2019年8月19日月曜日

懐古園の地形

8月13日、軽井沢からしなの鉄道に乗って小諸着 9:14。

駅のすぐ北、地下道で線路を西にくぐると三の門。
ふつうは城下町というくらい、町は城の下に広がるものだが。
しかし小諸は城が町より下にあり、穴城とも呼ばれる。
9:21
散策券300円。かつては無料だった。
この先が二の門跡

小諸城は浅間山麓から千曲川に下る斜面にある。
南西の千曲川が断崖であるのは良いが、北東の北国街道や城下町は地続きでしかも坂上になるから攻められそう。


小諸藩初代城主は秀吉の家臣だった仙石秀久5万石。
以後、松平(久松)、青山、酒井、西尾、松平(大給)とつづく。
元禄15年(1702年)に越後長岡の牧野家の分家格として牧野康重がはいり、この家が明治まで続いた。
9:28
水の手展望台に立つと小諸城の重要さが分かる。
甲信国境に発する千曲川は小諸で大きく折れる。
左は甲斐につながる佐久平、右は北信濃、越後につながる上田方面を断崖の上から見渡せる。城下町より低いことなど欠点にもならない。

北国街道、佐久街道の合流地点だけでなく、中山道も近い。
古くから交通の要所でもあったから、早くから砦、城はあっただろう。
現在の縄張りは、信玄の軍師であった山本勘助によるものだとされる。さらに小田原征伐のあと仙石秀久が入城し、石垣を用いた天守台など近世城郭に仕上げた。
1976-12-29 たぶん水の手展望台から
上田方面

最初に来たのは小学校高学年か中学生の頃か。
農作業が一段落した日に、中野から父母弟妹と5人でドライブに来た。
車はふだん出荷などで使うライトバンだっただろう。
祖父母は留守番。土日もなく働く父母にとって初めての家族団らんだったのではなかろうか。
カイコ園と聞いて蚕でも飼っている場所だと思った。
懐古の字を知ったのはそれから数年後。

二度目は1976年の年末、大学2年のとき。
帰省途中に高倉と小淵沢駅で落ち合った。
(ホームに雪が舞っていて、イルカ「なごり雪」を聞くとこの時を思い出す。)
そして小海線川上村の由井克之の家に遊びに行った。夜、山梨大の由井兄上とポーカーをやり、由井はオルガンを弾き、3人で川の字になって寝た。電気行火のスイッチとコードが高倉と私とで交差していて、彼は寒いと強くし、私は熱いと弱にした。
翌日長野に行く途中、小諸駅での列車待ち時間で懐古園に立ち寄った。
 
1976-12-29

酔月橋から水の手展望台をみる

3回目の懐古園は2006年5月3日。
2月に切除不能がんが見つかった父の見舞いをかねて、一家5人で叔父の車を借りて帰省した。
佐久ICで高速を降りて懐古園に立ち寄る。
北口料金所。ここはよく覚えている。
2006年、朝あまりに早くて料金所には誰もいなかったので、そのまま入った。
前夜、私は3番目(次女)と喧嘩した。
ずっと口を利かなかったのだが、酔月橋で断崖の空堀を渡り、石垣の本丸までいくと、中学2年の彼女は
「私、ここ好きかも」といった。

この城は、何本もの谷が並行して千曲川に向かって落ち、その谷と谷の間に天守台はじめ建屋がある。南に開いた谷なので、平城のような水を湛えた濠は作れない。
水がなくてもこれだけの断崖なら防御力は十分。

自然地形にしては川がないのに深すぎる。掘ったにしては谷どうしが並行で近すぎ、デザイン性がない。中間仮説として、浅い谷状の低地を深く掘ったものだろうか。
鹿島神社

小諸出身の文化勲章画家、小山敬三美術館のまえに小諸郷土博物館がある。
2009年から閉館しているらしい。
9:34
父母らと一緒に初めて懐古園に来たとき、ここは火山博物館と言った。
二階に上がると大きなジオラマがあり、北側に開いた窓からは浅間山が大きく見えた。
着工 1967年11月 竣工 1968年3月とある。

私は1968年4月に小学校6年になったから、家族で来たのは完成直後か、翌年私が中学生になってからか。
父の運転は軽井沢から鬼押出しをへて白根山、志賀高原をまわって中野に帰った。

それにしても広い。
松本城など市街にある平城が役所や学校に転用される中、ここは奇跡的に放置された。
小諸市人口4万2千人。
谷を埋めて市街地にするほど土地不足でもなく、博物館や官庁を建てるほどの中核都市でもなかった。

富士見展望台。
佐久の向こうは甲州、諏訪に通じる。

白鶴橋で木谷を渡って動物園へ。
信玄以前、ここにあった古い城は乙女城、または白鶴城といったらしい。

9:43
子どものころ中野から来たときは、 石垣や掘割などに興味なく、動物園が一番の見どころだった。
珍しく人が集まっている小屋があると思ったらライオン。
しかし雌だった。動物園にオスを期待してしまうのは私だけではないだろう。

陸ガメ
今の子供はテレビはじめ色んな娯楽があるから昔と同じように喜んでくれるだろうか。

この景色は子どものころ初めて来たときの記憶に近い。

徳川秀忠が3万8千を率いて中山道を関ヶ原に進んだとき、仙石秀久が小諸城二の丸に本陣を作って秀忠を迎えた。
ここで上田の真田昌幸が挑発する。
秀忠は上田城開城を迫るも、のらりくらりと返事を先延ばしされ激怒、攻撃を命じる。ところがわずか3千5百の真田軍に翻弄され決着がつかず、小諸城内にあった海応院の住職が仲立ちし真田と和睦した。
秀忠が関が原に間に合わなかったのは、真田によって小諸に10日間足止めされたことが理由とされる。

もし、西軍が勝っていたら3万8千の大軍を単独で無力にしたということで、真田は宇喜多、小西、石田など西軍の並み居る武将よりも、ずっと大きな働きをしたといえるのではないか?
9:49 秀忠腰掛の石

駅に戻り切符を買うと10:03の長野行き発車まで数分あった。
急いで駅そば市街地にある大手門をみにいく。
9:56

こうしてみると三の丸と二の丸の間を鉄道がとおっている。
そこから北が市街地になったようだ。
懐古園にある鹿嶋神社は明治以降に鹿嶋曲輪から移設したものだろう。

9:58
大手門は本丸から数えて4番目なので四の門ともいう。
三の門までつなげて整備したら松本など比べ物にならない大城郭になる。
天守閣がないというだけで観光客がこれほどすくないものかと驚いた。

(8月27日追記)

なぜ小諸城址でなくて懐古園か?

小諸城は1872(明治5)年、東京鎮台上田分営により競売にかけられた。
建物は解体か移築。土地も本丸跡は小諸藩士が落札、彼らは1880年、跡地に歴代牧野藩主を祀る懐古神社を建立、周辺を懐古園とした。
1887年には地元名士による「懐古園無尽」が結成され、維持管理されるようになり、1923年には旧小諸藩領60余町村からの賛助を得て園内整備を実施した。
1926年、小諸町長が大公園化計画を立て、一部を公有地化、本多静六に調査を依頼した。
長野県初の動物園もでき、1936(昭和11)年には年間入場者30万人突破、全国の公園入場者数で10位になった。

つまり、懐古園という名前で戦前から有名になってしまったのである。

1937年に拡張計画があったが、当初予定された大運動場とテニスコート、水泳場は城内に設けず、空堀、石垣、植栽はなるべく保存し、城郭本来の性質を尊重しようとしたのは注目に値する。

参考 山東丈洋 懐古園の変遷について(2016)

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