2024年5月11日土曜日

神山町の麻生太郎、永井道雄邸、春の小川

連休終盤の子供の日、暇なので千駄木から千代田線に乗って代々木公園駅にきた。

代々木公園に来る人はほとんどJR原宿駅か、千代田線の一つ隣の明治神宮前駅で降りるから、この駅はあまり公園に関係ない。私も公園でなく、48年ぶりに駅周辺を見たかったのである。

初めての代々木八幡宮を見てから山手通りを南に東大駒場キャンパスまで歩いた。帰りは渋谷、新宿、池袋を通る山手線に乗りたくなかったので、また千代田線で帰ろうと裏門から出た。

裏門から出ても何もないが、学生時代、寮から代々木公園に行くときはここから出て住宅街を突っ切るのが近道だった。もっぱら公園ではなく、体育館へ夏はプール、冬はスケートに行ったのである。プールは400円くらいだった。

48年ぶりにその住宅街を歩いてみる。
一帯は松濤と神山町の高級住宅街である。
2024₋05₋05 16:07 
松村幼稚園
寮の先輩だった鈴木さん、市川さんと同じクラスの理IIIの稲田さんが我々の部屋によく遊びに来た。たしか、この幼稚園で用務員のアルバイトをされ、庭に穴を掘った話をされた。稲田さんは親子三代東大医学部で、彼が市川さんに持ってきた井上靖、石川達三などの文庫本を私が引き取った。
16:09
左:渋谷区神山町 右:同松濤
ちょうどこのあたり、左(西)側にポリスボックスがあり、永井文部大臣の家が警護されていた。
何回も通ったからここに間違いないと思うのだが、永井邸が見つからない。
あれ、記憶違いかな、と一帯をうろうろした。

山手通り側の一本隣の道に行くと立派な家の前に警備の警官が立っていた。
「ここはなんですか?」と恐る恐る聞くと
「一般の家です」という。
一般人が警護されるわけはないだろう、と警官の後ろを見ると「麻生太郎」とフルネームの表札が見えた。
写真を撮りたいと思ったが、こちらをにらんでいる警官を写すことになってしまうし、何か言われそう。

「一般の家」が並ぶ道路の景色だから撮ってもいいと思うが、表情の険しい彼だけでなく麻生氏の怖い顔も思い浮かび、その場を離れた。
隣が駐車場になっていて、奥のほうにお屋敷が見えた。
16:14 麻生太郎邸 遠景。
道路から建物までのアプローチの長さが分かる。
駐車場も麻生家の土地だろうか?

麻生家はいつからここにいるのだろう?
帰宅して調べてみた。
明治42年の地図を見れば、この一帯は佐賀藩11代当主、鍋島直大が開いた鍋島農場だったところ。
震災後に宅地開発されてから忠犬ハチ公で知られる上野英三郎帝大教授や牧野伸顕が居を構えた。牧野伸顕は大久保利通の二男。大久保の義理の従兄弟の牧野喜平次の養子となり牧野姓となった。文部、農商務、外務大臣、宮内大臣、内大臣を歴任した。

これでつながった。
すなわち牧野の娘婿が吉田茂である。
吉田は関東大震災翌年から義父の牧野邸隣にすみ、1939年、前年に三女・和子の婿となった麻生太賀吉の屋敷(永田町)と神山町の自邸を交換した。
麻生セメント会長の麻生太賀吉と和子の長男が麻生太郎、長女は相馬藩主家33代に嫁ぎ、三女は三笠宮寬仁親王妃となった。
こうして麻生太郎は神山町に住むのだが、表札は麻生太郎のほかに2つくらいあった。
グーグル2022年8月
いまストリートビューを見るのだが表札は小さくて読めない。

