2026年5月20日水曜日

岡山城の縄張りと後楽園、岡山朝日高校、池田氏

4月22日、早朝岡山について美作など山間部や瀬戸内方面を除いて、中央部を回って夕方、17:35 岡山駅に戻ってきた。

岡山は思ったよりおしゃれな都会で、そのことは前のブログで書いた。

そこに書かなかったこと、すなわちタイトルのことなどを書く。

17:41
上が南。左が東。
一番見たいのは日本百名城の一つ岡山城だった。

桃太郎通りという駅前の広い通りをまっすぐ東に向かった。
途中、朝からの強行軍が祟ったのだろう、なんと脚(太もも)がつったが、何とか収まったので再び歩き始めた。

桃太郎通りは城下筋(しろしたすじ)までで、そこから烏城道(うじょうみち)をいくと石山公園という小さな公園があり昔の地図があった。
17:58
地名由来碑案内図
岡山城の縄張りがわかって見入った。
この碑がある石山公園一帯は西之丸の北の堀だったようだ。石山自体は西之丸になり、その南に家老屋敷などがあった広い二之丸があり、本丸と合わせてこの3曲輪が内堀に包まれた内城だった。
これらの西に三之曲輪(町人地)、中堀、三之外曲輪(武家地)、二十日掘(外堀)があり、その外に寺社、武家地、町人地があったようだ。
すなわち本丸を一番奥にして西に広がる梯郭式である。

西国街道が書いてあった。
京都羅城門(東寺口)から長崎まで五街道に次ぐ街道として幕府が整備した街道である。東からきて備前一宮に行くには城の北を通ったほうが近いが、わざわざ南を通して城下町を通過させた。すなわち、岡山城の南をきて、旭川をわたり、二の丸の南にあった大手門の前を通り、北に曲がり三之曲輪を北上した。(これが三之曲輪が町人地である理由だろう)
西国街道は今の桃太郎通りのあたりを西に曲がって二十日掘を越えて再び北上、西に曲がり、いまの岡山駅の北を通って、備中一宮、備中国分寺のほうに向かった。

石山公園を抜けると旭川に出て東に岡山城が見えた。
17:59
左:後楽園 右:岡山城天守

旭川は吉井川、高梁川と並び岡山三大河川の一つで、河口付近は高低差がないためデルタ地帯を形成した。そのなかの一つの中州に築かれたのが岡山城である。
ちなみに今の後楽園は中州ではなく、堀の役目をさせるために旭川を引き込んだ結果らしい。
岡山城周辺の地形
大島原と呼ばれた中州には西北から天神山、石山、岡山と小さな丘がつながっていて、これらは南北朝時代から要害として使用されていたという。
戦国時代になって宇喜多直家(1529-1581)が1570年この地にいた金光宗高を謀殺し、中央の石山にあった石山城に入城・改築した。後に子の宇喜多秀家(1572‐1655)が東の岡山に新たに本丸を設け、石山城を取り込む形で城郭が作られた。
(天神山は、のち鴨方支藩屋敷や社倉米の蔵がつくられ、現在は美術館などが並ぶカルチャー地区になっている)

岡山城には東に回りこんで裏から本丸に入る形になった。
18:02
岡山城天守と廊下門
さて、宇喜多直家は浦上宗景の家臣であったが、最初は信長、のち毛利と組んで浦上宗景を駆逐した。
1575年さらに、備中松山城のところで書いたが、毛利の力を借りて三村元親を滅ぼし、備前のほか、備中美作の一部まで手に入れた。

羽柴秀吉の中国侵入には当初は毛利方として対抗した。しかし、
1579年、毛利を離れ信長・秀吉方についた。毛利-織田の対立のさなか、直家は死去し、子の秀家が幼くして跡を継ぎ叔父・忠家らが後見した。

