2022年12月14日水曜日

小布施、市村酒造、栗菓子6店の歴史

二女は昨年2月に結婚式を挙げたのだが、コロナで長野の親族たちは出席できなかった。東京へ行った人は2週間出社できなくなるからだ。こちらから行けば近所に知られないようにしなくてはならないし(不可能)、万一発症すれば世間の批判を浴びることになる。私個人的には御用学者の専門家とメディア、責任を取りたくない当局によって国民の不安があおられた、狂気の事態だと思っていた。

この「決まり事」が現在どうなったか知らないが、全国旅行支援キャンペーンが始まり、人の流れが活発になったことから、2年近く経ってようやく次女たちはその流れに乗って、祖母や叔父のいる私の実家に婿さんを連れて行くことになった。

いつも食事する中野の福田屋が休業日のことから、実家の手前、小布施で会食することになった。朝8時に4人で千駄木を出て、目白駅前経由、練馬で高速に乗る。二女の夫が運転するレンタカーは、ナビの機能も進化していて、自動運転機能もついており、久しぶりに車に乗った私は世の中の進歩に驚いた。

小布施は雁田薬師(浄光寺)と岩松院が私の小学校の遠足のコースになっていて、結婚してからも何度か行っている。しかし今回は天気もすぐれず寒かった。懐かしいところを見てみたい気もしたが、私のペースについてこれない人々と歩くのは面倒なので、そのまま食事処に行くことにした。車中からラインで弟に連絡、ナビの示す到着予定時刻を逐一伝えた。

小布施ICで降り、リンゴ畑の間をぬうように小布施の街に入ると昔とあまり変わっていなかった。北斎館裏の東町駐車場(3時間400円)に車を止めた。シーズンオフのせいか、日曜でも高速道路同様、空いていた。

2022‐12‐11 11:45
緩やかな坂を少し下って戻ると、小布施観光の中心地、北斎館の前にメタセコイアがそびえていた。
昭和30年ころ中国から移植されたというから樹齢は70年くらいか。何度も来ているはずだが、今回初めて気が付いた。栗菓子を買いに来るだけだったから見なかったのか、3、40年前は木が小さかったのか、分からない。

建物がなくなり景色が変わったせいもあるかもしれない。写真の右、メタセコイアの枝の下にイタリアンレストラン「傘風楼」ができていた。小布施堂が経営する高級ホテル「桝一客殿」の宿泊客はここで朝食を食べるらしいが冬季は休業する。

北斎館(1976~)は前を何回も通っているが、記憶にある展示が映像や写真で見たのか、実際に中に入ってみたのか分からなくなっている。昔、中学の同級生・町田憲一と見に来たことがある。彼がここを設計した長野市の宮本忠長設計事務所に就職したからだ。
11:47
北斎館の前に今上天皇が皇太子時代に来られた行啓記念の碑があった。
まだ新しい。
でも全国訪ねられた場所全てに建てられたら、日本中が記念碑だらけになるのではないか、と余計な心配をしていたら、「兄さん」と呼ばれ振り向くと、すれ違った車に弟夫妻が乗っていた。
11:47
北斎館の向かい、すなわちメタセコイアの西側は笹が植わった広い空間になっていた。昔は何が建っていたか思い出せない。

笹庭の向こうに北斎の絵が壁に描かれた建物があった。(写真右)
また新しい美術館かなと思って近づいたら、市村酒造(小布施堂)の工場だった。
周囲との調和を図った建物に感心した。

今日会食する和食レストラン蔵部(くらぶ)も枡一市村酒造の経営で、この笹庭に面している。
車を停めに行った弟たちを待っているのも寒いので、向かいの桜井甘精堂で栗菓子の詰め合わせ商品をみていた。

弟夫妻が来たので予定より早く蔵部に入る。
中は天井が異常に高く広大な空間で驚いた。奥の広い個室に案内された。
大きな樽が並んでいた酒蔵を、長野オリンピック(1998)のときに改装、レストランにしたらしい。

個室と言ってもこれだけ広いとエアコンもあまり効かないのか、足元に石油ストーブが2台、置いてあった。ファンヒーターではなく、今では見かけないやかんを上に乗せるタイプで懐かしかった。
12:00
前菜から野菜がメインで、刺身は信州サーモンと大王イワナ、てんぷらは青胡椒とキノコ3種、煮物は大根、メインは信州牛、デザートは栗アイスと、徹底的に信州産にこだわっていた。海産物など県外のものは一切使わないぞ、という郷土愛の強いであろう小布施堂の意地が見えた。

これで税込み5500円のコースとなると東京でも普通にあるだろう。しかし他ではありえない高い天井と黒を基調とした空間、そして給仕する女性の応対がとても丁寧で、十分満足した。

