2019年8月21日水曜日

青山通りを歩く

8月16日、渋谷駅は相変わらず工事中。
いつまで続くのだろう。

そういえば教養で同じクラスだった渡邊功氏が、文芸春秋2019年5月号「同級生交歓」に出ていた。そうそう、岡山県、井原高校だった。ちゃんと覚えている。
かれは理ニから工学部の都市工学に進学したが、それきり会っていない。東急の専務取締役として渋谷駅の再開発にも関わっているようで、東横線ホーム跡地に完成した駅ビル、渋谷ストリームでの写真だった。
寮生だったが43年も経って私のことをおぼえているだろうか。

やっとのことで迷路のような駅から出る。
宮益坂下交差点。
角のりそな銀行(旧協和銀行)は上京して入学手続するとき、納付金を振り込んだ。
人生最初に入った銀行だろう。このときすでに寮に入っていたと思う。

最初にこの道を歩いたのは、大学入学して1か月後。
寮に寝ていたら同級生の松元隆がいきなり訪ねてきた。
上京後初めての友人の一人で、都会育ちだった。
神宮に野球を見に行こうという。
渋谷まで歩いたか井の頭線に乗ったか、青山通りを歩いたのは行きだったか帰りだったか往復だったか忘れたが、とにかくこの日、青山通りを歩いた。

宮益坂上で青山通り、国道246号に合流。

子どもの城がフェンスで閉鎖されていた。
厚生省によって1985年11月に開館。2015年閉館。
舛添知事が跡地に都立広尾病院を移設、新築しようとしたが、辞職、小池知事が計画撤回したままになっている。
東隣にみえる階段状の建物は国連大学。こちらのほうが「城」っぽい。

1991年3月、長女長男を連れ4人で葛西臨海公園、山田・ぞうさん一家と待ち合わせ。その夜は二子玉川の山田家の社宅に泊まった。(昭和電工の福利厚生は田辺製薬より良かった。)翌日、山田家と一緒に子どもの城に来ている。ビルの中だから森や土など自然はないが、無数のプラスチックボールの詰まった中を泳いで喜んでいた。

「子どもの城」跡の前は今や箱根で有名な青山学院大学。
高層ビル校舎が、少子化対策、相模原からの都心回帰を物語っている。

最初で最後に来たのは1975年か76年。
学園祭に来た。
もちろんナンパしようと来たのだろうが、たぶん一人で行った気がする。都会的な女子学生に田舎者はどうしていいか分からず、すぐ帰ったのではなかったか。
実測東京全図 明治11年
青学の敷地は松平左京太夫、伊予西条藩3万石
明治後、開拓使1号用地とある。
青学の前身、東京英和学校が開拓使農事試験場第二官園跡地に来たのは1883年。

1885年には渋谷駅が開業したが、市内ではなく南豊島郡中渋谷村。
渋谷町が千駄ヶ谷町、代々幡町とともに東京市に編入され渋谷区になったのは1932年。
両方合わせてAoビル(アオビル)というらしい。
さすがに青山通りはオシャレな建物が多い。

南青山の路地に入ると、二階建ての小さな建物が並ぶが、美容院、ブティック、レストランなどきれいな店が多い。こんな格好で歩く老人は場違い。
ギャラリー、サロンドフルール
この日は堀内M君の絵をみにきた。
学習院関係者のサークルによる「縁展」。

青山通りに戻ると、表参道との角に行列。
紅茶リプトンのフルーツインティー

自撮りが便利なのは、彼らにカメラを向けていると悟られないこと。
ただし構図が決めにくく、しばしば何を撮ったか分からないが。

表参道交差点。
渡った角には有名な山陽道書店

ポルシェの入った新青山東急ビル

そうだ、青山通りを自転車で走ったことがある。
1977年3月末、寮を出て本駒込の木造老朽アパートに移った。
長野の親がライトバンで上京し、布団、本、服を運んでくれた。自転車だけ入らず、後日、一人で運んだ道が青山通りだった。
上が青、下が緑というその後10年くらい使うジャージに身を包み、リックサックを背負い、天気は良かったが、上り下りが多くて難儀した。
青山御所の石垣は覚えている。
何処で曲がったか。
坂道を下って、高速道路が上を走る大交差点(赤坂見附)を通った記憶があるから、三宅坂まで登り、内堀通りを神保町に出て、水道橋をわたり、農学部前か白山上で本郷通りに入ったのではなかろうか。

