2026年1月13日火曜日

都営三田線と高島平の今昔、徹夜バイトと稲刈り

あまりにも暇なので、板橋の志村城跡、赤塚城跡に行ってみようと思った。

1月6日 快晴だが寒い。
13:20 家を出る。
都営三田線の千石駅を目指したが、歩き始めて白山駅のほうが近かったかな、と少し後悔した。それでも寒いと足が自然と速くなる。13:36にはホームに立っていた。

電車は15分で志村城址のある志村三丁目に到着。
13:56
若いころから三田線はめったに乗らなかったし、いまも乗らない。
しかし、その分、いくつかの記憶がしっかり残っている。

初めて乗ったのはちょうど50年前の昭和50年 (1975)。信州から上京した年だった。
この年、我々は地元の高校を卒業し、様々な方向に一歩を踏みだした。
高校の同級生はほとんど進学した。
中学の同級生は農村地域だったこともあり、1クラス41人のうち、進学したのは短大も含めて数人。多くは就職した。女子は地元が多かったが、東京や名古屋に出るものもいた。

中学のクラスは男女ともみな仲が良かった。高校3年間はいったんばらばらになったが、故郷を離れる日が近づく春休みになると、再び会うようになり、再会を期して連絡先を交換した。上京してからは(当時は個人で電話など持っていなかったから)、手紙のやり取りなどして、新生活を伝え合った。
そのうちの一人、吉見邦夫君が板橋区新河岸にある高砂鉄工に就職していた。

上京して落ち着いた頃、巣鴨から初めて三田線に乗り、西台でおりた。彼の勤務先は新河岸川を渡ったところにあり、部屋は会社の隣にある独身寮だった。個室だったから、駒場寮(3人部屋)より居心地が良さそうだった。
就職してさっそく買ったのか、立派なステレオがあり、中島みゆきの「アザミ嬢のララバイ」やドラマ「太陽にほえろ」のテーマなど聴いた。
彼の部屋には2回ほど行ったが、翌年、彼は故郷に帰ってしまった。
(地元のシンコー電気の工場に転職?)

次に三田線に乗ったのは、2年後の77年か78年。
薬学ボート部の合宿で埼玉の戸田に通っていたころ。実験が終わってから夜に艇庫(合宿所)に入って早朝漕いで、朝食、それから大学に来るのである。
当時は埼京線がなかったから、川口からバスに乗るのだが、川口に行くのさえも面倒だった。そこで三田線の春日から蓮根まで行って、そこから国道17号を延々と歩き、戸田橋を渡った。夏は500か1リットルのパックの牛乳を飲みながら夜の橋を歩いた。

ところで三田線と書いたが、この路線は1978年7月まで正式には都営6号線といった。しかし、一般人はこんな呼び方はしなかっただろう。「巣鴨からの都営地下鉄」とか、「高島平行き地下鉄」とでも言ったのだろうか? 記憶にない。
「三田線」と呼ばれたこともあったかもしれないが、三田駅の開業はこの路線内で一番最後である。
すなわち、
1968年12月:都営6号線として巣鴨 - 志村(現・高島平)開業
1972年6月:巣鴨 -日比谷 間 (7.3 km) 開業。
1973年11月:日比谷 -三田 間 (3.3 km) 開業。

コラムニストの小田嶋隆氏(2022年65歳で死去)は私と同じ年で、開業前の工事中の三田線の線路に(文字通り)もぐりこみ、歩いて怒られた?ようなエッセイを読んだことがある。当時(1972.4₋1975.3)彼が在籍した小石川高校は、白山通りの千石駅の近くである。
西高島平、新高島平、高島平
上は新河岸川と荒川

さて、志村三丁目でおり、志村城址(別ブログ)をみたあと、駅に戻ってふたたび三田線に乗った。
団地が見えてきたとき高島平駅に着いた。
驚いたことに、ホームは2面4線もあった。高架駅でもあり、とても地下鉄駅と思えない。
ホームが4番まであるのは、1968年の開業時(当時は志村駅といった)、終点、車庫も兼ねたからだろう。

翌1969年に高島平駅と改称した。
私が大学2年になった1976年5月には新高島平、西高島平まで1.5キロ延び、中間駅となった。
(このとき三田線という俗称はあったかもしれない。なぜなら「三田線って名前は良くないよな。どこへ行く線路か分からない。丸ノ内線とか日比谷線、千代田線とか、まったく同じような名前でわからない。むかしの路線は東北線とか外房線とか小田急線とか、まともな名前になっている。三田線は高島平線にするべきだ」というような会話を覚えているが、このニュースのあとのような気がするからだ)

*****
いままで、有名な高島平団地は駅を真ん中にして広がっていると思っていた。しかし、上の航空写真で分かるように、団地はすべて線路の南側にある。線路の北側は一般住宅や小規模マンション、商店などが並んでいる。

終点、西高島平についた。
同時にできた2つの駅について、西と新をどちらにするか、少し迷ったかな?
住民も最初はどっちがどっちか分からなかったのではないか?
14:38 西高島平駅
この駅から南の赤塚城址に行く。
前の高島平通りは、広いことに加え、二階構造になっていて、それと交差する南北の道路も首都高と新大宮バイパスと二階構造になっている。
南に渡る歩道橋は二階で立体交差する十字路の巨大コンクリートの間にかけられていた。
14:39
歩道橋から北の笹目橋方面を見る。
上は首都高5号池袋線。

