2025年8月8日金曜日

秋田の記憶のかけら。角館、久保田城と佐竹氏

8月5日、クルーズ船飛鳥IIで秋田に来た。

秋田は1992年4月1日に来たことがある。

日本生理学会が4月2日から4日まで秋田であり、本来は前日の1日に出発すればよい。
しかし、その前夜、ちょうど家族が妻の実家に行ってしまい、一人でテレビを見ているとき急遽思い立ち、駅に急いで電車に飛び乗った。
もちろん寝台券や指定券などとってなくて、大宮からの夜行列車はボックス型の椅子席。それでも座席シートがスライドして桟敷のようになり、靴を脱いで足を曲げれば横になれた。目覚めると鳥海山に朝日が当たっていて、洗面所で顔を洗ったことを思い出す。

1日遊べることになったので大曲で田沢湖線に乗り換え、旅好きの福地さんが良かったという角館に向かうと通学途中の高校生と一緒になった。

角館は時間を持て余すほど小さな町だった。枝垂桜で有名な武家屋敷も雪害を防ぐためか、あるいは無人で閉鎖しているのか、まだ門に板を打ち付けてあった気がする。歩いていて何かの看板だったか角館出身の画家、平福百穂を初めて知った。2年前に生まれた長男の名前を一穂と名付けていたので、記憶に残った。

この日は翌日朝、秋田駅に行きやすいように田沢湖線と奥羽本線の分岐点・大曲で宿をとることにした。
当時はもちろんインターネットはなく、ホテルの予約は会社の事務課に頼むか、自分で時刻表の後ろのページか旅行ガイドブックをみて電話するのが普通だった。私は現地について地元の電話帳を見て宿を探すのが好きで、このときもそうした。

宿を決めてから大曲の町を歩いたのだが、見事に何もなかった。(もちろん面白くなかったのはこちらに知識がないためであり、大曲のせいではない)。貼りっぱなしのポスターでも見たのか夏の花火が有名なことを知っただけだった。
宿は普通の旅館で特に記憶にないが、確か「ジュンサイ」が夕食に出た覚えがある。初めて見るものにこれは何ですか?と聞いても、初めて聞く単語に方言でもあったのか何度も聞き返し、結局分からなかったのは、この大曲の宿だった気がする。

翌朝、秋田駅に着いて電話帳から選んだ宿は、大町ビル結婚式場の宿泊施設で、だだっ広い畳の部屋だった。いまchatGPTに聞いたら、式場としては営業していないようだがビル自体は存在していて「秋田市大町3‑2‑44 」という。グーグル地図を見ればお城の近く。さらにストリートビューで見ると雀荘はじめさまざまな店が入居していて耐震補強がしてあった。

生理学会は秋田大学のキャンパスであり、一度、帰りに歩いて宿に帰ったことがある。途中城址公園を横切った。城址は秋田市中心部にあるが秋田城とは言わない。

ちなみに秋田城は「あきたのき」と読んで古代城柵のほうをいう。大和朝廷の日本海側の最前線として作られ、JR秋田駅の北西5キロほどのところにある。
733年(天平5年)にそれまで最前線が庄内地方の出羽柵(いではのき)だったのが北上し、秋田城がつくられた。秋田城は奈良時代から平安時代の10世紀中頃まで城柵として、また出羽国北部の行政・軍事・文化の中心としての役割を担った。

いっぽう佐竹20万石の居城であった秋田駅のそばの城は久保田城といい、名勝としての正式名も「千秋公園(久保田城跡)」である。

1992年4月、間違いなく千秋公園を突っ切ったのだが、よく手入れされた樹木の間を歩いたこと以外、建物も堀も全く記憶にない。当時は城にも歴史にも興味がなかった。

2025年の今回はもう二度と秋田に来ることはないので、ぜひ城址を再訪したかった。
8月5日は11時から上陸できたが、我々は15:00から45分のダンス講習会があり、また港が不便なところにあるため、ひとりで秋田城や久保田城などへ行くのは諦めた。

夕方、乗船客たちと一緒に竿灯まつりを見に行くため飛鳥からバスで秋田市内に向かった。
18:33
渋滞中の市内中心部にはいると、やがて久保田城の南の堀端に出た。
スマホの地図には「大手門の堀」とある。
蓮が茂り、中に遊歩道が架橋してあった。

堀の内側に敬愛学園 国学館高校という建物が見えた。
18:38
中土橋門通りの堀をわたる中間でバスは止まった。
この道路は城外からまっすぐ三の丸、二の丸を貫いて本丸に向かっている。
窓の左は「穴門の堀」。
堀を渡った三の丸には国学館高校のほか、秋田市文化創造館、秋田芸術劇場、秋田市立中央図書館明徳館などがあるらしい。

現在、三の丸の南の堀の一部以外すべて埋められ、城外と陸続きになっている。
残った南堀は、搦手門(中土橋門)の土橋を境に、西を穴門の堀、東を大手門の堀というようだ。穴門は三の丸南堀が90度西に回り込んだところにある。