それにしても市村酒造・小布施堂には歴史と古い建物はあっても、これほどおしゃれなレストランが作れるだろうか、と帰宅して調べたら、FONZという飲食店の運営を専門とする会社がプロデュースしたようだ。星野リゾートと同じように軽井沢に拠点を置き、東京、鎌倉などで店を手掛けている。
食後は枡一市村酒造・小布施堂の敷地を素通りした。
市村家は宝暦5年(1755年)創業の造り酒屋で、ほかの商品でも財を築き松代藩、幕府にも献金した豪商。しかし明治維新で家業が傾き、塩問屋・なたね油・お茶をやめて酒造業のみとなった。そして明治30年代に栗菓子の製造を始め、大正時代(1923)に小布施果實加工株式会社(小布施堂の前身)を設立した。

現社長は市村次夫、副社長は市村良三。
二人はいとこ同士で、良三は小布施町長を昨年まで4期16年務め、次夫の父・市村郁夫も3期目の途中1979年に任期途中で死去するまで小布施町長だった。地元の名家、名士である。
13:57
市村邸の元母屋
昔、一人で帰省したとき弟と家を見せてもらいに来たことがある。
もちろん外見だけだが、今のように解放されておらず、通りからたまたま門の中に家人だか従業員だか見えたので声をかけ、この場所まで入れてもらった。
屋根を見上げながら「瓦は一度に変えずに、少しずつ変えて古さを一定にするんだ」とか、二つある玄関をさし「右のほうは善光寺の上人さんとか偉い人が来た時だけ使ってきた」とか教えてくださった。
母屋の北は精米蔵だったが、いまは改造して「えんとつ」というカフェになっている。有名な小布施堂モンブラン「朱雀」の専門店である。予約や持ち帰りはできず朝から並ぶしかないのは、新栗から1か月限定の「栗の点心・朱雀」。いまは「モンブラン朱雀」が一年中ここで食べられる。また「朱雀モンブラン」は秋冬限定でデパートやネットショップで買えるらしい。

えんとつの西側は小布施堂本店レストラン。
13:59
小布施堂本店レストラン
ここは以前からからある。昔、帰省したとき叔母たちと昼のコース料理を食べに来た。当時としては珍しく地元の野菜を使ったおしゃれなレストランで、大きな丸ナスを切って味噌をつけただけの皿にみつ子おばさんは「ナスもここで食べるとえらいうまいなぁ」と感心していた。
酒樽とモンブランが並んでいる。

市村家は小布施の有力者であったこともあり、街づくりに熱心だった。
むかし「栗の産地ではなく文化も発信できるような栗の王国にする」という言葉を信濃毎日新聞のインタビューで読んだことがある。

栗菓子だけでなく、1980年代から地権者と土地交換や借地などで、栗の小径など街並みを作り上げ、もともと観光資源などなかったのに、北斎館、鴻山記念館、あかり博物館など多くの美術館、博物館をたて、観光客を呼び込んだ。人口はぎりぎり1万人、役場の職員100人、小学校と中学校は1つずつ。長野県で最も面積の小さい町が隣接する須坂、中野とも合併せず、個性豊かに、元気にやっている。2005年から町長を務めた良三は観光庁の「観光カリスマ100選」にも選ばれた。
市村酒造・小布施堂の市村家正門から通りに出る。
この道は古く、昔は谷街道といった国道403号線。かつては北信の4つの町、松代、須坂、中野、飯山を結ぶ唯一の幹線道路で、志賀高原など奥信濃から長野市、東京へ出るときは必ず通る道だった。いつも混雑していたが、18号バイパスや高速道路ができてからはぐっと交通量が減った。
14:00
枡一市村酒造の正面
小布施と言えば、高井鴻山(1806‐明治16年1883)と葛飾北斎(1760-1849)の関係が知られている。
鴻山はもともと本姓市村、名は健。俗称三九郎。祖父の8代当主・市村作左衛門が天明の大飢饉のとき、その巨万の富を困窮者の救済に当てた。それが幕府に認められ、高井郡に由来する「高井」の苗字と帯刀を公式に許可された。
苗字は地名から起こる。しかし鎌倉、室町時代なら分かるが、幕末で生ずるのは珍しい。(我が家は中野市岩船だが、昭和29年(1954)以前は下高井郡平野村岩船、江戸時代は高井郡岩船村だった)

鴻山こと三九郎は15歳で京都に遊学、その後江戸に出て、多くの文人、思想家と交わった。1840年、市村本家を継ぐ(12代目)。このころ北斎と知り合い、1842年の秋、北斎は83歳(鴻山37歳)のとき初めて小布施を訪れ、1年余り滞在した。北斎は小布施に4度招かれ、岩松院や祭り屋台の天井絵を残した。ほかにも多くの作品が町には残され、それらが散逸することを恐れた小布施町が買い上げたり、貸与を受けたりして、それらを収納するために建てたのが北斎館(1976)である。