50年前の冬の夜、この場所に立ったことがある。
私の財産(記憶)の一つである。
1975年12月、いまとは全く違う景色だった。
西高島平の駅はなく、首都高もなかった。

当時の写真が国土地理院ライブラリーにあった。
国土地理院 撮影1975-01-12

撮影1975-01-12
駒場寮にきたアルバイトの募集だったと思う。
深夜の交通量調査で1万円だった。当時のアルバイトは時給400円、1日8時間で3200円が相場だったから破格の報酬だった。

夜、当時の最寄り駅だった高島平駅に集合し、マイクロバスで連れて来られたのだろうか。仕事は高島平通りから笹目橋に行く丁字路で、通過する車の数を数える。小さな折りたたみ椅子に座り、数取り器でカチカチ数える。歯もカチカチ鳴った、わけではなくじっと噛みしめて震えていただろう。周りは今と違って建造物が何もなく、ただ、工事中、あるいはできたばかりのような道路だけが広かった。真っ暗な中、たまにヘッドライトを光らせ車が通過していった。
12月の深夜、じっと座る体は冬の北風に冷やされ、そのまま居たら凍死も考えられた。30分交代だったか、エンジン付けっぱなしで暖房したマイクロバスに入って休憩、回復させ、朝まで続けた。薄暗い室内ランプの中でカーラジオから甲斐バンド「裏切りの街角」がかかっていた。この年6月にリリースされた2枚目のシングルだったが「ジングルベルに街が浮足立ったころ~」という歌詞の時期まで続くロングセラー、初のヒットになった。

その2年後、建設中だった首都高、北池袋 - 高島平間は1977年8月に開通。私が座っていた丁字路は十字路となり、笹目橋をわたる新大宮バイパスとつながった。
首都高は1990年11月には新大宮バイパスに沿う形で笹目橋を渡り戸田南まで、1993年10月には東京外環自動車道と接続する美女木JCTまで延び、5号池袋線としては全線開通した。
国土地理院 撮影1992₋11₋02
33年前だが、これはほぼ現在の姿に近い。
笹目橋を渡る首都高もできている。
・・・・
歩道橋を渡り通りの南におりた。
14:44
道路はカーブしている。
高島平通りと首都高で区切られた西高島平は、イメージとは異なり、一戸建てが並ぶ。
もともとは田んぼが広がる地域だったが、1960年代に住宅地にするため区画整理をおこない、このあたりは計画中だった高速道路のカーブに合わせ、道路もカーブして宅地分譲された。

歩道橋から12分ほどで赤塚城址についた。
14:51
14:52
城址公園には板橋区立郷土資料館があった。
入り口に、青銅砲のレプリカが3つほど飾ってある。ははーん、高島秋帆だな。
無料なので入ってみた。

現在は東京23区はたいして差がないが、江戸時代は大名屋敷が並んでいた千代田区や文京区とちがって、板橋区は田畑が広がり、中山道板橋宿しかなかった。
そのため、資料館の展示物は、板橋宿、道祖神、幕末の徳丸ヶ原と高島秋帆、明治になって加賀藩下屋敷跡の陸軍火薬製造所、高度成長時代の高島平団地くらいに限られていた。そのぶん分かり易く、じっくり見られた。
15:17
徳丸ヶ原での砲術訓練

今の高島平は、江戸時代は腰までつかるような湿地帯と沼地が点在する荒川の後背湿地であり、耕作にも適さず、徳丸が原といって幕府の鷹狩場(天領)に指定されていた。
天保12年(1841)5月9日、高島秋帆とその弟子99人は、幕命により徳丸が原で西洋式砲術訓練を披露し、幕末~明治維新期の軍制改革のきっかけをつくったとされる。
彼は長崎の町年寄の三男として生まれ、家督を継いで長崎会所調役頭取となったが、異国船がたびたび来航する時代、国防に目覚め出島のオランダ人から砲術を習った。その後、アヘン戦争で清国が敗れたことで幕府も危機感を持ち、徳丸ヶ原での砲術披露となった。

彼は天保13年、えん罪により逮捕、ペリーが来航した嘉永6年(1853)に罪を許されたが慶応2年(1866)に明治維新を前に死去した。墓は文京区向丘の大圓寺にあり、以前、このブログに書いた。

彼の名は激動の幕末明治に忘れられた。
大正時代に、陸軍を中心に顕彰する動きがあり、徳丸原遺跡碑、紀功碑が建立されたが、彼の名が一躍(地元で)有名になったのは、以下のように高度成長時代の1960年代である。

