薬学雑誌 明治30年(1897)2月号付録など
第21話、「人頭黒焼き売買事件」は飛行機研究家の二宮忠八が薬学会の地区通信員として書いたものだが、その記事を引き継いで本草綱目の人体由来医薬品を解説した人物も注目に値する。
天霊蓋(人頭黒焼き)はじめ多くの「妙薬」について書いてくれたのは明治初期のジャーナリストとして有名な岸田吟香である。
彼は文久3年(1863年)4月、眼病を患い、箕作秋坪の紹介で横浜のヘボンを訪ねる。それが縁でヘボンの「和英語林集成」編纂を助けた。明治6年、40歳で東京日日新聞(今の毎日)に迎えられ主筆として活躍、台湾出兵に従軍した。最初の従軍記者とも言われる。
44歳で新聞社を退社、東京銀座に楽善堂をひらき、ヘボンより処方を教授された目薬「精錡水」の製造販売に専念する。それまでの目薬は塗り薬であったから液体目薬は画期的だった。
福祉活動にも積極的で、前島密らと明治13年に楽善会訓盲院(現筑波大附属盲学校)を創設している。
麗子像の洋画家岸田劉生は息子。
明治30年64歳で日本薬学会常議員。
この年の薬学会第17回総会における役員選挙結果が薬誌1897年2月号付録にある。
当日出席者全員による投票は総数59で長井会頭、下山副会頭、幹事の丹波,山田まではほぼ満票に近く選挙前から決まっていたようであるが定員10の常議員選挙は平山増之助(52票),丹羽藤吉郎(51)、高橋秀松(50)、田原良純(45)と続き、岸田(22)は10位で初当選、曲淵景章(19) は11位で落選,以下1票の人まで37人に票は分散、打ち合わせ無しの人気投票だったようだ。
翌明治31年は108票中56票をとり資生堂の福原有信を抜いて9位当選、32年は8位当選(61票/113)だったが33年14位(62 /215),34年15位(27/125)と以後は後進に席を譲る。しかし学会重鎮であったことに変わりはなく、薬学雑誌の編集委員としてしばらく活躍した。
昔、二宮,岸田、こういう傑人が薬学会に多くいた理由はなんだろう?
有能な人はいくつもの分野で活躍するのが普通だったのか、あるいは薬には名士が集まりやすかったのか。
6年制と新設校の乱立、薬剤師は増えるが地位の低下を心配する。
2017-5-27撮影
従六位勲六等岸田吟香夫 人 勝 子
谷中墓地、御隠殿坂を上って左側の木立の中、数年前散歩中に偶然見つけた。
左面の明治三十八年十二月九日死 享年五十一、は勝子である。彼のは反対面に刻まれている。同年6月、72歳で亡くなった。
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