2018年3月18日日曜日

池上本門寺の地形と池上宗仲

本門寺のとなり、池上会館に行ってきた。
2012、2016年に続き3回目。すべてダンスがらみ。
今日はDSCJスタンダードA級戦、ジャルダンカップ。

五反田から池上線。
池上線という歌があったなぁ(1976)
しかし、ここに来ると、なぜか同じ1976年チェリッシュの
「あなたと初めて会ったのは、品川どまりの山手線~」
が出てくる。

池上線は、駅間が短く、踏切多く、生活感があって、低地を渡るときは(高架でなく)草の生えた土手の上を走る。

今まで考えたことがなかったが、東急路線名の池上とはなんだろう?
地名としては池上本門寺の周りしかない。
五蒲線とか本門寺線のほうが合理的な気もするが。

池上駅下車。
葛(久寿)餅、仏具店の並ぶ参道を過ぎると、呑川(ドン川ではない)。
橋の向こうに総門がみえる。
岡の上に城を作れば、この川は堀の代わりになる。
その岡全体が長栄山大国院本門寺。
正式名に池上の文字はない。

総門の脇を右折。
手前(左から)日蓮宗宗務院、朗子会館と本門寺の施設が並び、突き当りが池上会館。
周りに昭栄院、永寿院など本門寺子院があり、最初に来たとき池上会館はてっきり本門寺の付属施設かと思った。
 しかし大田区の施設である。
竹林に隠れる黄色い建物は池上会館の西館。
左の朗子会館よりずっと宗教施設っぽい。
確定申告の「申告書作成会場は隣の西館です」という案内プレートがなければ本門寺の一部と思う。
江戸時代は本門寺の敷地であっただろう。隣の池上小学校とも大田区所有となったのは、いつだか知らないが、明治の廃仏毀釈で困窮し(どこかに)売却したか。
競技会は2回戦で敗退。4階建ての屋上まで上がると、そのまま本門寺の境内。五重塔が目に入る。

この塔は戦災を免れた。
江戸四塔は寛永寺、浅草寺(戦災消失、再建)、天王寺(消失)と増上寺(戦災消失)または本門寺とwikiにはあるが、ここは江戸ではないから、増上寺だろう。
しかし、1607年建立、1702移築とは東京最古であり、貴重であることは間違いない。


地震で間違いなく倒れる石塔多し。
倒れたらまた載せればいいという考えか。
この一帯、熊本県人会の碑、川上彦斉先生碑があるから細川家の墓所だろうか。
時間がなくて碑文を読まず。
大名墓は米沢藩上杉家圓光院殿墓所、肥後熊本藩細川家清高院殿、および高正院殿墓所と3つあるらしい。



前田利家室の層塔。後方は大堂


ここは星亨の銅像があったらしいが、戦時中の金属供出で台座だけ残り、昭和58年に日蓮の像が建てられたという。おなじみのポーズだ。
近くに星薬科大学があるから星一の像の台座だったかと勘違いしていた。

日本看護婦会慰霊塔


大堂の裏(西北)にまわって振り返る。
大堂、仁王門、霊宝殿、経堂。

本門寺HPから

さて、大堂うら、紅葉坂の通りを北へ渡り、本殿の脇を通ると
日蓮聖人御廟所(下)
この裏の林に四天王の像があったと記憶して探したのだが、見つからず。
どうも目黒不動の記憶と混合していたらしい。

ところで日蓮は1282年9月、病身のまま身延山を出て、湯治のため常陸へ向かった。ここ武蔵国池上郷の池上宗仲の館に到着、20日あまり過ごして死んだ。入滅前に、背後の山の上に建立された一宇を日蓮が開堂供養したという。
では、なぜこの地に寄ったか?