さて、城主の佐竹氏は甲斐武田氏などと同様、清和源氏・源義光流の一族である。
常陸国久慈郡佐竹郷に土着し、佐竹氏を称した。

平安末期、頼朝が挙兵した治承・寿永の乱では当初、平家方だったため鎌倉時代は勢力を落としたが、室町時代には常陸守護になるなど盛り返した。
戦国時代には常陸・下野から陸奥にまで勢力をのばし、豊臣秀吉からは水戸54万石を安堵された。豊臣政権下では第8位の石高であるが、岩城、蘆名、相馬など一門を合わせると80万石を超え、伊達や宇喜多を上回り、徳川、毛利、前田、上杉、島津とともに、六大大名家の一つに数えられた。

当然、関東に移封された家康にとっては目障りだっただろう。関ヶ原の戦いで(在国のまま参加しなかったものの)西軍に属したとみなされ水戸から秋田20万石に転封された。それでも国持大名として明治後は侯爵に列せられた。

居城の久保田城は明治政府に没収されたが、明治23年、陸軍省から佐竹氏に城跡が払い下げられ、秋田市が公園にするため佐竹家から借り受け、明治29年千秋公園となった。すなわち長らく私有地であったが、昭和59年(1984) 、前年没した佐竹宗家第35代・佐竹義栄の遺志により、約14.6haが佐竹家から秋田市へ寄贈された。

私の場合、東京で佐竹氏が身近に感じられるのは、家のそばの開成学園が佐竹氏の抱え屋敷(下屋敷)だったこと、次女が一時住んだ新御徒町のそばに上屋敷があり佐竹商店街に名を残していること、畑バイトに行っている北千住の商店街に奥州街道を利用した大名家として扇に日の丸の家紋が電柱に飾ってあることなどだ。

さて、バスをおりたが、久保田城を見物する暇はなく、そのまま竿灯まつり会場に向かう。
18:40
穴門の堀
左は飛鳥の送迎バスの集合場所に指定されている秋田キャッスルホテル。
お城とホテルの位置関係(景観)は名古屋と似ている。
我々は21:00からダンスパーティにアテンドしなくてはならないため、乗船客と一緒にバスで帰船するわけにいかない。キャッスルホテルのフロントでタクシーを予約した。

佐竹氏について続ける。
ついこの間(2025年4月)まで秋田県知事を4期務めた佐竹敬久氏(1947 - )は、クマ出没ののときしばしばテレビニュースに出たが、分家の佐竹北家の21代目である。

佐竹氏は分家も含め当主は「義」が通り字であるが、なぜ彼に「義」がないかというと、和井内家の次男として生まれ、母方の祖父・佐竹北家第20代当主・佐竹敬治郎(第18代佐竹義尚の次男)から家督を受け継いだからである。
ちなみに佐竹敬久氏は、国語の教科書にあった「十和田のヒメマス」和井内貞行のひ孫にあたる。

さらに言えば、佐竹北家は8代当主・佐竹義隣から佐竹一門の蘆名氏(跡継ぎがなく断絶)に代わり角館所預(ところあずかり、城代)となり、3,600石を領した。(もちろん石高から言っても支藩ではなく、本藩の家臣という立場)。
すなわち角館の武家屋敷は、佐竹北家の家臣団の屋敷で、佐竹北家は角館城に居を構えた。いまグーグル地図を見れば武家屋敷通りの突き当り、すなわち城山の南麓に大きな屋敷が見えるからここだろうか。

さらに言うと、佐竹敬久氏はここの角館高校を卒業して東北大工学部に進んだ。県知事として好ましい学歴である。

1992年4月1日、角館をゆっくり散策したのだが、当時は城や歴史に興味がなかったので、佐竹北家の屋敷を見た記憶がない。武家屋敷が尽きたあたりから、途中で左折して桧木内川の堤防に出てしまった。
18:57
旭川
この川は城の西側の外堀としても機能し、この西側(向こう岸)が町人町だった。
駅は城の東側にあり、明治のころ鉄道は町はずれに敷いたという原則通りである。

会場に向かう歩行者が多くなってくる。
18:59
竿灯祭り会場に到着。
指定席なのだから一人戻ってお城を見たかったが、自重した。

秋田の記憶を掘り出す。
1992年は会社の人たちと飲みに行った。初めて食べたきりたんぽ鍋は美味しかった。
いとこの恒久とも初めて学会で一緒になった。
彼は私が大学生になったとき小学校3年生だった。上京して以来、よく座間の叔父の家で一緒に遊んだ。その後すくすく育ち薬学に進み、福田英臣先生の研究室に入ったものの途中で指導教官が循環器薬理の長尾先生になった。それでもテーマを変えなかったため神経生理学を専門とした。
旭川のそばの小料理屋の座敷でハタハタを食べたことを覚えている。彼が幼かったころの話、大脳生理学やイオンチャネルの話などをしたのだろう。そして何より初めておごってあげたのは気分が良かった。あれから33年、彼との記憶に出てくる人々は親族も含め何人も亡くなった。

それから秋田駅の裏に市場のようなごちゃごちゃした一角があり、今回も行ってみたかったがおそらく再開発されて駅ビルでも建っている気がする。

(続く)

20250809 クルージング7、初めてのサウナ、ヨーヨー

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