高校時代から乗っていた自転車で、長野から父が運んでくれたものだったが、不思議と駒場周辺で走った記憶がない。下北沢、渋谷は歩いていた。
若いときは町の探検などに興味がなかった。
しかしその後、谷根千では通学で乗ることになる。

神宮外苑入り口の角。
60年の人生で二、三度しか来なかった青山通りでこの景色だけ記憶にある。
それは夜だったが、なぜここに来たか全く思い出せない。
伊藤忠青山アートスクエアというらしい。
地図を見たら隣が伊藤忠本社ビル。

神宮外苑は信濃町、千駄ヶ谷、絵画館など、北側はよく来る。
しかしこちらの青山方面はさっぱり。

伊藤忠本社の裏あたりが秩父宮ラグビー場。行ったことはないけど。
その裏が神宮球場。
そういえば上京一か月後に行った六大学野球、
当時は学内にチアガールのチームがなかった。
この日、焦げ茶色のユニフォーム、実践女子大チアガールの可愛らしい笑顔を見た。
復元江戸情報地図(小学館)
外苑つまり戦前の青山練兵場は、江戸時代に大名屋敷でもあったかと思ったが、ほとんど旗本、御家人の居住地だった。明治維新で彼らがそっくり自主的に立ち退いたのは、現代から考えると驚きである。

ホンダの本社ビル。
ガラスが割れても下に落ちないようにか、階ごとベランダのようなものがある。

青山御所
紀州56万石の御住居屋敷。なお別に上屋敷が紀尾井町にあった。

不思議なのは明治11年の地図で青山御所と書かれていること。
青山は大名の名である。紀州御所、徳川御所と同じではないか。
赤坂御所とかあったろうに。
ああ青山はすでに地名になっていたのか。嘉永6年の江戸切絵図でタイトルが「東都青山絵図」になっている。

青山通りの北(赤坂御所と外苑の間)に丹波篠山6万石、青山宗家の中屋敷、
南の青山霊園のところに郡上八幡4万8千石、青山分家の下屋敷があった。

別ブログ
2019-02-11 渋谷駅1 東横線のホーム、ヒカリエ、埼京線

2019年8月19日月曜日

懐古園の地形

8月13日、軽井沢からしなの鉄道に乗って小諸着 9:14。

駅のすぐ北、地下道で線路を西にくぐると三の門。
ふつうは城下町というくらい、町は城の下に広がるものだが。
しかし小諸は城が町より下にあり、穴城とも呼ばれる。
9:21
散策券300円。かつては無料だった。
この先が二の門跡

小諸城は浅間山麓から千曲川に下る斜面にある。
南西の千曲川が断崖であるのは良いが、北東の北国街道や城下町は地続きでしかも坂上になるから攻められそう。


小諸藩初代城主は秀吉の家臣だった仙石秀久5万石。
以後、松平(久松)、青山、酒井、西尾、松平(大給)とつづく。
元禄15年(1702年)に越後長岡の牧野家の分家格として牧野康重がはいり、この家が明治まで続いた。
9:28
水の手展望台に立つと小諸城の重要さが分かる。
甲信国境に発する千曲川は小諸で大きく折れる。
左は甲斐につながる佐久平、右は北信濃、越後につながる上田方面を断崖の上から見渡せる。城下町より低いことなど欠点にもならない。