当時の交通を考えねばならない。
今でこそ池上は中原街道と東海道の間で、何もないが、鎌倉時代、東海道は海沿いでなく、この近くを通って品川に向かった(池上道)。また北の中原街道も主要な道で、家康はここを通って関東入府したらしい。

『馬込と大田区の歴史を保存する会』ホームページ
http://www.photo-make.jp/hm_2/kaidou.html
が詳しく、古道だけでなく、土地の高低差も示されている。
当時、西から来て多摩川を渡ったら(平間の渡し)、この山にぶつかるのである。

池上氏はこの山のふもとに館を構えた。

日蓮は平間道(池上道)でなく、北の中原街道をとおり、多摩川を丸子でわたって、池上に来たようだ。立ち寄ったのは池上宗が日蓮の熱心な信徒であったからだろう。

今日のダンスは池上のほかに川越でも競技会があった。
あえて池上に来たのは本門寺周辺の地形を確認するためである。
ダンスがなければ、わざわざここへは来ない。

本門寺の南と西は呑川、北は2016年西馬込まで歩いた時、低地であったことを覚えている。
今回は東側を見た。大田区立本門寺公園は崖の下になっていて、本門寺は四方が低地の独立高地であると確認できた。
さらに撮影地点の墓地と本門寺伽藍群のあいだも低地になっていて、城にすれば空堀になる。

池上氏は伽藍群(山塊)の西の低地、子院である本行寺あたりに館を構えていたという。

そこへ行こうと西に降りる途中、都会とは思えぬ林の中に、国の重要文化財、宝塔に出くわした。日蓮を荼毘に付した場所に池上宗仲が建て、遺灰を入れたらしい。今の建物は1828年に再建されたもの。

大坊本行寺
池上氏の居館はこのあたり。
今の感覚だと敵の攻撃を防ぐためにも、見晴らしの良さからも、丘の上に住みたくなるが、坂の上り下りが面倒、あるいは生活用水の得やすさなどを優先したのだろうか。


第61 助っ人の要らぬネズミ固定器

最新型「鼠撑器」の紹介
薬学雑誌 1891年度 p61 (明治24年)

医学、生理学の研究に実験動物は不可欠である。
とくに新薬の研究、開発には大量に必要だ。
最近は組換え細胞や、コンピューターシミレーションなどを使うようになったとはいえ,丸ごと動物,とくにげっ歯類の実験は依然盛んである.
有望化合物ならすべて,どんなプロジェクトでもネズミの実験は避けて通れない.
しかし昔はどうだっただろう.
合成者は何でも舐めていたし,薬効は先ずヒトで試されたのではなかろうか.

ちょっと怖いから動物に飲ませてみようと思っても,ネズミではなく,そばに居たネコやイヌが多かったように見える.
華岡青洲の通仙散はネコだった.
N数を増やさねばならないようなナイーブな実験は最初からしない.
実験動物の飼育業者のいなかった頃、ネズミは簡単には捕まえられない.手に入ったとしても、犬猫と比べてあまりにも人間と違いすぎる.小さくて表情もなく,同じ哺乳類だという概念などなかったかもしれない.

それでも数量的科学が西洋から入ってくると,急性毒性を見るにネズミは重宝しただろう.ただ,その取り扱い技術はお粗末だった.南京鼠(マウス)に皮下注射するのに「大概助手をして鼠を保持せしめ,二人掛り」で行っていた.

ところが東京衛生試験所(現・国立医薬品食品衛生研究所)がベルリンの器械商ラウテンシユレゾルに注文,取り寄せた装置は画期的だった.「此の器械は助人に持たしむるより却て便にして,医学校,病院,その他の試験に必要なれば」と紹介したのが下図の鼠撑器である.

当時の東京衛生試験所長は長井の後を受けた田原良純.
彼はこのとき35歳,ドイツに留学中であった.ひょっとしたら「当地には斯くも便利なるもの之あり候」との手紙を受けた所員が注文,輸入したのかもしれない.

2018年3月17日土曜日

第67 炊飯釜のふたの改良

小学生頃まで、信州の農家だった我が家はプロパンガスもあったが、飯はかまどで炊いていた。
羽のついた釜に、木のふたが載り、よく吹きこぼれていた。



「従来本邦において日常慣用する木製釜蓋にありては,飯を炊くにあたり著しく糜粥状の粘液を釜外に沸溢し,飯の栄養成分を損出することは衛生学進歩の今日において世人の常に遺憾とするところなり」

薬学雑誌 1907年度(明治40年) p484-488

5ページの大論文は,こう始まる。
要するに,炊飯釜の吹きこぼれがもったいないから何とかしようとした研究である。
著者,森川釖三郎は五高薬学科(長崎)の教授.

