どこにでもあるような名前。
水戸中屋敷と加賀上屋敷の境は言問い通りでなく、工学部側だったから、この坂の上のほうは両側とも水戸。
2018-12-03
東大側も大きな木は切られ、全く暗闇じゃない。
坂下から見る。
この辺りは40年前と全く変わらない。弥生門の前、左が本郷さくらマンション、右が秀和レジデンス。
ほとんどの学生が3畳、4畳半、広くて6畳でも風呂なし一間に暮らしていたのに、同級生の石黒恒男氏は実家が神奈川なのに、大学脇のこのさくらマンションに住んでいた。
根津、谷中に行く者は、弥生門から出るとさくらマンションの角から住宅街を通り抜けた。
このあたり、大学関係者など文化人が多かった。
言問い通りの北まで含め一帯は、戦前まで芸州浅野家の土地だった。(→弥生)それを借りたものが家を建て、さらに人に貸した。
右、学会センタービル。
学術雑誌の編集、発行などを業務とする財団法人。
よく学会誌の裏に書いてあるが、こんなところにあるとは知らなかった。
弥生門 2018-12-03
こうしてみると立派。
40年前、長野の父は車で来ると、谷中のアパートの近くは止められらなかったので、弥生門の中に駐車した。水色の車と守衛所の間くらいが定位置。
彼はときに車を置いて上野まで歩き電車でどこかに行くこともあった。
当時は、学内に空き地が多く、車が少なく、もちろんゲートもなく、全くとがめられなかった。同級生の平尾哲二氏もたまに車で来たときは好きな場所に止めていた。
三川先生は牛込二十騎町から車通勤だったが、当時は、暗黙の自分勝手な定位置に止めていたのだろうか。
工学部3号館
形はこんなものだったが、もっと古かった。
同じ形に建て替えたのか、外壁だけ張り替えたのだろうか。
左奥は理学部1号館、物理学科だったが、もっと安っぽい小さな建物だった。
これだけ巨大なのができたのは小柴先生のノーベル賞が効いたのだろうか。
竜岡門と池之端門以外は夜12時過ぎると閉まった。
根津方面に帰るものはこの植え込みに上がって塀を越えた。
弥生門前の弥生美術館。竹久夢二美術館を併設。
1984年開館というから、1981年3月に弥生、谷中を去った私は知らない。
このあたりは坂を下り切ったところ。
そうだ、坂の途中左側に製本屋があり、学位論文を製本した。
なおも進むと突然道が広くなる。
右のレンガ米の中ほどに古い門の跡がある。
明治のころの病院構内図を見れば、崖の下に沿って塀があり、今の池之端門のところから塀の内側を北の方に行くと切通しの坂で病院に上がった。その後、道を広げて塀を撤去した時、そこに門を作った名残だろうか。
このあたり、火除け地のような広小路になっている。
もともと交通量の少ないところでタクシーなどの休憩所。
公園じゃないのに公衆便所まである。
東淵寺 美術館みたいな建物
池之端門に到達。
以前は病院の遺体がここから出るから24時間開いていたと思うのだが、いまは他の門と同様に0:30に閉まるみたい。
門の脇の井戸
境稲荷もずいぶんきれいになった。
角を曲がると不忍池
左側は法華クラブというホテルだった。
右のビルも建て替えられている。
80年代、古いビルの一階、このコンビニの場所に喫茶店があった。
池田さんと入りハンバーグ定食を食べたような気がする。
法華クラブの場所はマンションになっている。
2018-12-03
埼玉に住んでからも東大に行くときは上野駅から法華クラブの脇を通った。
1994年に、台形を積み上げたような26階だて、斬新な高層ホテルに建て替えられた。
しかし97年に倒産。2000年に外資系のソフィテル東京になる。
たしか京都の森泰生氏は東大に来られるときよく使われた。
写真を見るとちょっと怖い。
wikiから(2007年3月)
しかし2004年廃業、2007年に解体。
いまは三井不動産の30階建てマンション。
総戸数175戸。「パークタワー上野池之端」という名前は完璧。
今見たら25階の77平米が1億2800万円で売りに出ている(築8年)。
9階の44平米は5000万円くらいだった。
1994年は26階建てにするのにいろんな規制があったと聞くが、いまは直方体で30階。
条件が緩和されたのだろうか。
なお日本で100メートル以上の高層ビルが解体され、再び高層ビルが建ったのは、ここが初めてだったという。
復元江戸情報地図(吉原ら1994)から
暗闇坂上から一本道、短い道中いろんなことを思い出させてくれた。
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