北国街道、佐久街道の合流地点だけでなく、中山道も近い。
古くから交通の要所でもあったから、早くから砦、城はあっただろう。
現在の縄張りは、信玄の軍師であった山本勘助によるものだとされる。さらに小田原征伐のあと仙石秀久が入城し、石垣を用いた天守台など近世城郭に仕上げた。
1976-12-29 たぶん水の手展望台から
上田方面

最初に来たのは小学校高学年か中学生の頃か。
農作業が一段落した日に、中野から父母弟妹と5人でドライブに来た。
車はふだん出荷などで使うライトバンだっただろう。
祖父母は留守番。土日もなく働く父母にとって初めての家族団らんだったのではなかろうか。
カイコ園と聞いて蚕でも飼っている場所だと思った。
懐古の字を知ったのはそれから数年後。

二度目は1976年の年末、大学2年のとき。
帰省途中に高倉と小淵沢駅で落ち合った。
(ホームに雪が舞っていて、イルカ「なごり雪」を聞くとこの時を思い出す。)
そして小海線川上村の由井克之の家に遊びに行った。夜、山梨大の由井兄上とポーカーをやり、由井はオルガンを弾き、3人で川の字になって寝た。電気行火のスイッチとコードが高倉と私とで交差していて、彼は寒いと強くし、私は熱いと弱にした。
翌日長野に行く途中、小諸駅での列車待ち時間で懐古園に立ち寄った。
 
1976-12-29

酔月橋から水の手展望台をみる

3回目の懐古園は2006年5月3日。
2月に切除不能がんが見つかった父の見舞いをかねて、一家5人で叔父の車を借りて帰省した。
佐久ICで高速を降りて懐古園に立ち寄る。
北口料金所。ここはよく覚えている。
2006年、朝あまりに早くて料金所には誰もいなかったので、そのまま入った。
前夜、私は3番目(次女)と喧嘩した。
ずっと口を利かなかったのだが、酔月橋で断崖の空堀を渡り、石垣の本丸までいくと、中学2年の彼女は
「私、ここ好きかも」といった。

この城は、何本もの谷が並行して千曲川に向かって落ち、その谷と谷の間に天守台はじめ建屋がある。南に開いた谷なので、平城のような水を湛えた濠は作れない。
水がなくてもこれだけの断崖なら防御力は十分。

自然地形にしては川がないのに深すぎる。掘ったにしては谷どうしが並行で近すぎ、デザイン性がない。中間仮説として、浅い谷状の低地を深く掘ったものだろうか。
鹿島神社

小諸出身の文化勲章画家、小山敬三美術館のまえに小諸郷土博物館がある。
2009年から閉館しているらしい。
9:34
父母らと一緒に初めて懐古園に来たとき、ここは火山博物館と言った。
二階に上がると大きなジオラマがあり、北側に開いた窓からは浅間山が大きく見えた。
着工 1967年11月 竣工 1968年3月とある。

私は1968年4月に小学校6年になったから、家族で来たのは完成直後か、翌年私が中学生になってからか。
父の運転は軽井沢から鬼押出しをへて白根山、志賀高原をまわって中野に帰った。

それにしても広い。
松本城など市街にある平城が役所や学校に転用される中、ここは奇跡的に放置された。
小諸市人口4万2千人。
谷を埋めて市街地にするほど土地不足でもなく、博物館や官庁を建てるほどの中核都市でもなかった。

富士見展望台。
佐久の向こうは甲州、諏訪に通じる。

白鶴橋で木谷を渡って動物園へ。
信玄以前、ここにあった古い城は乙女城、または白鶴城といったらしい。

9:43
子どものころ中野から来たときは、 石垣や掘割などに興味なく、動物園が一番の見どころだった。
珍しく人が集まっている小屋があると思ったらライオン。
しかし雌だった。動物園にオスを期待してしまうのは私だけではないだろう。

