2018年12月21日金曜日

根津、はん亭と茨城県会館

40年前、毎日、言問い通りの坂を下りると根津交差点で左に曲がった。
すなわち、北の谷中のアパートに帰った。

交差点の赤札堂は立ち寄ったけれども、その南側は用がなかったからまず踏み入れなかった。
一帯は根津宮永町といった。
根津須賀町、根津清水町、根津藍染町、根津片町、根津八重垣町、根津宮永町、根津西須賀町、7つのうち、ここはお宮から一番遠い根津の南の端。
だから、お宮が末永く、という町名はピンとこない。 
実際、最初は南の入り口だから宮元町といったらしい。

不忍通り沿いは高層マンションが並ぶが、一本内側に入れば昭和の建物が並ぶ。

松田邸
赤札堂の裏(東)にはこういう家も残っている。

12/16、長野の弟が出てきたので、千駄木から散歩しながら歩いてきた。
昼食ははん亭。
国登録有形文化財
もとは根津の大店、爪皮屋の三田商店。大正3年築。

森まゆみ「不思議の町・根津」(1992)によれば、上野本牧亭裏で小さな串揚げ屋をしていた高須治雄氏が、(ピンサロなどで)周辺の環境が悪くなり嫌になっていたころ、ある会合で弥生会館まで来て、その帰りに偶然見つけたという。
すっかりほれ込み、3回くらい通って買った。
当時は、運送会社の季節労働者(盆、暮れの配達人?)の寮になっていたらしい。
向こうからすればボロ屋だったし、借地ということもあり、それほど高くなく、なんとかお金は工面できたとか。
しかし独身寮であったから中はベニヤで仕切られ、外はプラスチックの波板が貼ってあり、荒れ果てていたそうな。本物の木材で再生させたいという希望から相当金がかかったとか。

その後、不忍通りに面した部分(いまの茶房はん亭)に住んでいた人が引っ越し、持ち主の三田氏から買いたした。大通りから入ると内玄関があり、間に蔵があった。いまは家の中に土蔵がある感じ。

昼は串8本、箸休め2つ、ご飯、赤だし、デザートで3450円。

昼食後、弟夫婦と横山大観記念館を見学。

そのあと解散、一人で宮永町に戻ってきた。

クラシックガーデン文京根津

かつてここに茨城県会館があった。
明治40年に建てられた田嶋浅次郎邸が料亭「翠月」などをへて昭和47年茨城県会館になった。敷地500坪。貴重な和風建築であったが、2003年、茨城県が手放すことになった。

そのとき、競売ではなく、土地建物6億8千万円と固定し、応募してきた事業計画を比較して売却先を決めるという方式だった。すなわち建物と庭園の保存などを考慮したものだった。
11社が応募、最終的に残ったのは、老人ホームを建設する千代田区の久保工と、幼稚園を作る来栖学園の二つ。
茨城県は文京区や他の根津の町会には聞かず、地元の狭い根津宮永町の町会のみに選ばせた。
事業案は圧倒的に来栖学園の方が保存に積極的だったが、町会はなんと、ほぼ取り壊す案の久保工を選んだ。

久保工は、町会に以下の条件を出したという。
1.周辺地域からの雇用を促進、
2.有事の際の防災倉庫を提供、
3.老人ホームへの地域の人を一部優先的に入れる、
4.食料の調達を地域で行う、など。

もし子育て中の人に聞けば幼稚園を選ぶだろう。みな保存より自分の利益である。

不透明な選定結果に批判があったが、あとのまつり。
以上、谷根千76号(2004)に書いてある。

2018年の今みれば、隈研吾の設計、和風ではあるがSRC構造。
貴重な建物をつぶしてしてしまったことに変わりはない。

残念ながら私は昔の建物を見ていない。

定員55人、
75歳未満の単身で一時金3200万(もちろん返ってこない)、
月額27万円という。夫婦だと2倍。
 地元町会への恩恵が今どれくらいあるか知らない。

もし茨城県会館が道を挟んだ台東区側にあったらどうだっただろう?
一葉記念館は旧居ではないが、朝倉彫塑館、中村不折書道博物館、子規庵、市田邸、平櫛田中邸、吉田屋酒店など少ない記念碑をよく残している。
文京区の行政というのは、全く何もせず、市場原理に任せて平気である。

宮永町のはん亭と茨城県会館、
震災も戦争も生き残った、二つの貴重な建物の顛末について書いた。


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