明治になって高井家の家業は傾き、本業の酒造業に絞ったことは書いた。それを養子であった市村忠助(13代)が継いだので、以後は市村姓に戻った。

高井鴻山記念館は小布施堂「えんとつ」の裏、鴻山の書斎などを生かしたもので、建物だけでも見るべきだったが、総勢6人では言い出すのも面倒なので黙って彼らのあとについて帰ることにした。

14:00
小布施堂・市村酒造の道を挟んだ向かいは、いろは堂。
聞いたことないな、と思ったら鬼無里村が本店のおやきの店。
栗も小布施も関係なかった。

小布施の栗は、600年前の室町時代、丹波から種を入れたことに始まる。松川扇状地の土があっていたのか、江戸時代には栗林が広がった。美味ということで松代藩が毎年将軍家に献上した。文化年間には小布施栗菓子の元祖、栗落雁がつくられた。

いま小布施の栗菓子店は以下の6軒
1.塩屋桜井 文化5年(1808)先祖の塩屋櫻井幾右衛門が小布施で初めて栗菓子をつくる。栗落雁を将軍家にも献上した。
2.桜井甘精堂 塩屋桜井と祖は同じ。明治になって5代目が初代桜井佐七として独立。戦後1954年(有)桜井佐七商店、1964年(株)甘精堂となる。
3.栗庵風味堂 元治元年(1864)創業。50年代、60年代は全国菓子博覧会、品評会でたびたび受賞しているが、知らなかった。
4.竹風堂 明治26年(1893) 竹村安太郎が創業。
5.小布施堂 1755年創業(栗菓子は明治30年代)
6.松仙堂 小布施の町から西に外れたリンゴ畑、栗畑の間にある。老舗ではないと思う。
7.和菓子いちむら 栗専門ではない。

いろは堂の並び(南)は竹風堂。
大通りに面し、北斎館入り口の向かいにある。
南側の本店と北側の直営ジェラート専門店「マローネ」(諸国民工芸雑貨・自在屋を併設)が並び、その間の道を西に入った日本あかり博物館(1982)も(たぶん)竹風堂が作った。

1970年代、高校生の頃、小布施で一番は竹風堂だと思っていた。なぜなら毎日通学で乗る長野電鉄各駅のベンチすべてに竹風堂の名が入っていたからだ。「栗の木三本が目印」がキャッチフレーズだったが、今は店先の栗の木も1本しかなく、小布施堂、甘精堂のほうが有名になっているのではなかろうか。

6店のうち、大手は3つで、それぞれレストラン、カフェなども併設している。レストランはそれぞれ特徴があり、小布施堂はコース料理で一品一品丁寧に出す。竹風堂はメニューを絞り時間のない観光客を相手にする。甘精堂は数多くメニューを用意し、一見の観光客だけでなく地元民にも来てもらうことを目指している。

小布施は大した神社仏閣名勝などなかった。我々が子供のころ教わった名所と言えば、芸州の福島正則が改易されて信濃に流され亡くなったお墓(岩松院)くらいで、観光資源になりえない。

しかし、市村家など住民に町おこしをしようというエネルギーがあった。
伝統の栗菓子は単に土産物でしかなかったが、北斎館など博物館を作り、旅の目的である「食」を満足させようと、ハイレベルな飲食店を展開、さらには栗の遊歩道を整備、そして歩ける距離の東の雁田山の岩松院、浄光寺との間には「花の町おぶせ」をアピールする「フローラルガーデンおぶせ」を作り、散策範囲を広げた。また広域農道を「北信濃くだもの街道」と名付け、観光農園ともつなげた。
これらは私が長野を出た後、最近の30年くらいのことである。
14:01
竹風堂前からまっすぐ駐車場に戻る。
左は小布施堂を経営する枡一市村酒造や小布施堂の蔵部、右は土産物屋が続き、その先に桜井甘精堂の店舗がある。

高速道路がなかったときは小布施を通って菅平を越えることがよくあり、ここの甘精堂でお土産を買った。立派な店構えだからここが本店だと思っていたのだが、今みると北斎亭という甘味喫茶兼店舗になっている。甘精堂本店と直営高級レストラン「泉石亭」、カフェ「茶蔵」・「栗の木テラス」は少し北のほう、観音通りに集まってある。

ちなみに小布施堂の市村良三は、町長を4期16年務めた後、昨年2021年、後継はこの甘精堂の社長・桜井昌季を指名、無投票で交代した。
この交代の前後、職員が3人自殺したらしい。小布施・市村家の出とはいえ、ソニー勤務を経たやり手の前町長の下での激務に耐えられなかったという話が今年5月の文芸春秋オンラインに乗っている。


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