2023年11月19日日曜日

お隣同士、水戸一高と三高の歴史と進学状況

茨城県に行く用事があり、42年ぶりの水戸に寄った。

みまつホテルをみたあと、駅前の大銀杏のわきの銀杏坂をあがると三の丸に入る。三の丸小学校、弘道館を素通りして、大手橋を渡り二の丸に入った。(前のブログ)
11:07
「水戸学の道」という散策図
大手門をくぐると、道の右が茨城大付属小学校・幼稚園、左が水戸市立第二中学校。
その道を東の本丸に向かって歩くと右に水戸第三高校。

11:12
左は樹齢400年以上の大シイ、右が県立水戸三高。
ここも今までの3つの公立学校と同じように、武家屋敷の様な門と白壁の塀。
11:13
茨城県立水戸第三高等学校 裏門
正門は南側、坂下の、水戸城柵町坂下門のそばのようである。
この学校は帰りに見るとして素通り。
杉山門、見晴らし台(別ブログ)に寄ってから本丸に向かう。

二の丸と本丸の間の深い堀切は水郡線が通っていて、その上にかかる本城橋を渡るとすぐ水戸一高。すなわち本丸イコール校地。
11:18
水戸一高の正門は、城内のほかの学校と違って、ごく普通。
たぶんそばに江戸時代の本丸正門だった薬医門が現存するから、下手なものは作れなかったのだろう。

「一高関係者及び史跡見学者以外の方の通行はご遠慮ください」とある。
しかし、まあ一応史跡見学者なので入ってみた。
11:19
本丸跡に立つ水戸一高と薬医門。

薬医門とは固有名詞ではなく、奥に薬師様が祀られているわけでもなく、鎌倉末期から室町にかけて流行した門の建築様式のことである。この薬医門は佐竹氏の本城だった安土桃山時代に建てられとされる。水戸城址で唯一、明治の取り壊しや戦災にあわなかった建物だが、私は、茨城県一番の名門、水戸一高のほうに興味があった。

この学校は
1878年(明治11年)茨城師範学校予備学科として開校。
中等教育の学校としては茨城県で一番古い。
2年後の1880年「茨城中学校」として師範学校から独立。
1886年 全国的な中学校令公布にともない茨城県尋常中学校に改称。

(中学校令で中学校は、高等中学校と尋常中学校の2等に分かれ、高等は東京、仙台、京都、金沢、熊本におかれ、尋常中学は各府県に1校ずつ設立された。)

長野県では、1884年長野県中学校が長野に本校、松本、上田、飯田に支校が置かれた(それまで上水内郡立中学(長野)、第18番中学→郡立松本中学(松本)などはあった)
1886年の一県一校の中学校令で、長野県尋常中学は松本に置かれた(松本深志の前身)。

茨城県尋常中学校は
1896年(明治29年) 水戸城に校舎を新築し移転
1897年、土浦分校、下妻分校(現在の土浦一高、下妻一高)開校

1899年の中学校令改正で、一県二校以上の中学設立が奨励されたため、
1900年(明治33年) 土浦、下妻両分校が独立、本校は「茨城県水戸中学校」に改称。
この時、水戸中学、土浦中学、下妻中学の分校として太田、竜ケ崎、水海道にも学校が設立され、いずれも1902年に独立して旧制中学となった。

戦後、旧制中学と高等女学校は、ともに新制高等学校となったため改名を迫られ、茨城県ではほとんど旧制中学は○○一高、高等女学校は○○二高となった。戦後と言えど男尊女卑のにおいが残る。

(同じ北関東の埼玉、群馬、栃木では川越高校、川越女子高のように、○○高校、○○女子高と改名したのが多い。
長野県では地名プラス識別語、すなわち長野北・西、松本深志・蟻ケ崎、諏訪青陵・二葉、上田松尾・染谷丘、飯田高松・風越のように、全く対等に独立した名前にしたが、長野、上田、飯田はのちに長野高校など○○高校と改名した。)

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さて、本丸薬医門の前を通って水戸一高の校舎に近づく。
11:20
玄関前に水戸一高の校舎案内図があった。
緑の崖地をみれば、この高校の敷地は本丸いっぱいに広がっている。

本丸の先(東)すなわち川と沼に挟まれた台地の先端は下の丸。
いまは一高のグラウンドになっているようだ。

誰もいない。
休日のように人の気配がない。
そういえば二の丸展示館を出てから人に会っていない。
郵便屋さんが来たことで、ようやく現実に戻った気分。

校内案内図には飛田穂洲胸像なども「案内」されている。「史跡見学者」として見に行っても言い訳できると思ったが、時間がないので行かない。飛田は水戸中学の卒業生で学生野球の指導者。早稲田野球部の初代監督として安部球場跡に銅像があったことは以前ブログで書いた。

水戸一高の構内には、他に、相撲道場(敬義館)、江山閣なども書いてある。この名の由来は何だろう? 帰宅後、敬義とは義公(徳川光圀)を敬うじゃないだろうな、とネットを引いたら、播磨明石藩や安房館山藩の藩校「敬義館」が出てきた。

ふと、城下町に作られた旧制中学は藩校の名前を継承しているところがあることを思い出した。米沢興譲館、福岡・修猷館、柳川・伝習館は、藩校の名を冠した県立高校である。広島の私立修道高校も藩校「学問所」が明治3年に改名した「修道館」を起源とする。
そういえば、薬学の同級生・稲垣治は愛知県立時習館高校だが、この名は豊橋吉田藩の藩校である。