「余は,その予防の方法を攻究せんと明治36年より39年に至る4年間,日々これが研究に従事し,ついに」炊飯釜の蓋を作った.

冷水を入れた洗面器のようなものを木製蓋のかわりに釜にかぶせるだけで,中の水蒸気が蓋で冷やされ,圧力が減る.すると蓋と釜のあいだから粘液が漏れなくなるという.その結果,少しも飯の栄養成分を損失せず,飯の容積と甘味を増し,釜の掃除も大いに楽になるらしい.

使用法は,上部に張った水に「時々指を挿入して温度を注意し,殆ど指を挿入し能はざる温度に達するときは直ちに薪炭をまったく引き取るべし.なお下部にある排出管を開き蒸気を嗅ぎ,焦臭あるを注意せば一層安全なりとす」.
そのあと水の量,炊き方などが続く.

記事がこれで終わったらただの町の発明家だが,薬学者は分析する.
通常の木蓋と改良蓋では100グラム当たり水分(72.48対72.48),でんぷん(24.77対24.17)はあまり変わらない.しかしタンパク質は1.97から2.38に増えた.

「今日本人口を6千万とし,其の3千万人は1日白米5合を要するものと仮定せば,蛋白質の量は1日に2億4千グラム,1ヵ年に876億グラムを現在より増得するに至らん」.
全国民がこの蓋にすれば「国家的少なからざる稗益を与ふるもの」という.

なお,上部の温かくなった水は,「飲料或いは器物,顔面の洗滌」に使うという。
これは賢い。

2018年3月15日木曜日

豆苗を土に植えてみた

今シーズンは長雨大雪やらで秋暮れから野菜が高く、年が明けて3月になっても安くならない。おかげでもやしや豆苗の売れ行きがいいらしい。

妻も先月だったか、豆苗を買ってきた。
庭に食べきれないほど大根、白菜、野沢菜があるのに、初めて見るものを買ってみたかったのか、観賞用なのか。

窓際に置いて2回ほど収穫したが、茎は思ったより硬く、とくに旨いというものでもない。
よく見るとむかごのような褐色の豆がびっしり詰まっている。
そもそも豆苗の豆は何だ、と調べたらエンドウ豆!
エンドウ豆はグリーンピースのようなイメージがあるから、へぇ~。

3月12日、3回目の茎が伸びてきたが、食べる当てもない。
そこで、土に植えることにした。

しかし、これが難航した。一部を取ろうと思っても根が絡まっていてほどけない。
そこで
2018-03-12
まな板に載せて包丁でぐさりと分断。
1本ずつに分けたいのだが、ほとんどの根は短く分断されているため、どのくらいの割合で育つか分からない。10本程度を一株にして植える。
2018-03-12

その後、春らしい陽気が続くも、枯れてはいない様子。
このままでは間引かなければならない。でも間引くより株分けしたい。
しかし、根が絡まっているのにできるか?

まだ屋内には大量の苗があるので、失敗しても平気。
今朝、試しに株分けしてみる。
2018-03-15
思ったよりすんなり根がほどけた。
2018-03-15
一鉢に3本ずつ。どれか1本が育てばいい。

それにしても、なぜ3日たって根がほどけたか?
1.広い大地にうつされ、それぞれの根が窮屈な場所から自由に広がった?
2.弱って根が萎れ、細くなったか、屈折がなくなって、ほどけやすくなった?