麻生邸の前から代々木公園への道に戻り、同じ道を再び歩いていくと今度は「永井」という表札が見つかった。当時は道路より高いところに家があったから雰囲気がだいぶ違って見落としていたのである。
16:21 永井邸
ちょうど5,60代?の上品そうなご夫婦が玄関から出てこられ、車で出かけられるようだった。目があったので挨拶すると、不思議そうな顔をされたので、
「怪しいものじゃありません。文部大臣をされた永井様のお宅ですよね」
「あ、はい」
とますます怪訝な顔をされる。
「昔、50年近く前、学生の頃、よくこの道を通って代々木体育館まで行ったものですから。つい懐かしくて。
ポリスボックスが前に置かれ、確か、敷地は道路よりもっと高かったような」
「はい、駐車場を作るため削ったんです。前はあの高さまで地面でした」
と家の土台のほうを指し示された。
奥様もすっかり表情が和らぎ、好意的な目を向けてくださった。

麻生邸同様、こちらも道路に面して永井の他に2つ、全部で3枚の表札があった。
永井邸が分かったので満足し、出かけるときに足止めさせたことを詫び、その場を去った。

永井道雄(1923 - 2000、77才)は京大助教授などを経て 63年東工大教授、70年朝日新聞論説委員。哲学出身の教育社会学者として論壇で活発に発言し、74年、三木内閣で文部大臣に就任。民間人の閣僚起用は58年以来17年ぶりで、76年12月の三木退陣まで文相を務めた。私が山手通りの向こうに住んでいたのは75年4月から77年3月までだからポリスボックスの記憶と時期は合う。

緩やかな坂を下りていくと井の頭通りに出る。
渋谷宇田川町から続く谷になっている。
16:29
井の頭通りから見上げるとNHKがみえた。
このあたりは何度も通っているはずだが景色が変わったのか全く記憶がない。
16:30
「NHKセンター下」交差点のそばに古いアパートなどの一角があった。
48年前から残る数少ない建物だろうが、当時はありふれた景色だったから気にも留めなかったのだろう。こちらも全く記憶がない。

千代田線の駅まで行くのに井の頭通りを歩いてもつまらないので、南に並行する、いかにも暗渠という道に入った。
16:30
宇田川の跡だろう。
新宿御苑から原宿をながれてくる隠田川と渋谷駅あたりで合流し、渋谷川となる。

宇田川は代々木八幡宮の南あたりで何本か合流したもので、支流の一つ、代々木八幡と代々木公園の間の谷を南流する小さな川を河骨川といった。
河骨(こうほね)とはスイレン科コウホネ属の水草である。

河骨川という1964年に暗渠化され、東京の人も知らない小さな川を長野にいるときから知っていたのは、唱歌「春の小川」の舞台の川という新聞の記事を読んだからである。変わった河川名であることと、春の小川の作詞者・高野辰之(1876- 1947)が信州中野(旧豊田村)出身だったことで記憶に残った。
高野は代々木に住み、「は~るの小川はさらさらゆくよ、岸のスミレやレンゲの花に」と娘を河骨川に遊ばせていたという。
明治42年
高野と作曲家の岡野貞一のコンビは、日本人が今も好む文部省唱歌をいくつも作った。すなわち
『尋常小學唱歌 』の
第一学年用「日の丸の旗」(白地に赤く 日の丸染めて)
第二学年用「紅葉」(秋の夕日に照る山、もみじ
第三学年用「春が来た」(春が来た春が来た、どこに来た~
第四学年用「春の小川」
第六学年用「朧月夜」(菜の花畑に入日薄れ、見渡す山の端 霞深し
第六学年用「故郷」(兎追いし彼の山 小鮒釣りし彼の川~
である。

暗渠は、西へ折れた井の頭通りとぶつかる。
交差点から代々木公園がみえた。
16:42
井の頭通りは原宿駅方面から来る道路とぶつかると西に曲がる。
48年前、代々木公園の、この斜面に座って道路を見ながら話をしていたことがあった。
今そんな人はいない。

暗渠をもう少し上流にいくと「春の小川」の歌碑があったらしいが、この交差点に地下鉄の入り口があり、早く帰りたくてするすると階段を下りてしまった。



千駄木菜園・お出かけ 目次へ  (ご近所から遠くまで


0 件のコメント:

コメントを投稿