2022年12月12日月曜日

谷中瑞輪寺の大久保主水と叔母の墓参り

千駄木に家を買ったとき、綱島の叔母が「あら、昔はよく谷中の瑞輪寺へお墓参りに行ったわ」という。上京して寄宿した神田の家(親戚?)の人々が眠っているらしい。

じゃ、いつか一緒に行きましょうと約束したものの、そのまま10年経ってしまった。
昭和14年(1939)生まれ、83歳。今でも社交ダンスとテニスをするくらい元気だが、いつ歩けなくなっても不思議はない。
ふと思い出して、誘ってみた。
お互い暇だから、すぐ都合がついた。

10月末の穏やかに晴れた日、日暮里駅南口で11時に待ち合わせ。
年寄りは早いから、と約束10分前にいったら、すでに立っていた。
綱島から横浜に出て、御徒町で途中下車し、昔からお気に入りの「うさぎや」のどら焼きを買ってきたという。

ランチまで時間があるので、徳川慶喜、渋沢栄一の墓に立ち寄る。
少しは講釈を垂れたいのだが、話し好きの叔母は、孫、ひ孫などの近況をしゃべり続け、私が割って入るスキがない。

谷中墓地から、すなわち北東から回り込むように瑞輪寺に向かう。ここは4年前の2019年1月、散歩で立ち寄り、ブログに書いた。
2022‐10‐31 11:32
瑞輪寺正門の並びの空き家は4年前と同じように、家の中にツタが密集繁茂し、ドライフラワーのようになっていた。

山門前に立つと、叔母は「あら。そうそう。ここ。懐かしい。いつも根津から来たから、この広い道から来たの」と、やっと関係ないおしゃべりをやめた。
門の前で写真をパチリ。
11:33
谷中随一の大寺、瑞輪寺

4年前この門をくぐったときは上野が目的地だったから、境内をちらりと見ただけで有名人のお墓など見なかった。
ここには神田上水の前身、小石川上水をひいた大久保主水の墓があるらしい。
すぐ見つかった。
11:35
大久保忠行(藤五郎)墓
上水完成の功績により家康から主水の名前を賜り、同時に濁らずモントと読むよう命じられたとか。

でも主水と書いてなんでモンドと読むか?

椀 (もい) に入れるものの意から、「もい」は飲み水の古語である。宮中で飲料水を管理するものを「もいとり(水取)」といい、これが訛ってモンドとなった。一方、律令制で水・氷の調達、粥の調理をつかさどる機関があり、それを主水司しゅすいし)といった。そして漢語のフリガナに大和言葉が当てられ、主水=モンドとなったようだ。

さて、三河以来の家康家臣で大久保と言えば大勢いる。
三河大久保氏で幕末まで大名であったのは三家あり、小田原藩、その支藩の荻野山中藩、烏山藩がある。有名な神田駿河台・大久保彦左衛門(忠教)は家康直参の旗本であったが、小田原藩初代・大久保忠世の弟にあたる。

谷中に眠る大久保主水、すなわち忠行は小田原藩祖大久保忠世、彦左衛門忠教らの父、大久保忠員の弟にあたる。
三河一向一揆で負傷、それ以後従軍できなかったため、菓子を作って献上するようになり、家康の関東移封後に、江戸城下の上水工事の命を受けた。
子孫は代々主水を名乗り、幕府御用達の菓子司となった。

さて大久保主水はすぐ見つかったが、肝心の神田の家の墓が見つからない。
叔母は、あきらめて帰りましょうというが、私が寺務所にいって聞くと、パソコンで検索してくれた。
しかし小林平四郎の名前はヒットしたが、連絡先が北川となっている。
外から叔母を呼んでくると、間違いないという。

お礼に叔母は足元の桶に入っているお花を買った。
ほんの少しなのに2000円もした。
「けっこう高いですね」
「こういうところは高いのよ。でもきっと私だけじゃなくて力ちゃんにもご利益あるわよ」。
そういう叔母も「おいくらですか?」と聞きながら財布で100円玉、500円玉を探していたから、2000円とは予想外だっただろう。

墓は本堂の裏、叔母の記憶で探していた場所と全く異なり、方向違いの場所だった。

石はずいぶん新しい。
11:51
裏を見れば
平成二十八年六月 北川容子建之
とある。2016年だから最近である。
彫られていたのは6人。

1.昭和三十八年九月一日 小林タケ子 行年六十二才
2.昭和四十六年十月二十七日 小林平四郎 行年七十三才(1898‐1971)
3.昭和五十七年六月二十七日 小林慶子 行年四十七才(1935‐1982)
4.平成九年五月四日 今田恭子 行年四十七才(1950‐1997)
5.平成二十五年十月三日 福田近規 行年九十二才(1921‐2013)
6.平成二十八年五月二日 福田好子 行年九十二才(1924‐2016)
(カッコ内は私が記入、生年は推定)
ふつう、お墓の苗字は一つであろう。建てた人の北川を含め4つも苗字があるのは珍しい。
11:55
お昼は三崎坂を下りた谷中吉里で叔母の娘(私のいとこ)のまさみちゃんも合流して食べた。
松花堂弁当をいただきながら、叔母の若いとき世話になった、神田錦町の家、すなわち瑞輪寺の墓に眠る人々の話を聞く。
神田の家は信州、我が家の7代、安治の妻である「イツ」の実家の人間から始まる。
イツは叔母の大叔母にあたり、市内・栗和田から嫁に来た。
そして叔母の大叔父だろうか?その家の若者が駆け落ちして上京した。
大八車で野菜を売って苦労したが、なんとか成功した。
その子が東京生まれの小林平四郎である。彼は神田卸売市場の仲卸人として旅館などに野菜を卸し、不動産も保有して裕福だった。その家に叔母が上京し花嫁修業というか行儀見習いで住み込んだのである。
平四郎には好子、君子、慶子の3人の娘がいた。三番目が1935年生まれ、叔母が1939年生まれだから4人姉妹の末娘のようだった。長女の好子は福田氏と結婚、次女は本郷の高橋ハンカチ店の人と駆け落ち、三女は独身のまま死去、ここに小林姓はなくなった。残った長女の娘二人も結婚、北川、今田姓となり、福田姓も消えた。

今これを書くにあたり、叔母に「駆け落ちした人はおばさんの大叔母の兄弟? 平四郎さんは袈裟太郎さん(私の祖父、彼女の父)のいとこだったのかな?」と電話してみた。
「えっ? そうなるの? よく知らないわ。それより綱島にも遊びに来てよ」と元気な声が返ってきた。

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