徳丸ヶ原は明治に入り、豊富な荒川の水資源をもとに耕地化が進み、赤塚田んぼ、徳丸田んぼと称され、昭和初期まで、東京都で生産される米の7割をこの地で占めた。しかし、
23区内で最後まで残った水田地帯も、高度成長時代に入ると上記、高砂鉄工など新河岸川流域の工場進出、台地上の住宅化による地下水の枯渇、家庭排水の流入などで耕作に適さなくなった。というより、一番は東京での住宅の不足が予想されるようになってきた。

当時の写真がある。
国土地理院 撮影1962₋11₋06
幕末には早瀬の渡しがあった荒川も、笹目橋が架かっている。
1960年代になっても地方の米作地帯のように全く人家がなく、一面水田である。
すなわち区画整理が容易であった。

徳丸が原一帯は、1961年頃から宅地開発の計画が出て、当時の日本住宅公団を中心に333ヘクタール(約100万坪)の農地を全て買い上げて新しい町を作る流れができた。
1965年、板橋区都市区画整理事業が決定、しかし人家がなかったから徳丸ヶ原以外の地名はなく、このとき土地権利者を中心とした審議会で新しい地名(住居表示)が検討された。
そして出てきたのが、忘れられていた、というより一般人は誰も知らなかった高島秋帆であった。1968年10月の「板橋区のお知らせ」で高島平と呼ぶことが発表された。
高島平は団地名、駅名ともなり、消えていく地名「徳丸ヶ原」と入れ替わるように有名になっていった。
14階建ての団地が次々と立ち、第一次入居が始まったのは1972年1月である。3月に竣工、総戸数は10,170戸、人口2万人。団地以外の戸建て分譲地などを含めると水田地帯が5万人の一大住宅都市になった。

1960年代まで湿地帯、田んぼだった高島平は人文的な歴史がない。
唯一の例が高島秋帆である。
それゆえ信じられないほど高く広く取り上げられている。
15:21 郷土資料館展示
高島平の幼稚園、学校の園章・校章
13のうち、4つは団地、稲穂をデザインしたものだが、なんと8つが高島家の家紋・重ね四ツ目結をもとにしている。
15:21
各学校の校歌には、徳丸、徳丸ヶ原、秋帆、大筒、などの単語が入り、高島平音頭でも「高島秋帆」が入っているらしい。各学校の開校記念日は天保の昔、演習を行った5月9日に統一されているという。これは知らなかった。ここまで児童、生徒に英雄視させる学校・地区、またその人物は全国的にないのではないか?

・・・・
話は変わるが、1962年の高島平の航空写真を拡大して驚いた。
国土地理院・撮影1962₋11₋06
田んぼの中に稲を干す「はぜ架け」が見える。
背景に里山のような武蔵野台地の崖があるから、これは長野と同じ風景になったはずだ。
1960年代の高島平は東京ではなく、信州に近い農村だったことがわかる。

子どものころ、毎年稲刈りを手伝わされた。というか小学校には稲刈り休みがあった。田植え休みと合わせ、正式には農繁休業といった。

稲は朝から一株ずつ鎌で刈り、何株か合わせて束にして置いていく。午後になるとそれを藁で縛り、夕方、その日に刈ったイネの束を「ハゼ」のところまで運び、高く組んだハゼの上にまたがっている父親に束を投げ上げ、父はそれを並べていく。
後日、ハゼの上で乾燥した稲束は脱穀(稲こき)によって藁束から籾を取り分ける。

小学生の私は手が小さくとも2,3株を連続して刈れるように左手を逆手にして人差し指を下にして刈る方法を編み出した。ところが元気よく刈っているとき、鋭い稲刈り鎌で骨が見えるまで切ってしまった。1960年代の当時は病院にもいかなかった。しばらく膿んでいたが、幸い敗血症とか指の切断には至らなかった。しかし血管が少なくなってしまったその部位は数年、霜焼けになりやすかった。今もその傷が左人差し指に残っている。

何日にもわたる家族総出の手作業による稲刈りだったが、その後、バインダーという農機具が現れた。耕運機のように後ろから進めていくと機械が稲を刈り、同時に紐で稲束を縛って吐き出していく。それをハゼにかけるだけで良い。
そして我が家が田んぼを果樹園にして稲作をやめたころ、他県の大型水田地帯にはコンバインが現れた。これは稲刈りから脱穀まで同時に行い、藁は粉々にして田んぼに振りまいていく。

高島平(当時は徳丸田んぼ)の稲刈りは、私の経験と同じ、手作業の時代で終わった。航空写真の田んぼに並んで立つ「ハゼ掛け」がそれを示す。

話を50年前の高島平に戻す。
徹夜のアルバイトが終わり、我々は朝8時か9時に解放された。
そして国道17号線沿い、三田線の板橋区役所前駅まで送ってもらった。マイクロバスを下りると目の前に区役所庁舎があった。なぜか入って板橋区の地図をもらった。当時の文京区の地図は紛失したが、その地図は奇跡的に残っている。

板橋区民なら面白い地図だろう。
もちろん首都高、埼京線はなく、有楽町線は地下鉄8号線として計画中であり、環八通りは開通していない。川越街道から分かれて笹目橋に行く新大宮バイパス(放射35号)も全通していない。
50年ぶりに開いて裏(表?)を見たら、これは地図として作られたのではなく、「板橋区のお知らせ(新年号)」の裏だった。

