2026年10月29日木曜日

甲府城の縄張りと曲輪名。その巨大さに潜む山梨県の特質

10月17日、土曜、甲府に来た。

家族と松本に旅行するにあたり、甲府城を見ようと一人先発して途中下車した。

朝一番の中央本線だったが各駅停車だったため、あとから家族の乗るあずさが来るまであまり時間がない。

7:43
甲府駅周辺
左が南、右が北。
駅のすぐ南に甲府城がある。

この城は不当なほど知名度が低い。世界遺産の姫路を別格としても、例えば国宝になっている松本や彦根、犬山、松江、全国的大都市のシンボルとなっている大阪、名古屋、金沢、広島、桜の名所の弘前、高遠、小田原、歴史に出てくる安土、熊本、会津若松、岐阜などと比べ、(山梨県民以外には)あまりに地味だ。
そこにいってみる。
7:50
左:甲府駅、右:甲府城
車窓から見える石垣はこれである。
7:50
平山城である。登っていく。
このあたりは甲斐国山梨郡板垣郷にあたり、平安時代後期には甲斐源氏の一族である甲斐一条氏が領し、一条忠頼(武田信義の嫡男)の居館があり、この山は一条小山と呼ばれた。
そこから甲府城は舞鶴城、一条小山城とも呼ばれる。

ちなみに、板垣郷というと武田信玄の四天王の一人、板垣信方を思い出す。
百円札になった土佐の板垣退助はその子孫といわれる。
7:51
いま舞鶴城公園として残っているのは本丸と二の丸などの一部。
両者は堀で分かれているわけではない。
7:51
左側:稲荷曲輪
2004年に復元された稲荷櫓が見えたが、時間もないのでそちらに行かず、右の坂を上がっていく。
7:53
北の門から上がってきて曲がったところに高い石垣が見えるのは、丸亀城を思い出させる。
かなり立派だ。
7:54
電波塔の左にうっすらと富士が見えた。
400年前、この城の住人達も見ていたものだ。
7:55
天守曲輪から見上げる石垣

これほど立派な城で日本百名城にも選ばれている甲府城が有名でないのは、戦国、江戸時代の物語に登場していないため、ドラマ、小説の舞台にならなかったからである。合戦にも出てこないし江戸期に有名な武将が藩主となっていたわけではない。

すなわち、1582年3月の武田滅亡に続く6月の本能寺の変のあと、武田領は空白地帯となり、天正壬午の乱が勃発、甲斐は徳川氏と後北条氏が争い、家康が押さえた。家康が東海甲信から関東に移された後、秀吉系の加藤光泰、続いて浅野長政、幸長親子によってここに築城された。関東に接することから家康の抑えの城という意味があった。

関ケ原のあと、浅野氏が紀伊和歌山に転封。家康の支配となる(城代平岩親吉)。
今度は逆に関東を守る城となった。
その後は1704年から24年まで綱吉の側用人であった柳沢吉保とその子の吉里が甲府藩主となっただけで残りの時代は徳川一門もしくは幕府直轄の城となった。
7:56
鉄(くろがね)門
この上が本丸である。
入るとオベリスクのようなお城に似合わない塔があった。
7:56
謝恩碑
元帥公爵山県有朋 とある。
西面に由来が書いてあり、その口語訳が上がる前の東面にある。
明治44年、度重なる水害に苦しんでいた山梨県民のために天皇が御料林を下賜したことに感謝して建てたという。
その結果山梨の県有林は広い。絶対面積では北海道や東北、信越の広大県には劣るが、比率は県全土の35%にのぼり、全国的に見て圧倒的に高い。

謝恩碑が立つ地面はお城で一番高い。
7:57
西方
南アルプスの山は分からないから見てもつまらない。
7:58
富士が見える南東方向
7:59
本丸の東に天守台があった。

幕末、鳥羽伏見で敗れた新選組の近藤勇が江戸に帰ってきて、勝海舟から軍資金をもらい、甲陽鎮撫隊を結成、100~200人で甲府城を目指した。しかし故郷に錦を飾るように甲州街道日野宿などで宴会を重ね進軍は遅れた。そして早くに甲府城を抑えた板垣退助らの西軍により、近藤らは甲府盆地を見下ろせる勝沼で敗れた。
慶喜が恭順、勝海舟も西軍との和解を目指していた幕府崩壊の時期、近藤に甲斐一国100万石を自由にしてよい、といったのは天正壬午の乱と同じく甲斐が幕府直轄地で空白地帯となったことによる。
8:01
黒門からおりる。
黒門の外側すなわち本丸の下は、内堀の内側だが、本丸ではなく、また名前が天守曲輪というのがややこしい。

他の平城は堀などで区切られた曲輪を本丸、二の丸、三の丸などという。
しかし平山城の甲府城は高知、姫路、延岡などと同じように一つの山、すなわち堀の内側すなわち内城部分を石垣と門で区切り、できた平坦地(曲輪)に、それぞれ名前がついていて、それぞれは堀で分かれていない。
その各曲輪の範囲がネットではなかなかはっきりしなかったのだが、山梨県が策定した222ページにわたる「史跡甲府城跡整備基本計画」(2022)にあった。
https://www.pref.yamanashi.jp/documents/103741/shisekikofujo_seibikeikaku2.pdf