1582年、羽柴・宇喜多軍による高松城水攻めのあと、中国大返しの秀吉が岡山城に立ち寄り、養女・豪姫(前田利家の娘)と秀家の婚約が成立した。
宇喜多秀家(八郎)は元服すると秀の字をもらって、豊臣家の一門として遇され、57万石、五大老の一人となった。

関ケ原の合戦では西軍主力として健闘したが、ねねの甥で同じく秀吉一門として遇されてきた小早川秀秋の裏切りで総崩れとなった。その後、敗軍の将として薩摩でかくまわれた後、徳川方に引き渡され、命は助けられたが八丈島に流され、そこで関ケ原の武将の中ではもっとも長命した。
18:03
左:廊下門の一部、右:月見櫓

宇喜多家が改易された後、岡山城には備前・美作52万石で小早川秀秋が入城した。
しかし2年後の1602年、秀秋は急死し、跡継ぎのいなかった小早川家は断絶した。

かわって岡山城は、姫路52万石(徳川政権で8番目)の池田輝政の次男(実際は五男)忠継に備前28万石の居城として与えられた。しかし忠継は5歳であったため、長兄の利隆(輝政嫡男)が岡山城に入り代わって統治した。利隆は石山城を西之丸として整備したと言われている。
(ちなみに池田輝政は秀吉政権の外様大名であったが、五男・忠継の備前岡山藩28万石、六男・忠雄の淡路洲本藩6万石、弟・長吉の因幡鳥取藩6万石を合せ、一族で計92万石(一説に検地して100万石)もの大領を有した。家康の娘(督姫)婿でもあり、家格は大いにあがり、明治維新に至るまで池田家が繁栄する基盤を築いた。)

池田忠継は16歳になって姫路から岡山城にお国入りしたが、翌年急死し、元和元年(1615年)、忠継の弟・忠雄(輝政の六男)が淡路より31万5千石で入封した。その忠雄も31歳で亡くなった。長男の光仲が継いだが、幼少だったため山陽道の要衝岡山は荷が重いと因幡鳥取藩に移封され、代わりに鳥取から池田光政が入った。光政は利隆長男、すなわち輝政の嫡孫であり姫路42万石を継いだが、彼もまた幼少であったため姫路は荷が重いと鳥取32万石に減転封されていた。すなわち輝政を祖父とするいとこ同士の交換であった。
以後、光政すなわち輝政の直系が明治まで岡山城の主となった。
岡山城本丸
廊下門から中に入った。
本丸は岡山の上に作られたから本段、中の段、下の段の3段になっている。
下の段から中の段に入ったわけだ。

本丸は明治23年(1890)、旧藩主池田章政に払い下げられたたが、池田家は岡山県に提供し、明治29年(1896)には本丸趾に県立岡山尋常中学校が建てられた。のちの岡山朝日高校である。空襲で焼失したが、戦後も本丸中の段、下の段に校舎が再建され、六高跡地に移転するまでここにあった。

ちなみに、本校は1921年第二岡山中学ができて第一岡山中学となった。戦後1948年岡山一高となり、岡山第二女子高等学校と合併して岡山朝日高校となった。そして第二岡山中学は第一女子高(もと岡山高女)とたすき掛けのように合併して操山となった。すぐの1950年朝日・操山は総合選抜となり(このあたり教育県・岡山らしい)、この年から朝日は城内から六高跡地に移転を開始した。校地は市電で旭川を東にわたった終点にある。
18:05
不明門
廊下門から中の段(ここ)を歩いてきて、不明門から天守のある本段に上がる。

本丸だけでこれだけ広いのだから天下の名城、日本百名城の一つというのもうなづける。
18:06
本丸、本段の天守
おしゃれに並べられた提灯には池田家の家紋、蝶が描かれている。アゲハ蝶だが、蝶紋は横から見たものも多く、鎧風の、標本のように羽を広げて伏せた形は池田家の家紋として備前蝶と呼ばれる。
18:07
戦前の国宝だった岡山城天守は空襲で焼失。
戦後1966年、鉄筋コンクリート造で外観復元した。
中は博物館のようである。