1975年、この地図をもらったあと地下鉄で巣鴨に出て駒場に帰ると、その日はもちろん授業は出ず、ベッドに倒れ込んだ。目が覚めると夜だったことを記憶している。


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2026年1月1日木曜日

自作のしめ縄を飾り、ネクタリンを移動した

 2023年5月からシェアガーデン北千住で野菜作りアドバイザー兼管理人のアルバイトをしている。12月はしめ縄作りのイベントがあり、今年で3回目。毎年作り方を忘れてしまい、教える必要もあるから練習もして、何個も作って来た。今年は捨てずに持って帰って来た。

我が家は毎年スーパーに売っている門飾りを買っていた。松の枝2本で800円くらいのやつ。
今年は自作のものを飾る、と妻に言っておいた。
しかしあまり早く飾ると妻が気付いて「みっともない」と買ってきてしまいそうなのでぎりぎりまで袋から出さなかった。

29日、31日は二重苦、一夜飾りとかで良くないらしい。
30日に飾ることにした。
2025₋12₋30
しかし太さ、長さの違う3本をバランスよく飾るのは難しい。
同じもの2本を両側に飾るのは簡単だが、これはどうしよう。結局3つを合わせて1つのように仕上げなくてはならない。丑の刻参りの藁人形みたいになったりして難航したが、何とか完成。

しかし何か物足りない。白い紙の幣(ぬさ)、御幣(ごへい)でもつけようと思ったが、面倒。
庭で飾れるものを物色した。
あると思ったセンリョウ、マンリョウの赤い実は時季が過ぎ、皆落ちてしまっていた。
ほんのわずか残っていたマンリョウの赤い実をつけ、上にセンリョウの緑の葉っぱを立てた。大分ユニークな門飾りになってしまった。通行人の目より妻が怖い。

翌日、センリョウの枝より葉っぱの硬いミカンの枝にしようと思って庭に出る。

ふと、数日前から移植を考えていたネクタリンが目についた。
ネットで買ったヒラツカレッドの苗を植えてまる1年。このまま成長するとだいぶ大きくなることが分かり、移植の必要性を感じていた。
どうせやるなら年内にしてしまおうと作業を始める。
2025₋12₋31
左プラム、右せとか、に挟まれている。ネクタリンが一番広がっている。
直径2.5メートルくらいにはなるだろう。
10:13
問題は通路を塞いでしまうことだ。
夏、この木の下をくぐって作業したとき、手や首が非常にかゆかった。
アブラムシがいて、その死骸か羽が舞って皮膚に付着しアレルギー反応でも起こしたのかもしれないが、よく分からない。
いずれにしろ、この場所はまずい。
移植するために掘った。
10:24
だいぶ根っこを切ってしまった。
いくら冬季とはいえ、かなりのストレスである。

10:41
長芋を収穫したあとに植えた。

木は一度植えたら枯れるまで固定されるから、慎重に寸法を測り場所を決めたのだが、植えた後、再び考える。
狭い庭に植えるからぎりぎりの位置である。
もし建物側(通路側)に思ったより枝が茂ったら切らなくてはならない。
実が先端につくようなら、一方向は常に実がないことになる。

位置をずらそうか、しかし木にとってストレスだろうな。
枯れてしまわないだろうか。枯れたら、2年遅れることになる。
この年で2年は大きい。

いろいろ悩んだが、来年は移動できないとして、午後、再び移動することにした。

15:03
30センチくらい東にずらし、家の壁から離した。
こんなわずかな移動なんて農家に笑われそうだが、都心で栽培することはこういう苦労がある。
この場所なら茂っても、他の植物を切ったり、野菜用の畝を短くすればいいだけだ。

2025₋12₋31 15:05
2回も掘り出されてネクタリンもいい迷惑だ。
しかしこちらは悩みが解消され、満足して年を越せる。

この日は大みそか、年越しそばで、夜に米を食べなかったせいか、ふとんに入ってから腹が減りしばらく寝付けなかった。
ネクタリンの植え替えに満足したはずだが、ふと、フェンス際のレッドロビンは邪魔になるから切らねばならないことに気が付いた。するとネクタリンが秋に落葉すると道路から庭や物干し(洗濯物)が丸見えになる。ここはせとかや不知火など常緑樹のほうが良かったのではないか?
あす、せとかとネクタリンを入れ替えようか、と再びふとんの中で悩んだ。

元旦。
真っ先にやることは庭に出ること。
新しい空気を吸うとか空を見上げるとか、そういった新年行事的なことではなく、昨日のネクタリンを見てあれこれ考える。今せとかのある場所の寸法を測ったり。
せとかと入れ替えることで、せとかも枯れたらどうしよう。
さすがに3回目の移植は思いとどまっている。

柿、夏ミカン、温州ミカンと違い、せとか、不知火、プラム、ネクタリンはまだ木が幼い。
生るのは今年か来年か、再来年か。
旨い果実がなることを楽しみにして、一つ年を取った。
果樹を育てるということは、死に近づく年取りさえ、楽しみに変えてしまう。