陸ガメ
今の子供はテレビはじめ色んな娯楽があるから昔と同じように喜んでくれるだろうか。

この景色は子どものころ初めて来たときの記憶に近い。

徳川秀忠が3万8千を率いて中山道を関ヶ原に進んだとき、仙石秀久が小諸城二の丸に本陣を作って秀忠を迎えた。
ここで上田の真田昌幸が挑発する。
秀忠は上田城開城を迫るも、のらりくらりと返事を先延ばしされ激怒、攻撃を命じる。ところがわずか3千5百の真田軍に翻弄され決着がつかず、小諸城内にあった海応院の住職が仲立ちし真田と和睦した。
秀忠が関が原に間に合わなかったのは、真田によって小諸に10日間足止めされたことが理由とされる。

もし、西軍が勝っていたら3万8千の大軍を単独で無力にしたということで、真田は宇喜多、小西、石田など西軍の並み居る武将よりも、ずっと大きな働きをしたといえるのではないか?
9:49 秀忠腰掛の石

駅に戻り切符を買うと10:03の長野行き発車まで数分あった。
急いで駅そば市街地にある大手門をみにいく。
9:56

こうしてみると三の丸と二の丸の間を鉄道がとおっている。
そこから北が市街地になったようだ。
懐古園にある鹿嶋神社は明治以降に鹿嶋曲輪から移設したものだろう。

9:58
大手門は本丸から数えて4番目なので四の門ともいう。
三の門までつなげて整備したら松本など比べ物にならない大城郭になる。
天守閣がないというだけで観光客がこれほどすくないものかと驚いた。

(8月27日追記)

なぜ小諸城址でなくて懐古園か?

小諸城は1872(明治5)年、東京鎮台上田分営により競売にかけられた。
建物は解体か移築。土地も本丸跡は小諸藩士が落札、彼らは1880年、跡地に歴代牧野藩主を祀る懐古神社を建立、周辺を懐古園とした。
1887年には地元名士による「懐古園無尽」が結成され、維持管理されるようになり、1923年には旧小諸藩領60余町村からの賛助を得て園内整備を実施した。
1926年、小諸町長が大公園化計画を立て、一部を公有地化、本多静六に調査を依頼した。
長野県初の動物園もでき、1936(昭和11)年には年間入場者30万人突破、全国の公園入場者数で10位になった。

つまり、懐古園という名前で戦前から有名になってしまったのである。

1937年に拡張計画があったが、当初予定された大運動場とテニスコート、水泳場は城内に設けず、空堀、石垣、植栽はなるべく保存し、城郭本来の性質を尊重しようとしたのは注目に値する。

参考 山東丈洋 懐古園の変遷について(2016)

2019年8月18日日曜日

信越本線と寿製薬

8月13日、上野から長野まで、各駅停車の旅は続いている。
線路のなくなった碓氷峠は連絡バス。
横川駅発 8:10、軽井沢駅着 8:44 
昔の列車でも17分かかったから、あまり変わらない。

軽井沢は通過するところなので駅に下りたことはほとんどない。
木内文之氏(1987)、由井克之氏(1988)の結婚披露宴(プリンスホテル)以来か。
当時は橋上駅ではなく、北口しかなかった。
不動産屋など店舗がぽつぽつ、冴えない駅前だった。
駅の南はゴルフ場だっただろうか、なにもなく、南に行くには西の踏切までぐるっと回らねばならなかった。

軽井沢駅からしなの鉄道に乗る。
かつての信越本線。
1997年10月長野新幹線が開業でこの路線は第3セクターとなった。線路も完全にここで切れ、上野・長野を行き来する旅行者とは縁が切れた。
地元のためだけの鉄道となる。

しかし、東北信の人々にとってこの路線と各駅は、明治以来特別だった。
そもそも「信濃の国」の結びとなる6番の歌詞は、まさに碓氷峠と信越本線を詠んでいる。

    吾妻はやとし日本武 嘆き給いし碓氷山
    穿つトンネル 二十六 夢にもこゆる汽車のみち
    みち一筋に学びなば 昔の人にや劣るべき
    古来山河の秀でたる 国は偉人のある習い

