2017年6月16日金曜日

学習院はキャンパスも上品



6月16日学習院に行った。
目白駅すぐの西門。
初めてきたのは大学4年のとき、79年5月。
研究室に割り当てられた学園祭のプログラムを先輩と一緒に売りに来た。

そのあと来たのが、22年後の2001年、中学受験をする息子の模試の会場だった。付き添いで初めて構内に入った。

そのあとが2013年。高等部に用事があってきた。
以後毎年くる。
用事があると堂々と入れる。
学生に交じって歩いていくと守衛さんが敬礼してくれた。
でも高等部は外から歩いたほうが近いので一旦出る。
この石垣と植木の塀がずっと続く。
かつては目白通りの北側、目白小学校まで敷地であったそうだ。
登録有形文化財の正門。
こちらはほとんど人が通らない。昭和30年代まで西門はなく、皆ここから出入りしていたようだ。

1908年四谷から移転した時、正門から入って右(西側)が校舎などの教育ゾーン、左が寄宿舎などの居住ゾーンとして設計された。今、東側は幼稚園から高等科、中等科がある。

campusmap.png
1909(明治42)大日本帝国陸地測量部


正門から入って幼稚園を右に見ながら進むと東別館。1913年築。

全寮制であったころ、皇族が住まわれた宿舎である。
正面玄関まえには車寄せがあり、国登録有形文化財。


そのまま左に進むと、中高等科正門からの道が突き当たるところに学習院生徒像がある。皇太子徳仁親王が中等科入学を記念して建てられた。

北別館。1909年、居住ゾーンと教育ゾーンの中間に図書館として建てられた。今、史料館とされているが、一般人がみられる史料は展示されていない。玄関から入って板壁や天井を見る程度。


外国の大学のよう。

ピラミッド広場。
かつてピラミッド型をした中央教室のあったところ。
頂上部がモニュメントとして残された。正四角錐ではなく、北東部に偏心しているのは、教壇を西南に設けて音響効果を考えたため。1960竣工、2008年壊された。
昭和49年ころ、高校で赤本をぱらぱらめくったとき、たった1枚しかない写真にこのピラミッド校舎が使われていた。当時、最も大学が自慢していたものだ。
その後2001年、息子の模試についてきたとき、付添父兄の控室というか、塾主催の講演会の会場がピラミッド校舎だった。
そして2013年に来たら、広場になっていた。
内部の様子はtrystero氏のブログで見られる。
http://trystero.exblog.jp/6967511/

どくだみの群生地

乃木館
 
彼は寄宿舎で過ごし、赤坂の自邸には月に1,2度しか帰らなかった。

乃木の思想を表すものと思われる。
本当にさまざまな石。
左側と、祭壇正面の穴の開いた石は南方のサンゴ礁であろう。
各石の採取場所
樺太、旅順、遼東半島、台湾など、1909年の日本領土の広がりを示している。


硬式野球部は、学習院といえどさすがにうまい。しばらく見入った。
目白キャンパスは南側が神田川の低地になっている。
森の中を下りていくと馬場があった。

一人だけ馬に乗っていた。


馬を世話していた女生徒と男生徒に写真を撮っていいかと聞いたら、二人ともとても礼儀正しかった。ここは先生も学生もほんとに丁寧で気持ちがいい。家庭?大学?のしつけだろうか。
馬場を後にまた坂を上っていく。
誰もいない。
空き地が少しでもあれば、建物を建てたがる東大と比較してしまう。品格の違いを感じた。


富士見茶屋跡。芭蕉句碑。
江戸時代、このあたりは神田川の向こうに富士が見え、茶屋があったという。

1931(昭和6)、陸軍からフランス製大型鳩舎と鳩20羽が贈られたのを機に、伝書鳩研究会が発足。昭和18年には軍用鳩部となるも、空襲で鳩舎焼失、終戦で廃部。300羽の鳩の魂を鎮めるために昭和13年に建てられた。

血洗い池

赤穂浪士の一人、堀部安兵衛が高田馬場の決闘のあと、この池で刀を洗ったというのは、大正時代の高等科学生の作り話らしい。東大三四郎池と同じように湧水でできた池の様だ。
この橋は今時珍しく、完全な木造であった。

ベンチの落ち葉からもわかるが、学生はほとんど来ない。彼らは校舎の間のカフェでおしゃべりするほうが楽しいのだろう。

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