父は75歳で畑の巨峰をすべて抜いてピオーネの幼木を植えた。私とは比べ物にならないくらい木の成長、収穫を楽しみにしていたはずだが、翌年がんが見つかり、ピオーネを出荷することなく4年後に他界した。

ネクタリンが甘い実をつけた年は、私の注連縄作りはもっと上手になっているはずだ。


2025年12月30日火曜日

伊勢8 輪中、長島一向一揆

 12月3日、三重県に来て、あちこち見ながら北上してきた。

そして桑名見物のあと、桑名駅を予定より早く14:55に出た。

すぐに揖斐・長良川の鉄橋を渡った。
1両目に乗っていたので運転席のすぐ後ろに行って、川を見た。

14:59 JR長島駅着。
伊勢長島ではなく、長島が駅名。
15:01
JR長島駅
外観は寂しい駅であるが、
一日乗車人数は500人くらいだから数十人の飯山線の駅よりずっと多い。
島の中に学校や職場がなく、川を渡る橋が少ないから利用客が多いのだろうか。

滋賀県でよく見かけた飛び出し坊や?飛田君?がいた。
間に岐阜県があるが、鈴鹿峠のほうから広がってきたのだろうか。

すぐ近くに近鉄の駅があった。
15:02
近鉄長島駅
長島とつく駅は、長島、近鉄長島、紀伊長島、と3つしかないのは意外だった。

近鉄は何でこんなに近いところに駅を作ったのか、これでは客を取り合うではないか、と思ったが、鉄橋を単独で作るわけにはいかず、一つの鉄橋を渡り、細長い長島に駅を作るとすれば、同じところになる。
よく考えたら西隣の桑名も、木曽川を渡った東隣の弥冨もJRと近鉄は同じところに駅を作っている。

伊勢長島に降りたからには、長島城に行ってみたい。
信長が手を焼いた長島一向一揆の本拠地である。
地図を見たら、途中、すぐ近くに六辻があった。ひとつは微妙に中心からずれているから5プラス1であり、ますます複雑である。この信号機はどう作動するのだろう?
15:05
と思って現場に来て見たら、信号がなかった。
難しすぎて敢えてつけないのかもしれない。

少し歩くと昔からの集落に入った。
15:08
このあたり、家は石垣の上に建っている。

15:09
どの家も石垣の上である。

輪中というのは木曾三川(木曾、長良、揖斐)の下流の集落で、そっくり堤防で田畑を含む部落を囲んでしまったものをいう。
この3つの川は、JR岐阜駅の南あたりから墨俣、大垣なども含む広い範囲で、合流、分流を繰り返し、いくつもの中州のような地形を作った。そこにできた集落は、周囲を堤防で囲んだ。
輪中(wikiから)。
美濃、伊勢、尾張を色分けしている。

ふつう堤防というのは川の上流から下流まで両側を堤で挟むようにする。しかし、ここは流路が網目のように複雑だったことに加え、古い時代、すなわち村落連合共同体が小さいうちから治水をしたから、自分たちの集落だけを囲むような堤を作った。

それでも水害は頻繁に起こり、そのたびに川は流路を変えていく。
では美濃、伊勢、尾張の国境はどうだったのだろうと思うが、実際、8世紀ころから尾張と美濃は洪水の多い地域を互いに押し付けあうようなこともあったらしい。

おおよそ現在の河道に落ち着いたのは1586年の大洪水の後で、秀吉が1592年から3年間で堤防を築き(文禄の治水)国境を明確にした江戸時代には幕府が手伝い普請として、薩摩、二本松、徳島などの各藩に命じて治水工事を行ったが、3川の網目状態は変わらず、水害はなくならなかった。

明治になって、外国人技師によって本格的な治水事業が1887年から始まる。まず長良、揖斐川の川床、水面を低くするため、木曽川の分流工事が、続いて長良、揖斐の分流が行われ、1900年に三川分離が完了した。その後も揖斐川の改修や堤防構築などの工事が続き、終了したのは1911年だった。

今この3つの川をみれば、ところどころ(というよりかなりの部分が)細い堤防(背割り堤)だけで分かれている。洪水時の合流による乱流をふせぐためという。川(水域)としては一体(一帯)だが、水だけが分かれている。そこまでして分流が必要だということを初めて知った。

さて、輪中は学校の社会科で習ったから、何か見られればいいと思っていた。
しかし河川工事で流路が単純化されるとともに、囲い堤防が消失、また集落と川の距離が離れ、都市化が進み、昔の輪中構造は分からなくなっていることだろう。

ここ長島は、文字通り今でもはっきり川に囲まれている。
昔とは違うだろうが、堤防にも囲まれている。
何かわかることはないか?
航空写真で一つ気が付いたのは、家が中洲の真ん中、つまり川から離れたところでなく、むしろ水際、すなわち木曽川、長良川の堤防に沿って建っていることだ。明治以降の堤防は決壊しないよう傾斜を緩くして幅広くしているからスペースはあり、中洲で一番標高が高い水際が住宅最適地なのだろう。

