2018年12月24日月曜日

清瀬に病院が集中するわけ

12/17、社会事業大学を出て、ついでに隣の東京病院に回ってみる。
隣と言っても広くて歩くと大変。

路線バスが敷地に入って見えなくなった
HPをみると
昭和6年の東京府立清瀬病院(のちの国立療養所清瀬病院)と
昭和14年の傷病軍人東京療養所(のち国立東京療養所)が
昭和37年に合併したという。
両方とも結核療養所だったようだ。
それなら空気のよいところに広い敷地が必要だろう。

この辺りほんとに病院が多く道路の向かいは救世軍清瀬病院。
ここにはホスピスと教会がある。



雑木林の交差点を左に曲がると東京病院の裏側(北)に沿う。
広い。結核患者が散歩したのだろうか。

しばらく歩くと廃屋が並ぶ。
病院関係者の住居か。

窓から、中にベッドが積まれているのが見えた。
多数の宿舎が病院備品の倉庫になったということは、
急激な病院縮小があったのだろうか。


       1985(昭和60)
確かに東京病院は北側にもあり、そこは今看護大学校になっている。
南側も療護園はじめ、3分の1は社会事業大学になった。


西武池袋線が近い北側

社会事業大学に敷地を分けた南側

なお、昭和60年の地図では、いまの複十字病院のところが結研附属病院とある。
すなわち昭和14年、結核予防会が設立、昭和22年に結核研究所臨床部が発足。
その後、結核研究所付属病院となったが、結核患者は激減した今は呼吸器疾患、がん、成人病を扱う。
名前も平成元年に複十字病院と変わった。

しかし複十字というのは、1902年ベルリンでの第1回国際結核会議(コッホもエールリヒも皆いた頃だ)で、結核予防運動の世界共通のシンボルマークとなっているから、結核から離れたわけでもない。

ここまで書いて、結核予防会顧問 島尾忠男氏が「複十字」348号(2013)に書かれた記事を見つけた(→リンク)。

それによれば、大正のインフルエンザでいったん減少傾向だった結核が、昭和に入って再び猛威を振るうようになる。
江古田の東京市立療養所だけでは病床が不足し、次に公立の施設として昭和 6(1931)年
に清瀬市の現在看護大学のあるところに建てられたのが、東京府立清瀬病院だという。

当時結核は差別、偏見の対象で、結核療養所の設置には、地元の反対運動が起こった。しかし昭和大不況の時代で、最後には地主も売却に同意した。

ひとたび結核療養所が1つでも清瀬にできてしまうと、差別 ・ 偏見のため、その隣に住もうと思う人はいない。清瀬には、当時の武蔵野電鉄の線路の南側に広大な雑木林が残されていたこともあり、結核患者の増加にともない、容易な買収もあって、つぎつぎと結核関連施設が作られた。
(西と南に拡大した結果、1909年(明治42)設立のハンセン病、全生園の敷地と境を接するようになる。)

以下に結核関連施設を設立順に列挙する。

昭6 東京府立清瀬病院。昭37年東京療養所と統合。(2001年から国立看護大学、看護協会研修所)
昭8 ベトレヘムの園
昭8 府立静和園。結核軽快者保養施設、後に同じ場所に都立小児結核保養所設立
昭11 東京市代用病院。  昭和22年に同じ場所に都健保組合清瀬療養所設立
昭13 清瀬薫風園
昭13 浴風園  日本鋼管の結核療養施設。昭和41年に労働省産業安全研究所設置
昭13 長生病院 昭和21年に海外引揚者寮となる
昭14 救世軍清心療養園
昭14 清瀬保養園  沖電気、日本鋼管、日本鋳造の3社で設立。現在は竹丘病院。
昭14 傷痍軍人東京療養所。  戦後国立療養所、昭和37年に清瀬病院と統合し、国立療養所東京病院となる。現在も結核病床あり。
昭14 上宮病院
昭16 信愛病院
昭17 清光園  昭和 21 年に海外引揚者寮
昭19 結核研究所  保生園から移転。附属療養所は昭和 22 年。昭和 33 年に結研と附属療養所が独立、平成元年に複十字病院と改称。現在も結核病床あり。
昭22 都健保清瀬療養所  代用病院の土地に建設、平成14年都立青山病院と統合し閉院。
昭23 都立小児結核保養所  静和園の土地に建設。平成22年都立小児総合医療センターに統合し、閉院。
昭28 生光会清瀬療養所  清光園跡地に設立、平成3年に解散。明海大歯学部となったが、平成14年に廃止。現在空地。
昭29 織本病院  昭和44年に市内旭が丘へ移転

以上19の病院が作られた。(敷地は16)
都健保清瀬療養所は現在住宅地として分譲開発されている。また今や団地のど真ん中にある竹丘病院が結核施設であったことからも、学校や団地、老人ホーム、運動場などが集まる整然としたこの一帯は、結核関連施設の跡地だったことが推定される。

このような結核療養所は全国にあり、最盛期の昭和30年ころは、清瀬だけで15の病院に5000人が入院していたという。
吉行淳之介も原稿を書きながら雑木林を散歩していたか。

それにしても、池袋から20分程度。
近くに、こんな大規模な結核療養所が幾つもあったとは、改めて薬のなかったころの結核の恐ろしさを知る。

気を取り直して、広大な療養施設跡地のことを考える。
安直に団地や小、中学校などにせず、東京病院、複十字病院を残しながら医大を集めればよかったのではないか?
都心の狭いところで高層化した日本医大や東京医科歯科大、癌研、がんセンターなど、ここに集まれば良かったのではないか? 
筑波より近いから、核ができれば製薬企業の研究所も来るだろう。そうすれば世界随一の医療、ライフサイエンスの大拠点となったかもしれない。
ノーベル賞も量産されたのではなかろうか。


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