もう夕方だから人もほとんどいない。
18:09
岡山城天守閣礎石
再建は元の場所に鉄筋コンクリートだったから礎石が余った。
この場所に移し、元の寸法で並べた。
外国人夫婦がみていた。説明板をスマホで通過させて翻訳されたものを読んでいた。
今まで説明板に日本語、英語ときに中国語と同じ内容を3回も書いてスペースの関係で情報量がわずかしかないことがよくあった。今後はそんなこともなくなるだろう。

不明門から本段を出て中の段に戻った。
18:11
左:不明門 右:本丸下の段
下の段の右側に本丸南の堀がある。

18:12
中の段から西側の内堀をみる。
来るとき通ったカラフルな岡山シンフォニーホールの丸ビルが見えた。
18:14
中の段、初期の石垣
岡山城は宇喜多秀家の時代から何度も拡張、修築されてきた。
中の段は岡山一高のあった場所だが、移転後とくに90年代になってから発掘が行われ、初期の石垣が出てきた。

アジア系外国人のグループとすれ違うように本丸を出た。
旭川を渡って後楽園に行く。
18:17 月見橋
本丸は東の端にあったからこれを防備するため、旭川の水を引き込んで内堀とした。
本流との間に中州ができ後楽園となったが、非常時は城郭の一部となるのだろう。

旭川を大きく湾曲させたため、城下がしばしば水につかったらしい。江戸時代初期に鳥取から来た池田光政の命により東に百間川という放水路を作った。幅百間とは180メートルである。
18:21
川に沿って遊歩道は、後楽園が閉まっていても歩ける。

水戸偕楽園、金沢兼六園と共に日本三名園の一つとされる。
名前は小石川後楽園のほうが早い。今なら同じ名前はつけないが、当時は儒教とくに朱子学が教養として盛んで、後楽、偕楽などは君主の徳を示す言葉として共有文化だったから重複しても付けた。
小石川後楽園は光圀の時代、1629年に着工され、岡山後楽園は池田綱政が1700年に築いた。小石川とか岡山が付いたのは明治以降、双方を区別するためだった。水戸偕楽園は江戸末期斉昭の時代1842年である。

(ちなみに兼六園は6つの景観を兼ね備えているという意味で、駒込の六義園はたしか詩歌の6つの基本形?から来たと思った。)
18:25
岡山後楽園入口
外国人夫婦は本丸天守閣前からずっと一緒。
私と同じペースで歩いている。

後楽園の入場券売り場に向かい合っている県立博物館の北に橋があった。
18:28
鶴見橋(後楽園通り)
これを渡って市街地に戻った。

後楽園通りから城下筋に入って南下する。
右手に岡山県立美術館、RSK山陽放送、岡山市立オリエント美術館が並んでいた。
道に傾斜があり、天神山の出城があったことが分かる。

岡山城の巨大さは姫路城とともに島津、毛利などの西国大名の東進に備えたものだろう。姫路は三河以来の譜代大名を置き、岡山は外様と言えど家康の二女の婿で秀吉死後一貫して徳川についていた池田家に任せた。日本海側の分家の因州池田家とともに西国の抑えを期待された。

岡山、鳥取ともに池田家は国持大名として明治には侯爵に列せられた。岡山の支藩として生坂藩、鴨方藩、福本藩があり、鳥取藩の支藩には鹿奴藩、若桜藩がある。

今に続く話としては、岡山市の池田動物園。
最後の岡山藩主・池田章政のひ孫・池田隆政と昭和天皇の第四皇女・厚子さまが昭和27年(1952)、10月に結婚し、翌年2月、夫妻により池田動物園が開園した。(北海道の池田牧場は関係ない)
鳥取藩池田氏については、東京国立博物館の屋敷門しか思いつかない。

岡山県だけでブログ10本になった。
滞在は一日だけだったが密度は予想以上に濃く、岡山はだいぶ身近になった。


これまでの岡山ブログ

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