長島の中心部は古くからの家々である。堤防側に引っ越すわけにもいかず、昔からの石垣土台のうえに新築するしかやりようがない。
15:10
長島川
もともと長島を分断していた川なのか、排水のために掘ったものなのか知らない。

道は少し登り坂になり、長島でも比較的土地が高い場所が、長島城址だった。
15世紀に北勢四十八家の一つ、伊藤氏によって築かれた。
1570年、一向宗・願証寺の住職、証意によって伊藤氏一族が追放され、長島一向一揆の拠点となった。
信長に鎮圧された後は、滝川一益、織田信雄の支配となり、江戸時代は1万石から2万石の菅沼氏、久松松平氏、増山氏の長島藩がおかれ明治維新を迎えた。
15:13
長島城址

さて、有名な長島一向一揆のことである。
信長は桶狭間(1560)の翌年尾張を統一した後、美濃に向かった。1567年稲葉山城を落とし美濃を平定、1569年、伊勢もほぼ掌握した。
ところが1570年、石山本願寺が反信長で立ち上がると、長島でも願証寺の住職、証意に導かれ門徒が一斉に蜂起した。そこに北伊勢の小豪族の一部も加わり、桑名の滝川一益を敗走させた。

このころ信長は近江で浅井・朝倉と退陣していて援軍を出せなかったが、1571年5月、自ら5万の兵を率いて北伊勢、長島に出陣、村々を焼いたが、桑名方面から海路を使って雑賀衆らが兵や兵糧・鉄砲などの物資を運び、信長は制圧には至らず引き揚げた(第1次)。
水に囲まれた島というのは、守りやすく攻めにくい。

1573年9月、浅井朝倉を滅ぼした信長は再び長島攻めを敢行した。8万の兵を率い、長島の周囲の城を落としていく。しかし長島への侵攻に至らず(第2次)。

1574年7月、信長は織田領の全域から12万の兵を集めた(第3次)。
九鬼水軍も動員し、海陸、東西南北、四方からの織田軍の猛攻を受けた砦は次々と落とされ、一揆衆は長島・屋長島・中江・篠橋・大鳥居の5つの城に逃げ込んだ。門徒たちは兵糧攻めで耐えられなくなり降伏を申し込んだが信長は許さず殲滅を命じた。
第三次長島合戦(長島町誌から)
現在は河川改修、干拓などで地形が変わっている。

最後に残った屋長島・中江の2城は幾重にも柵で囲み、火をつけた。城中の2万の男女(農民、漁民)は焼け死に、同日、信長は岐阜に向け帰陣したという。こうして、門徒による長島輪中の自治は完全に崩壊、長島城は滝川一益に与えられた。

江戸時代になって長島城は長島藩の藩庁になった。

一時廃城になったが、増山氏が入ると拡充、改修され、しかしもちろん天守は上げられなかった。現在、長島城跡には、桑名市立長島中部小学校と長島中学校がある。

15:14
長島中部小学校
都会の小学校と違って自由に入れる。
15:15
大きな黒松があった。
幹回り3.15メートル、
長島城本丸の南西隅にあったというが、樹齢3百数十年というから、一向一揆の血は吸っていない。
15:18
城の東は長島川。濠の役も果たした。

小学校の北は中学校。
15:20
桑名市立長島中学校
城址に建つ学校らしく、正門は屋根がついていて、校舎も昔を配慮した姿にしている。
15:20
長島中学
中学校の道路側の塀際に「伊勢湾台風の水位」と書かれたプレートが立っていた。
島で一番高いここで水があそこまで来たなら、長島の家はすべて水没したはずである。

昭和34年9月、死者行方不明者5000人以上。
超大型だった。
最も外側の閉じた等圧線の直径は、たいてい600~1500kmのところ、室戸台風(1934年、昭和三大台風のひとつ)が最盛期で約2,000kmであったのに対し、伊勢湾台風は約2,500kmにも及び、暴風域も非常に広かった。(ちなみに日本列島4島の外接円は直径2070km、北海道を除くと1350kmである)
超大型ということは超強力ということでもある。潮岬に上陸したときも929hPaという超低気圧を維持した。
伊勢湾では風速40メートル以上という強い風と低気圧による吸い上げ効果により高潮が起こり、満潮時を外れていたにもかかわらず、名古屋港では海水位が3.89メートルあがったという。

・・・
長島城址を出て夕日と風が寒くなった道を長島駅に向かった。
ほとんど人と会わなかった。
JR長島から名古屋駅まで5駅、26分、340円。

地下街をぶらぶらしてJR高速バスに乗った。17:00名古屋発。
これは東名高速に設けられた各停留所に止まり客を乗せ、また路線バスのようにボタンを押せば止まって降ろしてくれる。時間がかかるから、安いのに(2400円)数人しか乗っておらず、ガラガラだった。

23:17東京着の予定だったが、名古屋市内で混んでいたのか、バスは遅れた。遅れても休憩時間は予定通りしっかりとり、運転手に挽回しようという動きはなかった。

うかつにも、ここで初めて東京についた後のことを考えた。終電に間に合わなかったらどうしよう。数年前は大手町から千駄木まで歩いたが、もうその元気はない。値段につられて大失敗したかと思ったが、無事電車で帰宅できた。