歌詞の作られたのが、軽井沢・横川間の鉄道開通のすぐ後ということもあるが、26の隧道の出口、明かりの先に東京があるという事実に、立身出世主義というか、若者への激励を読み込んだ。
「みち一筋」をかけ言葉のように使う浅井烈の歌詞は好きだ。
正反対の自堕落な人生を送ってしまったが。

物心ついて碓氷峠、26のトンネルを越えたのは1974年夏の大学下見が初めて。
たぶん長野発 10:04 の急行信州3号。

年が明けて75年3月の大学入試でもこの列車に乗った。
驚いたのは、それまでどんよりとした曇り空に枯れた樹木、残雪、白と黒だった景色が、いくつかトンネルを越えて群馬県に出たとたんに、乾いた土に降り注ぐ日差し、ところどころに緑の見える畑に変わったことである。
教科書どおり、屏風のような山脈が太平洋側と日本海側を区切っていることを実感するとともに、これからの不安と期待を思ったものだった。

そんな記憶と関係なく、44年後のこの日は、軽井沢というのに東京のような暑さ。
しかも軽井沢発長野行きという多くの思い出とは逆方向の、朝 8:52発。
これでは情緒が半減するが仕方ない。
地元高校生やら別荘滞在らしい老夫婦やら、乗客はいろいろ。ワンマン運転。

 1 軽井沢 8:52
 2 中軽井沢(父は沓掛といった)
3 信濃追分
 4 御代田 (旧小田井宿)
 5 平原
 6 小諸着  9:14

平原(1952開業)以外の駅は中山道、北国街道の宿場に一致する。

上州の日差し・乾いた土とともに信越線で覚えているのは胡桃林。
北側の窓は浅間、南側に座ればクルミの林。
いまもクルミの樹は民家の脇など所々にあるのだが、林(畑)になっていない。
思えば40年も前のことだ。人と同じ。
老木で伐採され、蔬菜畑になったか宅地になったか。
小諸駅9:18
駅のロビーが野菜売り場

懐かしの懐古園、小諸城による。
駅は北東向き。
大きなビルもなく、かといって古い建物もない。
9:21
小諸城址は別ブログ

城内ぐるっとまわって、駅に戻り切符を買うと長野行き発車まで数分あった。
急いで大手門を見に行く。
9:56
地方小都市の駅前はどこもさびれている。

こうしてみると三の丸と二の丸の間を鉄道がとおっている。
そこから北が市街地になったようだ。

9:58 大手門
急いで戻り、長野行きに乗る。
6 小諸発 10:03 
7 滋野駅
8 田中駅
9 大屋駅
10 信濃国分寺駅 
11 上田駅

滋野、田中あたりはかつて東部町と言った。
2004年に東御市ができたと聞いたとき、東部町と御代田町が合併したと思ったが、間に小諸があった。「御」は北御牧村だった。
信州を離れて44年、各駅停車に乗ったのも35年以上前。
この間に頭の中の御代田の場所を訂正する機会がなかった。

信濃国分寺なんていう駅は初めて聞く。2002年開業。
鉄道も地元密着企業になったから、自治体が資金さえ出せば新駅は造りやすいようだ。

上田を出ると河岸段丘の上に見えた上田城のやぐらは健在だが、新幹線のコンクリートが景観を損ねている。新幹線からはよりよく見えるということか。

12 西上田駅
13 テクノさかき駅 

西上田を過ぎると北側から岩山が迫り、国道18号も信越本線も千曲川に落ちそうな狭い間を通る。
新幹線も高速道路もトンネルで通過するから、この急峻な岩盤、すっかり忘れていた。

テクノさかき?カタカナとひらがなの駅は1999年開業。
新幹線に乗っていると気づかないことばかり。
10:37
中央の三角の山は中野から車で上京するとき千曲川に向かって切り立っている。
父は武田信玄ののろしの山だといったが史実は知らない。