当初は1と思って喜んだが、よく考えたら2だろう。
確かめるために、もう一度、根が絡まっている塊を切り取り、コップに入れてみる。
2018-03-15

72時間後、もしコップの中の塊が元気なままほどけたら、1の可能性がある。
しかし、ほどけなければ2であろう。

ところで、エンドウの苗はホームセンターで1本100円する。
一方、豆苗はこんなに大量にあって1パック98円。
もし根づいたら、大きなエンドウ畑ができる。




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2018年3月9日金曜日

第59 神様・長井長義に異議を唱えた男

2018年日本薬学会の会頭は奥直人先生である。
それにしても会頭、理事,各種委員はどうやって決まるのだろう.
ほとんどの会員は知らない.私も知らない.しかし,明治の頃は全て総会の出席者全員による直接選挙だったことが分っている.
第23話 岸田吟香と薬学会選挙

以下は、7年前ファルマシア「薬学昔むかし」に書いたものを改変。
(参考)薬学雑誌 1890年度 p69-94 (明治23年,薬学会総会記事)

生の意見が残っているのは珍しいので紹介する。

当時の役員選挙は、明治30年代を見れば,会頭(長井),副会頭(下山),幹事(丹波敬三,山田董)はいつも満票に近い.
ところが10名の常議員を選ぶ段になると,一人が10人を書くため,丹羽,平山,高橋秀,飯盛,田原といった上位は序列を反映するかのように固定しているが,下位は無秩序にばらばらとなる.
得票数二票,一票といった者が多く出た.自分の名前を書く人もいたかもしれない.

ただ,最初からこのような「直接」選挙ではなかったようだ.
その10年前、明治23年1月18日,麹町区富士見町富士見軒での第10回総会のことだ.
長井会頭が開会を宣言.
須田勝三郎による前年の事務報告,福原有信による会計報告のあと,会頭は
「会員からほかに建議ありや」と尋ねた.
すると村上栄太郎が立ち上がる.

「会頭! 会頭に質問あります.昨年11月の薬学雑誌に役員候補者が出ておりましたが,この候補者選定の根拠は何でありますか?」.

出席会員78名の間にたちまち反駁,論弁がおき,喧騒に至る.
講演会を後に控え,到底まとまりそうもなかったため,会頭は予定された選挙も延期して後日臨時総会を開くとしてその場を収めた.

そして1月27日夕方5時から,東大薬学教室で臨時総会が開かれる.

村上「いかなる精神をもって斯様な名簿を作ったか?役員の説明をお願いする」
長井「地方会員は総会出席が難しいから人物が分らない.従って誰が適任か分からないと察する.故に,名簿はひとえに地方会員の便利を図るものだ」
平野一貫「候補者は名誉ある役員と同格なれば,ただ便利というだけで定めてはならないだろう」
村上「候補者を決めておいて,そのうえ,その他の人も選んでよいとするなら,そもそも最初から候補者名簿など要らない」
長井「村上君は役員の精神を分かっていない.手段は稚拙であったかもしれないが,便利と親切を考えたものであるから,会員から非難されるものではない」

長井のライバル、下山副会頭が間に入ってとりなす.
「名簿を作った役員の老婆心にも一理あるが,人として名誉を重んじないものはないから,候補者に漏れたる会員の不愉快にも納得する.
しかし過ぎたことの過失を問うことは無益であるので,今後候補者名簿を作るか作らないかの問題を討議したい」.
薬学会のナンバー3、丹波もこの意見に同調した.

こうして議論は候補者選定をするかどうかに向かう.
村上「役員と被選人の全員の名を掲げて,次の総会の節に一般投票者の参考にすればよいのではないか」
細井修吾「私は候補者選定に賛成だ.しかし今回は承諾も得ていない.むしろ承諾を得てから,これを「候補者」ではなく「役員承諾人」とすればよい」
下山「候補者の資格を定めるのは難しいから,これは廃したほうがよい」
須田「余も候補者に漏れた一人であるが,これは己の至らぬところと覚悟し,あえて不平は言わない.むしろ候補者選定に賛成だ.しかし会員に不平の者がいては,薬学会の不幸である.だから村上君の説がよい」
このあと村上説,細井説(候補者名簿維持),下山説(全廃)について挙手により決をとり,村上説に決まった.

