄った後、辻堂、茅ケ崎を通過して平塚に来た。

11:49 駅前地図

駅前でレンタサイクルを借り、初めての町を自転車で走った。
平塚に来た目的だった平塚の塚、要法寺を後にして、二番目の目的地に向かう。
要法寺北方の国道1号線に出た。中央分離帯もある広い道だが思ったより車は少ない。

この平塚の道路の広さについては、前のブログで、軍事施設を狙った平塚大空襲で全市が焦土となったことが関係することを書いた。平塚は市街地の近くに海軍火薬廠や陸軍四式戦闘機「疾風」を作っていた日本国際航空工業(中島飛行機製作所の系列工場、のちの日産車体)、横須賀海軍工廠造機部などがあった。

広い歩道を東に向かうと左手に崇善小学校がある。ここも広い。戦前は軍の施設だったのだろうか。
小学校の角を北に曲がる。
右手に緑地が見えた。
12:28
左:平塚郵便局、右:八幡山公園
八幡山公園には家康も参拝したという平塚八幡宮のほか、海軍火薬廠時代の洋館(旧横浜ゴム記念館を移設)、平和慰霊塔などもあるらしいが、立ち寄らなかった。

平塚駅からきた人と思われる平塚ベルマーレのユニフォームを着た応援団の人がいっぱい北に向かって歩いていた。これから試合があるのだろう。(2000年からチーム名を「ベルマーレ平塚」から「湘南ベルマーレ」に改称。ホームタウンを平塚1市から神奈川県7市3町へ変更・広域化した)

この交差点から北は、東も西も工場や学校、市役所、博物館などである。
左に公園があり、目的地の平塚市総合公園かと思ったら浅間緑地。スマホで地図を見たらまだ先(北方)のほうに比べ物にならないくらい広大な緑地があった。
左手、海軍火薬廠跡地に建つ広い横浜ゴムの工場をすぎると、ようやく総合公園に到着。
12:36
総合公園(右)前の松並木
これは戦前のものか、しかし空襲があったからな。
12:38
平塚市総合公園
とにかく広い。ほんの入り口だけしか行かなかった。
幸い、そこに平塚に来た目的の記念碑があった。
農林省園芸試験場は、農事試験場園芸部として明治33年静岡県興津町(静岡市清水区)に開かれた。大正時代に園芸試験場として独立、
戦後は園芸産業振興の必要性から昭和22年海軍火薬廠のあったこの地に移転した。1977年つくば市に移転するまで、職員二百余名が、野菜・花きと果樹の研究に従事、780名の研修生を送り出したという。

ところで1年前にネットでネクタリンの苗を買った。品種はヒラツカレッドという。
2025₋10₋23
千駄木菜園のヒラツカレッド
ハダニにやられ葉が白っぽい。

この品種は1961年、平塚で「興津」と「NJN17」を交配し、1964年初結実、66年一次選抜、71年から「モモ平塚68号」として各地で試験され、1981年にヒラツカレッドとして登録、公表された。

このネクタリンが生まれた場所を見るのが今回の平塚訪問2番目の目的だった。

しかし、園芸試験場が移転して50年近く。海軍の施設などを試験場が転用し、さらにその一部が公園事務所や売店にでもなっていれば最高だったが、親子連れやサッカーファンが歩いている公園にそんなものはなさそうだった。

総合公園を出ると、向かいの道路を挟んだ東側は、広大な空き地になっていた。
まさか海軍の敷地がそのままになっているわけじゃないだろうな。
12:43
総合公園の東の道路(県道606号)
調べたら、もとは海軍の敷地で、戦後1946年に第一製薬が工場をたてたようだ。2007年に第一製薬が三共と合併した後は第一三共ケミカルファーマの平塚工場として2017年まで操業、その年に閉鎖されたようだ。8年もたつのに更地のままである。
地図を見れば総合公園の北方、平塚市新町、四ノ宮にも第一三共ファーマの工場がある。

自転車で総合公園に沿って北にいくと、また門があった。
12:44
野球場入り口
ナイター設備もあるようだ。
その西には湘南ベルマーレの本拠地、レモンガススタジアムがあった。
このように、海軍火薬廠、のち園芸試験場は非常に広かった。

さて、ネクタリン平塚レッドのふるさとのほか、平塚ではもう一つ見たいものがあった。
中原街道の語源となった中原御殿の跡地である。
中原街道は大山街道(現・玉川通り、国道246)と東海道のあいだにある。桜田通りから五反田をへて、都道2号で昭和大学病院、洗足池を通り、丸子橋で多摩川をわたり、県道2号となり武蔵小杉を過ぎ、日吉、綱島など東横線の東側を南下していく。いまもかなり重要な幹線道路であり、車で綱島の叔母のところに行くとき何回か通った。
この街道は中世以前からあり、鎌倉時代に本格的に整備され、日蓮も利用した。
1590年、家康が関東に入るときも五街道整備前であるから、この道を通ったとされる。

東海道が整備された江戸時代は東海道の脇街道となり、途中の小杉、下川井、中原に御殿が作られ、家康の駿府往還や鷹狩などにも利用された。その中原が平塚にあり、平塚で東海道に合流した。
12:54
中原御殿跡地
現在は平塚市立中原小学校になっている。
住所は平塚市御殿二丁目である。
約7000坪、周囲には幅10メートルの堀がめぐらされていた。
造営から60余年後の1657年、明暦の大火のあと、解体された。

いっぽう、付随して御殿の周囲に作られた127ヘクタールにも及ぶ中原御林は、その後も厳重に保護され、その木材は江戸城修復や、東海道線平塚駅の駅舎建造などに使われた。御林は全部で16か所あり、今の平塚市総合公園もそっくり入る。明治になって官有地となり、海軍火薬廠などになった。

(ちなみに北区滝野川にあった海軍下瀬火薬製造所は明治33年に開庁したが、明治38年設立の日本火薬製造株式会社平塚工場が大正8年に海軍火薬廠になると、その製造部第5工場となり、製造部から爆薬部門が独立、昭和4年(1929)に爆薬部が舞鶴に移転すると、滝野川も閉鎖、移転した)

雨が降りそうな天気の中、平塚サイクリングはやめ、駅に向かった
途中、どこかで聞いたことがある平塚江南高校があったが寄らず。
大学2年のときの学園祭で古典ギター部が教室を会場として演奏会をした。そのとき他大学から来ている女子部員の友人が聴きに来て、その子が平塚江南だったか平塚在住だったか。女子部員に彼女の名前も電話番号も聞いたが、連絡しなかったのか連絡しても断られたのか記憶にない。
13:10
自転車を無事返却。
来るときは中央改札、北口からぐるっと回ってきたが、駐輪場から見ればすぐそばに駅の西口があった。
13:12
平塚駅西口改札は駅ビルなどの商業施設もなく、あまり人がいない。

ホームは島型2面4本あることから、終点、始発の駅になれる。
駅メロは「たなばたさま」。
1941年発表の文部省唱歌である。この年、太平洋戦争が始まり、4年後に平塚は焦土となった。その復興過程で始まった七夕祭りからJRが採用したメロディだが、もちろん関係ない。
 
約1時間半の忙しい平塚見物だった。

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