10:38
西上田の崖と坂城のあいだ、川の向こうに寿製薬。
昔と同じように社屋に看板。
右(北)が「コトブキ製薬」、南が「研究所」と見えた。

1980年夏、薬学の修士2年、まだ長野での就職を考えていた。
当然帰省するたびに車窓から見ていたこの会社が第一候補だった。
研究室の海老塚先生の同級生富山格氏が社長。

長野高校の先輩で千葉大薬学をでた本堂まなみさんがここに就職されていることを知り、長野駅でお会いして話を聞いたことがあった。

会社の募集パンフレットを見ると研究所のところに備品一覧があって、
「・・・、凍結乾燥器、合成用具一式、・・・」とあった。
写真ではNMRなどもありそうな感じだったが、この書き方はない。
社屋の写真で看板が「コトブキセイヤク」「ケンキウジヨ」とあるのをみた友人は、止めた方がいいと言った。ケンキュウジョなら良かったのだろうか。

夏休み中、実験の合間に短パンのまま就職担当だった広部雅昭先生の教授室を訪ねた。
「信州なら寿製薬よりキッセイ薬品のほうがいい。小林通洋(ツウヨウ)は僕の友人だ」とおっしゃった。
そうこうするうちに研究室の先輩、田辺製薬の中野さんがリクルートに来て、そのまま決めてしまった。のどかな時代である。

14 坂城駅
15 戸倉駅
16 千曲駅 

坂城駅のあたり、国道18号は堤防のようなところを走った。
そこにドライブインがあり、すぐ裏が千曲川だった。水たまりで大きなハヤを二回くらいつかまえたことがある。
いま高速道路のサービスエリアはどこも同じで便利、安心だが、昔は特徴あるドライブインがけっこうあった。東部町の「ルート18」とか懐かしい。

千曲駅も聞いたことがない。2009年開業という。
簡易委託駅で、千曲市が窓口業務を行っているらしい。
千曲市は2003年 更埴市、更級郡上山田町、埴科郡戸倉町が合併してできた。すべて更級郡と埴科郡なのだから郡名・歴史を残すためにも更埴市のままでも良かったのに。

17 屋代駅
18 屋代高校前駅 2001年開業

新駅、屋代高校前駅をすぎ、千曲川を渡ると右から新幹線の高架がきて、そのまま長野駅まで並走する。
新幹線で何回通っても、下に在来線が通っているとは知らなかった。
一方、在来線の人は毎日鬱陶しいものが上にあることを感じている。

19 篠ノ井駅
20 今井駅 1997 開業
21 川中島駅
22 安茂里駅 1985無人駅として開業
23 長野駅

今井、安茂里と昔はなかった駅をすぎ、裾花川をわたるとマルコメ味噌、
長野駅は 11:07着

上野を 5:13に出たから6時間。
途中横川、小諸で散策しなければ昔のように5時間くらいかもしれないが、碓氷峠バスが1日4便しかなく、移動には使いづらい。
運賃は4420円、1時間40分の新幹線より3000円ほど安いが。

長野も猛暑。
長野電鉄の発車時刻までうろうろする。
11:24
お寺のような、大きな屋根の駅舎もよかったけどな。
今は機能重視の真四角。
隈研吾のデザインは、近くで見ないと木材を使ったことが分からない。

長野電鉄の改札前、野菜販売所。
切符改札の駅員さんにお金を払うと袋に入れてくれる。

11:37 長野電鉄地下ホーム
地下になったのは上京して6年経った1981年3月。
地上駅だったころの景色をなんとか思い出そうとするが出てこない。
高校の最寄り駅は本郷か飯山線北長野駅だったから、あまり降りなかった。
しかし記憶は脳のどこかにあるはずだ。

信州中野、岩船の実家到着は12:45 
猛暑。
老母のかわりに、弟夫婦がおやきをふるまってくれた。

別ブログ
20190817 横川からバスで碓井越え
20190819 懐古園の地形