続いて,この日出席した21人で選挙を行った.
長井下山丹波は不動だが,資生堂福原がもう一人の幹事として入っている.
この年より5人から10人に増えた常議員は,田原,丹羽,柴田,山田,古川,嶋田,柴山,細井,平野,高橋順だった.

100年後の我々薬学会会員にとって,長井長義は大恩人である.
御子孫による青山の屋敷地,軽井沢の土地を含む莫大な資産の薬学会への寄付は尋常でない。それ以前に,理科大学の最初の博士5人のうちの一人であり、本来なら理学部の中心にいたはずが、薬学の有機化学発展のため、丹羽らが強引に引っ張ってきた。第一人者として薬学の学問レベル、地位を押し上げ,初代会頭に就任すると亡くなるまで42年間その職を務めた.

だから彼が現役会頭のころは,会員から神様のように崇められていたのではないかと想像していた.
しかし(少なくとも初期は)村上,平野氏のように長井会頭に異議を申し立てる人がおり,会頭もまたごく普通に対応していたようだ.


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2018年3月8日木曜日

伊奈町が伊奈忠次のPRをしている

今の勤務先は、埼玉県北足立郡伊奈町小室にある。
大宮からニューシャトルで20分なのだが、郡、町というくらい、森と畑が多い。

その伊奈町の役場が、この3月1日、伊奈忠次のPR映像(→クリック)を作って宣伝を始めた。
自治体が町おこしみたいにイベントするのは賛成ではないのだが、よくある観光案内と違って、まあまあ面白い。

(伊奈町と私)

結婚して東大宮の公団・尾山台団地の2DKに6年住み、1989年、二人目が生まれるとき、伊奈町小室に家を買った。
バブルのころでJR沿線は大宮以北でも高くて手が出ず、当時は不便なニューシャトル沿線の、かつ低地の中古住宅であった。新幹線の橋げたの上をモノレールのような小さな車両が1時間に2本しか走っていなかった。

北足立郡伊奈町といっても、埼玉の人さえ何処だか知らず、蓮田と上尾の中間だ、と説明した。(私も家を探すまで知らなかった)。
ここで二人目、三人目が生まれ、中山住宅という104軒ある地区の町内会長をやったり、KDD研修所の森で花見やピクニックをしたり。
水害で床下浸水も経験したが、私は30代、家族が増えて成長する一番楽しかったころだ。
1991年11月 KDDの森

伊奈町に7年住んで、1996年大宮市指扇に引っ越し、そして2011年文京区千駄木に家を買う。
伊奈は遠い記憶のかなた、二度と来ることはないと思っていたが、2013年、転職して、なんと再び伊奈町に。
しかも職場はあのKDDの森の中、駅も同じ志久。
この広い関東平野でよりによってまた来るとは。
1992、町から全戸に配布されたパンフレット航空写真から。
 当時のKDD研修所。今は大学。

(さて、伊奈忠次のこと)

平成2年、町制20年記念で町から各戸に配られた「ふるさと伊奈」などによれば、

伊奈氏は信州伊那の豪族。
忠基の代に三河の松平広忠(家康の父)に仕える。
忠基の子が忠家、その子が忠次(1550~1610 はじめは熊蔵家次といった)

幼いころから秀才の誉れ高く、家康に仕えた。
北条滅亡の天正18年(1590年)、家康が関東へ入ると、関八州の諸税掌握と市川、松戸、栗橋の3関所の守備を命じられ、武蔵足立郡の小室(現伊奈町)、鴻巣に1万石を賜った。

この年、小室宿(現伊奈町大字小室字丸の内)に陣屋を構える。奥州道と中山道の中間に位置し、関東平野の中心という交通至便なところにありながら、南に原宿沼、東西に湿地を持つ高台という素晴らしい立地である。
2018 小さくなったが原市沼や斜面の緑が分かる。
東西約350m、南北約750m

家康の天下統一のあとは備前守に任じられ、代官頭(のちに関東郡代と称さる)となり徳川直轄領の管理を任された。
検地、測量、河川改修と築堤(桶川の備前堤など各地に名が残る)、新田開発と、100万石の増収を成し遂げたと言われる。

