2018年12月3日月曜日

旧岩崎邸内の区境の謎

11月27日、調べ物が終わって上野駅に行こうとした。
いつもは無縁坂を降りるのだが、ふと旧司法研修所の塀に沿って春日通りに出て、湯島切通しを降りてみた。

司法研修所は、司法試験に受かったものが2年程研修を受けるところで、71年から94年まで岩崎邸跡地のここに存在した。和光市に移転した後、いまは湯島合同庁舎として国の役所が入っている。

ちょうど、敷地内にある国立近現代建築資料館で企画展をやっていた。
とくに展示を見たいわけではなかったが、無料だったこともあり入ってみた。
なぜなら、ここをよく歩いた40年前は一般人をまったく寄せ付けない雰囲気で、敷地がどうなっているか知らないからだ。
2018-11-27


守衛所で名前を書いて、番号を書いたバッジを胸につける。
これで庁舎にも入れる。

この石、岩崎邸のものだが、越後高田の榊原家中屋敷のころのものだろうか。

庁舎のすぐ隣は岩崎邸庭園。
金網のフェンスしかなく、庭園と庁舎が一体になっている。

今庭園の南側が工事中。何を作るつもりだろう。
どうせ税金の無駄遣いではないか。

岩崎邸は戦後、GHQに接収され、47年「財産税」として国に物納された。
その後、池之端文化センター、湯島ハイタウンの東南が売却され、西側に司法研修所ができ、現在公園として残る敷地はかつての3分の1になっている。

さて、旧司法研修所の建物に入ってみる。
湯島地方合同庁舎

 庁舎の中にはこれ以上立ち入らず、裏の建築資料館のほうに回る。

塀の転倒防止? 向こう側に倒れてしまうのでは?
外の洋館は、40年前は文京体育館の東隣り、岩崎という表札だったが、今は何だろう。

近現代建築資料館。ひと気がない。

隈研吾?

旧制高校など明治大正の官立高等教育機関の建物に関する展示。
信州大学、新潟大学の前身としては、松本高校、新潟高校でなく、上田蚕糸、新潟医専が書いてあった。
旧制五高(熊本)の模型

建築資料館の窓から岩崎邸がみえる。
かつては今いるこちら側には和風の建物群があった。
(今岩崎邸とされる洋館は迎賓用)

岩崎邸のうち残った3分の1は、2001年に都立公園として公開され、私は2005年9月23日、埼玉から見に来た。
その日、芝生の中庭から振り返って洋館を見たら、昔はなかった巨大な東大病院のビルが背後に迫り、異様な感じがした。
あと覚えているのはサンルームのような東南の洋室に、終戦直後の航空写真があったこと。不忍池が畑になっていた。離れの玉突き場へいくのにわざわざ地下道をほってあり、(防空壕として使うのかもしれないが)金持ちというのは庶民とは違うと思った。



ところで、旧岩崎邸というのは、旧下谷区茅町、いま台東区池之端だが、文京区の中に食い込んでいる。いっぽう湯島合同庁舎は文京区。
とすれば、岩崎庭園と庁舎を分けるこのフェンスこそ、戦後の台東区と文京区の境だろうか。

しかし、岩崎邸が二つの区にまたがるのは考えにくい。
この境は司法研修所ができたとき引き直したのだろうか。(疑問1)

何気なく地図を見たら、なんと庁舎の真ん中を区の境界線が通っている。
南にも線がある。
戦後引いたらこんな線にならない。(疑問2)



この線は何だろう?

明治11年、一帯はそっくり本郷区竜岡町である。
榊原家のあとは桐野利秋。
西南戦争のあと、旧舞鶴藩藩主、牧野弼成(すけしげ)が所有するも、すぐ明治11年岩崎弥太郎が購入、明治15年(1822)移り住んだという。

岩崎庭園ホームページに出てくる明治29年というのはコンドル設計の洋館が竣工した年。
このときは3代目の久弥。

その後の明治40年をみると、
区境はちょうど今の区境と一致する。

つまり岩崎は最初、西側の4軒分(1番地から4番地)は竜岡町に、南の春日通り沿いは湯島切通し町のまま残し、北東側だけ買ったのではないか?
あるいは駒場の前田家、弥生の浅野家のように周辺を貸したか。
そのあと西側と南側まで買い足したのではないか?

 
昭和38年 まだ司法研修所ができる前。
このあと司法研修所建設のため、和館の大部分が撤去された。


近現代建築資料館の展示は、あまり時間がなかったのでじっくり見ず、退出した。

都心に近い便利さに加え、眼下の池、向こうに上野の森がある風光明媚な高台、宅地としては都内で最高の場所であっただろう。
出口に向かうと、正面に湯島天神が見えた。


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