2021年4月26日月曜日

ほうろく地蔵と高島秋帆、斎藤緑雨

ランチで本郷通に出た。
ついでに都立向丘高校の脇を入り大圓寺にいく。
2021‐04‐24 向丘大円寺
本堂と墓地の間の細い道は舗装された公道?になったが、昔のまま曲がりくねって本郷の寺町らしい雰囲気。税務署の行き帰りなど何度も通っているが(別ブログ)、墓を訪ねたことがなかった。

谷中の寺と比べ墓がゆったりしている。

齋藤緑雨(1868年1月24日、慶応3年12月30日 - 1904年・明治37年)
漱石・外骨・熊楠・露伴・子規・紅葉・緑雨が慶応3年生まれ。

緑雨は丸山福山町にいた一葉を何度も訪ねた。鴎外、露伴とともに『めさまし草』の匿名文芸批評「三人冗語」でたけくらべを激賞している。千駄木鴎外邸の庭の石の前で写した三人の写真を見ると、緑雨はなかなかかっこいい。一葉の4歳年上、異性としてみることもあっただろう。彼も結核、36歳で没した。

奥へ行くと花畑のようなものもある。
都心の墓地としては珍しい。
高島秋帆(1798-1866)の墓は一番奥にあった。
手前には丸太のベンチがあるが朽ちている。
毎日誰かが座っていればもう少し長持ちしただろうが。

秋帆はアヘン戦争で清が敗れたことを知り、幕府に洋式砲術の採用を建議した。
1841、武州徳丸が原で洋式砲術の演習を行った。
伊豆韮山代官の江川英龍(太郎左衛門)は、彼の弟子である。
しかし翌年、長崎でとらえられた。
岡部藩に幽閉されるも、諸藩は秘密裏に接触し洋式兵学教わった。

いまの板橋区徳丸は東上線と高島平の間あたり。
昔、城北の坂道の家を探していて、そのあたりの物件を何回かネットで見て徳丸という地名を覚えている。
高島平の地名は不自然であるが、彼の名前からきているとすれば納得する。
しかしいつ地名になったか? 
明治から昭和戦前まで、地元の農家の人々が幕末一時的に来たの人の名を地名にするとは思えない。
実際、昭和30年の地図を見れば広々した田んぼで何の地名もない。
たぶんマンモス団地の開発に伴い人工的につけられたのだろう。
今調べたら昭和44年の板橋区住居表示の実施時らしい。
この時前年開通した都営地下鉄志村駅が高島平駅に変更された。

風化で高島秋帆の字が読めなくなるというより、石片がごっそり崩落して文字面そのものが失われようとしている。ん?だれか信者が縁起物として小片をかち割って盗んだのだろうか? 城官寺の多紀家墓石、念即寺の美機女墓のように、ケースで覆うこともないから近いうちに石の塊になるだろう。高だけでも見えてよかった。

空いている場所はあるが、小さい墓石を過密に並べてほしくないな。

道をはさんだ大圓寺本堂のほうものぞく。
ほうろく地蔵
いまどき焙烙なんて使う人もいないだろう。どこに売っているのだろう? 
お寺が売っているのかな?
すぐ隣は向丘高校。

西善寺の南まで回って本郷通りにもどる。
浩妙寺
1628年掛川藩太田家邸内の持仏堂として創建というが、当時から太田家の屋敷が千駄木にあったかどうかは知らない。

浄土宗浄心寺
巨大な布袋尊像が本郷通を見下ろしている。いつも自転車で通過してしまうが、よく見るとちょっと不気味である。

ここから少し西に離れて旧中山道から白山下に降りる坂を浄心寺坂という。
昔は坂上に浄心寺という寺があった。それがこちらに移ったなら話は簡単なのだが、ここは湯島嬬恋坂から振袖火事の後うつってきた(湯島山常光院と号す)。明治11年の地図には、それほど離れずに二つの浄心寺が書いてある。
本堂は二階
本堂への階段から下を見ると古い墓地と、その向こう本郷通り沿いの新しい墓地が見えた。
浄心寺には立川談志、橋田邦彦の墓があるらしいが、探さなかった。

浄心寺の北隣、本郷通に沿う塀は高耀山長元寺
加賀藩前田家の江戸の菩提寺として栄えたというが、中は入らず。
本郷通から東に入る道は長元寺の木陰と蓬莱町公衆便所があってタクシーの休憩場所として最適。
北側は異国風の本堂が目立つ専西寺。

曹洞宗大林寺
長元寺の東隣である。
郵便のバイクが中に入っていって出てくるのに時間がかかった。境内は奥に広いようだ。

海蔵寺の門前を通りながら、すぐ近くにあった末村耕二、高倉仁史両氏のアパートを思い出す。
日蓮宗法照山顕本寺
きれいに掃き清められ構えにすきがないお寺へは、用もない見物人としては入れない。

20191117 曙坂、浄心寺坂など、一葉、円乗寺、大圓寺
20191019 海蔵寺、身禄行者と向丘のアパート

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