忠次のあと長男忠政がつぐも34歳で死去、
子の忠勝は幼く、忠次の次男忠治が27歳で代官頭を継ぐ。
忠治は既に勘定方で赤芝山(現川口市赤山)に陣屋を構え7000石を領していた。

一方、忠勝は9歳で死去、1万3000石は没収され、小室藩は消滅、しかし伊奈忠勝家は父たちの功績から幼い弟の忠隆が継ぎ、小室郷1186石の旗本となる。
のちに忠隆(1616-1650)は小室から江戸に移り住み、小室陣屋は消滅した。

さて、丸山駅近くの陣屋跡は、住んでいた当時、フキノトウを探しにきたとき偶然入った。原市沼あたりはノビルはあったが、フキはなかった。

伊奈町に転職してから、2015年また訪ねた。
2015-03-16 西側からの入口と案内板
ここは昔、芝生だったような気がする。
2015-03-16
旧陣屋内は畑と民家。
孤立した高台のため、ギニア高地ではないが、交通もなく、周辺の宅地、畑とは違う独特の雰囲気だった。この道は当時の屋敷絵図(→クリック)にもある。

なお、忠治も、父忠次、兄忠政を継いで関東郡代として河川改修などに携わり、とくに利根川東遷は彼の代に完成した。
鬼怒川と小貝川の分流工事や下総国、常陸国一帯の築堤など、かれの業績をたたえた伊奈神社がつくば市にある。

2006年合併し、つくばみらい市になって消滅した筑波郡伊奈町(1954伊奈村)の町名は、忠次ではなく、忠治に由来する。


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2018年3月4日日曜日

谷中の空襲とみしま地蔵、十四地蔵

今や観光地の谷根千は、土産物店、食事処など増えて賑やかである。
ブームになったのは、寺や坂道に加え、路地に古い家が多く残っていたからだ。
ということは、戦災に遭わなかったのだろうか?
(これを見れば、確かに谷根千というのは、焼き尽くされなかった数少ない場所だ)

このように少し前まで戦前からの家が多く残っていたことから、空襲はなかったと思っている人がいるが、とんでもない。

東部の下町のように焼夷弾で焼き尽くされなかっただけで、昭和20年3月4日、小雪舞う朝8:40頃、B29の爆撃に遭った。
「谷根千」80号によれば、194機のB29が都内に侵入、投下爆弾532トン、罹災14,186人、死者650。
この近辺では、谷中地区が死者113人。200戸以上が破壊され500人以上の死傷者が出た。中でも谷中小学校を中心とする三崎町、真島町、初音4丁目の死者は70余名。
千駄木地区では、須藤公園の近くの防空壕に爆弾直撃、崖上の貯水槽も破壊され、生き埋め、水死で死者40人以上。

きょうはその73年目の記念日。
毎年行われている空襲体験者のお話し会が、谷中の家(台東区谷中3-17-11)であるという。

長野にいた小学校高学年以来、こういう話はかなり読んできた。十分に知識があるつもりだったから、今までとくに聞こうとはしなかった。
しかし私が上京し上野公園で傷痍軍人をみたのはまだ戦後30年、かれらは40代、50代。ところが、あれから43年たち、少なくなった体験者もご高齢、話を生で聞く機会は、もうないだろう。

