2019年9月24日火曜日

神明坂、アザレア通りと藤谷美和子

9月22日、1977年に住んでいたところへ行ってみる。
と言っても歩いて数分、すぐ近く。

動坂上の交差点を渡る。
北東に下る斜面だから擁壁などで区画されるすっきりした住宅地。

動坂公園 2019-09-22

42年前は毎日この横を通って動坂上の交差点に出た。
しかしこの公園に立ち寄ったことは多分一度もない。

数年前、千駄木に引っ越してから、既に一人暮らしを始めた息子を呼び出して、この檻のなかで一度だけキャッチボールをした。もう一度やりたいのだがチャンスはあるだろうか?

ちなみに、動坂上の駒込病院前の公園は駒込公園という。
五木田邸
サクラが我が家と同じ文京区保護樹木だった。指定8-156(平成10年)。
ちなみに我が家のは指定7-39(平成6年)
番号の意味は不明。

この奥が9か月住んだ二葉荘

今日は旧二葉荘を出発して駒込駅まで歩く。

大学は反対方向だったから普段は駅を使わない。しかし、たまには電車に乗った。
徒歩8分だった記憶がある。
不忍通りに出る直前でマンション建設中
大通りに面していないのに地上15階。
72坪しかないのにワンルーム中心42戸のマンション。
私企業が金もうけに走れば、町の住環境はどんどん悪くなる。
行政は品のない企業、個人にブレーキを掛けなくてはいけないのに、文京区はそれをしない。

不忍通りに出る。
紳士服いつでも大安売り(卸問屋?)のカツロ。
1977年すでにあったそうだが、記憶にない。
数年前一度安い靴下を買った。

不忍通りが上がっていく坂を神明坂という。

不忍通りは根津遊郭の仲通りを北に延長したもの。
団子坂下まで来たのが明治32年、新道といった。
動坂下まで伸びたのが明治43年夏。
大正3年 市電を通すため幅を6間から12間に拡張、
市電は上野から動坂まで大正6年7月27日に開通。
同じ年の6月に本郷通りを駒込富士前まで市電が来ているが、不忍通りが本郷通とつながったのは大正11年(1922)という。神明坂ができたのはそのときだろう。

神明坂の上の交差点は「上富士前」交差点という。
富士神社があるから上富士町といったが、「前」とは何か?
と今、調べたら「上富士前町」だった。

カツロのそばの交差点で不忍通りを渡る。

1977年夏、この左側にラーメン屋があった。
カウンターだけの小さな店。
國枝卓氏と昼に二葉荘を出て、つけ麺を食べた。
つけ麺というと最近出てきた(2000年以降)というイメージがあるが、あれは確かにつけ麺だった。

調べたら、つけ麺は1955年大勝軒の山岸一雄が始めたという。
(ちなみに彼は信州中野出身)
1970年代後半につけ麺ブームが発生したというから、我々が食べたのはこの時か。
1990年代中頃から山岸の下で修業、独立したラーメン店主が類似のつけ麺を出し2000年頃から関東圏、特に都内につけ麺を出す店が増えていったらしい。
もちろんそのラーメン店は影も形もない。

この通りはそのままアザレア通りとなり駒込駅まで続く。
居酒屋「神明」。入ったことがない。
ちなみに「神明」というのは駒込神明町という町名からだが、神明社すなわち駒込病院わきの天祖神社からきている。
そもそも神明社(神明神社)は、天照大御神を主祭神、伊勢神宮内宮を総本社とする神社で、全国に5000もあるらしい。神明宮、皇大神社、天祖神社などの名前になっている。
神明坂は浦和や都内(三田、千束)にもある。

アザレア通りも駅から離れた場所は1977年当時の建物が残る。
しかし記憶はない。

ユニバーサルドラッグのビルの裏壁が蔦に覆われていた。
写真で撮ると大したことがないが、高いと迫力ある。

アザレア通りといえば、藤谷美和子の実家があったようだ。
1977年にカルビーポテトチップスのCMに出演、1978年『ゆうひが丘の総理大臣』というが見ていない。
「月刊明星」1979年12月号
蔵書を調べたら、79年と80年にグラビアがあった。
下町の電気店、ぜんそくがひどかったと書いてある。
そう、アザレア通りの電気店という記憶がある。

記憶に電気店の景色が浮かぶのだが、はて、当時見に来たのだろうか?

ネットで調べた。
「あの人は今」的な話ばかりの中で、古い2チャネルで実家がブティックSOLEILになったという情報にたどり着く。
洋品店はあったが、店名も電話番号も別だった。
その情報すら大昔の話だから。

中里1-5-11は道の東側だった。
私の記憶にある電気店は通りの左側(西側)である。今、西側に電気店はない。
42年前、西側にも電気店があったかどうかは不明。

ひょっとすると、実際に見たことはなく、私が1978年に本駒込から谷中に転居した後、懐かしのアザレア通りを思い出しながら、勝手に彼女と電気店の店先を想像したのではないか? それが小さな書店などに並んで通りの西側にあったという錯覚・現実ごちゃまぜ記憶になったのかもしれない。


最も印象に残っているのは、アイドル時代ではなくて、ラグビーで半身不随になった柳葉敏郎の車いすを押すNHKドラマ「妹」。
音楽はlet it be だったな。調べたら9年後の1986年。

ちなみに愛が生まれた日は1993年だが、もう私は興味がなく、彼女が歌っていたことも知らなかった。

駒込駅(東口)到着
線路の下が改札というのは他にもあるだろうが、この天井の低さが独特。

この構造物は何だろう?
椅子にしては尻がいたくなりそうだし、屋台防止、自転車駐車防止なら、こんなもの置かずにどんどん撤去してしまえばよい。

駒込駅東口
ほとんどの駅の顔が変わっていく中、ここだけは何十年も変わらない。
寮を出て初めて一人暮らしをしたところだから、友人を呼んで、ここで出迎えた記憶がある。町田憲一などはお互いハガキに地図を書いてやり取りした。

駅のすぐそば、今のパチンコ屋スリーセブンがあるビルの二階、ここに英会話サロンMINICOがあった。

1995年4月ころ埼玉の伊奈町から数回来た。
オーナーは峰さん?と言う方で若いころ柔道を普及させるため全米を周ったという人。彼は場所を提供するだけで、そのとき集まったものが雑談するだけ。
覚えているのは外交官として中近東に行っていた年配者の女性関連自慢話と、親の残した小さいスーパーを経営する若者の、日本で一番良かった旅行先は長崎だった、という話だけ。

峰さん?はがっしりした明るい方で、東大宮の大規模開発マンションを購入されたが、バブルがはじけて値下がりしていると仰った。
行かなくなって数年後、知らない人から手紙が来て、峰さんが交通事故で大けがをされたから激励パーティをしようというお誘いだったが、私は数回通っただけで知っている人もいないだろうから行かなかった。

そのMINICOに通った95年にアザレア通りから少し足を延ばせば、電気店、ラーメン屋、二葉荘、日の出湯など見られたかもしれない。

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