4月に、京成電鉄のお花茶屋に初めて降りて、葛飾区立博物館に行ったことを書いた。
そこでは古墳時代から鎌倉、室町、戦国、江戸時代の葛飾区について展示されていた。
帰宅して葛飾について考え、途中まで書いていたので足してアップする。
葛飾と聞いて何を思うか。
東京の人は葛飾区だが、千葉、埼玉の人は葛飾郡だろう。
千葉県の名門公立高校御三家は千葉、船橋、東葛飾高校(トーカツ)である。
埼玉には北葛飾郡がある。
あとは葛飾北斎か。
北斎(1760 - 1849)は本所で生まれた。本所は今の墨田区である。
名前の通り、かつて隅田川の向こう、本所は葛飾郡であった。しかし、すでに江戸時代から(明暦の大火以降)深川とともに市街地となり、町奉行の支配を受ける「府内」になっていた。討ち入りされた吉良上野介の屋敷、弘前藩上屋敷もあり、勝海舟も本所で生まれている。
明治11年 東京市ができたとき。
隅田川の東、すなわち葛飾郡は田畑がひろがっている。
このあたりは東京府南葛飾郡の隅田村、寺島村である。のちに市街化され、昭和7年になると東京市向島区となり、戦後は下流の本所区と合併して墨田区となった。
あらためて葛飾郡について書いておく。
12:44
古代国家の時代(葛飾区立博物館)
いまの東京葛飾区は下総国葛飾郡に属し、下総国府も葛飾郡にあった(いまの市川市国府台)。
葛飾郡の「郡」という単位は律令制で導入された。
すなわち、国―郡―里(時代が下ると郷)という行政区分ができた。
しかし郷は平安時代までで、江戸時代は郡の下は今でいう部落のような「村」だった。
だから生活感覚でいうと郡がいちばん重要な地理的区分だっただろう。
東京近辺の郡を考えてみる。
利根川、荒川が枝分かれしたり合流したりして東京湾に流れ込んでいた地域は、郡の境は川だった。西から足立郡、埼玉郡(武蔵)、葛飾郡(下総)は川に沿って下流から上流まで短冊のように細長い。群馬や栃木の近くまで伸びている。すなわち、
北足立郡は鴻巣まで、北埼玉郡は行田、羽生まで、北葛飾郡は三郷から幸手、西葛飾郡は栗橋、古河あたりまで伸びている。日本郡地図Ver.1.1.10(郡地図研究会)
20260425 お花茶屋の曳舟川遊歩道と葛飾区立博物館
この3郡の南部をいまの埼玉県南部でみてみる。
すなわち草加は北足立郡、隣りの八潮、越谷は南埼玉郡、また隣の三郷、吉川、松伏は北葛飾郡である。
さて、上の郡地図は明治中期時点であるが、江戸時代までの令制国で色分けされている。
北葛飾郡(三郷、吉川)は武蔵、東葛飾郡(浦安から松戸、流山、野田まで)は下総である。
国の下に郡があるはずなのに、葛飾郡が武蔵と下総にわかれている。なぜか。
さきに律令制では葛飾郡はすべて下総国であったことを述べた。
定義からして当然である。武蔵と下総の境は両国橋という名から分かるように、隅田川が武蔵と下総の境だった。
(当たり前だが両国の町名は橋の名からつけられたのであり、橋がなければ両国という町名は成立しない)
ちなみに、隅田川の西岸、浅草は武蔵国豊島郡だった。
(今の中央区、千代田区、港区ももとは豊島郡である。しかし江戸時代は町奉行支配地、明治になると東京市になったから豊島郡の名前は行政にも町民の会話にも出てこない。)
ところが、江戸時代に利根川(今の江戸川)の西の葛飾郡は武蔵に編入された。ここで大葛飾郡が二分された。
(律令制はとっくになくなっていても、村の所属郡や令制国の境界変更などは幕府が行ったらしい)
ちなみに、郡のグンは明治以降に統一された呼び方で、当時はコオリ、ゴオリと呼ばれた。(子供のころ、祖父は昔の住所・下高井郡平野村大字岩船は、明治の初めはタカイゴオリ岩船村だったと教えてくれた。50戸ほどで構成されていた岩船村のすぐ上の単位は北信濃に大きく広がる高井郡だった。)
ところで葛西という駅がある。
大葛飾郡が江戸時代に武蔵・下総の境で二分されて葛西、葛東となったわけではない。
なぜなら平安時代末期、下総国葛飾郡の南西部を秩父氏の一族豊島氏の庶流が領有して葛西氏の祖となったからである。地名は常に苗字より先である。葛西氏は鎌倉幕府初期の有力御家人だったが、奥州にうつったことは前のブログに書いた。
大葛西郡に話を戻す。
明治になって武蔵は小さな県に分割され、さらに統合されて埼玉県と東京府に、また下総も千葉県と茨城県に分割された。
1878年11月、郡区町村編制法により東京府(1871年12月成立)に編入されていた村々が南葛飾郡となり、残りの広大な(細長い)部分は中、西、東、北、と5つに分割され、さらにそれらは埼玉、千葉県に所属させられた。
南葛飾郡は昭和になって向島、城東、葛飾、江戸川区となり東京市の一部となり郡は消滅した。(前2者は戦後、本所、深川区と合併し墨田区、江東区となった。)
ちなみに同日、東京府では荏原郡、豊多摩郡、北豊島郡・南足立郡も消滅した。
昔、北足立郡伊奈町に住んでいた時、南(足立区)と北とではずいぶん面積に差があることを最初、不思議に思った。これは足立郡を南北に分けたのではなく、もともと分かれていたもの(東京、埼玉)に南、北をつけただけだったのである。
葛飾郡に話を戻すと、
北葛飾郡は1879年、東京府より1年遅れて埼玉県でも郡区町村編制法が施行されて、発足した。すなわち、武蔵国にあたる部分(これも細長かった)の東京部分が南になったから残った埼玉部分を北にしただけである。事情は足立郡と全く同じであるから、北葛飾郡は細長く幸手のほうまで伸びている。
下総部分の葛飾郡は千葉県、茨城県、埼玉県となった。このうち、千葉県に属するところを1878年11月そっくり東葛飾郡とした。すなわち、東京湾の行徳から柏、松戸、そして千葉県の角といわれる関宿までずいぶん細長い。
西葛飾郡は茨城県部分だが、1878年成立、古河が中心だったが猿島郡と郡役所は一緒で境町に置かれ1896年に猿島郡に吸収され消滅した。
中葛飾郡は、埼玉県になった部分である。
すなわち江戸期の利根川東遷事業によって利根川西岸となった地域のうち、武蔵国に編入されなかった部分、すなわち下総であったが明治後に埼玉となった部分である。すなわち幸手、杉戸、春日部のあたりである。
こうしてみると葛飾郡の東西南北中が実際の方角と大いにずれ、かつ大小さまざま、形も悪い。
これは一度に葛飾郡をきれいに分けて命名したのでなく、武蔵・下総、東京千葉埼玉茨城によって分割されたという、複雑な経緯による。
葛飾郡は明治に西が、昭和になって南が消滅しても東京近郊では依然大きな存在であった。しかし戦後、町村が合併して市が成立し、どんどん郡域は減り、東も中も消滅、今残っているのは北葛飾郡杉戸町、松伏町だけである。ここが隣の市に合併すれば葛飾という地名は消滅する。
奈良時代以降、歴史的に最も長い地域区分であった「郡」は東京近郊で消滅しつつある。
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