水戸中学・水戸一高は、なんといっても城内にあるわけだからそれらよりも藩校・弘道館の名を継承する話があったとしてもよい。しかし、尊王思想で通したとはいえ、朝敵、徳川幕府と関係の深い御三家。また幕末の弘道館は(というより藩内すべてが)改革派の天狗党、保守・門閥派の諸生党にわかれ、血を血で洗う激しい抗争を続けた。天狗党の乱では彼らが慶喜をたより京を目指したものの敦賀でつぶされたことだけ有名だが、その前に水戸藩内で天狗党・諸生党の両者の衝突があった。
戊辰戦争では幕府方として会津で敗れた諸生党の残党が弘道館にこもり、天狗党のこれまた残党と弘道館戦争を起こした。今は平和なことしか伝えない弘道館も、各党が相手の家族まで処刑した血なまぐさい歴史を持ち、それが水戸の人々の記憶に残り、尋常中学の名前には使えなかったのかもしれない。

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旧制水戸中学、水戸一高はこうした学問熱が高い水戸藩士の子弟、子孫も多かっただろう。どんな人が出ただろう?
帰宅してみたウィキペディアの出身者には、長塚節、深作欣二、立花隆、伊藤正徳(軍事作家)らがある中、ぱっと目に入ったのは、栗田健夫海軍中将(1889 ₋ 1977 )。連合艦隊の主力、第二艦隊司令長官として大和武蔵を擁し、レイテ湾に向かった。なけなしの空母を集めた小沢機動部隊がおとりとしてアメリカの空母群を北東に引き寄せることに成功したのに、栗田艦隊は湾内に突っ込まず、無駄に武蔵はじめ多くの艦船を失い、小沢艦隊も壊滅した。栗田艦隊・謎のUターンとして有名である。

神原秀記氏(1945 - )の名に驚いた。日立製作所フェロー。
一般にはDNAシーケンサーの開発者として一時はアメリカより先を行き、そのままいけばゲノム解読は日本が行ったかもしれないと惜しまれた人物として知られる。しかし私にとってはGC-MS(gas chromatography/mass spectrometry、要するにガスクロ直結の質量分析器)の開発者として記憶にある。
1982年水戸のみまつホテルで5泊して、たった一度歩いたのが、私の唯一の水戸の記憶である。42年ぶりに再訪し、いろいろ思い出しながらブログを何本か書いているが、そもそも、入社2年目で水戸にきた理由こそ、新しいGC/MS装置の使用法についての研修だった。毎朝水戸の隣の勝田にあった日立の事業所に通った。質量分析計は真空でイオン化するものだったが、ガスクロ、液クロから試料をそのまま導入するには大気圧でイオン化する必要がある。その装置の開発者として彼は有名だった。勝田で拝見したかどうかは記憶にないが、田辺の代謝研究部門にいたころ彼の論文や学会発表は注目していた。
彼の名があったことで、水戸城址の景色以外にも若かったころを思い出すことができた。

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慌ただしく一高をでて、本城橋から三の丸に戻る。
11:22
本城橋から二の丸を見れば水戸三高がある。
その間の堀は水こそなけれ谷深し。

丸い壁の建物は体育館のようだ。
1982年、みまつホテルでもらった地図
よく見ると三高の体育館は本城橋の通りの反対側、すなわち杉山門のほうにある。
調べたら新体育館は平成7年に竣工したらしい。
11:23
左:水戸三高、右:杉山門

水戸一高は旧制水戸中学の名門、二高は高等女学校、では、この三高は?
戦後できた新制高校かな? でも一高の隣で比較されていやだな、と思ったら、前身は大正15年創立の市立高等女学校だった。戦後の1948年に県立に移管、水戸女子高校と改称、さらに翌年水戸三高と名を変えた。もとは女子高だから、一高と比較されることはなかっただろう。

しかし、水戸三高の公式サイトに行って驚いた。トップページがいきなり昨年入学した男子16人の集合写真があり「来たれ男子生徒!」と呼び掛けていた。
共学でありながら事実上長く女子高であり、本格的に男子を受け入れ始めたのは2007年からという。それまで水戸一高、水戸桜ノ牧高校が難しい生徒は、隣の勝田高校などに行っていたが、ここにも進学できるようになった。大学進学率は7割、国公立大学は例年30~35名で有名私大への合格者もおり中堅進学校といえる。

そうだ、水戸一高の東大合格者をみてみる。 
2023年から2020年まで数字をさかのぼると 
水戸一高  15(11) 14(11) 23(20) 8(5)
土浦一高 15( 7 )14( 8 )22(17 )26( 14)
現役合格者(カッコ内)は、東京通勤圏で筑波学園都市を控える土浦一高を上回る。
地方の県立高校としてはかなり立派である。

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さて、水戸城二の丸に戻る。
左に三高、右に市立二中、左に付属小学校、と順に見ながら二の丸を出て、三の丸に戻り、弘道館の北の梅園を通って旧茨城県庁(三の丸庁舎)の横に出た。
11:33
三の丸庁舎の駐車場から、水戸市水道低区配水塔(1932年竣工、2000年稼働終了、いまは文化財)の白い塔が見えた。
その左の瓦屋根は水戸東武館(剣道、なぎなた・居合道の道場)のようだ。
水戸一高は剣道が強いイメージがあるが、具体的に誰かを知っているわけではない。

ちなみに水戸二高(旧県立水戸高等女学校)は、1900年弘道館跡(このあたり?)に仮校舎で設立され、今は三の丸を西に出た右側にある。数十メートル手前の裁判所までは行ったが、そのすぐ先の二高は見ずに駅へ急いだ。


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