いままで知らなかった三重県がこの1日でだいぶ身近になった。





2025年12月24日水曜日

伊勢7 七里の渡し、桑名城と松平定信

 12月3日、伊勢市、田丸、松阪、津、四日市と三重県の主要部を北上してきて、13:27桑名についた。駅から八間通りをまっすぐ東に行くとお城につく。

三の丸にたつ本多忠勝像と柿安本店本社ビルを見て、緩い坂を上がって揖斐川の岸に立った。
揖斐川に合流している長良川の河口堰が見えた。
13:58
上流方向は山が見える。

少し先のほうに櫓が見えたので行ってみた。
14:01
外観復元・蟠龍櫓
桑名城には元禄の時代で51の櫓があったという。
この櫓は東海道七里の渡しをゆく旅人や、揖斐・長良川の水位を監視できた。
いま一階が水門統合管理所、二階が簡単な資料室になっていて上がってみた。
14:03
来たほうを見ると柿安本社が見えた。
2階は桑名市所管の展望台兼資料室というが、展望台としては窓の縦格子の木が太くて外がよく見えず、全く用をなさない。忠実に復元したというなら、それはやりすぎだろう。

壁には絵や地図が飾ってある。
14:04
安藤広重「東海道五拾三次之内 桑名 七里渡口」
切手で見たか永谷園のお茶漬けふりかけに入っていたか、いずれにしても子供のころ見た絵。描かれた建物はこの蟠龍櫓とは少し違うか。

武家の肖像画が2つあった。
松平定信と松平定綱(右)

桑名は、前のブログで述べたように本多家が17年で去ったあと、1617年家康の異父弟である久松・松平定勝が、山城伏見藩5万石から6万石加増の11万石で入った。
二代定行は1635年加増されて伊予松山15万石に移封されたが、その弟(定勝の三男)・松平定綱が美濃大垣藩6万石より11万3000石に加増され3代目として入り、久松松平の桑名藩は続いた。
定綱は、この櫓で肖像画が飾られているように、名君の誉れ高く実質桑名藩の藩祖とも言われた。

久松松平氏は5代目定重の時代に騒動が起き、1710年、懲罰的に越後高田に移封された。
つづいて奥平松平が10万石で入る。

しかし1823年奥平氏は武蔵国忍に転封し、
代わって奥州白河から松平定永が11万石で入封した。
この家は桑名から高田に移封された久松松平家で、高田から白河に移っていた。

奥州白河松平と言えば寛政の改革の老中首座・松平定信(1759₋1829)である。
実際、定永は定信の嫡男で、定信はこのとき家督を譲り隠居していた。定信は寒い奥州より物成りよく父祖伝来の地、桑名への国替えを望んでいたという。
しかし、父祖伝来と言っても定信は田安徳川家の初代当主・徳川宗武の七男、すなわち吉宗の孫であり、桑名とは全く関係なかった。

松平定信について少し書けば(桑名とますます関係ないが)、幼少期より聡明で知られ、田安家を継いだ兄の治察(1753₋1774)が病弱かつ凡庸とされ、一時期は田安家の後継者に、そしていずれは第10代将軍・徳川家治の後継になると期待されていた。
しかし定信が数え17(満15歳数か月)となった安永3年(1774)3月、陸奥白河藩第2代藩主・松平定邦の養子となる事が決まった。田安家としてはこれを望まなかったが、10代将軍・家治の命により決定される。これには一橋治斉が関係したらしい。この年10月、兄・田安治察は妻子なく22歳で死去し、母はまだ同居していた定信に家督を継がせたかったが、許されず、田安家は断絶した。

将軍家治、一橋治斉、松平定信、3人とも吉宗の孫、いとこ同士である。10代将軍家治の後継は定信がいなくなって一橋治斉の子が就任し、11代家斉となった。
そして、当主のいなかった田安家には一橋治斉の五男斉匡(将軍家斉の弟)がはいった。治斉、相当な男である。
14:05
東の揖斐川のほうを見たら屋根に蟠龍がみえた。
まだ天に昇らず、水中あるいは地中に蟠(わだかま)っている龍のことで、火災、水害を防ぐ守り神とされた。蟠るというのは、とぐろを巻く、うずくまる、という意味だが、この漢字に変換されるのは「わだかまる」だけである。心のわだかまり(心に引っかかっている重い気持ち)もこの漢字を書くはずだが、字面と実態がかけ離れていて、やはりひらがなが良い。

このあたりで揖斐川と長良川の間にあった細い土手(背割り堤)は切れ、一体となり、対岸は長島になる。
14:06
蟠龍櫓を下りるとすぐそばに鳥居が見えた。
東海道、七里の渡しの船着き場跡である。
神社でないのに鳥居があるのは、ここが伊勢神宮への伊勢街道の始まりでもあること、近くに住吉神社があり、航海安全の住吉信仰があったことなどが考えられるが、これは復元されたものであり、江戸時代にあったかどうか分からない。ちなみに昔の七里の渡しは河川改修などで、必ずしもここではないだろう。