一番上:本丸
その下:天守曲輪、人質曲輪、帯曲輪
その下:二の丸(北側を山の井曲輪、南側を台所曲輪ともいう)、鍛冶曲輪、数寄屋曲輪、稲荷曲輪
その下:清水曲輪(甲府駅、その北口)、屋形曲輪(ヨドバシカメラなど)、楽屋曲輪(県庁)
つまり、本丸、二の丸は、空間的(面積、位置)意味では他の曲輪と対等である。

内城だけでこれだけの巨城はあまりない。
さすが、徳川直轄の城である。
グーグル鳥観図

8:03
本丸から天守曲輪を経て鍛冶曲輪に降りて振り返る。
左は恩賜林記念館
8:06
鍛冶曲輪の南の堀だけが残存する。

8:06
右の上が二の丸
左下に堀
正面は道路を隔てて山梨県庁

鍛冶曲輪門から出た。
大きな車道(県道31号、舞鶴通り)を横切って県庁の敷地(かつての楽屋曲輪)に入った。
8:09
山梨県庁別館・かつての本庁舎である。
1930年竣工

ところで明治から戦前にかけて山梨出身の有名人は、隣国の長野県と比べて著しく少ないと思っていた。明治の官僚、軍人、科学者、文化人など本を読んでいてもほとんど出てこない。人口が少ないというのは理由にならないほど差がある。
その時はそう思っただけで理由は考えなかったのだが、今回甲府城と県庁を見て、思い出し、理由はすぐ分かった。

信州が11もの小藩が分立し、その藩校で教育された士族が多数いたのに対し、甲斐はこの巨大な城に表れるように大部分が天領すなわち徳川直轄地で、武士の籍を持つのは甲府城や、石和などの陣屋に配置された少数の幕臣のみだった。
今調べたら、幕末の甲斐全人口 29万人にたいし武士は577人、わずか0.2%である。全国平均の武士は5~6%というから、山梨県の士族の圧倒的少なさが分かる。明治初期の士族は田畑をもたないから立身出世に真剣だった。平民も周りの士族に影響される。

1899年(明治32年)に浅井洌が作詞した県歌「信濃の国」の6番(最後)で「古来山河の秀でたる国は偉人のある習い」と励まし、大正3年発表の「ふるさと」(信州中野出身の高野辰之)は「ウサギ追いし~」で始まるが最後の3番では「こころざしを果たして~いつの日にか帰らん」と故郷に錦を飾ることを夢見た。

鉄道も碓井トンネルを通って長野駅まで通じたのが明治21年(1888)、一方甲府まで鉄道が入ったのが明治36年(1903)。遅れたのは幕府直轄地で有力者がおらず優先順位が低かったからではないか? 似たような例は鹿児島と宮崎(大サツマvs小藩分立)でも見られる。

自然環境の非常に似ている長野県と山梨県の大きな差は、信州では考えられない、この巨大な甲府城の存在である。

裏に回るとまた歴史的建造物があった。
8:11
山梨県県会議事堂
こちらも1930年竣工。
県庁一帯は公園化されているからもちろん通り抜けできる。
県庁の西側の駅前通りに出た。
8:12
駅前通り(県道6号)
看板に「ほうとう」の文字や武田菱が見える。
この通りは二の丸の西の堀を埋め立てたもの。

内城部分を鉄道や道路が分断するのは長岡などを思わせる。旧幕時代に冷淡な薩長政権だからとも思われるが、巨城であったため分断されても駅の両側に公園用地が残り、市民の憩いの場になった。
8:15
駅南口の武田信玄公像
彼は駅から2キロほど北方の躑躅が崎の館にいた。当時、このあたりは武田城下町の南の端であった。現在の甲府は江戸時代の甲府城を中心に発展したこともあり、南口を正面とすることは無理がないが、信玄を南口に、しかも甲府城に向かって設置するというのは違和感がある。
江戸時代の甲府城にゆかりのある人物がいなかったことから彼を持ってきたのだろうが、無理に建てることもなかったのではないか?

ちなみに武者行列で有名な信玄公まつりも、彼とは関係ない甲府城跡の舞鶴城公園で行われる。

ところで、さきほどの御料林が下賜されて山梨県の県有林比率が高いと書いたが、もとはと言えば山梨県の山林をことごとく国が取り上げてしまったことによる。これも幕府直轄地であったことが関係しているだろう。

安倍川餅に「桔梗信玄餅」「信玄餅」と名付け観光土産物とし、郷土食のほうとうを信玄の陣中食として売り出すなど、県民も全国民も山梨と言えば武田信玄という一色である。しかし後世の山梨に彼の影響などほとんどない。治水で取り上げられる信玄堤などの類は他の県にもある。今の山梨県は戦国時代よりも甲府城に表される幕府直轄時代の影響を強く受けている。

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