この日は錦糸町のすみだ産業会館でダンスの競技会があったのだが、終わって急いで駆け付け、14時の開会に間に合った。

団子坂下

世尊院の向かいあたり

この日の会場は、中央に大きなテーブルがあり、その上に空襲の時の写真や、参考図書、過去の新聞などが展示されていた。

お話し下さったのは、
1.片山ふくえさん 85歳。終戦時女学校1年、昭和19年4月(小学校6年)親戚に疎開したが体調崩し、1か月で谷中小学校に戻る。その後、皆は会津若松に集団疎開したが、彼女は体調戻らず残り、空襲に遭遇。
2.一条さん 85歳。谷中銀座は兵隊さんが来て、家を壊し、今の3倍くらいに広げてあったので北からの延焼が食い止められた。
3.野沢さん 83歳。谷中小学校の講堂に爆弾。友達がいっぱい死んだ。3つ下の妹は疎開先で栄養失調で死んだ。
4.米本さん 89歳。飯能の食糧工場で勤労奉仕。米軍機の機銃掃射にあって、田んぼの溝に隠れ命拾い。
5.福田さん 90歳。従軍看護婦でルソン島へ。
6.熊谷さん(家は谷中瑞輪寺のとなり) 3月4日の空襲でどこかの寺から重い地蔵が飛ばされて庭先に落ちてきた。「これはたくさんの人の命と引き換えになったものだから大事に供養するように」と亡き父上から言われたとのこと。

この中の3人の方は、爆弾で吹き飛ばされた布団、衣服などが電線にぶら下がっているのを見たという。死体も飛ばされ引っかかっていたらしい。

惜しむらくは、主催者が自由に話をお願いしたことだ。
彼らは話のプロではないし、認知、判断力も若いころとは異なっている。3月4日の話がいつの間にか10日未明の東京大空襲の話になっていたり、戦争を憎むあまり、話がイスラム国や天皇制、自衛隊のほうまで行ってしまう方もいた。戦後生まれの男性が長々と東京裁判や御前会議に関し、素人的な知識を披露されたのには、ちょっと閉口した。

主催者側は、品のいい女性二人で、遠慮されたのだろうが、ここは仕切ってインタビューなり、誘導された方が、話される方も、貴重な体験談を披露できたのではなかろうか。

第二部は戦争かるたというのだが、どうも集団的自衛権の批判とか、戦争反対の文言。ちょっと苦手なので、途中で退出した。

この日は20度まで上がり、5月のような陽気。
まだ明るかったので、3月4日に亡くなった人のために建てられた三四真地蔵、十四地蔵、平和地蔵の写真を撮りに出かける。

谷中銀座はたいそうな人出、歩きにくい。
行列の店があるが、地元の人は行かない。私が住んでいた1980年ごろは完全に地元住民のための商店街だった。コロッケの食べ歩きなどもちろんなく、茶舗金吉園からお茶の香りが通りの端まで漂うような静かな通りだった。
今は、観光客と、彼ら目当ての店を開くもの、あるいは気に入って移り住んだ新住民、それから戦前からの住民と、さまざまな人々が混在する。

夕焼けだんだんの下を南に曲がる。
かき氷ひみつ堂は、道の反対側まで行列。

六阿弥陀道を谷中防災広場のところまで歩き、西に下るとみしま地蔵。


みしま地蔵は三四真地蔵。三崎町、初音町四丁目、真島町(私は1978年から3年住んだ)の谷中3か町の頭文字をとったもの。

続いて十四地蔵。
これはこの日初めて知った。
谷中小学校向かいの大円寺にあるという。何年か前、菊人形祭りに来たな、と思いつつ境内で探すも見つからない。
掃除をされていたご婦人に聞くと「あら、ひょっとして、あれかな~」と案内してくださった。
大円寺の門の中だが、いったん寺を出て細い路地を入っていく。まだこんな家が残っていたかという前を通り過ぎ、行き止まりの奥。

14人のために作ったから十四地蔵というらしい。

「さきほども、一人訪ねてこられたんですよ。何かあったんですか?」というので、命日だということを説明してあげた。

続いて千駄木坂下町の平和地蔵。
ここは日暮里駅から帰るときにいつも通るところ。
不忍通り沿い、100円ローソン、ブックオフのあるビルの一角。
ここには鹿島湯という銭湯があり、石炭倉庫を防空壕として使っていた。
3月4日朝、空襲警報が鳴ってそこへ避難したところに爆弾が直撃。
22人が一度に亡くなった。
亡くなった人の名前が書いてある。

平和地蔵の場所で不忍通りを渡り、大給坂を上って帰宅した。
今はイチョウだけ残る児童遊園になった大給子爵の屋敷にも、あの日、爆弾が落ちたという。