東海道は、宮宿(名古屋熱田)と桑名宿の間を、海路七里(27 km)で結んだ。干潮時には海が南に行くから沖廻り航路で約10里(39 km)かかった。北方へ迂回して陸を歩くと途中1泊せねばならず、危険と船賃を考えても使う人は多かった。
14:07
江戸時代、東海道の主要河川は橋が架けられなかったが、ここは木曽川、長良川、揖斐川が集まり、橋をかけようにも建設、維持とも困難で、不可能であっただろう。

14:08
東海道は陸に上がると南下する。
だから標柱が示すように、ここで直角に曲がった。
すぐ北の濠を隔てて国営木曽三川公園があり、現在整備中でここもその一部になるらしい。

ふたたび桑名城に戻った。
14:14
堀はだいぶ埋め立てられたが、まだまだ水面は広い。
高松や三原などの海城というより水城か。
水運の盛んな場所に建てられた城として、下総・関宿城も地面に比べ、水面が広かった。

航空写真でも、この公園地図でも、陸地に比べ濠の面積が格段に広い。
しかし昔の絵図はそうでもない。
桑名城
正保城絵図(国会図書館蔵)
17世紀半ば、正保元年(1644)、家光が全国の大名に対して、堀の幅、石垣の高さまで幕府に報告させたものだが、絵図そのものが正確に書かれたわけではない。(当時は157点あり、63点が国会図書館に現存する)
聖心女子大蔵 勢州桑名城下図。
こちらのほうの濠の幅のほうが現実に少し近いか。
右に長島が見える。
14:17
本丸跡に建つ鎮国守国神社。
普通名詞かと思ったら違った。

白河から松平定永が入城したとき、藩祖である松平定綱(鎮国公)と実父松平定信(守国公)を祀る神社を城内に建てた。

ちなみに、久松松平は伊予松山も桑名も当主は定の字を通り字にした(松山のほうは後に崩れた)。NHKの松平定知は、伊予松山の久松松平の分家、旗本の子孫に当たる。

14:18
本丸から二の丸へわたる。
濠が広いから途中に東屋があり何やら中国の公園のようだ。
そういえば城址公園は九華公園という。

ちなみに、前のブログで少し書いたが、桑名というと私は幕末、実兄、会津の松平容保とともに京都の治安維持にあたった松平定敬しか知らなかった。
桑名藩は鳥羽伏見でも幕府軍の主力を成したにもかかわらず将軍慶喜に見捨てられた。二人は御三家尾張藩の支藩、美濃高須藩の出身である。高須藩から幕末の尾張藩主となった徳川慶勝(新政府側)、また尾張藩主を経て慶喜が出た後の一橋家を継いだ徳川茂栄らは実兄であり、高須4兄弟と言われた。
水につきそうな松。根株がごっそり抜けて堀に落ちそう。
この城は洪水、大潮のときは大変だっただろう。

あと桑名というと猛将・立見尚文である。
鳥羽伏見で崩壊した藩の軍を立て直し戊辰戦争を戦った。その能力から西南戦争で陸軍から引っ張られた。日露戦争では軍司令官の大将たちより経験豊富であったが、賊軍だったから中将で、弘前第8師団を率いた。黒溝台で数倍のロシア軍に囲まれ、師団の半数を失いながら敵を退却させた。全滅しなかったのは立見がいたからだと、桑名から遠く離れた弘前で長く伝えられたとか。
14:19
橋の上で餌付けしている人がいた。
鳩は落ちた豆を拾うが、鴎は空中で餌をとる。
14:20
二の丸から橋上東屋を振り返る。
14:21
二の丸の南側も濠が広い。
堀の南に接するのは市立立教小学校の校舎。
駅に向かう途中、精義小学校というのもあった。
桑名市の小学校は、地名とか数字でなく藩校のような、漢籍からとったような校名である。

駅に向かう途中、南下する旧東海道が駅のほう(西)に曲がっていて、少しだけ歩いた。東海道が再びかぎ型に曲がって南下するところに小さな公園がある。いくつか記念碑、説明板が立っていた。
14:32
京町公園
まず、「京町見附跡」。ということは桑名宿の京都側の端ということか。
「桑名市市制施行時市役所跡」。桑名は明治22年のときに桑名町で出発、1937年に市制施行した。現在人口は13万人。
一番目立ったのは「現代から未来へ・タイムカプセル・市制50周年記念」の石碑だった。「開封日2037年4月1日」と書いてあった。

公園のすぐそばにアーケード商店街があった。
14:33
寺町通り商店街
駅からお城に向かうときアーケードの北の端を過ぎ、いま南の端を通っている。

寿町通りを西の駅に向かっていく。
駅の近く、国道1号線との角に中部電力桑名営業所とフラワー薬局のビルがあり、そこに石柱がたっていた。
14:41
「左 おみせ」「右 車おきば」
朝から伊勢の街道筋を歩いてきて、何本か歴史を感じさせる石標柱を見てきたが、最後にいいものを見せてもらった。

(つづく)