2026年7月26日日曜日

上野公園19 科博3 パンダと貝の化石。ヒトの進化

アルバイトしていた湯島の会社で、4月から正社員になってしまい、毎日出かけるようになった。

しばしば午前中、北千住あるいは葛飾の畑のアルバイトに行き、午後から出社するが、上野公園を通過することが多い。
そんなことで、このところ無料の西洋美術館と科学博物館に立ち寄っている。

6月5日 科博(1か月ぶり。前のブログ)
6月19日 科博 (散髪したので歩いただけ)。
6月24日 西美 (科博休館だったので2年ぶり)
7月1日 西美 (ゴッホ展は入らず)
7月8日 西美 (レンブラント展は入らず)
7月10日 科博 (1か月ぶり)
7月17日 科博 ゲリラ豪雨で雨宿り

2026-06-19
6月5日に来たときここで免許証を落とし、無事戻ってきたが、この日、持ってくるのを忘れた。
(上野警察署で返却されるとき、身分証明書が必要ということであったが、免許証の顔は私ですと言って、それでOKだった)
2026-06-19
年齢証明すれば無料ということに慣れてしまうとお金を払って入るのがもったいなくなる。
この日は入場しなかった。

その後、何度も上野公園に来たが、3週続けて西洋美術館のほうに行っていた。

7月10日、1か月ぶりに科学博物館・地球館に入る。
人生4回目だが、2013年は忘れてしまったし、5月は日本館のみだったから、地球館は実質2回目ということになる。

前回同様、一階の入口から最初の展示室に入ればアロサウルスがいる。
一瞥しただけで裏に回ったところ、パンダがいた。
ここは一度回っただけでは見逃すものがいっぱいある。
2026-07-10 11:58
1980年から上野にいたホァンホァンだった。
1997年に死亡、科博に寄付された。
ホァンホァンは歓歓。
教養学部時代、選択自由科目の第3外国語で中国語をとった。教科書に「欢迎、欢迎(ようこそ、huān yíng、huān yíng)とあって何度も口にしたから、昔から読めた。

上野動物園のパンダは1972年10月に贈られたランラン、カンカンが最初である。
東京芸大の学生が動物園側の窓の下に「熱烈歓迎」と書いた幕を掲げ、その写真を載せた週刊誌を高校の図書室で見た記憶がある。当時はパンダが熊と猫のあいの子だと思っている人もいた。

蘭蘭が1979年に死亡、1980年1月に来日したのが、この歓歓である。
1980年6月には康康も死亡、4頭目として1982年、飛飛(Fei Fei)が来た。
以後上野は13頭のパンダがいたが、2026年1月にシャオシャオ、レイレイが中国に返還された。空になって半年のパンダ舎は先日、解体されることが決まったらしい。

現在、パンダはレンタルだから、遺体も自由にできないみたいだが、昔は寄贈されたものだから、はく製は日本に残された。学生だった1979年か80年ころ、ランラン、カンカンのどちらかだったか分からないが、研究室の先輩、大塚英昭さんが上野までパンダの血液をもらいに行った話を聞いた。当時、大塚さんは医学部生化学教室の助手をされていて、そこの山川民夫教授は赤血球表面の糖鎖の研究で有名だったから、パンダの血液型でも調べるつもりだったのか?

パンダのとなりは植物のヤツデ。
葉っぱの重なり具合をみせていた。
相変わらずここはゾーンのテーマというか、陳列の方針がわからない。
(後で見たら「地球の多様な生き物たち」だった)

その並びに先日見たライオンと牛の腸の長さの比較があった。
その横にキリンの舌があった。 木の枝のよう。
12:01 舌3種
左から
ウシ(牛タン)
ジャワマメジカ(最小の偶蹄類)
キリン

1階だけでもいろいろ発見があり、なかなか進まないので地下の展示室に向かうべく、入口付近の階段を下りた。

途中のエスカレーターロビーに大きな平らな石があった。
12:04
淡水魚化石 米国ワイオミング州産
魚がいっぱいいる。しかし黒色である。
黒というのは有機物が残っていることを意味すると思うが、あり得ない。
相変わらず何の説明もない。
おそらく化石が分かるように塗ったのではないか?

もしそうならひどい。
せめて半分を発掘したままの色(たぶん跡だけ残り、岩石と同じ色だろう)にしておくべきではなかったか?
地下1階は子供が大好きな恐竜。

12:06
始祖鳥とヒトの骨格
脊椎動物というのは1億年以上も変わっていないことが分かる。
骨格が変わっていないということは内臓、筋肉も同じということだ。
進化とは何か? 脳だけだろうか。

12:07
何体もの恐竜の骨格標本は迫力あり、インバウント観光客は大人も子供も喜んでいる。

12:09
地層の年代測定
恐竜化石の発掘ではなかった。

地下1階は3分の1が恐竜で、残りは特別展のスペースになっている。

地下2階に降りた。
1階が生物の多様性だったのに対し、地下2階は地球環境の変動と生物の進化を展示している。
12:15
化石いろいろ。貝が多い。

ふと、家にある化石を思い出した。
家の化石
二枚貝だけでなくウミユリのような筒状の物もある。
1994年、シンシナチの高速道路の切通しで通行車が少なかったので路肩に停止して採取した。
我が家は骨董品がないので、家伝としてこれくらいしか残せないが、だれも興味を示さない。
12:16
絶滅した大型哺乳類
12:17
絶滅した人類の頭骨
現在の地球人は Homo sapiensの1種類であるが、過去には色々いた。
一番近いのはネアンデルタール人。Homo neanderthalensis
ジャワ原人、北京原人は初期の直立したHomo属ということで、H. erectusであり、亜種名として erectus, pekinesisが種名の後につく。

学名というのは属名と種名を合わせたもので、これが異なれば種が違うということだ。定義からして、種は代を重ねてもその生物学的特性は維持できるものである。つまり、その種内だけで交配する。言い換えれば、交配できるものは同じ種であり、種が違えば交配しない。

だから種が違う現世人類とネアンデルタール人は交配できない。ところが実際のDNA比較では全体の1~2%がネアンデルタール人由来だという。ネアンデルタール人のいなかったアフリカの現代人には存在していないことから、この混入遺伝子は進化の途中で残った(共通祖先から来た)のではなく、現代人がアフリカを出て、ヨーロッパを経てアジアに行く間に混血したと結論された。犬と狼のように学名が違っても交配できるものはあり、分離したばかりのころは、交尾すると低い確率でも出産、繁殖力のある子孫も残せるらしい。

ホモ属ではあるが今の人類とは別種であるネアンデルタール人、デニソワ人は、3~4万年前に種としては滅び、その間にH.sapienceと交配したらしい。

デニソワ人はシベリア南部のアルタイ山脈の洞窟から発見され、チベット、東南アジアからオーストラリアに広く分布していたとされる。メラネシア人の遺伝子には4ー6%、日本人の遺伝子には1%程度混入しているらしい。

これら旧人はコミュニケーション、組織力に優れたサピエンスに生息域を押され、ついには滅亡した。しかしサピエンスが進出しなかったニューギニアの密林などではデニソワ人が1~2万年(日本は縄文時代)までいたのではないかと言われている。
12:20
マンモスの骨を利用した住居・復元
ウクライナ・メシリチ遺跡
東欧など寒冷地の平原は風雪を避ける洞窟もなく、こうした骨を利用した住居の工夫が必然であった。これが西洋の石造り住居につながるのかもしれない。
12:21
さまざまなヒト。
ルーシー、トゥルカナ・ボーイ

約400 - 200万年前にアフリカで生まれた初期の人類は、サルに似ていて猿人という。属名のAustralopithecusは、南の意味のラテン語australisとサルの意味のギリシャ語pithēkosから。身長は120 - 140センチメートルくらいで、脳容積は現生人類の約35%程度であり、チンパンジーとほとんど変わらないが、骨格から二足歩行で直立していたとされる。
その中の一種、330万年前のAustralopithecus afarensisの女性の個体骨格がエチオピアで発見され、ルーシーと名付けられた。

トゥルカナ・ボーイはケニア出土、ずっとのちの時代で現代人と同じホモ属である。
(Homo ergasterあるいはHomo erectus)

ここでヒト科ヒト属、ヒトとサルの関係を見ておこう。

ヒト属 Homo
ホモ・ルドルフェンシス H. rudolfensis 
ホモ・ハビリス H. habilis 
ホモ・エルガステル H. ergaster (トゥルカナボーイ)
ホモ・エレクトス H. erectus (ジャワ原人、北京原人)
ホモ・アンテセッサー H. antecessor 
ホモ・ハイデルベルゲンシス H. heidelbergensis (ハイデルベルク人、大型)
ホモ・ネアンデルターレンシス H. neanderthalensis 
ホモ・フローレシエンシス H. floresiensis (小人)
ホモ・サピエンス H. sapiens

Homo属は、アウストラロピテクス属などとともにヒト亜族Homininaを形成し、チンパンジー亜族(ボノボ含む)とともにヒト族を形成する。
ヒト族 Homininiはゴリラ族とともにヒト亜科を形成し、これがオラウータン亜科とともにヒト科を形成している。

・・・・

今になって、どんな仕事が良かっただろうと考えることがある。
目に見えない有機化学や細胞生理学より、人類学というのは面白そうだ。
『我々はどこから来たのか、我々は何者か、我々はどこへ行くのか』
ゴーギャンの絵画のタイトルでもあるが、古来から人類が最も興味を持ってきた問題の一つでもある。
教養学部から進学するとき、薬学を選んでしまったが、生物学科人類学教室というものがあった。定員4人であったため、平凡な点数だった私は志望できなかった。 

駒場の寮で短期間だが一緒だった坂井眞樹君は成績が良くそこへ進学した。西国分寺が実家でバドミントン部だった。そのあと全く消息を知らなかったが、50代になって私の上司(グループリーダー)の、さらにその上の部長研究員がY氏になった。彼は生物化学科から三菱化成に入った人で、私と同じ年であったが、身分が違ったためほとんど話をする必要も機会もなかった。しかしあるとき、彼は教駒時代に坂井君と同級生であったことが分かり、連絡先として名刺のコピーをくれた。坂井君は人類学科を出てどんな仕事についたのだろう、と興味を持ったが、名刺には
農林水産省・大臣官房政策評価審議官とあった。そのあとすぐ私は転職し、連絡するチャンスを逃した。

彼は人類学を職業としなかったことなど後悔しなかっただろうな、なんて思いながら、15年前の名刺をみつめた。


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